豊臣 秀吉 妻。 豊臣秀吉の妻・茶々(淀殿)と寧々とは?性格や関係性などその生涯を解説!

豊臣秀頼

豊臣 秀吉 妻

個人的なエピソードは、ほとんどありません。 北条政子のように、政治に関与したわけでは無いので、 あくまで秀吉夫人として夫を支え続けた、という事です。 ただ、その人柄を豊臣家子飼いの武将たちから慕われていたため、 徳川家康も彼女の存在を無視できず、 大名並みの化粧料(領地)を与えて、生涯厚遇を続けました。 また、大坂冬の陣の直前は、万一高台院が、 大坂城に入城すると、豊臣恩顧の大名が、反旗を翻すのでは、 と家康に警戒されて、一時、京都に軟禁されています。 彼女単独のエピソードで知られているのは、 秀吉の近江長浜城主時代に、側室に子供ができたため、 その愚痴を手紙にしたためて、主君の信長に送ったところ、 信長から、慰めと激励の返書が届いた、という事くらいです。 伝わるところによると、叔父の浅野長勝夫妻(妻が実母と姉妹)に子どもができなかったため、浅野家に婿を取る前提で杉原家から妹共々幼女になったというが、杉原家の実母が秀吉との結婚に生涯反対し続けるほどだったので、家を出て妹の養女先だった浅野家に入り養女の形で秀吉と結婚したという説もある。 両者とも身分が低かったせいか当時めずらしい恋愛結婚だったという。 生涯子どもはできず、しかも秀吉は女好きであったために、近江長浜城主になったころには側室をおいた。 これが余りに目に余っため、主君の信長に手紙を送ったらしく、信長からねねに「あいつにお前ほど美しく立派な妻はほかにいない、叱って置くから安心しなさい」という公式文書を返事にもらった。 この事から、ねねが結婚前に信長やその妻妾に仕えていて気安かったともいわれる。 子どもができなかったせいか、秀吉の周りにいた子どもの養育に熱心だったといい、彼らが成人して秀吉子飼いの大名となった後も慕われ続けたという。 また、留守がちな秀吉に代わって女主人として家中や城を取り仕切った時期もあり、脳う力は高かったようである。 このせいか、秀吉は身分の高い側室を次々迎えても、ねねを正室の座から降ろすことは無かった上に、高い官位や大名並の領地(最終的に1万5千石ほど)をあてがったり、一部の権限を与えられたり、秀吉遠征の時は代行業務の最終責任者のようなことまで行なったようである。

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豊臣秀吉の性格や、面白い逸話(エピソード)は?|織田NOBU株式会社

豊臣 秀吉 妻

こんな人! (人物像) 尾張中村の百姓から身をおこし、織田信長という最高の上司に出逢うことで、その輝かしい出世の道が開かれる。 野戦は苦手だが、持ち前の明るさと知恵を駆使して、城持ち大名にまで出世を遂げる。 盟主・織田信長の死を乗り越え(バネにして)、ついには天下人にまでなる。 まさに日本における サクセス・ストーリーの代名詞のような人物である。 大阪では、「太閤はん」として親しまれている。 天下を取った後の晩年はクソだが、現代でも秀吉を愛する人は数多い。 秀吉の「愛嬌があって、人たらし、世渡り上手な性格」から学ぶものは、幾つもあるのではないだろうか。 豊臣秀吉 (1537~1598) 呼び名など• 禿げネズミ• 羽柴筑前守(ちくぜんのかみ)• 太閤殿下 性格など• 人の心を掴むのが上手い。 ( 人たらし)• 「女好き・酒好き・派手好き」と、欲望に素直。 褒美や領土も気前よく与えるが、あまり後々のことを考えていない。 野戦は苦手だが、城攻めや内応、根回しは得意。 晩年は 権力に溺れてしまった感があり、残念。 おもしろエピソード 豊臣秀吉の逸話、面白エピソードを紹介! 下積み時代、信長との出会い 秀吉は織田信長に取り立てられるまでに、いろいろな職業を経験したといいます。 針売りの行商で遠方まで旅をしたり、川原で寝泊りをしたり。 また、今川家の家臣・松下加兵衛の下で働いていたとの記録も残っています。 その後、知人の紹介によって織田信長に仕えることとなりますが、この信長との出逢いこそが、秀吉の 人生の開運であるといえます。 当時の武家社会において、家臣は譜代や武家の者から取り立てるのが常であり、出自のまるで分からない秀吉のような下賤の者は、出世はおろか家臣に取り立てられることすら難しかった。 織田信長はそういった身分の垣根を越えて、 能力・実力のある者は積極登用していました。 これは当時としてはかなり稀な人材登用法といえます。 信長に出逢わわなければ、秀吉の才能も歴史の闇に埋もれたままであったかもしれません。 姫路城の金銀財宝をすべて放り投げて臨んだ「中国大返し」 信長を葬った謀叛人「明智光秀」を討つため、急いで京へ上った「中国大返し」。 この戦に負ければ羽柴軍の未来はない。 姫路には金銀財宝が蓄えられてあったが、負けてしまえばこれら財宝も全て失ってしまう。 ならば「 全てを投げ打って、この一戦に掛けよう」との覚悟で、姫路城に蓄えられていた金銀財宝をすべて兵士に分け与えてしまいます。 この大胆な決断が見事に功を奏し、秀吉は明智光秀を打ち破ります。 (山崎の合戦) その後、秀吉は柴田勝家を賤ヶ岳の合戦において打ち破り、天下人へと登りつめる訳ですから、結果的に 余りある程のおつりが返ってきたことになります。 必要とあらば大胆に私財を投げ打つ決断、見事です。 栄華を極めた聚楽第 我が子を跡目にしようと、強引な手口の数々 秀吉は「 子宝に恵まれなかった」ことでも有名です。 かなり晩年になって 「鶴松」「秀頼」をもうけることになりますが、この出生についても「本当は秀吉の子供ではない」など、黒い噂が絶えません。 子宝に恵まれず、また、やっとのことで生まれた鶴松も2歳で夭逝してしまうなど、「自分の子供に後を継がせる」という夢は半ば諦めていました。 そして、姉・智子の子である豊臣秀次を自身の養子とし、関白職も譲ります。 ところがその後、淀殿との間に秀頼が生まれます。 秀吉は跡目を養子の秀次に譲るという方針を一転覆します。 段々と秀次のことが邪魔になってきた秀吉は、秀次の「あらぬ噂」や「悪事」をでっちあげ、ついには切腹に追い込むことになります。 ( 豊臣秀次事件) 関ヶ原で徳川方に寝返ることとなる小早川秀秋も秀吉の養子であり、将来は豊臣家の中枢に居るはずでしたが、小早川秀秋もまた、秀頼が生まれたことでその人生の歯車が狂い始めます。 「豊臣秀次事件に連座した」という理由で中央から左遷され、九州の筑前に飛ばされてしまいます。 「 何かと必死な秀吉、カッコ悪い」というのが正直な感想ですが、権力を秀頼に集中させるために必要な処置であったのでしょうか。

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豊臣秀吉の子供や子孫は?現在も子孫はいるの?

豊臣 秀吉 妻

「一の谷馬蘭兜」は秀吉の代表的兜とされる。 、(初代)武家、。 の一人。 初めで、後にに改める。 があり、諸系図にやを称したように書かれているが、のとなってに改姓した後、からを賜姓されてとした。 中村郷の下層民の家に生まれたとされる()。 当初、に仕えるも出奔した後にに仕官し、次第に頭角を現した。 信長がでに討たれると「」によりへと戻りで光秀を破った後、で信長の孫・を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。 を築き、関白・に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国のを臣従させて天下統一を果たした。 天下統一後はや、、などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。 理由は諸説あるがの征服を決意して朝鮮に出兵したの最中に、の秀頼をらに託して病没した。 、、、、などが機知に富んだ功名立志伝として知られる。 「」も参照 秀吉の出自に関しては、通俗的に広く知られているが、史学としては諸説から確定的な史実を示すことは出来ていない。 生母であるは秀吉の晩年まで生存しているが、父親については同時代史料に素性を示すものがない。 また大政所の実名は「仲(なか)」であると伝えられているが、明確なものではない。 秀吉は自身のであるに伝記『天正記』を書かせているが、大村由己による秀吉の素性の説明は、本毎に異なっている。 大村はを記した『惟任退治記』では「秀吉の出生、元これ貴にあらず」と低い身分として描いたが、『天正記』の中の関白任官翌月の奥付を持つ『関白任官記』では、母親であるの父は「萩の中納言」であり、大政所が宮仕えをした後に生まれたと記述しており、天皇の落胤であることがほのめかされている。 当時の公家に萩中納言という人物は見当たらず、関白就任を側面援護するために秀吉がそのように書けと云ったとみられている。 またが著した『載恩記』にも、秀吉公が「わが母若き時、内裏のみづし所の下女たりしが、ゆくりか玉体に近づき奉りし事あり」と落胤を匂わせる発言をしたと記録されている。 しかし、これらは事実とは考えられていない。 一般には下層階級の出身であったと考えられている。 江戸初期に成立した『』によれば、秀吉は中村郷中中村(現在の)で、足軽と伝えられる木下弥右衛門・なかの子として生まれたとされる。 通俗説で父とされる やは、または、、さらにはその下の階層とも言われてはっきりしない。 の『豊鑑』では、中村郷の下層民の子であり父母の名も不明としている。 また『尾州志略』では蜂須賀蓮華寺の僧であるとし、『平豊小説』では私生児であったとしている。 『朝日物語』『豊臣系図』では一般に継父とされる、信長の同朋衆であったが実父であったとしている。 生年については、従来は5年()といわれていたが、最近では天文6年()説が有力となっている。 誕生日は、は「日吉丸」となっているが、これは『』の創作で、実際の生誕日は『』や家臣・伊藤秀盛の願文の記載から天文6年とする説が有力であり、幼名についても疑問視されている。 広く流布している説として、父・木下弥右衛門の死後、母・なかはと再婚したが、秀吉は竹阿弥と折り合い悪く、いつも虐待されており、19年()に家を出て、侍になるためにに行ったとされる。 『太閤素性記』によると7歳で実父・弥右衛門と死別し、8歳で光明寺に入るがすぐに飛び出し、15歳のとき亡父の遺産の一部をもらい家を出て、針売りなどしながら放浪したとなっている。 木下姓も父から継いだ姓かどうか疑問視されていて、妻・の母方の姓とする説もある。 秀吉の出自については、『』は与助という名のドジョウすくいであったとしており、ほかに村長の息子(『前野家文書』「」)、大工・鍛冶などの技術者集団 や行商人 であったとする非農業民説 、説 、また漂泊民の出身説 、などがあるが、真相は不明である。 『稲葉山の月』。 による浮世絵連作『月百姿』中の一枚。 天文23年()頃からにとして仕える。 の、台所奉行などを率先して引き受けて大きな成果を挙げるなどし、次第に織田家中で頭角を現していった。 また、有名な逸話として信長の草履取りをした際に冷えた草履を懐に入れて温めておいたことで信長は秀吉に大いに嘉(よみ)した。 4年()8月 、の養女での娘・ねねと結婚する。 ねねの実母・朝日はこの結婚に反対したが、ねねは反対を押し切って嫁いだ。 結婚式は藁と薄縁を敷いて行われた質素なものであった。 は浅野長勝も秀吉も足軽組頭であり、同じ長屋で暮らしていたので、秀吉は浅野家の入り婿の形でねねと婚姻したのではないかとしている。 永禄7年()、のとの戦いの中で、主のや主のらに誘降工作を行い成功させた。 秀吉の名が現れた最初の史料は、永禄8年()11月2日付けの坪内利定宛て知行安堵状であり、「木下藤吉郎秀吉」として副署している(坪内文書)。 このことは、秀吉が信長の有力部将の一人として認められていたことを示している。 永禄9年()に、建設に功績を上げたとされる逸話がある。 また、この頃、・ らを配下に組み入れている。 永禄10年()の斎藤氏滅亡後、秀吉の要請により信長からを、、と共に与力として下に付けられている(『豊鑑』)。 永禄11年()9月、で活躍したことが『』に記されている。 同年、信長の上洛に際して、らとともにの政務を任された。 12年()5月にが九州でと交戦()している隙をついて、同年6月に奪還を目指す残党が挙兵し、以前尼子氏と同盟していたがこれを支援した。 これに対して元就は信長に山名氏の背後を脅かすように出兵を依頼し、これに応じた信長は同年8月1日、秀吉を大将とした軍2万を派兵した。 秀吉はわずか10日間で18城を落城させ、同年8月13日には京に引き上げた。 この時、にいた祐豊は堺に亡命したが、同年末には一千貫を礼銭として信長に献納して但馬国への復帰を許された。 元年()、の討伐に従軍。 順調に侵攻を進めていくが、金ヶ崎付近を進軍中に盟友であった北近江のが裏切り、織田軍を背後から急襲した。 浅井と朝倉の挟み撃ちという絶体絶命の危機であったが、秀吉はや明智光秀と共にを務め功績をあげた()。 そしての後には、奪取したの城代に任じられ、浅井氏との攻防戦に従事した()。 その後もでは3千の兵を率いて夜半に清水谷の斜面から京極丸を攻め落すなど浅井・朝倉との戦いに大功をあげた。 元亀3年()8月頃、、のような人物になりたいという希望から 木下氏を羽柴氏に改めている( 羽柴秀吉)。 織田政権下での台頭 元年()、浅井氏が滅亡すると、その旧領北三郡に封ぜられて、今浜の地を「長浜」と改め、の城主となる。 秀吉は長浜の統治政策として年貢や諸役を免除したため、近在の百姓などが長浜に集まってきた。 そのことに不満を感じた秀吉は方針を引き締めようとしたが、正妻ねねの執り成しにより年貢や諸役免除の方針をそのままとした。 さらに近江より人材発掘に励み、旧浅井家臣団や、などを積極的に登用した。 天正2年()、筑前守に任官したと推測されている。 天正3年()、に従軍する。 天正4年()、と共にで暗殺されたの旧臣が篭るを攻撃して落城させた。 天正5年()、のと対峙している柴田勝家の救援を信長に命じられるが、秀吉は作戦をめぐって勝家と仲違いをし、無断で兵を撤収して帰還してしまった。 その後、勝家らは謙信に敗れている()。 信長は秀吉の行動に激怒して叱責し、秀吉は進退に窮したが、織田家当主・の指揮下で・明智光秀・丹羽長秀と共に討伐に従軍して、功績を挙げた()。 播磨・但馬の攻略 - 中国攻め 詳細は「」を参照 天正5年(1577年)10月23日、信長にの雄らの勢力下にある・である攻略を命ぜられ、秀吉はに出陣した。 播磨中の在地勢力から人質をとって、かつての播磨守護・配下の勢力であった・・らを従える。 11月中に播磨は平定できると報告して、信長より、その働きを賞賛される朱印状を送られた。 秀吉は更に播磨国からに攻め入った。 岩洲城を攻略し、の篭もるを降参させた。 以前から交流のあった小寺孝高()よりを譲り受けて、ここを播磨においての中国攻めの拠点とする。 播磨において一部の勢力は秀吉に従わなかったが(第一次)でこれを滅ぼした。 天正7年()には、上月城を巡る毛利氏との攻防の末、・の大名・を服属させ、毛利氏との争いを有利にすすめるものの、のが反旗を翻した()ことにより、秀吉の中国経略は一時中断を余儀なくされる。 この頃、信長の四男である於次丸()を養子に迎えることを許される。 天正8年()には織田家に反旗を翻した播磨主・別所長治を攻撃。 途上において竹中重治やといった有力家臣を失うものの、2年に渡る兵糧攻めの末、これを降した()。 同年、播磨から再び北上して但馬に侵攻し、かつての守護の勢力を従える。 最後まで抵抗していた山名祐豊(嫡男のは落城前に羽柴家に帰参)が篭もるを攻め落とし、但馬国を織田氏の勢力圏とした。 自らは播磨経営に専念するために弟であるを有子山城主として置き、但馬国の統治を任せた。 山名氏政を自らの勢力に取り込むことにより但馬の国人の反乱も起きず、羽柴秀長による但馬経営は円滑におこなわれた。 秀長は有子山城が、あまりに急峻なため、有子山山麓の館を充実させとした。 『高松城水攻築堤の図』。 月岡芳年による。 天正9年()には因幡山名家の家臣団が、(但馬守護・山名氏政の一門)を追放した上で毛利一族のを立ててにて反旗を翻したが、秀吉は鳥取周辺の兵糧を買い占めた上で兵糧攻めを行い、これを落城させた()。 その後も中国地方西半を支配する毛利輝元との戦いは続いた。 同年、を攻略してを支配下に置いた。 天正10年()にはに侵攻し、毛利方のが守るを水攻めに追い込んだ()。 このとき、毛利輝元・・らを大将とする毛利軍と対峙し、信長に援軍を要請している。 このように中国攻めでは、三木の干殺し、鳥取城の飢え殺し、そして高松城の水攻めといった、金と時間はかかっても敵を確実に下して味方の勢力を温存する秀吉得意のの戦術が遺憾無く発揮されている。 信長の死から清洲会議まで 詳細は「」および「」を参照 天正10年()6月2日、主君・織田信長が京都のにおいて、明智光秀の謀反により自害した()。 このとき、秀吉は事件を知ると、すぐさま清水宗治の切腹を条件にして毛利輝元と講和し、備中から京都に軍を返した()。 6月13日、秀吉は山崎において明智光秀と戦った。 この戦いでは、や丹羽長秀、さらに光秀の寄騎であったやまでもが秀吉を支持したため、兵力で劣る光秀方は敗北し、光秀はにより討たれた()。 秀吉はその後、光秀の残党も残らず征伐し、京都における支配権を掌握した。 6月27日、清洲城において信長の後継者と遺領の分割を決めるための会議が開かれた()。 織田家重臣の柴田勝家は信長の三男・織田信孝(神戸信孝)を推したが、明智光秀討伐による戦功があった秀吉は、信長の嫡男・織田信忠の長男・三法師(後の)を推した。 勝家はこれに反対したが 、池田恒興や丹羽長秀らが秀吉を支持し、さらに秀吉が幼少の三法師の後見人を信孝とするという妥協案を提示したため、勝家も秀吉の意見に従わざるを得なくなり、三法師が信長の後継者となった。 信長の遺領分割においては、が尾張国、織田信孝が美濃国、が北と、光秀の寄騎であったは、は、高山右近と中川清秀は本領安堵、丹羽長秀は近江国の・15万石の加増、池田恒興は摂津国と15万石の加増、は近江国佐和山を与えられた。 勝家も秀吉の領地であった長浜12万石が与えられた。 秀吉自身は、明智光秀の旧領であった(公式には秀吉の養子で信長の四男のに与えられた)や・を増領し、28万石の加増となった。 これにより、領地においても秀吉は勝家に勝るようになったのである。 詳細は「」を参照 秀吉は山崎にを築城し、山崎と丹波国で検地を実施し、さらに私的に織田家の諸大名と誼を結んでいったため、柴田勝家との対立が激しくなった。 天正10年(1582年)10月、勝家はや織田信孝と共に秀吉に対する弾劾状を諸大名にばらまいた。 10月15日、秀吉は養子の羽柴秀勝(信長の四男)を喪主として、信長の葬儀を行う。 同年10月20日付堀秀政宛の秀吉書状の宛名には、羽柴の名字が使用されており、すでに秀吉による織田家臣の掌握が始まっていることが分かる。 10月28日、秀吉と丹羽長秀、池田恒興は三法師を織田家当主として擁立した清洲会議の決定事項を反故にし、信雄を織田家当主として擁立し主従関係を結ぶ。 ただし、これは三法師が成人するまでの暫定的なものであった。 12月、越前国の勝家が雪で動けないのを好機と見た秀吉は、信孝が三法師を安土に戻さないことなどを大義名分とし、信孝打倒の兵を挙げる。 12月9日、秀吉は池田恒興ら諸大名に動員令を発動し、自ら5万の大軍の指揮を執り宝寺城から出陣し、12月11日に堀秀政のに入り、柴田勝家の養子・が守る長浜城を包囲した。 元々勝豊は勝家、そして同じく養子であったらと不仲であった上に病床に臥していたため、秀吉の調略に応じて降伏し、秀吉は長浜城を獲得した。 12月16日には美濃国に侵攻し、らの降伏や織田信雄軍の合流などもあってさらに兵力を増強した秀吉は、信孝の家老・が守る加治木城を攻撃して降伏せしめた。 こうして岐阜城に孤立してしまった信孝は、三法師を秀吉に引き渡し、生母の坂氏と娘を人質として差し出すことで和議を結んだ。 天正11年()1月、反秀吉派の一人であった滝川一益は、秀吉方の伊勢を守る、やを守るらを破った。 これに対して秀吉は2月10日に北伊勢に侵攻する。 2月12日には一益の居城・を攻撃したが、桑名城の堅固さと一益の抵抗にあって、三里も後退を余儀なくされた。 また、秀吉が編成した別働隊がやに向かったが、こちらも滝川勢の抵抗にあって敗退した。 しかし伊勢亀山城は、や・らの攻撃で遂に力尽き、3月3日に降伏した。 とはいえ、伊勢戦線では反秀吉方が寡兵であるにもかかわらず、優勢であった。 2月28日、勝家はを先手として出陣させ、3月9日には自らも3万の大軍の指揮を執り出陣した。 これに対して秀吉は北伊勢を蒲生氏郷に任せて近江国に戻り、3月11日には柴田勢と対峙した。 この対峙はしばらく続いたが、4月13日に秀吉に降伏していた柴田勝豊の家臣・が勝家方に寝返るという事件が起こった。 さらに織田信孝が岐阜で再び挙兵して稲葉一鉄を攻めると、信孝の人質を処刑した。 はじめは勝家方が優勢であった。 4月20日早朝、勝家の重臣・は、秀吉が織田信孝を討伐するために美濃国に赴いた隙を突いて、奇襲を実行した。 この奇襲は成功し、大岩山砦の中川清秀は敗死し、岩崎山砦の高山重友は敗走した。 しかしその後、盛政は勝家の命令に逆らってこの砦で対陣を続けたため、4月21日に中国大返しと同様に迅速に引き返してきた秀吉の反撃にあい、さらにらの裏切りもあって柴田軍は大敗を喫し、柴田勝家は越前に撤退した()。 4月24日、勝家は・と共に自害した。 秀吉はさらに、、も平定し、前田利家には元々の領地である能登国に加えて加賀国のうちの2郡を与え、には越中国の支配をこれまで通り安堵した。 5月2日(異説あり)には、織田信孝も自害に追い込み、やがて滝川一益も降伏した。 こうして織田家の実力者たちを葬ったことにより、秀吉は家臣第一の地位を確立。 表面上は三法師を奉りつつ、実質的に織田家中を差配することになった。 徳川家康との対立と朝廷への接近 豊臣期大阪図屏風に描かれた大阪城と大阪城下。 天正11年(1583年)、大坂本願寺()の跡地に黒田孝高を総奉行としてを築く。 大坂城を訪れたの大名・は、この城のあまりの豪華さに驚き、「三国無双の城である」と称えた。 6月には、北条氏と徳川氏との婚姻成立に危機感を抱いた関東の領主たちから書状が送られ、関東の無事を求められる。 10月末に、徳川家康に関東の無事が遅れていることについて書状で糺した。 天正12年()、織田信雄は、秀吉から年賀の礼に来るように命令されたことを契機に秀吉に反発し、対立するようになる。 そして3月6日、信雄は秀吉に内通したとして、秀吉との戦いを懸命に諫めていた重臣の・・らを謀殺し、秀吉に事実上のをした。 このとき、信長の盟友で、を経て東国における一大勢力となったが信雄に加担し、さらに家康に通じてやらも反秀吉として決起した。 これに対して秀吉は、調略をもって関盛信(万鉄)、、織田信包ら伊勢の諸将を味方につけた。 さらに去就を注目されていた美濃国の池田恒興(勝入斎)をも、尾張国とを恩賞にして味方につけた。 そして3月13日、恒興は尾張を守る信雄方の武将・を攻略した。 また、伊勢国においても峰城を蒲生氏郷・堀秀政らが落とすなど、緒戦は秀吉方が優勢であった。 しかし家康・信雄連合軍もすぐに反撃に出て、羽黒に布陣していたを破った()。 さらに小牧に堅陣を敷き、秀吉と対峙した。 秀吉は雑賀党に備えてはじめは大坂から動かなかったが、3月21日に大坂から出陣し、3月27日には犬山城に入った。 秀吉軍も堅固な陣地を構築し両軍は長期間対峙し合うこととなり戦線は膠着した()。 このとき、羽柴軍10万、織田・徳川連合軍は3万であったとされる。 そのような中、森長可や池田恒興らが、秀吉の甥である羽柴信吉()を総大将に擁して4月6日、三河奇襲作戦を開始した。 しかし作戦は失敗し、池田恒興・親子と森長可らは戦死した()。 こうして秀吉は兵力で圧倒的に優位であるにもかかわらず、相次ぐ戦況悪化で自ら攻略に乗り出すことを余儀なくされた。 秀吉はが守るなど、信雄の本領である美濃、北伊勢の諸城を次々と攻略してゆき、危機感を覚えた信雄は11月11日、秀吉と講和し、家康も次男を人質に提出して降伏した。 こうして秀吉は、軍事的にも身分的にも織田信雄を超えることで、織田政権の一角から、豊臣政権の長へと君臨することになった この戦いの最中の10月15日、秀吉は従五位下に叙位任官された。 秀吉が官位を得たのは就任(天正3年(1575年)7月3日)が最初とされているが、この左近衛権少将が初めての叙位任官とする説もある。 秀吉は官職でも、主家の織田家を順次凌駕することになり、信雄との和議後は自らは「羽柴」の苗字を使用しなくなった。 なお、その後も家臣となった有力大名に対する「羽柴」の苗字下賜は続いており、例えば前田利家は天正14年(1586年)3月20日に左近衛権少将に任じられた時に秀吉から「羽柴」の苗字と「筑前守」の受領名を与えられており、秀吉のかつての名乗りであった「羽柴筑前守」が利家によって名乗られることになる。 関白任官と紀伊・四国・越中攻略 天正12年(1584年)11月21日、従三位権大納言に叙任され 、これによりとなった。 この際、兼任を勧められたがこれを断る。 天正13年(1585年)3月10日、秀吉は正二位内大臣に叙任された。 そして3月21日には紀伊国に侵攻して雑賀党を各地で破っている()。 最終的にはに命じて雑賀党の首領・を謀殺させることで紀伊国を平定した()。 四国を統一した長宗我部元親に対しても、弟の羽柴秀長を総大将、黒田孝高を軍監として10万の大軍を四国に送り込んでその平定に臨んだ。 毛利輝元や小早川隆景ら有力大名も動員したこの大規模な討伐軍には元親の抵抗も歯が立たず、7月25日に降伏。 元親は一国のみを安堵されて許された(・)。 秀吉はこの四国討伐の最中、ととの間で朝廷を二分して紛糾していた職を巡る争い()に介入し、のとなり、7月11日には関白宣下を受けた。 関白辞令の宣旨 詔 (みことのり)して、庸 (ひととなり)を質 (もち)いて金鏡に当て、政績 (せいせき)通三 (つうさん)に妥 (やすん)ず、愚昧 (ぐまい)を以て瑤図 (ようず)を受け、徳耀 (とくよう)明一を増す、夢良弼 (りょうひつ)を見 (あらわ)れざれば、誰か能く諫言を納れむ、内大臣藤原朝臣、名は朝 (みかど)を翼翔 (よくしょう)し、威霆 (いてい)世に驚かす、禁闕の藩屛を固くし、忠信私無し、藤門の棟梁に居 (すわ)りて、奇才惟 (ただ)異にす、 夫(そ)れ万機巨細、百官を己 (みずから)惣 (す)べ、皆先んじて関 (あずか)り白 (もう)す、然る後、奏下すること一 (もっぱ)ら旧典の如く、庶 (もろもろ)五風十雨の旧日に帰す、専ら一天四海の艾寧 (がいねい)を 聴(はか)り、遐邇 (かじ)に布 (し)き告げて朕の意を知ら俾 (し)めよ、主者施行 (しゅしゃしぎょう)せよ、天正13年7月11日 8月から前年のを機に反旗を翻したの佐々成政に対しても討伐を開始したが()、ほとんど戦うことなくして成政は8月25日には剃髪して秀吉に降伏している。 織田信雄の仲介もあったため、秀吉は成政を許して越中のみを安堵した。 こうして紀伊・四国・越中は秀吉によって平定されたのである。 また年末、が中部を襲った。 閏8月末には、家康が真田領に侵攻したが、10月に秀吉が仲介に入り和睦した。 同年秋、秀吉はをの諸領主間の和睦と調査のために派遣した。 宗洗はその後、天正14年(1586年)末から15年春と天正15年(1587年)末から16年秋の3回にわたって奥羽入りし奥羽諸領主との折衝に当たった。 この年に家臣の宛の書状で、追放した者を匿うことのないよう警告として「追放した者を少々隠しても信長の時代のように許されると思い込んでいると厳しく処罰する」としている。 「」も参照 天正14年()9月9日、秀吉はから 豊臣の姓を賜り 、12月25日にはに就任し 、ここにを確立させた。 また、これより前に徳川家康に対しては融和策に転じており、同年5月に妹・を家康の正室として嫁がせ、さらに9月には母・大政所を人質として家康のもとに送り、配下としての上洛を家康に促した。 家康もこれに従い、上洛して秀吉への臣従を誓った。 だが、結果的には秀吉は家康を軍事的に服属させることには失敗して不完全な主従関係に止まり、家康と北条氏の婚姻同盟関係は継続した。 家康は北条氏と秀吉の間では依然として中立の立場を保持する一方、秀吉は徳川氏の軍事的協力と徳川領の軍勢通過の許可が無い限りは北条氏への軍事攻撃は不可能になった。 そのため、秀吉は東国に対しては家康を介した「惣無事」政策に依拠せざるを得ず、西国平定を優先する政策を採ることになった。 九州平定とバテレン追放令 詳細は「」を参照 その頃、では・を下したが勢力を伸ばしており、に圧迫された大友宗麟が大坂まで来て、秀吉に助けを求めた。 秀吉は、島津義久と大友宗麟に朝廷権威を以て停戦命令を発したが、九州制圧を目前にしていた島津氏はこれを無視したので、秀吉は島津を討伐することを決めた。 天正14年(1586年)12月、まずへの増援として、を軍監とした長宗我部元親・・らの四国勢が派遣され、豊後戸次川(現在の)においてと交戦したが、仙石秀久の失策により、長宗我部信親や十河存保が討ち取られるなどして敗戦を喫した()。 天正15年(1587年)、大友氏滅亡寸前のところでの軍勢が豊前小倉においた先着していた毛利輝元、、らの軍勢と合流し豊臣軍の総勢10万が九州に到着。 同年 4月17日に根城坂で行なわれた豊臣秀長軍と軍による合戦()においては、砦の守将 らを中心にした1万の軍勢が空堀や板塀などを用いて砦を守備。 九州平定後、住民の強制的なキリスト教への改宗や神社仏閣の破壊といった神道・仏教への迫害、さらにポルトガル人が日本人を奴隷として売買するなどといったことが九州において行われていたことが発覚し、秀吉は準管区長でもあったを呼び出し問い詰めた上で、博多においてを発布した。 しかし、この段階では事実上キリシタンは黙認されていた。 同年には京都にあるの境内と松原において・・らを茶頭として大規模な茶会を開催した()。 茶会は一般庶民にも参加を呼びかけた結果、当日は京都だけではなく各地からも大勢の人が参加し、会場では秀吉も参加してが行われた。 また、も披露されている。 12月、秀吉は、、など関東と奥羽の諸大名に惣無事令を発令した。 朝臣として聚楽第を構える 『後陽成天皇聚楽第行幸図』 天正15年(1587年)、平安京大内裏跡()に朝臣としての豊臣氏の本邸を構え「聚楽」と名付ける(フロイス『日本史』 、 『時慶記』 )。 この屋敷が「(じゅらくてい・じゅらくだい)」である。 天正16年()には聚楽第にを迎え華々しく饗応し、徳川家康や織田信雄ら有力大名に自身への忠誠を誓わせた。 また、同年7月には毛利輝元が上洛し、完全に臣従した。 さらに、やを発布、全国的に施行した。 イエズス会の宣教師たちは、この天正16年の段階で「この暴君はいとも強大化し、全日本の比類ない絶対君主となった。 」 「この五百年もの間に日本の天下をとった諸侯がさまざま出たが、誰一人この完璧な支配に至った者はいなかったし、この暴君がかち得たほどの権力を握った者もいなかった。 」 と『イエズス会日本報告集』に記しており、秀吉は天正16年段階ですでに日本国の完璧な支配を達成していたとする。 後代の歴史家も同様の認識を示しており、は前年に九州を平定し、後陽成天皇の聚楽第行幸を成功させた天正16年に秀吉は「事実上の国王」になったとしている。 また堀越祐一はそれまで秀吉直臣系や旧織田系の大名のみに与えられていた羽柴氏・豊臣姓の付与が天正16年頃から毛利氏、島津氏、大友氏、龍造寺氏ら秀吉に臣従した大名たちにも与えられるようになることを重要視し、この時期に豊臣政権は成立したとしている。 奥羽仕置後に伊達氏。 最上氏、宇都宮氏にも氏姓が与えられることになるが、これらはすでに確立していたシステムを東国に適用したに過ぎないとしている。 も同様に天下国家としての日本政治は小田原征伐以前に既に出来上がっており、小田原征伐はその既成のシステムの延長・拡大であるとしている。 小田原征伐から奥羽仕置 詳細は「」および「」を参照 天正17年()、側室のとの間にが産まれ、後継者に指名する。 同年、後北条氏の家臣・が家臣・が守るを奪取したことをきっかけとして、秀吉は天正18年()に20万の大軍でへ遠征、後北条氏の本拠を包囲した。 後北条氏の支城は豊臣軍に次々と攻略され、本城である小田原城も3か月の篭城戦の後に開城された。 秀吉は黒田孝高と織田信雄の家臣であるを使者として遣わし、・父子は降伏した。 北条氏政・は切腹し、氏直は紀伊のに追放となった。 秀吉が東国へ出陣すると、ら奥羽の大名も小田原に参陣し、奥羽両国の平定も大きく前進した。 小田原開城後の7月26日、秀吉はに入り、奥羽の領主に対する仕置を行った。 ・など小田原に参陣しなかった領主は改易とされ、総無事令を無視してなどを攻めた伊達政宗には減封の処分が下され、最上義光ら小田原に参陣した領主は所領を安堵された。 政宗から召し上げた所領の内、旧蘆名領は蒲生氏郷に(は佐竹氏与力とされた)、葛西・大崎領はに与えられた。 奥羽再仕置 天正18年(1590年)、陸奥の葛西・大崎、和賀・稗貫、出羽の仙北・由利・庄内の国衆たちは豊臣政権の仕置に反発して一揆を起こした。 このうち出羽の一揆は同年中に鎮圧され、津軽氏ら出羽の大小名らは上洛し、秀吉から領地安堵の下知を受けた。 しかし陸奥のは翌天正19年(1591年)になっても続き、更にとの関係が悪化したも武装蜂起し騒乱が収まることはなかった。 「」も参照 そのため豊臣秀吉は天正19年()6月、を総大将とする総勢6万の大軍を奥羽に派遣し鎮圧に当たらせた。 この再仕置軍は秀次を筆頭に、、、、、らを主力とし 、もから参陣した。 蠣崎氏と蒲生氏の軍勢のなかには毒矢を射る兵も含まれていた。 奥羽に到着した再仕置軍は9月1日九戸攻撃を開始し4日には平定を完了させた。 天下統一 全国を平定し天下を統一することで秀吉は戦国の世を終わらせた。 しかし秀吉は自ら「人を切ぬき申候事きらい申候」と語るように非殲滅主義を貫き、寛容とも言える態度で毛利氏・・島津氏といった多くの大名を助命し、これにより短期間で天下一統を成し遂げる事ができた。 しかし、これについては「当該期の武者であれば武をもって相手を倒す選択肢しかなく、結果的に豊臣政権のアキレス腱となった」と批判している。 は石高250万石を有し、秀吉自身の蔵入地222万石より多い石高を有するほどであった。 天正19年(1591年)、弟の、後継者に指名していた鶴松が、相次いで病死した。 そのため、甥・秀次を家督相続の養子として関白職を譲り、 (前関白の尊称)と呼ばれるようになる。 ただし、秀吉は全権を譲らず、実権を握り二元政を敷いた。 この年、重用してきた茶人・千利休に自害を命じている。 利休の弟子である、らの助命嘆願は受け入れられず、利休は切腹した。 その首はに晒された。 この事件の発端には諸説がある。 この年、京都の四周を取り囲むを構築した。 これは京都の防衛のためだったとも、或いは戦乱のために定かでなくなっていたとの境を明らかにするためだったともされる。 文禄の役 詳細は「」を参照 文禄2年(1593年)に側室の淀殿が秀頼(拾)を産んだ。 秀吉は新築されたばかりのに母子を伴って移り住んだ。 当初、秀吉は聚楽第に秀次を、大坂城に秀頼を置き、自分は伏見にあって仲を取り持つつもりであった。 の『』によると、、秀吉は日本を5つに分け、その内4つを秀次に、残り1つを秀頼に譲ると言ったそうである。 またの『駒井日記』()の記述によると、将来は前田利家夫妻を仲人として秀次の娘と秀頼を結婚させて舅婿の関係とすることで両人に天下を受け継がせるのが、秀吉の考えであるとが言ったという。 ところが、秀頼誕生に焦った秀次は「関白の座を逐われるのではないか」との不安感で耗弱し、次第に情緒不安定となった。 文禄4年(1595年)6月 、秀次に謀反の疑いが持ち上がった。 7月3日、聚楽第の秀次のもとへ石田三成・・・・の5人 が訪れ、謀反の疑いにより五箇条の詰問状を示して清洲城に蟄居することを促したが、秀次は出頭せず誓紙により逆心無きことを誓った。 8日、再び使者が訪れ伏見に出頭するよう促され、秀次は伏見城へ赴くが、引見は許されず木下吉隆邸に留め置かれ、その夜に上使により剃髪を命じられて、高野山に流罪・蟄居の身となった。 15日、秀次の許へ上使の・・が訪れ、の命令が下ったことを伝えた。 同日、秀次は切腹し、小姓や家臣らが殉死した。 、三条河原において秀次の首は晒され、秀次の首が据えられた塚の前で、秀次の遺児(4男1女)及び側室・侍女らおよそ29名が処刑された。 従来、これは秀頼の誕生により秀次を疎ましく思った秀吉が、秀次が関白職を明け渡すことに応じなかったため、これを除いたという説明がなされてきた。 しかし秀吉と秀次の確執については、が唱えた統治権の対立など様々な説があり、謀反の嫌疑が事実であったのかどうかも含めて切腹の真相を記した文書が存在しないために未だに定かではない部分がある。 史学者・渡辺世祐は謀反は秀次を陥れる口実であったとしている。 また、天皇の代わりに政治を行う関白の職にありながら、「殺生関白」 と呼ばれるなど、秀次の素行に問題があったとする説は当時から存在した。 の『』や『天正記』に見られる秀次の辻斬り乱行 、ジャン・クラッセ の『日本西教史』に見られる「自ら罪人の首を撥ね、これを娯楽にした」 や妊婦の腹を裂いて中の子を見て楽しんだ等の悪行 や同様の『モンタヌス日本誌』 といった複数の記述が残っている。 は、秀吉の愛情が秀頼に移った上に、秀次は暴戻(ぼうれい)にして関白としてあるまじき行動が多かったがゆえに身を滅ぼしたとしている。 は、秀次の暴虐を強調することは秀吉の一族誅殺を正当化するという側面もあり 、多くの逸話は創作か誇張であるとして殺生関白の史実性を否定し 、も疑問視したうえで、宮本は秀次失脚の原因として、後陽成天皇の病の際に、その主治医をしていたを自宅によびよせた一件が、関白の地位の乱用を問われる越権行為と判断され失脚、切腹につながったのではないかと指摘している。 は秀次の非行そのものは否定しないながらも、天道思想による因果応報の考えによってそれが針小棒大に語られている可能性を指摘し、『太閤記』で罪状のように扱われていることには懐疑的である。 サン=フェリペ号事件と二十六聖人処刑 詳細は「」および「」を参照 文禄5年()10月に土佐国に船が漂着し、が起きる。 奉行・増田長盛らは船員たちに「たちはであり、、(ノビスパニア)、を武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。 このことは都にいる三名のほか数名に聞いた」という秀吉の書状を告げた。 同年12月8日に秀吉は再び禁教令を公布した。 翌2年()、秀吉は朝鮮半島への再出兵と同時期に、イエズス会の後に来日した(アルカンタラ派)の活発な宣教活動がに対して挑発的であると考え、京都奉行の石田三成に命じて、京都とに住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛し処刑を命じた。 三成はを含むイエズス会関係者を除外しようとしたが、果たせなかった。 2月5日、日本人20名、スペイン人4名、メキシコ人、ポルトガル人各1名の26人が処刑された。 慶長の役 詳細は「」を参照 文禄5年(1596年)、明との間の講和交渉が決裂し、秀吉は作戦目標を「を悉く成敗し、・にもなるべく侵攻すること、その達成後は拠点となる城郭を建設し在番の城主を定め、その他の諸将は帰国させる」として再出兵の号令を発した。 慶長2年(1597年)、を元帥として14万人の軍を朝鮮へ再度出兵する。 で朝鮮水軍を壊滅させると進撃を開始し、2か月で・全羅道・忠清道を制圧。 京畿道に進出後、日本軍は作戦目標通り南岸に撤収し文禄の役の際に築かれた既存の城郭の外縁部に新たに城塞()を築いて城郭群を補強した。 このうちは完成前に明・朝鮮軍の攻撃を受けたが、日本軍が明・朝鮮軍を大破する()。 城郭群が完成し防衛体制を整えると、6万4千余の将兵を在番として拠点となる城郭群に残し防備を固めさせる一方、7万余の将兵を本土に帰還させ慶長の役の作戦目標は完了した。 その後、、、においても日本軍が防衛に成功した。 秀吉は慶長4年(1599年)にも再出兵による大規模な攻勢を計画しており、それに向けて倭城に兵糧や玉薬などを諸将に備蓄するように命じていたが 、計画実施前に秀吉が死去したため実施されることはなかった。 秀吉の死後、により、朝鮮半島在番の日本軍に帰国命令が発令された。 最期 慶長3年()3月15日、諸堂の再建を命じ、庭園を造営。 各地から700本の桜を集めて境内に植えさせて秀頼や奥方たちと一日だけの花見を楽しんだ()。 この頃、洛中の屋敷として御所近くにを構えたが、参内の宿所として使用したのみでついに移居することはなかった。 5月から秀吉は病に伏せるようになり日を追う毎にその病状は悪化していった。 5月15日には『太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚』という名で、徳川家康・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・・毛利輝元ら及びその嫡男らとのうちの前田玄以・に宛てた十一箇条からなる遺言書を出し、これを受けた彼らは起請文を書きそれに血判を付けて返答した。 秀吉は他に、自身をとして神格化することや、遺体を焼かずに埋葬することなどを遺言した。 自分の死が近いことを悟った秀吉は7月4日に居城である伏見城に徳川家康ら諸大名を呼び寄せて、家康に対して秀頼の後見人になるようにと依頼した。 8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を記す。 秀吉の病は、前年に秀吉の命令でから京都へ移されていたの本尊であるの祟りであるという噂から、三尊像は8月17日に信濃へ向けて京都を出発したが、8月18日、秀吉はその生涯を終えた。 死因については諸説あり定かではない(後述も参照)。 秀吉の死はしばらくの間は秘密とされることとなったが、情報は早くから民衆の間に広まっていたと推察され、後に豊国社の社僧となるは『梵舜日記』8月18日条で秀吉の死を記している。 秀吉の遺骸はしばらく伏見城中に置かれることになった。 9月7日には高野山のによって方広寺東方の阿弥陀ヶ峰麓に寺の鎮守と称して、八幡大菩薩堂と呼ばれる社が建築され始めた(『義演准后日記』慶長3年9月7日条)。 慶長4年()4月13日には伏見城から遺骸が運ばれ阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬された(『義演准后日記』『戸田左門覚書』)。 4月18日に遷宮の儀が行われ、その際に「」と改称された。 これに先立つ4月16日、朝廷から「豊国大明神(とよくにだいみょうじん)」の神号が与えられた(『准后日記』)。 これは日本の古名である「」を由来とするが、豊臣の姓をも意識した ものとの見方がある。 4月19日には正一位のが与えられた。 神として祀られたために葬儀は行われなかった。 豊臣家の家督は秀頼が継ぎ、五大老や五奉行がこれを補佐する体制が合意されている。 また、五大老や五奉行によって朝鮮からの撤兵が決定された。 当時、日本軍は、攻撃してきた明・朝鮮軍に第二次蔚山城の戦い、泗川の戦い、順天城の戦いなどで勝利していたが、撤退命令が伝えられると明軍と和議を結び、全軍朝鮮から撤退した。 秀吉の死は秘密にされたままであったが、その死は徐々に世間の知るところとなった。 朝鮮半島での戦闘は、朝鮮の国土と軍民に大きな被害をもたらした。 日本でも、征服軍の中心であった西国大名達が消耗し、秀吉没後の豊臣政権内部の対立の激化を招くことになる。 辞世の句は、「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことも 夢のまた夢」。 年表 月日 数え年 内容 天文6年 1537年 天文2月6日(1月1日説もあり)、西暦3月17日 1歳 誕生(天文5年説もあり) 天文23年ごろ 1554年-1555年ごろ 18歳 織田信長に仕官 永禄4年 1561年 8月 25歳 浅野長勝の養女(高台院、ねね)と結婚。 永禄11年 1568年 9月12日 32歳 観音寺城の戦い 元亀元年 1570年 4月 34歳 金ヶ崎の戦い 元亀3年 1572年 8月ごろ 36歳 羽柴改姓 天正元年 1573年 8月8日-9月1日 37歳 小谷城の戦い 天正3年 1575年 7月3日 39歳 筑前守 天正5年 1577年 9月23日 41歳 手取川の戦い 10月5日-10日 信貴山城の戦い 天正6年 1578年 3月29日 42歳 三木合戦開始(~天正8年1月17日) 4月18日-7月3日 上月城の戦い 天正10年 1582年 4月-6月4日 46歳 備中高松城の戦い 6月2日 本能寺の変が起こる 6月13日 山崎の戦い 6月27日 清洲会議 天正11年 1583年 4月 47歳 賤ヶ岳の戦い 11月 本拠を大坂城に移転。 天正12年 1584年 3月-11月 48歳 小牧・長久手の戦い 10月3日 従五位下・左近衛権少将 11月21日 従三位・権大納言 天正13年 1585年 3月-4月 49歳 紀州征伐 3月10日 正二位、内大臣宣下 6月-8月 四国攻め 7月 近衛前久の猶子となる、藤原改姓 7月11日 従一位・関白宣下、内大臣如元 8月 富山の役 10月 惣無事令実施(九州地方) 天正14年 1586年 7月 50歳 九州征伐開始(~天正15年4月) 9月9日 賜豊臣氏 1587年 12月19日 内大臣辞職 12月25日 太政大臣兼帯 天正15年 1587年 5月9日 51歳 書状「かうらい国へ御人」 6月1日 書状「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」 6月19日 バテレン追放令発布 9月 へ転居 10月 1587年または1588年 12月 惣無事令実施(関東・奥羽地方) 天正16年 1588年 7月8日 52歳 刀狩令発布。 ほぼ同時に海賊停止令も発布。 8月12日 島津氏を介し琉球へ服属入貢要求 天正17年 1589年 5月27日 53歳 鶴松が誕生。 鶴松を後継者に指名。 天正18年 1590年 2月-7月 54歳 小田原征伐 2月28日 琉球へ唐・南蛮も服属予定として入朝要求 7月 奥州仕置 11月 朝鮮へ征明を告げ入朝要求 天正19年 1591年 55歳 身分統制令制定。 構築と京の街区の再編成着手 2月28日 に自刃を命ず 3月3日 天正遣欧少年使節が聚楽第において秀吉に西洋音楽(ジョスカン・デ・プレの曲)を演奏 7月25日 ポルトガル領インド副王に宛ててイスパニア王の来日を要求 9月15日 スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に服属要求 10月14日 島津氏を介し琉球へ唐入への軍役要求 1592年 12月 関白辞職し、秀次に譲る。 太政大臣如元 文禄元年 1592年 4月12日 56歳 朝鮮出兵開始(文禄の役) 7月21日 スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に約を違えた朝鮮を伐ったことを告げ服属要求 人掃令制定。 聚楽第行幸 文禄2年 1593年 8月 57歳 本拠を伏見城に移す。 秀頼が誕生。 11月5日 高山国へ約を違えた朝鮮を伐ち明も和を求めているとして服属入貢を要求 文禄4年 1595年 7月 59歳 秀次の関白並びに左大臣職を剥奪、高野山に追放し、自刃を命ず。 聚楽第取り壊し 慶長元年 1596年 60歳 サン=フェリペ号事件 慶長2年 1597年 2月 61歳 再度の朝鮮出兵開始(慶長の役) 7月27日 スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に日本は神国でキリスト教を禁止したことを告ぐ 慶長3年 1598年 62歳 太政大臣辞職 8月18日 伏見城で薨去。 やの軍制に重用された足軽は急速に全国へ広まっていた。 ただし、秀吉が初めて苗字を名乗るのは木下家出身のとの婚姻を契機とすることを指摘した研究もある。 つまりそれ以前は苗字を名乗る地盤すら持たない階層だった可能性も指摘されている。 『』では「若い頃は山で薪を刈り、それを売って生計を立てていた」、『』には、秀吉は「木こり」出身と書かれている。 小説家のは「当時の西洋人からは端柴売りが木こりに見えたのだろう」と両者を整合する説をとっている。 秀吉は他の大名と同様に側室を置いていたが 、正室であるねねとの間にも、側室との間にも子供が生まれず、実子の数は生涯を通じても非常に少なかった。 秀吉との間に子供が出来なかった側室達には、前夫との間に既に子供がいた者、秀吉と離縁あるいは死別し再婚してから子供が出来た者が幾人かいる。 そのため秀頼は秀吉の子ではなく、淀殿がなど他の者と通じて成した子だとする説もある。 これについては、秀頼だけでなく鶴松の時点でそうした噂があった。 秀吉は子宝に恵まれなかったが、実は長浜城主時代に1男1女を授かっていたという説がある。 男子は南殿と呼ばれた女性の間に生まれた子で、と言ったらしい。 で毎年4月(昔は10月)に行われる曳山祭は、男子が生まれたことに喜んだ秀吉から祝いの砂金を贈られた町民が、山車を作り長浜八幡宮の祭礼に曳き回したことが始まりと伝えられている。 石松丸秀勝は夭折したが、その後秀吉は次々と二人の養子に秀勝の名を与えている(・)。 長浜にある妙法寺には、伝羽柴秀勝像という子の肖像画や秀勝の墓といわれる石碑、位牌が残っている。 女子の方は名前その他の詳細は一切不明だが、長浜市内にある舎那院所蔵の弥陀三尊の懸仏の裏に「江州北郡 羽柴筑前守殿 天正九年 御れう人 甲戌歳 奉寄進御宝前 息災延命 八月五日 如意御満足虚 八幡宮」という銘記があり、これは秀吉が天正2年(1574年)に生まれた実娘のために寄進したものだと伝わっている。 ただし今日舎那院では、これが秀吉の母・のために寄進されたものであると説明している。 しかし『』によれば、大政所は元年(1592年)に76歳で死去しているので年代に齟齬が生じる(「御れう人」とは麗人のことであり、76歳の老人にまで解釈が及ぶものかどうか疑問であり、秀吉に女児が生まれたと考える方が自然と思われる)。 容姿 猿面 「猿面冠者」という言葉が残るように、秀吉が容姿からと呼ばれたことは有名である。 『太閤素生記』では秀吉の幼名を「猿」とし、また秀吉の父が亡くなったとき、秀吉に金を遺した一節に「父死去ノ節猿ニ永楽一貫遺物トシテ置ク」とある。 または「猿ヲ見付、異形成ル者也、猿カト思ヘバ人、人カト思ヘバ猿ナリ」と語っている。 毛利家家臣のは「秀吉は赤ひげで猿まなこで、空うそ吹く顔をしている」と記している。 秀吉に謁見した朝鮮使節は「秀吉が顔が小さく色黒で猿に似ている」としている(『』)。 は「身長が低く、また醜悪な容貌の持ち主で、片手には6本の指があった。 目が飛び出ており、シナ人のようにヒゲが少なかった」と書いている。 また、秀吉本人も「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と語ったという。 秀吉が猿と呼ばれたのは、関白就任後の「まつせ(末世)とは別にはあらじ木の下のさる関白」 に由来するという説もある。 また(猿はの使い)を利用するため「猿」という呼び名を捏造したとの説もある。 禿げ鼠 「禿げ鼠」の呼び名は、信長がへ宛てた書状の中で秀吉を叱責する際に「あの禿げ鼠」と書かれているものが現存している(現在は個人蔵)。 ただ、普段でもそう呼ばれていたかどうかは不明。 六本指 秀吉は指が1本多いだったという記録がある(『フロイス日本史』)。 右手の親指が1本多く、信長からは「六ツめ」とも呼ばれていた(『国祖遺言』 )。 多くの場合、幼児期までに切除して五指とするが、秀吉は周囲から奇異な目で見られても生涯六指のままで、天下人になるまではその事実を隠すこともなかったという。 しかし天下人となった後は、記録からこの事実を抹消し、肖像画も右手の親指を隠す姿で描かせたりした。 そのため、「秀吉六指説」は長く邪説扱いされていた。 現在では六指説を真説とする考えが有力であるが、このことに触れない秀吉の伝記は多い。 なお『国祖遺言』のこのくだりを紹介したは、「又『國祖(前田利家)遺言』といふ書には、太閤には右の手の指が六本あったといふ説が載って居りますが、如何ですか、他に正確なる書にはまだ見當りませぬ。 」 と記載している。 は自著 の中で、『国祖遺言』の存在を初めて指摘したのは であると記載しているが、松田が指摘するよりも前に三上が指摘をしている。 さらに三上が指摘をした翌年にはも秀吉の多指症について言及している。 の『看羊録』にも秀吉の右手が六本指であったと記録されているが、この記録には秀吉が成長した時に自ら刀で指を切り落としたと記載されている。 は『国祖遺言』を活字化しており、以下の通りである。 豊臣秀吉の 人の心を掴む天才とされており、「人たらし」と称せられる。 度量の大きさでも知られ、九州の役において降伏したに対し、丸腰の義久に自らの佩刀を与え、また小田原征伐で遅参したに佩刀を預け石垣山の崖上で二人きりになった。 両名とも隙だらけでありながら秀吉の度量に気を呑まれ斬りつけることは出来なかったという。 他にも小牧・長久手の戦いの後に上洛した徳川家康の下を近習一人をつれて密かに訪れ、数万の徳川兵の中で酒を交わしながら翌日の拝謁の打ち合わせをした。 また家康の片腕であり秀吉との折衝役であったが出奔した際、自らの配下とした。 の最中、熱暑に苦しむ負傷兵に秀吉は農家から大量のを買い敵味方の区別なく被せて回り、「誠に天下を治め給うほどの大将はかく御心の付き給うものかな」とも評価される(『』)。 また賤ヶ岳の戦い後、に書状で「無精者は成敗すべきであるが、人を斬るのは嫌いだから命を助け領地も与える」と報じている。 ほかにも関白就任後、秀吉が可愛がっていた鶴が飼育係の不注意から飛んで逃げた。 飼育係は、打ち首覚悟で秀吉に隠さずに報告したが、「日本国中がわしの庭じゃ。 なにも籠の中におらずとも、日本の庭におればよい」と笑って許したという [ ]。 小田原征伐の際、のの白旗の宮を訪ね、の木像 に向かい「小身から四海を平定し天下を手中にしたのは貴方とこのわしだけであり、我らは天下友達である。 しかし貴方は御門(みかど)の御後胤で、父祖は東国の守護であり、故に流人の身から挙兵しても多くの者が従った。 わしは、元々は卑賤の出で、氏も系図もない男だ。 だからこのように天下を平定したことは、貴方よりわしの功が優れている」と木像の肩を叩きながら言ったという [ ]。 秀吉は「大気者」だったともいわれているが、狭量な面もあり、世評を気にした。 や華美な軍装などの人々の評判が上がる行為を頻繁に行った。 一方、聚楽第に自身を非難するが書かれた際は、犯人を探索し7人を鼻削ぎ耳切りにした上で倒磔に処したのち、老若男女63人を磔、最終的には130人に刑罰を下している 『』 )。 人を殺すことを嫌う人物とされる秀吉であるが、実際には元亀2年(1571年)にを殲滅したり(『松下文書』『信長公記』)、天正5年(1577年)に備前・美作・播磨の国境付近で毛利氏への見せしめのために、子供は串刺しに、女は磔にして200人以上処刑している(同年12月5日の羽柴秀吉書状)。 母・大政所への孝養で知られる。 小牧・長久手の戦いの後、家康を上洛させるため母と妹を人質として家康に差し出したが、そこで母を粗略に扱ったを後に家康に命じて蟄居させている。 天下人としての多忙な日々の中でも、正室・北政所や大政所本人に母親の健康を案じる手紙をたびたび出している。 朝鮮出兵のために肥前名護屋に滞在中、母の危篤を聞いた秀吉は急いで帰京したが、臨終には間に合わず、ショックのあまり卒倒し、しばらくはまともに喋ることもできなかった。 大政所の三回忌では「なき人の形見の髪を手に触れ包むに余る涙悲しも」という句を詠んでいる。 戦国大名は主君と臣下の()を武士の嗜みとしていたが 、武士出身ではない秀吉は衆道への関心がなかった。 男色傾向のなさを訝しんだ家臣が家中で一番との評判の美少年を呼び出し、秀吉に会わせ二人きりにさせたときも秀吉はその少年に「お前に姉か妹はいるか?」と聞いただけだったと言われる。 ルイス・フロイスは、秀吉の外見以外については、• 優秀な武将で戦闘に熟練していたが、気品に欠けていた。 極度に淫蕩で、悪徳に汚れ、獣欲に耽溺していた。 抜け目なき策略家であった。 彼は本心を明かさず、偽ることが巧みで、悪知恵に長け、人を欺くことに長じているのを自慢としていた。 ほとんど全ての者を、彼奴(きゃつ)呼ばわりした。 などと記している。 上杉謙信と対決するために北陸へ出兵した際、軍議で大将の柴田勝家に反発し、勝手に領地へ引き上げ、この無断撤退は信長の怒りを買った。 また中国攻めでも、宇喜多直家の寝返り・所領安堵を勝手に許可してしまい、再び信長に怒られている。 文化・芸事 人と同じに振る舞うことを嫌う、だった。 何回か開いた仮装茶会(名護屋城の仮装茶会が有名)では、参加する武将達にわざと身分の低い者の格好をしてくるように通達し、自身も瓜売りの姿で参加した。 武将たちも通達に応じ、徳川家康は同じく瓜売り、伊達政宗はに扮した。 文化的修養を積むことに努力し、古典文学を、を、を、有識故実を、を、を大村由己、を金春太夫安照に学んだ。 能楽に熱中し、前田利家と徳川家康と共に天皇の御前で演じたり、『明智討』『柴田』など自分の活躍を演目にして自ら演じた。 和歌もよく詠んだ。 茶人としても独自の境地を切り開き、武家茶の湯の大成者は千利休でも古田重然でもなく、秀吉であるとする評価もある。 一方で、著名な茶人の目利きによって、単なる雑器に過ぎないものが、価値ある茶器とされて高額で売買されていたのを快く思っていなかったとされ、千利休に切腹を命じた理由のひとつと推測されている。 が献上し、高額な茶器(茶入れ)として珍重されたルソン壷が、現地では便器として使われていると知り激怒したという逸話もある。 能筆家であった。 は秀吉のに対して、新たにを選べば、秀吉も加えられると高く評価した。 また、「醍醐」の「醍」を祐筆が失念した際、「大」と書くよう指示したという逸話がある(『老人雑話』『武野燭談』『太閤夜話』)。 は、からという称号を許された日海(後の)に指導を受けており 、の家臣・とのや、をとても巧妙に負かしたので政家は敗因を考え込んでしまい帰る秀吉の見送りをし忘れたなど、真偽はとにかくエピソードがいくつか残っているほど、かなり強かったらしい [ ]。 本能寺の変の黒幕説 詳細は「」を参照 で最終的に最も得をした秀吉が事件の黒幕とする説もある。 その根拠は、秀吉の信長に対する不要な援軍要請である。 秀吉は備中高松城攻めのとき、毛利輝元・・らが高松城の救援に出てきたため、信長に苦境を訴え援軍を要請。 ところが当時の毛利氏が高松城救援に用意できた兵力は羽柴軍の半分の15,000ほどでしかなく 、救援は不要であった。 信長はや皇位継承問題などで朝廷と頻繁に交渉していたため上洛していた。 明智光秀はそこを狙って本能寺の変を起こしたが、軍勢を集める理由が問題であった。 ところが秀吉の救援要請で援軍に赴くように命じられたため、信長に疑われることなく軍勢を集め、その軍勢で光秀は京都の信長を討ち果たす。 光秀がと内通していた説があるように、秀吉も大納言のらと内通しており、その筋から光秀の謀反計画を知り、要請を行ったとされる。 また、秀吉の中国大返しに関しても、から姫路城まで70キロの距離をわずか1日で撤収しており、秀吉が優秀だったとはいえ、事前に用意をしていなければ不可能なこと、中国大返し後の織田方有力武将への切崩しの異常な速さ、変を知らせる使者は本当に毛利方と間違えて秀吉の陣に入ってきたのか、変後の毛利方との迅速な講和は事前に信長が討たれることを見越して秀吉が小早川隆景・などへ根回しを行っていた結果なのか、など疑惑が持たれている。 上記の説についての反論には以下のものがある。 『』によれば、高松城への援軍、西国への出陣を立案したのは信長自身であり、秀吉は毛利家主力の出陣を報告したのみで、秀吉側から援軍の要請があったという記述はない。 『浅野家文書』には毛利軍5万人と記されており、秀吉は初期情報のこの数字を元に信長の援軍を請求した。 秀吉の援軍要請は、手柄を独占することによって信長に疑念を持たれるのを避ける(信長自身を招いて信長に手柄を譲る)ための保身であり、有利な状況でありながら援軍を求める必然性は存在する(『常山記談』)。 本能寺の変直後の6月3日には、江北周辺の、らの武将は光秀に呼応し秀吉の居城である長浜城を接収し、同城には光秀の重臣であるが入城している。 また、長浜にいた秀吉の家族らは本能寺の急報を聞き、美濃へ避難している(『』『豊鑑』)。 このことから、光秀と秀吉に先立っての接触があったとは考えづらい。 もし秀吉が光秀と共謀していたなら、山崎の合戦で光秀はそのことを黙って討たれたことになる。 共謀が事実ならばそれを公表することで秀吉は謀反の一味となり、他の織田旧臣や信孝ら織田一族との連合は不可能となり、光秀方に有利な情勢を作り出せた。 当時の武士から見ても不自然な状況であったり、連携を疑わせる情報が流れていれば、後に秀吉と敵対した織田信雄・信孝・柴田勝家・徳川家康などがそれを主張しないのは不自然である。 明智光秀の援軍は、対毛利戦線の山陰道方面に対してのものであり、秀吉が現在戦っている山陽道方面ではない。 事前の用意については、は信長自身による援軍を迎えるための準備が、功を奏したもので、当時、中国大返しを疑問視した発言や記録はない。 そもそも沼城から姫路城まで、わずか1日で70キロ走破とは、事前の準備があってもあり得ない。 実際には1日で撤収したのは最初に姫路城に到着した騎馬武者であり、徒歩の兵士を含めての全てが姫路城まで到着するには、もっと時間がかかっている(『天正記』「惟任謀叛記」)。 本能寺の変を知った吉川元春は和睦を反古にして秀吉軍を攻撃することを主張したが、小早川隆景らの反対 によって取り止めになっている。 一歩間違えば秀吉は毛利勢と明智勢の挟み撃ちにあった恐れが大であり、現にのように本能寺の変が敵方に知られたことにより大敗し領土を失った信長配下の武将も存在し、秀吉がこのような危険を謀略としてあえて意図したとは考えにくい。 また迅速な撤収も、沼城から姫路城までに限られており、それ以降の光秀との決戦までの行軍は常識的な速度である。 姫路城までの迅速な撤収は毛利の追撃を恐れての行動であり、姫路城からは上方の情報収集や加勢を募っての行軍であった。 これは、事前に用意した上での行動というよりは、予期せぬ事態への対処とみるのが妥当である。 更に秀吉の撤退、毛利の追撃、いずれにしても、両勢力の境目にあり、備前・美作を支配する宇喜多氏の動向が不透明であったことも考慮する必要がある。 なお、「豊臣秀吉黒幕説」は、数多い「本能寺の変黒幕説」のひとつに過ぎない(黒幕候補は他にも存在する)し、また「本能寺の変黒幕説」そのものが、明智光秀の謀反の理由として推測されるひとつに過ぎないことは留意する必要がある。 明智光秀の謀反の動機が不明で、現在に至るまで定説が確立していないことが、光秀自身以外に動機を求める「豊臣秀吉黒幕説」を含めた黒幕説を生み出す要因となっている。 政策 詳細は「」を参照 朝臣体制 秀吉は天皇・朝廷の権威を自身の支配のために利用した、というのが定説である。 秀吉は関白の地位を得ると、諸大名に天皇への臣従を誓わせることによって、彼らを実質的に自分の家臣とした。 織田家との主従関係はこれによって逆転している。 また、天皇の名を使って惣無事令などの政策を実行し、これに従っていないということを理由として九州や関東以北を征服するなど、戦いの大義名分作りにも利用している。 これらの手法は、かつて織田信長が足利義昭の将軍としての権威を様々に利用したことや、義昭と対立した際に朝廷と接近したことと共通するものである。 さらに秀吉は、関白としての支配を強固にするため、本来は公家のものであった朝廷の官位を自身の配下たちに次々と与え、天皇を頂点とした体制に組み入れた。 この方策・体制は「武家関白制」などと呼ばれる。 このように秀吉の地位は天皇の家臣であったが、実質的な日本の支配者は秀吉であったことが様々な史料から読み取れる。 秀吉が事実上の権力者として政治を行っていることから、の一種とも解釈されることがある。 天下統一をなしとげた上、天皇・朝廷の権威まで加わったので、秀吉の権力は絶大だったが、一方では天皇の権威を借りているために、政権に不安要素も抱えることになってしまった。 後に豊臣秀頼が関白になれなかったことは、徳川家による政権奪取や豊臣家滅亡の一因となった。 また秀吉は、の第六王子・をとし、を受けさせていた。 智仁親王が天皇に即位すれば、秀吉は天皇家のとして権力を振るうことも可能なはずであった。 しかし智仁親王の即位前に秀吉は没してしまい、その後、智仁親王の即位は徳川家康によって阻止された。 国内統治システム 豊臣秀吉が鋳造させた 秀吉はを出して大名間における私闘を禁じた。 また、武士以外の僧侶や農民などから武器の所有を放棄させることを全国単位で行う、私的な武力行使を制御することを目的とした、海賊行為に対してもを発布し、国内における私的な武力抗争を抑制した。 これらをまとめて豊臣平和令と呼ぶ場合がある。 また、これらの私的な武力抗争の抑止は、あくまで関白として天皇の命令(勅定)によって私闘禁止(天下静謐)を指令するという立場を掲げて行われた。 各地方に対しては天下人としての統一を行った上で全国で検地が行われた。 これはと呼ばれている。 同時に日本全国の税制をに統一し、国家予算の算定と税制が定められた。 また、楽市楽座等 、関所の廃止 等も継続して行い、調整を加えつつ全国的に広げていった。 職業軍人と農民を分ける兵農分離、百姓の逃散禁止、朱印船貿易、貨幣鋳造なども進めた。 豊臣政権下では一般に、年貢は農民にとって過酷な二公一民(収穫の3分の2が年貢)とされていたといわれる。 これは善政で知られたの四公六民(収穫の5分の2が年貢) と比べて重いように思われるが、二公一民というのはあくまでも年貢納入をめぐる紛争の解決の際の損免規定の設定であり、年貢免率決定権は個々の領主が握って自主的に決めており、一律に定められていたわけではない。 秀吉の政策は江戸幕府に継承されていったため、の基礎を築いたとも言われるが、「信長までは中世であり、秀吉から近世が始まる」と言う研究者もいれば(・)、これに否定的な研究者もいる。 は織田政権と豊臣政権の間、あるいは豊臣政権と徳川政権の間に中世と近世の境があるのではなく、豊臣政権の途中で中世から近世に移行したとしている。 ちなみにでは、慶長8年(1603年)の江戸幕府の成立から明治4年(1871年)のまでを近世に分類している。 宗教政策 仏教勢力に対しては、を仲介役としてを降伏させたり、をにしたり、を焼き討ちするなど、信長時代に引き続き武力によって統制した。 一方で寺社造営を得意とする木食応其に命じて、を建立したり本願寺を再建したりもしている。 ルイス・フロイスは伴天連追放令後の状況にあって「(秀吉は)偶像を以前にも増して悪しざまに扱い、仏僧たちを我ら以上に虐待している」と書いている。 キリシタンに対しては、当初は好意的であった。 しかし宣教師による信仰の強制、キリシタンによる寺社の破壊、宣教師たちの牛馬の肉食、日本人を奴隷商品として国外へ売却していたことなどを理由に、天正15年(1587年)に伴天連追放令()を出した。 ただしこの時の布告は強制的な禁教を伴うものではなく、宣教師たちも依然として日本国内で布教活動を継続することが可能であった。 秀吉が決定的に態度を硬化させるのは、慶長元年(1596年)に起きたからのことである。 幕末以降の歴史書・研究史においては、秀吉は宣教師の行いを通じてスペインやポルトガルの日本征服の意図を察知していたということが強調されている。 宣教師による日本征服計画があったのは確実であるが 、スペインやポルトガル本国が宣教師たちの提案に賛同したかどうかは不明である。 帰来の日本文化である能楽に関しては否定した。 自身の神格化 織田信長は自らを神として信仰させようとしたが(異説あり)、秀吉もまた自らを神として祀らせようとした。 信長は記録上それを行ったとされる時期のすぐ後に死亡してしまったため、詳しいことはあまり分かっていないが、秀吉は信長よりも具体的な記録が残っている。 秀吉は死に際して、方広寺の大仏の鎮守として新たなとして自らを祀るよう遺言した。 これ以前に秀吉は、のに倣い、尾張で壮大な巻狩りを行っており 、はこの巻狩りの目的の1つは「頼朝の巻狩りへの人々の回想を弱めしめることであった」と推測している。 しかし秀吉の死後、八幡として祀られるという希望はかなえられず、「豊国大明神」という神号で祀られ、豊国社も別に神宮寺を置くこととなった。 元年()にが滅亡すると、徳川家康の意向によりのを得て豊国大明神の神号は剥奪され、秀吉の霊は「国泰院俊山雲龍大居士」と仏式の戒名を与えられた。 神社もにより廃絶され、秀吉の霊は方広寺大仏殿裏手南東に建てられた五輪石塔(現:馬塚、当時の史料では「墳墓」とされる。 )に遷された。 慶応4年(1868年)閏4月、の御沙汰書により、秀吉の社壇を再興することが命じられた。 明治8年(1875年)、大明神号は復されて、方広寺大仏殿跡に豊国神社が再建された。 外交政策 『釜山鎮殉節図』 文禄の役での釜山城攻略を描いたもの。 秀吉は大陸侵攻(唐入り)の準備をしつつ、周辺諸国やスペイン・ポルトガルの植民地に対し服属入貢を要求した。 秀吉における海外進出の構想は天正15年(1587年)の九州遠征の時期に行われたとみられ、5月9日に秀吉夫妻に仕える「こほ」という女性への書状において「かうらい国へ御人しゆつか(はし)かのくにもせひはい申つけ候まま」と記し、九州平定の延長として高麗(朝鮮)平定の意向もあることを示している。 同年6月1日付でに宛てたのなかで「我朝之覚候間高麗国王可参内候旨被仰遣候」と記している(本願寺文書)。 「我朝之覚」とは先例のことを指しており、具体的にはの三韓征伐の際の三韓服従の誓約、あるいは天平勝宝2年(752年)のによる新羅国王への入朝命令などと考えられている。 この先例に倣って 高麗(朝鮮)国王は諸大名と同じように朝廷(秀吉)への出仕義務があると考え、直後に李氏朝鮮に対馬の宗氏を介して服属入貢を要求した。 翌天正16年(1588年)には島津氏を介してへ服属入貢を要求し、以後複数回要求を繰り返す。 天正19年(1591年)7月25日にはポルトガル領インド副王に宛ててイスパニア王の来日を要求した。 同年9月15日、スペイン領フィリピン諸島(小琉球)に服属要求し、翌天正20年(1592年)5月18日付関白豊臣秀次宛朱印状では高麗の留守に宮中を置き、3年後に天皇を北京に移し、その周辺に10カ国を進上し、秀次を大唐の関白に就け、北京周辺に100カ国を与えるとした。 秀吉自身は北京に入ったあと、天竺(インドのこと)征服のために寧波に移るとしていた。 文禄2年(1593年)には高山国 へ服属入貢を要求した。 人事政策• 土木事業や溜池築堤を得意とするは多くの高野衆や各地から集めた何百人もの大工を率いて寺社の大規模造営・整備にあたっていた。 の行政機構の中に組み込まれていたわけではないが、実質上寺社造営における豊臣家の作事組織として機能していた。 多くの家臣たちに豊臣の、羽柴のを与えた。 後世の評価• 江戸時代においては、公には秀吉の神格化は否定されていたが、民間では豊国大明神を起請文の対象とするなど、一種の秀吉信仰も残存していた。 江戸時代初期の『』は広く読まれ、江戸時代後期に出現した読本『』は庶民の間で大流行した。 これを翻案した・の『』は人気演目の一つであった。 ちなみに『絵本太閤記』は幕府から何度か絶版を命じられている。 慶応4年()閏4月、は大阪に行幸した際に、秀吉を「皇威を海外に宣べ、数百年たってもなお彼を寒心させる、国家に大勲功ある今古に超越するもの」であるとして、秀吉を祀る社檀の造営を命じる御沙汰書が下され、同年5月には、秀吉の社にでの新政府軍の戦死者を合祀するよう命じられた。 明治8年(1875年)には、京都東山にが再興された。 このように、秀吉は明治政府から賞讃されている。 また、大正4年(1915年)には秀吉に正一位の贈位が行われたが、この際には国家の平定、対外的な国威発揚、聚楽第行幸の際などの皇室への尊崇などが評価されている。 近現代にも秀吉を題材とした小説・映画などは数多く、それらフィクションで描かれる秀吉像は、武将ながら愛嬌に満ちた存在、武力より知略で勝利を得るなど、陽的な人物とされることが多い。 ・中国大陸では侵略者として否定的な印象を持たれている。 当時の中国や朝鮮の史書では、秀吉が中国出身者だったという説が書かれたものがいくつかあるが、これは日本に滞在していた中国人らが広めたものと見られている。 系譜 略系図 実線は親子関係 点線は婚姻関係 妻子• 正室:(の娘・寧々)• 側室:(一説にの娘というが素性不明) または 於葉の方(祐筆・の娘)• 長男:(石松丸)• 女(名前不詳)• 側室:(の娘・茶々)• 二男:• 三男:• 側室:(の娘)• 側室:(の娘・竜子)• 側室:(娘・摩阿)• 側室:(の娘)• 側室:(の養女、織田信長の娘)• 側室:三条殿(の娘・とら)• 側室:(の娘)• 側室:(の娘)• 側室:(の娘・嶋子)• 側室:(高田次郎右衛門の娘・種。 後に・の側室となる)• 側室:(三浦能登守の娘・おふく(法鮮尼)。 の母) 『』・『』によると、秀吉は故郷の尾張を離れた後、遠江頭陀寺城主・に仕えた。 之綱は秀吉を気に入り、家臣の娘で美人のおきくという女性を選び、結婚させた。 しかし、おきくは秀吉を嫌い、秀吉が尾張へ向かう際に離縁したといわれている。 そのため、秀吉は高台院とは2度目の結婚であり、高台院の生母・が結婚に反対した理由のひとつともいわれている。 (織田信長の四男・於次)• (姉・とも()との次男。 羽柴秀勝を継ぐ)• (姉・とも(日秀)と三好吉房の長男)• (池田恒興の次男)• (徳川家康の二男)• (の五男。 高台院の甥) 養女• (の娘。 正室)• (前田利家の娘。 豊臣秀吉側室)• (前田利家の庶女。 早世)• (の娘。 早世)• (の娘。 正室)• 大善院(の娘。 正室)• (の娘。 豊臣秀吉側室)• (浅井長政の娘。 正室)• (浅井長政の娘。 (の娘。 正室)• の娘(正室) 猶子• (宇喜多直家の嫡子、養女の婿であり婿養子でもある)• (第6皇子。 後にを創設)• (伊達政宗の庶子)• (の娘。 ) 家臣 譜代の家臣を持たずに生まれ、天下人へと至った秀吉は、その生涯で多くの家臣を新たに得た。 に仕えた頃からの陪臣として、、、、、、、、、、などがおり、、は幼少の頃から自身で養育する。 親類縁者は当然のように総動員で取り立てられたが、農民から大名となり、あげくに追放された姉婿・だけでなく、その子・、やはり甥のら、環境の激変する中で不幸な生涯を終えた者が多い。 では、抜群の功績を上げた正則、清正に加え、脇坂安治、、、片桐且元らがとして数えられる。 ただし、誰を賤ヶ岳の七本槍とすべきかについては諸説ある。 の『』にて初期の功臣として、、、、の4人を列挙している。 このうち、神子田正治・尾藤知宣は秀吉に暴言を吐いたことで粛清された。 信長の後継者の座を得ると、その重臣である前田利家、丹羽長秀、らも臣下に加えるが、彼らとは友人としての関係を保ったとも考えられている。 晩年にはの職制として、、、十人衆を設けるが、譜代の家臣は武断派と文治派に分かれ死後で戦った。 、、、、、(隆景死後に五大老と呼ばれる)、(利家死後) 、、 (筆頭) 、、、、、(、) 十人衆 、、、、、、、、、 () 、 一門衆 、、、、、、、、浅野長政、、、 、、、、、、、(、) 福島正則、加藤清正、、、、、、(、) 与力衆 、、、、、、、、、、 信長親族 、、、、 信長旧臣 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 、、、、、、、、戸田勝隆、、、、、、蜂須賀家政、、、、、、、、、 速水守久、青木一重、伊東長実、(盛高)、中島氏種、、野々村雅春、(助宗死後)、郡宗保 その他子飼い・馬廻衆 、、、、 秀吉が偏諱を与えた人物• 史跡等 墓所・霊廟・神社 阿弥陀ヶ峰の豊国廟 死後、高野山のが法要を執り行い、京都東山の阿弥陀ヶ峰(現在の豊国廟)に葬られて、豊国大明神としてに祀られた。 しかしで豊臣家が滅亡すると、徳川家康により方広寺の大仏の鎮守とするために豊国神社は廃絶され、廟も壊され、大仏殿裏手に遷されている。 この時、の嘆願により、梵舜の神宮寺や内苑(本殿など)の建物は残された。 なお、建造物の一部はらによってやに移築されたともされる。 その後、残った建物も妙法院に移されることになり、以後は建物は荒廃していったとされる。 明治になりの相殿に祀られ、豊国神社再建の機運が高まり、侯爵・が音頭を取り阿弥陀ヶ峯に墓標が建立され豊国神社は再興された。 秀吉が主祭神として祀られている神社は、には、、、、、等にある。 なおに豊臣家墓所があるのは有名であるが、現存する墓碑の中に秀吉のものはない。 その理由は不明。 供養墓 山口県山口市にある俊龍寺には供養墓 供養塔 がある。 これはが家臣・に、秀吉の菩提を弔うための「太閤廟」を当地にあった前身寺院の献殊院に建立するように命じて造営された。 供養墓には輝元が秀吉より拝領した鎧を納めた。 献殊院の名前も、秀吉の神号である「豊国大明神」から取って「豊国山」、さらに法名「俊龍」を取って俊龍寺と改名させて秀吉供養の寺院となった。 資料館• 豊臣秀吉を題材とする作品 絵画• 豊臣期大阪図屏風 小説• 『異本太閤記』• 『新太閤記』• 『妖説太閤記』• 『夢のまた夢』• 『秀吉-夢を超えた男』• 『秀吉と利休』• 『秀吉の枷』 漫画• 『豊臣秀吉』• 『学習漫画 日本の伝記 豊臣秀吉』• 『黄金太閤記』 (原作)• 『豊臣秀吉』• 『豊臣秀吉』• 『豊臣秀吉』• 『豊臣秀吉勇将録 戦国武将列伝』• 『戦国人物伝 豊臣秀吉』 (原作) 映画• 『』(1908年、、撮影:)• 『』(1918年、演:)• 『』(1919年、演:尾上松之助)• 『』(1921年、演:)• 『』(1922年、演:尾上松之助)• 『』(1922年、演:)• 『』(1923年、演:澤村四郎五郎)• 『』(1924年、演:澤村四郎五郎)• 『』(1926年、演:)• 『』(1926年、演:)• 『』(1928年、演:)• 『』(1928年、演:)• 『』(1929年、演:)• 『』(1929年、演:)• 『』(1935年、演:)• 『』(1936年、演:尾上栄五郎)• 『』(1937年、演:)• 『』(1938年、演:)• 『』(1940年、演:)• 『』(1940年、演:藤井貢)• 『』(1945年、演:嵐寛寿郎)• 『』(1953年、、監督:、演:)• 『』(1953年、演:市川右太衛門)• 『』(1955年、演:)• 『』(1958年、演:)• 『』(1964年、東宝、監督:、演:)• 『』(2013年、東宝、監督:、演:) テレビドラマ 以下は豊臣秀吉が主人公の作品。 重要な人物なので脇役や準主役となると作品も演じた役者も膨大な数にのぼる。 『』(1957年、日本テレビ、演:)• 『』(1960年、KRT、演:)• 『』(1967年、毎日放送、演:)• 『』(1970年、日本テレビ、演:)• 『』(1973年、テレビ朝日、演:)• 『』(1981年、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(1987年、、演:)• 『』(1993年、TBS大型時代劇スペシャル、演:)• 『』(1995年、テレビ東京、演:)• 『』(1996年、NHK大河ドラマ、演:)• 『』(2003年、フジテレビ、演:)• 『』(2006年、テレビ朝日、演:) その他登場した作品• 『』 1987年、NHK大河ドラマ、演:• 『』 1992年、NHK大河ドラマ、演: 他多数 ボードゲーム• 『秀吉軍記』() コンピューターゲーム• 『』シリーズ() 歌謡曲• 俺は藤吉郎() 脚注 [] 注釈• 生年は5年()とも伝わる。 『江源武鑑』によると六角義秀の偏諱で元吉から秀吉に改めたとあるが、『江源武鑑』は偽書とするのが一般的であり信憑性は薄い。 木綿のように使い勝手が良く、くたびれにくい、という意味。 秀吉の馬印を「千成瓢箪」とするのは誤伝。 『太閤素性記』には元鉄砲足軽であったとの記述があるが、日本で初めてにが伝わったのが8月であり、同年1月に弥右衛門が亡くなっていることなどから信憑性に疑問が持たれている。 一説に秀吉自身は仕官以前の放浪時代に針の行商人であったという。 この説を支持している代表的な人物として、歴史学者の石井進が挙げられる。 または、秀吉本人ではなく、その先祖や周囲の人々が非農業民だったのではないかとしている。 のは秀吉の一族が用いる沢瀉紋と、秀吉の通称「藤吉郎」、また姉日秀、妹朝日の夫の出身地などの関係から、説のある継父竹阿弥を含め、秀吉自身も水野氏族を意識していたのではないかとの説を『』に寄稿している。 この説を唱えている代表的な人物として、作家のやが挙げられる。 歴史小説家も、『秀吉の枷』と『空白の桶狭間』の中でこの説を採用している。 『太閤記』といった秀吉の伝記では、がとなってさせ、最初は故郷の名を取って中村藤吉郎と名乗り、後に木下に改姓したと書かれている。 なお、加兵衛もしくは信長と最初に会った時に「木の下」に立っていたのでこれを名字としたとする俗説は極めて信憑性が薄く、事実ではないと考えられている。 『太閤素性記』のように、朋輩に妬まれて虐めを受ける藤吉郎を不憫に思った加兵衛が金を与えて送り出した、と書いてある史料が多い。 藤吉郎が使いの金を盗んで出奔したとする『甫庵太閤記』や『真書太閤記』などの説もあるが、いずれにせよ真偽は不明である。 仕官のいきさつについては、信長に直訴した(『太閤記』)、信長に仕えていた友人の紹介(『太閤素性記』)、信長の側室・の紹介(『』)など諸説あり、真相は不明である。 『』が初出。 『』によると、名古屋因幡守(の父 がねねの父を説得し、信長にも秀吉のことを執り成したとする。 因幡守の妻・養雲院がねねに読み書きを教えていたからだという。 そのため因幡守の死後、養雲院は秀吉から知行をもらい京都四条の屋敷で栄耀に暮らしたとする。 因幡守の娘(お岩)は弟・秀長の嫡男小一郎の正室となったが、夭折したために再嫁した。 [ ]• 一夜城の逸話はよく知られたものであるが『絵本太閤記』『武功夜話』などを典拠とするこのエピソードは当時の史料に関係する記述がなく、の創作であるとする説が強い。 ともにとも言われるが、「川並衆」の記述がある文書は『』のみの為、呼び名に関して創作説がある。 従来は『』や『』に書かれているように秀吉が殿軍を率いたとされてきたが、近年は当時の序列から考えて池田勝正が率いたのではないかともされる。 桑田忠親は、羽柴姓への改名は天正元年7月8日から9月7日の間としている。 反対した理由の一つに秀信の母がの五女・松姫()説の存在がある(『西山家文言覚書秘伝録』)。 また、勝家が三法師の後継に反対したという話は『川角太閤記』の創作によるもので、事実ではないとする説もある。 当時としては他に類を見ない巨大な要塞だったが、で焼失した。 現在のは、この秀吉の大坂城と後年によって再建された大坂城の姿を折衷したもので、6年(1931年)に復元した鉄筋コンクリート製の「復興天守」である。 のちに昇進のための辻褄合わせが行われ、従五位下左近権少将叙爵の綸旨は2年さかのぼった天正10年に発給されたことになっている。 天正11年5月5日に従四位下参議と任官された文書もあるが、これも同様と見られている。 『』にある、天正12年 1584 10月16日条で、朝廷から将軍になるよう勧められたが断ったという記述による。 家康は翌年7月にも真田領への侵攻を計画するが、秀吉が諫めたことで未遂に終わっている• これを「羽柴」から「豊臣」への改姓と誤解されることが多いが、「羽柴」は、「豊臣」はであり、両者は性質が異なる。 詳細は「」を参照。 『』には12月19日と記載されているが、『』にはの当日、式に先立って任官が行われたと記されており、『公卿補任』はその事実を憚ったものと考えられている。 秀吉は征夷大将軍に就いて幕府を開くためにに自身を養子にするよう依頼したが断られたために関白を望むに至ったというのは今日では事実ではないと考えられている。 の『豊臣秀吉系譜』や『後鏡』にそうした記述がみられるものの、これを裏付ける史料はない。 これが後にの『』に採られて通説となった。 このとき、・・など多くの徳川家臣が豊臣姓で叙位任官されている。 秀吉の蔵入地222万石というのは多くの直臣に所領を分け与えた残りであり、一方の家康の250万石は直臣に分け与えた所領もあわせての数字であり、純粋な石高で家康が秀吉を上回る訳ではない。 家康自身の蔵入地は約100万石であるので秀吉の方が大きい。 異説では、宮部継潤・前田玄以・中村一氏・堀尾吉晴(堀秀政)・山内一豊の5名。 高野山に秀次が送られた理由は「不慮之御覚悟」とあるのみで内容は明記されていない。 断罪した側がその口実すら記さないという状態で、その他の文書でもぼかした表現のものしか存在しない。 秀次が謀反を起こしたというのは『御湯殿上日記』や『伊達文書』という一次史料ではあるものの豊臣家の外の記録が根拠とされている。 事件後に使者となった奉行衆は加増されており、石田三成らは秀次の助命に動いたという説がある一方で、その逆に秀吉の意を汲んで秀次を亡き者にすべく謀反を捏造したという陰謀説もあり、相反する評価がある。 摂政関白をもじったもの。 太田牛一『大かうさまくんきのうち』で初めて登場。 正親町上皇が崩御の後に秀次は喪に服さずに鹿狩りをしたということから「院の御所に たむけのための 狩なれば これをせつせう 関白といふ」と落首が詠まれたという逸話から来ているが、この句自体は後世の作とされ、また鹿狩りをしたのは実際には秀次ではなく秀吉であったとする説もある。 太田牛一の書いたものがの『太閤記』など他のほぼ全ての出典元となっているが、秀次と最も親しかった公家山科言経の日記に符合する記述がないことなどが指摘され、後述する史家はそもそも殺生関白と当時の人々に呼ばれていたのかに疑念を呈しており、議論がある。 フランス生まれのイエズス会宣教師。 秀次の逸話は実際に秀次と親しくしていたブロエー師の記述から得た話としている。 同書には、その後、秀次は悪行を止めたが、誓紙を交わすなどして味方を集めるなどして具体的に謀反を計画したと疑われ、最終的には謀反のかどで処罰されたという話になっている。 著者の(宣教師兼歴史学者)はクラッセよりもさらに7年後に生まれた人物で、およそ1世紀後に文書記録を元にしてこの本をまとめている。 江戸時代前期の歴史学は儒学者を中心として行われ、儒学思想に基づいた解釈が強い影響を与えた。 現在、阿弥陀ヶ峰山頂にはの設計になる巨大な石造が建っているが、この工事の時(明治30年)、土中から素焼きの壷に入った秀吉の遺骸とおぼしきものが発見された。 秀吉の死の直後の8月22日に方広寺大仏境内を会場として大規模な千僧供養が実施されている。 参会者にも知らされなかったが、これが実質的に仏式による供養(葬儀)であったと考えられる。 事情を察してか前日には多くの民衆が大仏に集まったという。 (『義演准后日記』)• 架空の葬儀として描かれた『豊太閤御葬式之図』が残っている。 日付は長暦。 これと次の任官は、『公卿補任』では天正10,11年のこととされているが、事実ではなく秀吉の急激な昇進を辻褄合わせするために書かれたものだと考えられている『大系日本の歴史8天下一統』小学館ライブラリー、pp. 199-201• 当時の百姓身分は農業や手工業の比較的規模の大きい経営者階層であり、この層に出自する者が地侍などの形で武士身分に食い込みを図るときには、勢力地盤となっている村の名前などを苗字とするのが普通であるし、そもそもこの階層は惣村共同体の足軽中で通用する程度に権威のある私称の苗字を保持しているのが通例だった。 それすらも自前で名乗る地盤を持たなかったとすれば、秀吉の出自は百姓身分ですらない、さらに下層の出身者である可能性がある。 井沢はさらに「秀吉」という名前も、「稗よし(稗くらいは良く食べられますように)」という当時の貧民層に見られた名前を変えたもので、これも自分をへりくだるための命名だと推測している。 『フロイス日本史』に「300名の側室を抱えていた」と記録がある。 だが、『伊達世臣家譜』には「秀吉、愛妾十六人あり」という記述が見られる。 歴史学者のも、秀吉の正式な側室は20人足らずだと推定している。 フロイスが挙げた数字は、側室の世話をする女官も含めた数字とするのが自然である。 また、大名から取った人質を愛人として囲っていると宣教師が誤認した可能性もある。 「どこの馬の骨とも分からない身分の低い生まれ」という意味の皮肉。 の回想録• 漫画『』『』に登場する秀吉は六指である。 朝鮮の古文書『燃藜室記述』による。 ただし沈惟敬が日本に来たのは慶長元年()で、秀吉が死亡したのはその3年後である。 「伝源頼朝坐像」()、現在は所蔵。 に画像と解説あり。 織田信長と、と小姓・。 『信長公記』。 『絵本太閤記』では、謙信の武勇を軽視した勝家に対する面当てだったとされる。 秀吉の和歌は、によって『豊臣太閤御詠草』として編纂された。 は算砂が「信長に名人とされたこと」「秀吉に仕えたこと」、いずれも否定している。 相次ぐ対外戦争による財政的問題、豊後の大友宗麟や山陰のたちへの備えといった理由による。 『萩藩閥閲録』などによれば、毛利・小早川勢には信長・信忠・信孝が既に討たれ、謀反に加担した者は光秀の他に津田信澄・柴田勝家らがいるとの情報(誤報)が入っていた。 仮に秀吉軍を追撃して破ったところで、柴田・津田らの軍勢を含めた明智勢と再度事を構えるまでの余裕はないため、追撃を諦め、正確な情報が入るまで静観するべきだという結論に至ったと考察されている(説など)。 織田信長も誠仁親王の第五王子のを猶子としていた。 豊臣政権は座の撤廃も積極的に行った。 の『秀吉事記』の「座を破らる」という記述から、研究者の中には秀吉の楽座を特に「破座」と呼んで区別する者もいるが、実際にはこの記述がある1585年には秀吉はまだ前田玄以に命じて畿内の座を安堵する文書も発給していた。 秀吉は織田政権下ではまだ存在していたを廃止しているが、一方で徳川家康の領地の関所は廃止された形跡がなく、江戸時代までそのまま存続していた。 東京大学史料編纂所HP「近世史料部」参照。 アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、1582年12月14日のフィリピン総督宛の書簡において、明征服のためには日本でキリスト教徒を増やし、彼らを兵として用いることを進言している。 また、ペドロ・デ・ラ・クルスは、1599年2月25日付けのイエズス会総会長宛ての書簡で、日本は海軍力が弱く、スペイン海軍をもってすれば九州または四国を征服できると進言している。 当時の西洋の強国にとって、武力で手に入れた港を拠点とし、そしてさらなる征服を進めるのが常套手段であり、ポルトガルは、ゴア、マラッカ、マカオをこの方法で征服している。 当時は神功皇后の三韓征伐が史実と考えられていたし、またの『』(妙本寺本)においても日本の西の果てを「・高麗・」と記している。 秀吉のこうした振舞いは朝鮮をなどの日本の法令の適用対象として認識していた可能性を示している。 秀吉側近の山中長俊の書状「組屋文書」による• さらに南蛮つまりヨーロッパや西アジアまでを射程にいれていたとする説もある(佐藤信淵『宇内混同秘策』)。 当時、に存在するとされた国• 外苑部分は破却された。 2015年11月17日閲覧。 , p. 165. 42-44• , p. 18-19. 147-149• , p. , pp. 51-52. 11-12. , pp. 50-52. , p. , p. 桑田忠親『女性の名書簡』東京堂出版、1993年。 『坪内系譜』• , p. 103. 渡辺世祐『豊太閤の私的生活』講談社、1980年、47頁。 桑田忠親『太閤の手紙』31頁、天正元年十二月廿二日秀吉書状• ; 中川太古 『現代語訳 信長公記』(版) 〈新人物文庫〉、2013年、182頁。 柴裕之 『清須会議』 戎光祥出版〈シリーズ【実像に迫る】017〉、2018年。 32-39. , p. 11〜 [ ]• , pp. 15-18. , p. 松下浩『織田信長 その虚像と実像』サンライズ出版、2014年、116頁。 四宮美帆子、「」、早稲田大学大学院文学研究科紀要. 第3分冊, 日本語日本文学 演劇映像学 美術史学 表象・メディア論 現代文芸 58, 一七七-一九三、早稲田大学大学院文学研究科、2013年、p. 180-181, :。 大野充彦 「前田利家文書の基礎的研究」、田中喜男編 『日本海地域史研究』 文献出版、1982年。 口宣案(足守木下家文書) , p. 13 [写真掲載あり]• 堀新「信長・秀吉の国家構想と天皇」『天下統一と朝鮮侵略』吉川弘文館〈日本の時代史 13 〉、2003年。 堀新 「豊臣秀吉は征夷大将軍になりたかったのか? 」、山本博文・堀新・曽根勇二編 『偽りの秀吉像を打ち壊す』 柏書房、2013年。 鈴木眞哉『NHK歴史番組を斬る! 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