ミッドウェー 海戦 と は。 ミッドウェー海戦 「運命の5分間の真実」左近充尚敏著 NO.1

知っていましたか? 近代日本のこんな歴史

ミッドウェー 海戦 と は

夏といえば、夏休み。 夏休みとくれば、ヘルマン ヘッセの「車輪の下」 ・・・ 夏休みはこうなくてはならない。 山々の上にはリンドウ色に青い空があった。 幾週間もまぶしく暑い日が続いた。 ただときおり激しい短い雷雨が来るだけだった。 川はたくさんの砂岩やモミの木かげや狭い谷のあいだを流れていたが、水があたたかくなっていたので、夕方おそくなってもまだ水浴びができた。 小さい町のまわりには、干し草や二番刈りの草のにおいがただよっていた。 細長い麦畑は黄色く金褐色になった。 ヘルマン ヘッセが書いたこの有名な短編は、ヘッセ自身の少年時代を題材にしたといわれる。 町一番の秀才ハンスは、神学校に進学するものの、勉強一筋の人生に疑問をもちはじめる。 悩み抜いたハンスは、自殺とも事故死ともとれる死をとげる。 思春期特有の不安がさまよう世界だが、この一節だけは、真夏の日のようにまぶしく輝いている。 夏は、なぜか特別の季節。 それは誰もが想う、小学校のあの開放的な夏休みのせいかもしれない。 だから、 8月は夏ではなく、夏休みなのである。 1945年8月6日、され、8月15日、長かった戦争は終わった。 この戦争は、地球規模の大戦「第二次世界大戦」の東アジア及び東南アジア戦域を指している。 一般には、太平洋戦争(Pacific War)、年配者には「大東亜戦争」のほうがなじみが深いだろう。 「大東亜」は、日本を盟主とする東アジア・東南アジアの共存光栄帝国「大東亜共栄圏」からきている。 終戦を迎えたあの日はギラギラと灼けつくような暑かった。 ここに登場する5人は、歴史とはおよそ無縁だったが、あの日、忘れられない夏の記憶を刻む。 いずれも実在の人物で、その物語もまた真実である。 いわゆる「 缶焚き(かまたき)」である。 機関士の任務は動力機関の世話だが、機関室は船底なので、艦が沈めば真っ先に死ぬ。 巡洋艦「長良」は、太平洋戦争中、最も有名な海戦「ミッドウェー海戦」にも参加している。 当時、海戦の主役は空母だったが、長良は、ある偶然から、ささやかではあったが、歴史に名を刻むことになる。 ミッドウェー海戦は、日本軍が太平洋戦争緒戦の優勢から一転、劣勢に転じた歴史的な海戦である。 日本軍は開戦直後の真珠湾攻撃で大きな戦果をあげたが、アメリカ空母をうちもらしていた。 この頃、海戦の主力は戦艦から空母に移っていたので、アメリカ空母を殲滅する必要があった。 でないと、石油資源を南方から日本に輸送するシーレーン(海上交通路)が脅かされるのだ。 ミッドウェー海戦の日本海軍の作戦は単純明快だった。 ミッドウェー島のアメリカ基地を攻撃し、アメリカ空母部隊をおびきだし、殲滅する。 後世の軍事評論家は、「日本軍は兵力を逐次投入し、各個撃破される」 と非難するが、少なくともこの作戦は違う。 南雲中将率いる第1機動部隊を中心に、空母6隻、航空機1000機が投入されたが、これは日本の 連合艦隊のほぼ全戦力といっていい。 これほど思いっきりのいい作戦は、歴史を見渡してもあまりない。 第二次世界大戦中、ドイツがロシアにしかけたバルバロッサ作戦もその一つ。 1941年6月22日、ヒトラーの気合いの入った演説とともに、ドイツ陸軍がロシア領内になだれ込んだ。 総兵数300万人、航空機1830機、戦車3580両、火砲7184門、途方もない大軍だが、じつは、 ドイツ陸軍の80%にあたる。 迎え撃つロシア軍も300万人。 600万の兵が激突する史上最大の陸上戦であった。 話をミッドウェー海戦にもどそう。 日本軍は大艦隊を投入したが、むかえ撃つアメリカ太平洋艦隊は、わずか空母3隻。 数の上で日本がアメリカを圧倒し、航空兵の練度もまたアメリカ軍を圧倒したのである。 勝敗は火を見るより明らかだった。 この頃、ハワイの地下室には、アメリカの 暗号解読班が配備されていた。 ロシュフォート中佐をリーダーに、数学の才能がずば抜けた者が集められていた。 この世界有数の暗号解読班は、日本の暗号「パープル」を解読し、日本艦隊のミッドウェー侵攻作戦も察知していた。 この情報はミッドウェー島のアメリカ軍基地にも報告され、アメリカ軍は準備万端待ち受けていた。 一方、日本軍側も、無線探知によって、米空母出撃をつかんでいた可能性がある。 ところが、この情報は何らかの理由で黙認された。 当時、日本軍の国民に対する無線統制は徹底していた。 アマチュア無線の活動はもちろん、を所持することも禁じられていたのだ。 無線技術が戦績に大きく影響することを知りながら。 皮肉な話ではないか。 1942年6月4日午前3時15分、アメリカ軍の哨戒機(しょうかいき)が、侵攻する 日本空母部隊を発見する。 連絡を受けたミッドウェー島のアメリカ軍基地は、ただちにB17爆撃機9機を発進させた。 ところが、B17は重爆撃機で、高々度から爆弾を投下する。 地上にある静止標的ならいざしらず、艦船のように、動くものは、まずあたらない。 実際この爆撃では1発の命中弾もなかった。 6月5日午前4時30分、今度は日本空母部隊がミッドウェー島を攻撃する。 日本の攻撃機100機が、ミッドウェー上空に着くと、すでにアメリカ軍の迎撃機26機が待ち受けていた。 ところが、アメリカ迎撃機は日本のゼロ戦にことごとく撃墜される。 一方、日本軍は空中戦ではアメリカを圧倒したものの、肝心の地上攻撃の戦果はいまいちだった。 そこで、攻撃部隊は再攻撃の必要ありと、母艦に打電した。 この無線を受信した南雲中将は、ミッドウェー島の再攻撃を決断する。 ところがその時、空母の甲板で待機する攻撃機には、艦船攻撃用の爆弾が積まれていた。 地上攻撃をするには、地上攻撃用の爆弾に変えなければならない。 午前7時15分、 爆弾を転換する命令がくだされる。 こうして、ありえない敗北へ歯車が回り始めた。 ミッドウェー島から飛び立ったアメリカ軍哨戒機は、午前5時30分、日本の空母部隊を発見する。 この報告を受け、ミッドウェー基地のすべての攻撃機が発進した。 午前7時10分、アメリカ攻撃機は、日本の空母部隊の攻撃を開始。 ところが、日本空母の上空には、直衛のゼロ戦隊が待ち受けていた。 アメリカ攻撃機10機は、この ゼロ戦隊に1機のこらず撃墜される。 午前7時40分、アメリカのドーントレス急降下爆撃機16機が攻撃を開始するが、一発も命中せず、ゼロ戦隊に8機まで撃墜される。 こうして、この海戦は、当初の予測どおり日本優勢で進む。 暗号解読に成功し、情報戦に勝利しても、アメリカ攻撃機は、空母直衛の ゼロ戦に手も足も出なかったのである。 ところが、午前8時30分、日本の哨戒機から日本空母部隊に驚くべき情報が入る。 近くに、アメリカ空母部隊がいるというのだ。 甲板では爆弾を地上攻撃用に転換する作業の真っ最中である。 今度は、地上攻撃をとりやめ、艦船攻撃の爆弾に変更しなければならない。 日本空母部隊は大混乱に陥った。 午前5時34分、アメリカ空母部隊の司令官スプルーアンス少将は日本空母発見の連絡を受け、午前7時に攻撃部隊116機を出撃させた。 ホーネット雷撃隊は、午前9時18分、日本空母部隊に雷撃を敢行したが、直衛の ゼロ戦隊に全機撃墜される。 雷撃とは、魚雷を海に落として艦船を攻撃することで、爆弾を直接艦船に落とすのではない。 午前9時49分、今度はアメリカ空母エンタープライズの雷撃機14機が攻撃したが、ゼロ戦隊に10機が撃墜される。 午前10時15分、次にヨークタウンの攻撃隊29機が襲いかかるが、やはりゼロ戦隊の餌食となった。 日本が世界に誇るゼロ戦は、歴史的名機と言われる。 航続距離が長大で、強力な機銃を装備し、旋回性能は抜群で、ドッグファイトでは無敵だった。 一方、操縦が難しいという証言もあるが、パイロットたちの猛訓練でクリアされていた。 太平洋戦争中、特攻隊予備兵だった父は、その目撃談をよく話してくれた。 上空から、きりもみ状態で落下するのを見て、墜落だ!とみんなが叫ぶと、あっという間に機体を立て直す。 ほぼ、直角に急降下し、激突する!と思った瞬間、上昇に転ずる。 そのとき、練習機の後輪がわずかに大地をかすめるのだという。 神業としか言いようがない。 このような魔術師に操られたゼロ戦は、大空では「 神の子」であった。 ところがその直後、奇跡が起こる。 無敵のゼロ戦隊は、おもしろいようにアメリカ機を追いつめ、それにつられ、低空におりてきた。 上空ががら空きになったのである。 午前10時過ぎ、エンタープライズの急降下爆撃30機とヨークタウンの攻撃機17機が、日本の空母部隊を発見する。 上空にいるはずのゼロ戦隊がいない!アメリカ攻撃機は、猛然と攻撃を開始した。 日本空母部隊の旗艦「赤城」には500キロ爆弾2発が命中し、空母「加賀」に4発、「蒼龍」に3発が直撃した。 問題は、そのときの日本空母の甲板の状況である。 爆弾を満載した攻撃機が並び、格納庫には、交換のため、はずされたばかりの爆弾もあった。 甲板で爆発したエネルギーは格納庫にまで飛び火し、誘爆をくりかえし、手のつけられない状態になった。 日本艦隊は、ほぼ 一瞬にして3隻の空母を失ったのである。 結局、この海戦で日本側は4隻の空母を失ったが、アメリカ側の損害は空母1隻と駆逐艦1隻にすぎなかった。 日本海軍の信じられないような大敗北であった。 ここまでは、歴史に記された正史「ミッドウェー海戦」。 さてここで、先のT氏が登場する。 旗艦「赤城」が沈没すると、艦隊司令官の南雲中将が乗り移ったのが、巡洋艦「長良」だった。 つまり、 T氏が乗る船が日本艦隊の「旗艦」に!この瞬間、平凡な機関士T氏も、歴史に参加したわけである(何をしたというわけではないが)。 そういうこともあって、T氏は戦後も 海軍一筋であった。 といっても、海上自衛隊に入隊したわけではない。 T氏は、戦後、故郷で土建業を営んだが、商才のある人で、商売は繁盛した。 ところが、儲けのほとんどを「海軍」の付き合いにつぎ込んだという。 もちろん、家族の猛烈な反対にあったが、それでひるむような人ではなかった。 「海軍魂」ここにあり、である。 T氏は75歳まで生き、病でこの世を去ったが、その葬儀は誰もが仰天した。 元海軍の仲間も参列したのだが、その一人が、 60年前の海軍の軍服姿で現れたのである。 紺色を基調にしてシックな、あのまぎれもない帝国海軍の正装だ。 腰には短剣まで下げている。 終戦時は海軍大佐だったという。 終戦と同時に、みな2階級特進したから、戦争末期は少佐だったはずだ。 もちろん、海軍兵学校出のエリートである。 その海軍大佐を中心に20人ほどの戦友が集まり、その場所だけ異様な空気に包まれていた。 あの時空だけはまだ戦争が終わっていなかったのだ。 T氏は、 酒と海軍をこよなく愛した人だった。 1945年、終戦のあの夏の日は、T氏にとって終わりではなく、もう一つの「海軍人生」への始まりだったのだ。 工兵隊とは、橋をかけるなど戦場での土木工事を担当する部隊である。 もちろん、兵士であるから、いざとなれば、手榴弾を握りしめ突撃もする。 O氏の家に遊びに行くと、決まって戦争の話を聞かされた。 その話は、 中国戦線での武勇伝だったが、意外にも起承転結がしっかりしていた。 何十人、何百人と話し聞かせるうちに、自然に洗練されていったのだろう。 O氏は、地元の名士だったから、話し聞かせる相手に事欠かなかった。 実際、O氏はだれかれ構わず、つかまえては話し込んでいた。 もちろん、相手は嫌な顔ひとつせず、神妙に聞き入った。 それが本心かどうかは、別として。 O氏の武勇伝は、決まって砲撃の自慢話から始まった。 O氏には不思議な能力があり、 砲弾の着弾点が瞬時に分かったという。 そのため、彼の部下たちは、敵の砲撃が始まると、決まってO氏の後を追いかけたという。 話はこの第1幕から始まり、1時間ほどしてクライマックスへとむかう。 ある日、O氏の部隊が久しぶりに建物の中で睡眠をとることになった。 O氏は、その晩、敵の夜襲があることを直感し、屋根裏で寝るよう上官に進言する。 ところが、根拠がないという理由で、あっさりと却下。 そこで、O氏は自分の部下だけ連れて、屋根裏で寝ることにした。 そして、O氏の 予言は的中する。 その晩、激しい夜襲をうけ、部隊が全滅したのである。 生き残ったのは、屋根裏で一夜を過ごしたO氏とその部下だけ。 その後、O氏は部下から絶大な信頼を得るようになった。 そして、1945年8月、終戦。 O氏は、自分を崇拝する部下とともに帰国し、生まれ故郷で建築会社を創業した。 空手で鍛えた強靱な肉体と、死地をくぐり抜けた不屈の精神力、なによりも、そのカリスマによって、O氏は故郷の大名士となったのである。 O氏にとって、死と隣り合わせの世界は、世間話か自慢話のネタに過ぎず、あの夏の日は、より実りのある人生への通過点だったのである。

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ミッドウェー海戦 (日本機動部隊全滅)

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ミッドウェー海戦 (日本機動部隊全滅) ミッドウェー海戦 (日本機動部隊全滅) この文章・写真・略図は、学研『太平洋戦史シリーズVol. 4・ミッドウェー海戦』を参考にしています。 比較検討には、PHP研究所『歴史街道増刊・ミッドウェー海戦』、光人社NF文庫『写真太平洋戦争・第3巻』 及び新紀元社『太平洋戦争海戦ガイド』を参考・編集しました。 聯合艦隊司令長官 山本五十六大将の不安の種は、真珠湾で討ち洩らした敵空母の存在でした。 第一機動部隊は南方攻略作戦を支援し、敵基地航空隊を各地で撃破壊滅させ無敵艦隊と呼ばれています。 連戦連勝の日本軍部首脳には、本土が攻撃されるとは思ってもいませんでした。 当時、第一課長 富岡定俊大佐が不思議に思ったのは 「山本長官は、なぜ敵の本土爆撃を異常に恐れているのだろう」 という事でした。 陸軍も、海軍軍令部においてさえも敵空母の事など、ほとんど意にもかけていない状況の中で、空母の恐ろしさを認識していた山本長官には、焦土と化した近未来の日本が見えていたのではないでしょうか・・・。 ミッドウェー攻略作戦『MI作戦』 の立案も非常に積極的で、軍令部の反対にも職を賭して意見を通しています。 ドゥーリットル帝都空襲が 『MI作戦』 の追風となり、正当性を証明した事となりました。 山本五十六長官の本意は、ミッドウェー島の占領を口実に、敵空母部隊の殲滅だったと言われています。 昭和17年5月5日、大本営は山本長官に押し切られる形で二作戦を発令しました。 「聯合艦隊司令長官ハ陸軍ト協力シ 『AF』 及ビ 『AO』 西部要地ヲ攻略スベシ」 (AFはミッドウェー、AOはアリューシャンの略号) 下図は上から順にMI作戦経過全図、中央が 第一機動部隊 (南雲艦隊)進出航路図、3番目が 日本潜水艦配備図 及び、 アメリカ空母部隊 (TF16・スプルーアンス空母部隊、TF17・フレッチャー空母部隊)進出航路図となっています。 (各拡大図は2・3枚目) 珊瑚海海戦で書きましたが、アメリカ軍は既に日本軍の暗号をほぼ解読していました。 『MI作戦』も概要は把握していましたが、 AF とはどこか特定出来ていませんでした。 予想作戦期日までにAFを知りたいアメリカ軍情報部は、日本軍に罠を仕掛けます。 それは、 「ミッドウェー基地の海水を真水にする機械が故障して、飲料水が不足している」 と平文で偽電を打つというものでした。 この偽電を打って48時間もたたないうちに、日本側が 「AFは水が不足している」 と全軍に暗号で通報したのを米軍が解読し、AFがミッドウェーだと特定されてしまいます。 それを受けた米太平洋司令長官ニミッツ大将は、この戦闘が決定的戦闘になると考えて可能な限りの航空機をミッドウェーに運び込んで準備を指示しました(基地航空機115機)。 日本軍作戦予定日が近づいた5月29日、ニミッツ大将は、ハワイよりTF16(スプルーアンス隊)とTF17(フレッチャー隊)をミッドウェー北東に待ち伏せさせるため出撃させます(下図 先遣部隊配置図参照)。 一方、日本軍第一機動部隊(南雲部隊)の 第一航空戦隊 『赤城』『加賀』、 第二航空戦隊 『蒼龍』『飛龍』も濃霧に悩まされながらも、刻々と攻撃機発進地点を目指していました。 MI作戦立案時には、 第五航空戦隊 『瑞鶴』『翔鶴』も参加させる予定でしたが、先の珊瑚海海戦(MO作戦)による損傷と整備の為、参加は見送られています。 (下図 第一機動部隊進出航路図参照) 先遣部隊 とは、潜水艦で予想進出航路に散開配備して敵艦船の位置を機動部隊本隊に報告する予定でした。 しかし、アメリカ軍は暗号を解読していた事により、潜水艦より先に通過していました。 乙散開線など、絶妙の予想通過地点なんですが・・・。 昭和17年6月5日、ミッドウェーの長い1日が始まりました。 夜も明けきらぬ午前4時30分、ミッドウェー島北西240浬(約450Km から第一次攻撃隊(零戦36機、艦爆36機、艦攻36機)合計108機は、友永丈一大尉(飛龍飛行隊長)の指揮により、6時15分から同島の空襲を開始しました。 (淵田中佐は盲腸、源田中佐は感冒で病床にありました)日本機接近中の報告を受け、待ち伏せていた米戦闘機は24機でしたが、実戦経験豊富な零戦隊は、たやすく十数機を撃墜し、艦爆隊・艦攻隊は予定通り飛行場や地上施設に投弾を開始します。 しかし、米軍は早暁から22機の哨戒機をだし、午前5時34分には南雲機動部隊を発見していました。 米空母部隊からも午前7時、 『エンタープライズ』 、 『ホーネット』 から、それぞれ戦闘機10機、爆撃機34機、雷撃機14機の合計 116機 を発進させ、やや遅れて 『ヨークタウン』 からも 35機 を発進させています(このうち、実戦経験があるのは一部のヨークタウン隊とエンタープライズ隊)。 ミッドウェー飛行場はすでに南雲部隊ヘ攻撃発進後だったためもぬけの殻で、思うような戦果が上がらず、友永大尉は午前7時5分 「第二次攻撃ノ要アリト認ム」 と打電します。 南雲部隊は、ミッドウェー基地航空隊の米軍機による攻撃を受けていましたが、直援零戦と対空砲火により、ほとんど被害はありませんでした。 南雲長官は、敵空母攻撃用に待機していた攻撃隊の魚雷を陸上攻撃用の爆装に変更指示します。 この兵装転換作業が半ばに達した午前8時9分、利根偵察機より 「敵水上部隊発見 」 の報告が入ります。 しかし、アメリカ軍基地航空隊は直援機の援護も無く攻撃してきた事により、南雲部隊は空母は近海に居ないのでは、と誤った判断をしていました。 そして友永大尉の第一次攻撃隊の収容を待っている間に、同じく利根偵察機より8時30分頃、追加電報が届きます。 「敵水上部隊ハ空母ヲトモナウ」 という電文に南雲長官は驚くと共に、草鹿参謀長と源田中佐の進言を容れて友永隊の収容を優先し、米空母の攻撃を後に譲ってしまいます。 その電文を第二航戦旗艦『飛龍』で聞いていた 山口多聞少将 は、飛行甲板上にある攻撃機だけでも 「攻撃隊発進ノ要アリト認ム」 と、第一航戦旗艦『赤城』の艦橋に意見具申信号を送りますが、南雲長官は、攻撃機が兵装転換中だった事と、護衛戦闘機を付ける事が出来ないことから、山口少将の意見を却下しました。 2ヶ月前のでも似た状況で、山口少将は兵装転換をせず、攻撃隊を発進させるよう意見具申をしていますが却下されています。 友永隊収容後、爆装から雷装に再度の兵装転換のため、空母艦内は弾薬庫に戻せない爆弾が山積みのまま放置されてしまいます。 そんな混乱状況の中、米空母艦載機が忍び寄っていました。 9時18分、米攻撃隊第一派ホーネット雷撃隊14機の攻撃をかわし、9時49分、第二派エンタープライズ雷撃隊14機の攻撃も無事かわします。 やや遅れて発進したエンタープライズの爆撃隊(ドーントレス艦上爆撃機30機)は、日本機動部隊を発見できず帰途に着こうとしていたところ、潜水艦を攻撃して本隊に戻る途中の駆逐艦『嵐』を発見しました。 エンタープライズ爆撃隊は追尾し、10時20分、ついに日本機動部隊を見つけ、太陽を背にして急降下爆撃を敢行します。 『赤城』 の艦中央のエレベーター付近に爆弾1発、艦尾にも1発の計2発が命中。 普段なら250Kg爆弾は致命傷とはなりませんが、兵装転換による混乱で自軍800Kg爆弾、収容攻撃機などの誘爆炎上により火炎は広がっていきます。 『赤城』 に起こった状況は、同じ頃、ヨークタウン爆撃隊17機の攻撃により 『加賀』『蒼龍』 にも起きていました。 原因は米攻撃隊第一波、二派を迎撃するために、直援零戦隊はすべて低空に降りてしまっていたことにより、上空から容易に侵入されたのでした。 (下図 空母4隻の被弾状況参照) 最後の空母 『飛龍』 は50Kmほど離れていたため、発見されず被害を免れて健在でした。 炎上している『赤城』から南雲長官の中将旗が降ろされ、次席指揮官は第八戦隊司令官 阿部弘毅少将が指揮を受け継ぎました。 唯一、残った1隻の空母『飛龍』で味方空母3隻の仇を討つべく山口多聞少将は独断で10時58分、24機(零戦6機、艦爆18機)の第一次攻撃隊を送り出し、午後1時31分にも16機(零戦6機、艦攻10機)第二次攻撃隊を発進させます。 (次席指揮官の命令を待っていたら、飛龍も撃沈されていた可能性が在ります)送り出す攻撃隊搭乗員に向かって、山口少将は 「ひとつ体当たりのつもりでやってくれ。 俺も後からいく」 と激励した事は、整備員ら生存者によって今に伝えられています。 執念ともいえる2度にわたる果敢な攻撃で、半数以上の26機(零戦8機、艦爆13機、艦攻5機)を喪失しますが 『ヨークタウン』 に致命傷を与え、翌7日に損傷漂流中の処を 伊168潜水艦 が雷撃により止めを刺して沈没させます。 しかし、孤軍奮闘の『飛龍』も第3次攻撃を準備していたとき、『エンタープライズ』の艦爆24機に急襲され、ついに力尽きてしまいます。 歴戦の艦上爆撃機隊・小林道雄隊長、艦上攻撃機隊・友永丈市隊長らも帰還せず、山口少将、加来止男大佐(艦長)も『飛龍』と運命を共にしました。 この海戦で、日本軍は正規空母4隻( 第一航空戦隊『赤城』『加賀』 、 第二航空戦隊『飛龍』『蒼龍』 )( 支援部隊・重巡三隅 )を一挙に失い、すべての艦載機( 253機 )と戦死者3500名(練達搭乗員100名以上)という損害を出しています。 対して米軍は、 正規空母『ヨークタウン』 、 駆逐艦『ハンマン』 、航空機 150機 、戦死者307名でした。 この後、日本海軍軍令部では、生き残った将兵を前線に送り、ミッドウェー海戦敗北の機密を謀ろうとしています。 後に、作戦に参加しなかった 第五航空戦隊『瑞鶴』『翔鶴』『瑞鳳』 は、昭和18年8月1日、新第一航空戦隊として名前を引継ぎます。 AF作戦と同時進行したAO作戦で、アリューシャン方面に展開していた 第四航空戦隊『龍驤』『隼鷹』 は幸いにも被害僅少でした。 この戦闘による影響は、日米決戦のターニングポイントを迎え、二ヶ月後のガタルカナル上陸で米軍の本格的反抗が始まり、この戦闘以後、局地的勝利は在りますが日本軍は敗退していきます。 『鳳翔』の索敵機が撮影した空母 『飛龍』 の最後の姿。 被弾損傷し、煙を曳きつつ漂流中。 第二航空戦隊旗艦 『飛龍』 は、敵空母3隻を相手に孤軍奮闘の末に 『ヨークタウン』 を道連れに海底に沈みましたが、 もし、山口多聞少将の進言を南雲長官が聞き入れていれば、状況は逆になっていたのではと悔やまれます。 アメリカ軍で実戦経験の在る空母部隊は『ヨークタウン』の一部、『エンタープライズ』のみで、日本軍6隻の空母は日中戦争、太平洋戦争緒戦の南方作戦を戦い、無敵艦隊と呼ばれる程の実力でしたが、攻撃を行う前に被弾して炎上しました。 航空音痴(南雲長官)の提督が指揮を執らなければならない程、日本海軍人事システムは硬化していたと言えます。 と言っても、航空作戦は源田参謀が実質的指揮官であったようです。 対照的にアメリカ軍は、ハルゼー中将(皮膚病の療養の為)の推薦で、他に数人の上級提督がいたにも係わらず スプルーアンス少将 が後任抜擢を受けていました。 海戦で一番の敗因は、情報戦に敗れていた事が大きいと思います。 正確な情報が在ってこそ作戦が成り立ちますが、情報戦での日米人員数は比較になりません。 日本軍情報部暗号解読班員は15名程度ですが、米軍情報部暗号解読班員は2千名以上といわれています。 アメリカ軍は少ない空母部隊を基地航空隊で補い、情報を基に待ち伏せ作戦で最大の戦果を挙げました。 この AF攻略(ミッドウェー)作戦 と同時進行していた AO(アリューシャン)攻略作戦 にも、米軍に情報を与える事故が起こっています。 AO作戦に出撃した第五艦隊には、第四航空戦隊『準鷹』『龍驤』なども随伴増強されていました。 攻略作戦のダッチハーバー攻撃時に、地上砲火で故障した零戦が、不時着予定地点のアクタン島に着陸を試みますが、泥土の為に車輪がめり込み機体は一回転。 操縦者は首の骨を折って死亡します。 故障機は敵に情報を与えないよう銃撃炎上させる規則がありましたが、同行していた僚機は墜落機の上を旋回の後、銃撃しないで立ち去りました。 これは、不時着した機体から同僚が出て来なくて、生きているか死んでいるかまでは上空から解りませんし、気絶している場合なども考えられるので、銃撃炎上させる事などできない心情も頷けます。 のちに米軍哨戒機が、この墜落機を発見します。 ほとんど無傷の零戦を入手した米軍は、サンディエゴ海軍航空基地において研究し、対零戦の模擬空戦までおこないました。 これにより、防御の弱い零戦を挟み撃ちにして1撃を加える戦法が編み出されています(無敵零戦神話の崩壊)。 正規空母4隻沈没とベテラン搭乗員を多数喪失。 加えて無傷の零戦をアリューシャン方面で鹵獲されるという失態により、この後の日本の運命が決まった一戦といえます。 下記の、 第二次ソロモン海戦 に続く 御意見、御感想、御質問、御指摘など在りましたら掲示板・メールにて御願いいたします。

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なぜ、ミッドウェー海戦は惨敗したのか?

ミッドウェー 海戦 と は

1942年6月5日から6月7日にミッドウェー島付近で起こった、日本海軍とアメリカ海軍の戦いです。 1941年12月の真珠湾攻撃から連戦連勝を重ねた日本海軍は、山本五十六(やまもといそろく)率いる戦艦「大和」をはじめ、主力部隊で臨みます。 対するアメリカは寄せ集めの部隊で、整備員など人員も不足していました。 日本が優位な状況に見えましたが、アメリカは「暗号解読」という技術で立ち向かってきます。 無線を傍受し、攻撃を事前に把握して迎撃準備を整えていました。 さらに失敗も重なって、日本海軍は敗戦。 主力空母4隻のほか多くの航空艦載機を失う大損害を負います。 これ以降、第二次世界大戦の主導権はアメリカに奪われたことから、ターニングポイントの戦いともいわれています。 この海戦で日本海軍はさまざまな失敗を重ねていましたが、主な敗因として挙げられるのは、目的が曖昧だったことでしょう。 主な目的が、敵の空母を攻撃することなのか、それともミッドウェー島を攻略することなのか明確にされておらず、このことが現場に大きな混乱を招きました。 そして決定的なのが、連合艦隊司令長官の山本五十六。 アメリカ海軍の動きがきわめて活発になり、敵の空母がミッドウェー方面に出てきたことなど重要な情報を機動部隊に知らせず、敵の空母を発見した際もただちに攻撃する命令をくだしませんでした。 さらに作戦は希望的観測にもとづいたシナリオで、燃料の補給なども軽視。 またアメリカ側に開戦前から暗号を解読されていて、攻撃日時、戦力の配備などが筒抜けで、対策をとられてしまいました。 またもうひとつ、「運命の5分間」というものがあります。 日本の空母3隻がアメリカ軍から急降下爆撃を受けた際、まさに日本の空母からも魚雷を積んだ攻撃機が飛び立とうとしていました。 「あと5分あれば攻撃機は発進でき、日本の空母が攻撃されることはなかっただろう」ということです。 これは、当時第一航空艦隊参謀長だった草鹿龍之介(くさかりゅうのすけ)が1949年に発表した文章で広まった説ですが、アメリカ軍の攻撃を受けた際にはまだ発進の準備は整っていなかったとする者もいて、「運命の5分間」は抽象的な意味だといわれています。 ミッドウェー海戦でもし日本が勝っていたら.

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