天璋院 ひい な。 天璋院

鈴木由紀子の「最後の大奥 天璋院篤姫と和宮」を読んだ感想

天璋院 ひい な

生涯 [ ] 下に生まれる。 6年()、従兄弟にあたる薩摩藩主・の養女となり、同年鹿児島から江戸藩邸に入る。 それ以前からより島津家に対して縁組みの持ちかけがあった。 当時の将軍・の正室は次々と早死しており、家定自身も虚弱で子供は一人もいなかったので、島津家出身の御台所()を迎えた先々代将軍・が長寿で子沢山だったことにあやかろうとしたものと言われる。 次期将軍に水戸の一橋慶喜()を推すと紀州慶福()を推すに分かれる当時の幕閣では、斉彬は一橋派であった。 そこで斉彬は篤子を徳川家へ輿入れさせて発言力を高め、慶喜の次期将軍を実現させようと考えた。 従兄・斉彬が篤子を養女にしたのも将軍・家定への輿入れを想定してのことである。 しかし薩摩藩主の実子であったと比較して篤子自身は島津家分家の出身であり、一橋派大名からも「あまりにも御台所としては身分が低すぎる」と言う懸念の声があったと言う。 そこで篤子は「斉彬の実子」として系譜を工作された上、3年()に・の養女となり、その年の11月にはめでたく家定の正室として大奥へ入ることができた。 しかし安政5年()に将軍・家定が急死し、また()には島津斉彬までもが亡くなってしまう。 篤子の結婚生活はわずか1年9ヶ月であった。 家定の死により篤子はし、以後「天璋院」と名乗る。 また、家定後継の14代将軍には慶喜ではなく、紀州藩主だった家茂が就任することとなった。 その後さらに幕府は政策を進め、2年()には朝廷から家茂正室として皇女・が大奥へ入る事になる。 薩摩藩は天璋院の薩摩帰国を申し出るが、天璋院自身は拒否して江戸で暮らすことを選んだ。 和宮と天璋院は「嫁姑」の関係にあり、皇室出身者と武家出身者の生活習慣の違いもあってか当初は不仲であったが、後には和解したとされる。 このあたりの事情についてが「海舟座談」において述べている。 また、天璋院自らが擁立する予定だったにもかかわらず、15代将軍・慶喜とは仲が悪かったことが勝の談話などからうかがえる。 2年()の慶喜の大奥改革に対しては、家茂死去後「静寛院宮」と名乗っていた和宮と共に徹底的に反対している。 慶応3年()に慶喜がを行い、江戸城の無血開城に至る際には篤子は島津家に、和宮は朝廷に嘆願して、徳川家救済や慶喜の助命に尽力した。 明治期にはいると篤子は徳川家からの援助で暮らし、晩年は田安亀之助こと徳川宗家16代・の養育に心を砕いた。 自分の所持金を切り詰めてでも元大奥の者の就職や縁組に奔走していたため、死に際してその所持金はたった3円(現代の6万円)しかなかったという。 明治16年(1883年)に東京の一橋邸で死去、享年48。 のに夫・家定の墓と並べて埋葬された。 は天璋院殿敬順貞静大姉。 エピソード [ ]• 嘉永7年()11月に、既に大石寺に帰依していた主・(のぶゆき・出身)の強い勧めにより(現在の)に帰依し、同塔中再々興に貢献した。 愛犬家であり、結婚前にはを多数飼っていた。 しかし、夫・家定が大の犬嫌いだったために大奥入り後は猫(名はサト姫)を飼っていた。 その猫を世話をしていたのは、天璋院と共に大奥を統轄していた御年寄・の姪・大岡ませ子である(参考『花葵-徳川邸おもいでばなし』)。 彼女を扱った作品 [ ] 研究書 [ ]• 編:『天璋院篤姫のすべて』(、) 小説 [ ]• :『』(講談社、刊) 後述の放送のNHK原作。 :『』 映画 [ ]• 『朱雀門』(、) が演じた。 ちなみに、和宮はが、はが演じている。 テレビドラマ [ ]• 『』(、系ドラマ) が演じた。 意地の悪い姑役であった。 なお御台所「近衛敬子」時代はが演じていた。 『』(、NET) が演じていた。 『』(、フジテレビ系ドラマ) が演じた。 なお御台所「近衛敬子」時代はが演じていた。 『天璋院篤姫』(、ANB・テレビ朝日系ドラマ) 先述の宮尾登美子の小説が原作。 が演じた。 『』(の大河ドラマ) が演じた。 『』(の大河ドラマ) が演じた。 居丈高な演技はこれまでの深津のイメージと180度異なっている。 『』(、フジテレビ系ドラマ) ドラマ前半の主人公。 が演じた。 『』(2008年の大河ドラマ) 先の宮尾の小説が原作(但し内容は大幅に異なっている)。 が演じる。 補注 [ ]• 更に慶喜の父・も、斉彬がなりふり構わない手段をとって身分の低い女性を送り込むことは将軍家を軽んじているとの書状を残している(参考『徳川将軍家の結婚』)。 「前の大将軍温恭院様の御台様、当天璋院様御事、各の兼ねて伺い及ばるる通り、其の実は薩州齊彬公(鹿児島藩11代藩主)の姫君にして、御幼名篤姫君と称し奉り、此の御方不思議の御因縁にて当門流御帰依遊ばされ、八ヶ年以来、江戸御下関の節、京都に於て近衛様の御養女と成らせられて、薩州芝の御館に着御之有り、而して前の将軍様へ御婚姻相調はせられ、去る辰の年(安政3年)十一月、渋谷の御館より直ちに御台様にて御本丸へ御輿入れ相済み為され、四海波静かにて比翼連理の御契り浅からず、御威勢に在す処、如何の御因縁にや一昨年将軍様には御急病にて御他界遊ばされ、誠に御台様の御愁歎言語に尽くし奉り難く、若君様には御幼年に入り為され、彼れ是れ以て御尊労の中に、去年御炎上の後も何角と御心掛かりの御事共も在らせられ、之に依り当春三月、厳しく御祈祷申し上ぐべき旨仰せを蒙り、三月十四日より閏三月及び四月五日に至り、都合五十一日、朝は暁七つ(午前4時ごろ)より五つ時(午前8時ごろ)迄、昼は九つ時(正午ごろ)より夕七つ(午後4時)頃迄、夜は六つ時(午後6時ごろ)より四つ時(午後10時ごろ)迄、弥よ丹誠を抽し、必至の御祈念申し上げる処に、不思議の御利益を以て追々世上穏やかに相成り、御互いに有り難き事にあらずや」(日英筆 『時々興記留』より抜粋、原本はに所蔵) 関連項目 [ ]• 外部リンク [ ]•

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篤姫(天璋院)、死去

天璋院 ひい な

間違いなく「日蓮正宗」の御信徒でした。 確かに、当時はまだ「日蓮正宗」という名称は名乗ってはおりませんでしたから、ヤダさんの回答にも一理あります。 徳川幕府の第13代将軍・家定の御台所で天璋院篤姫は、将軍家輿入れに伴い島津斉彬の勧めもあり縁あって日蓮正宗の 御信徒となり、時の御法主上人猊下の御教導のもと島津藩主と共に御授戒を受けられ、御本尊を下附され日々信仰に励まれ ておりました。 但し、島津氏の御授戒については、当時の島津家としての立場を優位にするが為の「政略結婚」が根本にあったの も事実ですから、日蓮正宗に帰依したと言っても、その動機は些か純粋なる信仰心からとは言えなかったのかも知れませんね。 家定亡き後の「後継者の問題」等も含め、大いに心を痛められた天璋院篤姫は、世の中の平穏を願って、当時、常泉寺在住 の第51世日英上人に御祈念を願い出られました。 それを受けられた日英上人は、51日間、一日12時間の唱題行をもって、 篤姫の大願成就と世相の安寧を一心に御祈念されました。 その結果、篤姫は自らの所願が成就されたことに大変満足し、その年の御会式に、常泉寺と日英上人に、報恩感謝の御供養 をされています。 これは、日英上人の【時々興記留】という御説法の稿本に記されています。 【時々興記留】(日英上人御筆原本は日蓮正宗妙光寺に所蔵) 『前の大将軍温恭院様の御台様、当天璋院様御事。 各々の兼ねて伺い及ばるる通り、其の実は薩州齊彬公の姫君にして、 御幼名を篤姫君と称し奉る。 此の御方不思議の御因縁にて当門流に御帰依遊ばされ、八ヶ年以来、江戸へ御下関の節、京 都に於て近衛様の御養女と成らせられて、薩州芝の御館に着御之有り。 而して、前の将軍様へ御婚姻相調はせられ、去る辰 の年十一月、渋谷の御館より直ちに御台様にて御本丸へ御輿入れ相済み為され、四海波静かにて比翼連理の御契り浅から ず、御威勢に在す処、如何の御因縁にや一昨年将軍様には御急病にて御他界遊ばさる。 誠に御台様の御愁歎言語に尽くし 奉り難く、若君様には御幼年に入り為され、彼れ是れ以て御尊労の中に、去年御炎上の後も何角と御心掛かりの御事共も在 らせられ、之に依りて当春三月、厳しく御祈祷申し上ぐべき旨仰せを蒙る。 三月十四日より閏三月及び四月五日に至り、都合 五十一日、朝は暁七つより五つ時迄、昼は九つ時より夕七つ頃迄、夜は六つ時より四つ時迄、弥よ丹誠を抽し、必至の御祈念 申し上げる処に、不思議の御利益を以て追々世上穏やかに相成り、御互いに有り難き事にあらずや。 』 確かに、テレビや小説の中では特定宗派として挙げられておりませんし、強いて挙げれば「徳川家菩提寺」に礼拝しているような 表現になっていますが、事実はそういうことです。

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篤姫・天璋院

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2008年NHK大河ドラマ特別展「天璋院篤姫展」が東京 2月19日~4月6日:江戸東京博物館 、大阪 大阪歴史博物館:4月19日~6月1日 、鹿児島 9月6日~10月17日:鹿児島県歴史資料センター黎明館 で開催され、各会場で同展示会の図録 NHKプロモーション、2008年2月 も販売されました。 その図録の178頁~181頁に徳川記念財団の藤田英昭研究員が執筆した「知られざる戊辰戦争期の天璋院」が載っており、幾島が老年のために歩行困難となって大奥から宿下がりしていたこと、そんな彼女が天璋院の命を受けて西郷隆盛に天璋院の嘆願書を手渡したこと、しかしこの天璋院の嘆願書は西郷の「慶喜に対する憎しみを一層募らせることとなった」かもしれない等の興味深いことが書かれています。 それで、同論文の一部を紹介したいと思います。 この藤田英昭論文によると、『静嶽公御年賦』 徳川宗家文書 所収の「天璋院様御履歴」に、慶応4年の 「三月十一日御年寄つほね卜申モノ、此度官軍御差向二付、薩州家へ御用仰含ラレ、今日東海道筋へ出立」とあり、またこのつぼねを「 薩州ヨリ御供致シ候人ニテ、老年二及ヒ歩行六ケ敷下宿致居候処、押テ出立」したものと記述していることから、「 薩摩より天璋院に従い江戸に下向し、老年のため宿下がりをしていた人物といえば、幾島以外にはいない」と推定しています。 そして、『興山公御年賦』 徳川宗家文書 の記述によると、この幾島と思われる女性には漢方医浅田宗伯 天璋院から絶大な信頼を受けて大奥の侍医となり、法眼に叙せられていた人物 が同行し、天璋院からは「御くるミ御ふとん」が遣わされたことから、「ただならぬ状態」にありながらも「無理を押して出掛け」て来たのであろうとしています。 なお、同論文によると、幾島が出立した慶応4年3月11日より以前に、慶喜の直命により山岡鉄太郎が駿府滞陣中の西郷隆盛のもとへ派遣され、慶応4年3月9日に西郷と会談し、「 慶喜の備前藩御預け、江戸城明け渡しなど七か条の降伏条件が揃えば、家名存続は保証するという西郷の言質を取って」から翌日に帰府していたとし、「 このような徳川家にとって有利な環境が整うなかで、天璋院の使者として幾島は出立したことを記憶しておきたい」と指摘しています。 そしてこの藤田英昭論文は、「 では、天璋院の徳川家名存続を願う気持ちは薩摩藩隊長、なかでも西郷に届いたのであろうか」と天璋院の嘆願書の果たした役割に疑問を提起し、肥後藩の風聞探索書 『肥後藩国事史料』8巻所収の「一新録探索書」 のつぎのような記述を紹介しています。 「天璋院様より女使御文持参、西郷吉之助江面談之節、御書拝見潜然涕泣しッヽ、拝見、終而更二涕泣、ヤヽ有て涙をおさめ、容を改め正敷手を突、サテサテ斯迄御苦労披遊候段何共奉恐入候、絶言語候、右ト申も畢竟逆賊慶喜之所業、ニクキ慶喜ニ候と申候由、女使並附添之者、此節もらひ泣致居たる処、此一言にて忽チ立腹、心頭より怒気発し、既ニサヽントしたりと、右女使附添之者自ら咄Lたりと云」 藤田英昭論文は、この肥後藩の風聞探索書の記述からつぎのような見解を示しています。 「歎願書に接した西郷は、天璋院の苦労を察して涙を禁じ得なかったという。 天璋院の書状に西郷は心を動かされたのである。 しかしあろうことか、天璋院の意とは別に、慶喜の所業に心労を重ねる天璋院を憐れみ、慶喜に対する憎しみを一層募らせることとなった。 /確かに歎願書の前半には、『(慶喜は)私(天璋院)之心底に応し不申』『いか様成る不忠致候哉』など、慶喜に批判的な文言が綴られている。 どうやら西郷は天璋院の本願である家名相続よりも、天璋院を苦しめる慶喜を排除しなければならない、と気持ちを高ぶらせていったようである。 ある意味、情に厚い西郷の本領発揮とでもいうべきか。 だが、これでは天璋院の本意を汲んではいない。 女使(幾島)は、西郷の態度に立腹し、刺殺に及ぼうとしたともいう。 /こうしてみると、天璋院の歎願書は、山岡との会談によって徳川家名存続へと傾きかけていた西郷の心を、別の方向へと突き動かし、江戸を戦火に巻き込みかねない可能性もはらんでいたことになろうか。 もちろん、これは天璋院の真意ではなかったが、単に徳川家名相続に影響を与えた歎願書というだけではなく、多様な政治的意義も併せ持っていたということを考慮する必要があるだろう。

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