フセイン 政権。 イラク戦争とは?原因や目的などをわかりやすく解説

フセイン政権崩壊から10年、イラクは今どこに向かうのか?

フセイン 政権

sponsored link亀仙人2 サダム・フセインと湾岸戦争 なぜ、イラン・イラク戦争でアメリカの支援を受けていたサダム・フセインはアメリカを憎み、対立するようになったか。 サダム・フセインがイラク大統領になるまで 1937年4月28日、イラク北部のティクリート近郊のアル=アウジャ村で農家の子として生まれ、10歳の時から母方の叔父ハイラッラー・タルファーフのもとで暮らした。 1955年に当時、中央政府の教育庁長官になっていたハイラッラーの後を追ってバグダードに移り住み、1957年にバアス党に入党する。 1958年、エジプトのナセル大統領はアラブ民族主義を掲げ、シリアやイエメンと組んでアラブ連合共和国を樹立します。 それに共鳴したイラク国内のアラブ民族主義を掲げるバアス党はこの連合に加わろうとクーデターを起こし、王制を転覆、政権を奪取しました。 しかし、新政権のトップ カシム准将はバアス党の汎アラブ主義を捨て、イラク共産党と手を組んでしまいます。 バアス党はこの裏切りに激怒して、カシム大統領の暗殺を試みます。 サダム・フセインは1959年のカシム大統領暗殺計画に加わり、失敗して逃亡し砂漠を放浪し、シリアとエジプトで亡命生活を送ることになりました。 米国中央情報局 CIA は中東の共産化を懸念し、共産党と組んだカセム政権を転覆しようと工作を始めます。 1968年バース党のクーデターでバクル大統領政権が成立すると副大統領に任命され、翌年32歳の若さでバース党最高決定機関の革命指導協議会の副議長に抜擢されました。 その裏でサダム・フセインは国家警備隊の創設に着手し、共産党員狩りを始めます。 緑色の腕章をつけ、自動小銃で武装した国家警備隊による共産主義者の弾圧で、約5000人の共産党員が殺害されたと言われています。 ・イラク近代化 サダム・フセインは副大統領時代の1970年~1980年代にかけて、イラクの近代化を目指しました。 バアス党政権はソ連の援助を受けて、クウェートとの国境沿いにルメイラ油田を開発し、それまで海外資本に牛耳られていた石油事業の国有化を断行しました。 国有化した石油事業から上がる利益で、ソ連から戦車や戦闘機の軍備を購入し、軍の近代化を果たしました。 隣国のイスラエルやイランと対抗するためには、軍の近代化は絶対必要なものでした。 またイラク全土に学校を作り学校教育を強化し、識字率の向上を目指しました。 女性解放運動も積極的に行なわれ性別による賃金差別や雇用差別を法律で禁止し、家族法改正で一夫多妻制度を規制、女性の婚姻の自由と離婚の権利も認められました。 女性の社会進出も推奨し、当時湾岸アラブ諸国では女性が働くことも禁じていた中で、イラクでは女性の公務員が増え、予備役であるが軍務に付く女性も現れた。 ソ連の協力によりイラク最大級のモースル・ダム(旧サッダーム・ダム)やハディーサー・ダムも完成させた。 これにより、全国に通信網・電気網を整備し、僻地にも電気が届くようになった。 貧困家庭には無料で家電が配布された。 さらに農地解放を推し進め、農業の機械化、農地の分配を推進し、最新式の農機具まで配られ、国有地の70%が自営農家に与えられました。 サダムはこの他にも科学技術の発展に熱意を注いだ。 この熱意は周囲のイラク人にも伝染した。 サダムは他の石油大国のように技術を輸入するだけということでは満足せず、先進国のように技術立国として発展することを考えていた そのために、石油産業、軍装備、原発はソ連、その一部をフランス、鉄道建設はブラジル、リン酸塩生産施設はベルギー、旧ユーゴスラビア、東西ドイツ、日本にはハイテク技術分野の専門家や外国人労働者、専門技師の派遣を要請しました。 これにより、国民の生活水準も目に見えて上がってきて、イラク国民は長年待ち焦がれていた、国民の生活によく配慮してくれる政権が誕生したと思いました。 ・大量破壊兵器 その裏で、豊富な石油資金にものを言わせ、かねてから親しかったシラク大統領を通じて、フランスからミラージュ戦闘機やガゼールヘリ等を輸入したほか、核兵器も原子力発電の名目でフランスから技術援助を受けた。 フランスは石油大国のイラクが原発を持とうとする矛盾を全く無視してイラクにタンムーズ原子炉を売りました。 目的はシンプルに金だった。 またアメリカもマンハッタン計画 広島、長崎型原爆の開発計画 の詳細な資料一式をイラクに寄贈しました。 こうして大国の援助を受けイラクが核兵器を持つ一歩手前まで行きました。 化学兵器に関しては、農薬の名目でサダムはアメリカのファウルダー社のエンジニアをバグダッドへ招待し、技術援助を受けた。 また東ドイツのライプチヒ毒薬研究所の職員と掛け合い、技術援助を受け、化学兵器の開発を進めます。 ・フセイン大統領誕生 1979年7月17日、バクル大統領が病気を理由に辞任すると発表した為、サダム・フセインはイラク共和国第5代大統領(兼首相)に就任しました。 1979年7月22日に開かれたバアス党臨時会議で、、党内部でシリアと共謀した背信行為が発覚したとして、サダム・フセイン自ら一人ずつ「裏切り者」の名前を挙げていき、66人の人物が粛清され、党内の反対勢力を一掃して、独裁体制を確立しました。 イラク・イラン戦争のきっかけとなったイラン革命 1972年2月 とは ・イランの石油開発 1908年、イギリスによって中東で始めてイランで石油が発見された。 それ以後、イギリス政府が株式の50%を所有するアングロ・イラニアン石油会社 後の BPブリティッシュ・ペトロノアム がイランの石油利権を独占し続けていました。 ・パーレビ朝 イランは第1次世界大戦でイギリス軍とロシア軍に占領されていたが、1921年にレザー・ハーンがクーデターを起こし、1925年自ら皇帝 シャー に即位して、パーレビ朝を起こしました。 パーレビ朝は形態としては立憲君主制でしたが、議会はすべて国王派が占め、レザー・シャーが軍隊を掌握する軍国主義体制がとられました。 しかしイスラーム聖職者の影響力を排除して政治、文化の世俗化を進め、男女同権を提唱して女性の社会活動を推奨していました。 第2次世界大戦中の1941年レザー・シャーはナチスドイツに接近したため、イギリスにより退位させられて、息子のモハンマド・レザー・パフラヴィー パーレビ国王 が帝位を引き継ぎました。 ・イランの石油国有化 1950年、サウジアラビアで石油の採掘に成功したアメリカのアラムコ石油会社は、サウジアラビアのサウド国王と石油から上がる利益を折半する契約を結びました。 イランでは、イギリスの石油会社アングロ・イラニアンが石油の利益を独占していたため、イランは利益折半を求めましたが、拒否されてしまいます。 1951年、民主的な選挙で首相に就任した民族主義者モサデクは、石油国有化法を可決させてアングロ・イラニアン石油会社から石油利権を取り戻し(イギリスのイラン支配の終結)、石油産業を国有化しました。 このことはイギリスとアメリカの反発を受け、国際石油資本(メジャー)によりイラン産石油は国際販売ルートから締め出されました。 1953年石油が販売できなくなったイラン政府は、対抗するためソ連に接近、ソ連・イラン合同委員会をつくって、ソ連と関係を深めていきます。 アメリカはイランがソビエトに近づき石油がソビエトに流れるのを警戒するようになり、アメリカのCIAとイギリスのMI6が協力して内政干渉の秘密工作 エイジャックス作戦 を行い、国王を支持する民衆のデモという形で クーデターをおこし、1953年モサデク政権を倒して、パーレビ国王を復帰させました。 これにより石油の支配権も完全な利益もイランには手に入れることが出来なくなりました。 イラン国民は再び、パーレビ国王の独裁化に置かれるようになりました。 アメリカ主導のイランの石油独占と、民主的な政権を倒したことでイラン国民の反米感情を受けることになります。 ・白色革命 パーレビ国王は、独裁体制の強化のため秘密警察サヴァク(SAVAK)を動かして左右の反体制運動を取り締まる一方、国王の指導の下に経済発展を進めるため、1963年イラン国内の改革 白色革命 を進めました。 また大地主の土地を買い上げて農民に分け与えたが農民たちは灌漑に必要な資力を持っていなかったため有効に活用できずやむなく都市部に流れ込みスラムを形成した。 そのため農業生産高はかえって減少し食糧は輸入するようになった。 ・海外留学 — 富裕層の子弟に海外留学を勧めたが、その一部は留学先で反王制派になった。 ・一夫一妻制 ・女性参政権 — 女性に選挙権、被選挙権を認めたことから、宗教学者層を中心に非難された。 ・ヒジャーブ着用の禁止 引用ウィキペディア 「白色革命」 ソ連と対抗するために、このような政策を支持したアメリカは多額の経済援助を提供して、パーレビ国王を助け親米国家を作り上げます。 アメリカの援助は経済のみならず、世界で初めてイラン空軍に最新鋭のジェット戦闘機 F-14を納入したり、後に問題になる核開発技術の提供などもあります。 イラク空軍のマークを付けた F-14 出典 F-14 はイラン空軍に79機納入され、イラン-イラク戦争ではイラク空軍機を159機撃墜して大活躍しました。 ただイラン革命後はアメリカと仲が悪くなり、補修部品などが入らなくなり稼働率が下がりましたが、イランはのちに部品やミサイルの国産化や技術開発をすすめ、 F-14を独自に改造・改良し自分たちのモノにすることに成功。 その結果、最大の見積もりで推定40機機程度の F-14が現在も生き残っているとされています。 改造されたイラン空軍の F-14はトム・キャットをもじって「ペルシャ猫」と呼ばれています。 最近では、ISISの爆撃に向かうソ連の爆撃機を護衛したりしています。 パーレビ国王によるこれらの改革は、オイルショック後の原油安による経済の破綻や、格差の拡大、急激な欧米化によるイスラム教徒の反発などで、1970年後半には国民の支持を失っていきます。 パーレビ国王にアメリカが武器援助をしたのを受けて、ソビエトはイラクのフセイン大統領に大量の武器を援助しました。 ・イラン革命 パーレビ国王の急激な改革に対して、16世紀以来のイランの国教であったイスラーム教のイランのシーア派(十二イマーム派)の信仰に立ち返ることを求める民衆の反発が強まりました。 皇帝政治を批判して1964年から国外追放になったシーア派最高指導者のホメイニ師は、国外 当時はフランスにいました から反政府活動を指導し、活発に活動していました。 1978年ホメイニ師を誹謗する新聞記事が掲載されると、それは政府の陰謀であるとして全国的に民衆の暴動がおこり、収拾がつかなくなったパーレビ国王は1979年1月16日エジプトに亡命して、イランの王政は終了しました。 1979年2月1日、ホメイニ氏はイランに帰国しさらに革命を進め、4月1日イランは国民投票により「イラン・イスラム共和国」の樹立を宣言して、ホメイニ氏を終身任期の最高指導者(国家元首)として「法学者による国家統治」に基づく体制を築き上げました。 また国際コンソーシアムの所有する石油設備をすべて国有化したため、欧米諸国の反感を買いました。 ・アメリカ大使館占拠事件 パーレビ元国王とその家族、側近らは一旦はエジプトのカイロに亡命した後、モロッコ、バハマ、メキシコを転々としていました。 その後パーレビ元国王は「癌の治療」のためという名目でアメリカへの入国(事実上の亡命)を求め、アメリカ政府に接触しました。 アメリカのカーター大統領ははじめこれを拒否していましたが、パーレビ元国王と親しかったヘンリー・キッシンジャー元国務長官らの働きかけを受け10月22日アメリカに入国しました。 10月22日からアメリカが元国王を受け入れたことに抗議するデモ隊がイランのアメリカ大使館に殺到していました。 11月4日、一部の学生が大使館の塀を乗り越えて内部に侵入し、アメリカ人外交官や海兵隊員とその家族の計52人を人質に、元国王のイラン政府への身柄引き渡しを要求しました。 以後444日に渡り学生たちはアメリカ大使館を占拠し続けます。 イラク国内を流れる、チグリス川とユーフラテス川は合流して シャットゥルアラブ川 と名を変えて、ペルシャ湾までの200キロを流れています。 下の地図を見てもらうと分かりますが、クウェートとイランに挟まれ、ペルシャ湾に狭い海岸線しか持たないイラクにとって海岸から55キロの地点にある バスラ は重要な石油積出港となっております。 シャットゥルアラブ川 出典 SPECIAL WARFARE NET バスラより少し下流でシャットゥルアラブ川はイランと接するようになり、両国の国境となっている。 イラン国内のシャットゥルアラブ川とカールーン川が合流する地点には、イラン領のホラムシャハル、アーバーダーンなどの港湾都市があり、イランにとっても大切な石油積出港になっています。 このため、この地域はかねてから領土問題でイラクとイランで争っていましたが、イラクのフセイン大統領はイラン革命の混乱に乗じてこの地域に侵入しました。 ・戦争の経緯 1980年9月22日未明、イラク空軍機がイランの10の空軍基地を爆撃して、イラン・イラク戦争が始まった。 ただ空爆を行ったイラクのミグ21は航続距離が短かったため、基地は破壊しましたが、肝心の戦闘機は奥地に逃げて破壊に失敗しました。 翌9月23日、イラク地上軍が侵入してアーバーダーンやホラムシャハルを包囲しました。 親米家のパーレビ国王が追放され、アメリカ大使館を占拠されたアメリカや、アフガニスタンのイスラム教徒の影響を恐れたソ連 当時アフガニスタンに侵攻していました 、イラクのシーア派の勢力拡大を恐れたサウジアラビアなどのアラブ諸国がイラク イラクではシーア派が多数を占めていましたが、フセイン政権のバアス党はスンニ派 を支援しました。 フセイン大統領は、これらの国からの援助でアメリカ・ソ連・フランス・中国から大量の武器を輸入し、アラブ随一の軍事大国になりました。 ただ、後でこの代金を払うことが出来ず、クウェートに侵略して湾岸戦争のきっかけをつくることになります。 イランは、革命で多くの軍事指導者を粛正したため、指揮系統が崩壊し、また前パーレビ国王が親米家であったため、イラン軍の武器はほとんどアメリカ製で、これらを取り扱う技術者もアメリカ人であったため革命の際に全員が国外退去となり、兵器の整備や部品調達が難しくなって兵器の稼働率が落ちていました。 ここでイスラエルが助けの手を差し伸べます。 隣国イラクが軍事大国となるのを恐れたイスラエルは、イランが必要とする兵器の補修部品をアメリカから輸入して、イランに渡しました。 後に明らかになった イランコントラ事件でアメリカも兵器の部品や、ミサイル等を秘密裏に売却していました。 これによりイラン空軍は息を吹き返し、たちまちに制空権を確保してイラク軍の戦車に対してAH-1アパッチヘリコプターで攻撃できるようになりました。 戦車は全面と側面の装甲はしっかりしていますが、後部と上部は装甲が薄いため攻撃ヘリで空から攻撃されるとひとたまりもありません。 ただ地上攻撃用のヘリは戦闘機に対する防御が弱いため、制空権を確保する必要があります。 またアラブ諸国と異なり国家元首のアサド一族をはじめ少数派のシーア派が政権を握るシリアと、反欧米を掲げるリビアもイランに味方しました。 1981年6月7日、イスラエル空軍機がヨルダン、サウジアラビア領空を侵犯しイラク領に侵入、フランスの技術で建造中の原子力発電所(未稼働)を空爆、破壊(イラク原子炉爆撃事件)しました。 これによりイラクは核開発を中止することになります。 1982年4月、シリア経由のパイプラインが止められたため、イラクは石油の輸出が出来なくなり、経済的に困窮します。 イラクは当時多くの企業が国営であったのですが、それらを民営化することで政府が支出するお金を減らそうとするなど政府支出を減らそうと四苦八苦することになります。 戦争を早く終わらせたいイラクは、ペルシャ湾を航行するタンカー船を危機にさらすことで、石油の供給を守りたいアメリカの介入を促しました。 これにより,石油利権を守りたいアメリカとイランからの脅威をイラクに対処させたい湾岸諸国は、イラクにより多くのの資金と兵器をつぎ込むことになりました。 結局双方とも相手に決定的なダメージを与えることが出来ず、1988年8月20日に国際連合安全保障理事会の決議を受け入れる形で停戦することになりました。 イラン革命後、イラン国内がどう変化したかわかる映画があります。 1986年に発覚し、アメリカ国内はおろか世界を巻き込む政治的大スキャンダルに発展した事件である。 引用ウィキペディア イラン・コントラ事件 イランイラク戦争が始まったとき、アメリカはイランとは交渉せず、武器の輸出もしないことを国際的に宣言しており、ほかの国にもこれを守るよう要請していました。 アメリカがイランに武器を輸出した理由は2つあります。 アメリカ軍の兵士らがレバノン(内戦中)での活動中、イスラム教シーア派系過激派であるヒズボラに拘束され、人質となってしまった。 彼らを救出する為、アメリカ政府はヒズボラの後ろ盾であるイランと接触し、イラン・イラク戦争でイラクと戦うイランに対し、極秘裏に武器を輸出する事を約束しました。 もう一つは、イラン革命で人質になったアメリカ大使館員の身代金の代わりに、武器を輸出することでした。 はじめアメリカは、イランにこっそり武器を輸出していたイスラエルを通して武器を渡していましたが、国際世論の反発を恐れたイスラエルが断ったため、アメリカが直接イランに武器を輸出することになりました。 さらに国家安全保障担当補佐官のジョン・ポインデクスターと、国家安全保障会議軍政部次長でアメリカ海兵隊のオリバー・ノース中佐らを通して、イランに武器を売却した収益を、左傾化が進むニカラグアで反政府戦争(コントラ戦争)を行う反共ゲリラ「コントラ」に資金援助していました。 この時イランとコントラの双方の交渉窓口は当時副大統領だったジョージ・H・W・ブッシュ(後の大統領)であったとされています。 このことは、民主党が多数を占める議会でアメリカとの関係が悪化していたイランへの武器販売、および反共ゲリラに過ぎないコントラへの資金提供に反対していた議決に反することでした。 イラクを支援していたアメリカが、裏でイランに武器を輸出していることを知ったフセイン大統領は、これ以後アメリカを信用しなくなりました。 湾岸戦争 ・フセインがクウェートに侵攻したわけ 1988年8月20日に、イラン・イラク戦争が停戦を迎えた。 戦争が終わるとイラクは各国から武器援助 援助と言ってもタダではありません を受けていた関係で600億ドルとも900億ドルともいわれる負債を背負い込みます。 産油国のイラクは石油を売って払おうとしましたが、お隣のクウェートがOPECで決められた産油量の取り決めを破り、大量に石油を増産したため原油の値段が大幅に下がってしまいました。 イラクはクウェートに産油量の減産を申し込みましたが言うことを聞いてくれませんでした。 同じようにOPECの決めた量よりも多くの石油を産出していたサウジ・アラビアとアラブ首長国連合は、イラクの申し込みを受け入れ減産しました。 更にクウェートはイラクとの国境にあるルメイラ油田で採掘をはじめ、イラクはクウェートが傾斜掘りという方法でイラク側の原油を盗掘していると怒ります。 1990年7月25日、イラク駐在大使グラスピーがフセイン大統領に「米国はイラクの行動には関心がない」と話し、ジョン・ケリー国務次官補も「クウェートが攻撃されても米国にはクウェートを助ける責任がない」と公言したことを受け、サダム・フセインはクウェートに侵攻してもアメリカは介入しないと信じ、行動を起こします。 1990年8月2日、イラク軍はクウェートに侵入し、8月8日クウェートを併合しました。 イラクがクウェートに侵攻した同日、国際連合安全保障理事会は即時無条件撤退を求めましたが、8月12日にイラクは「20年以上イスラエルのパレスチナ侵略を認めていながら、今回のクウェート併合を非難するのはおかしい」と主張(リンケージ論)して、イスラエルのパレスチナ退去を条件に撤退すると発表しました。 8月7日、アメリカのブッシュ大統領は、石油の過剰輸出の件でイラクと対立していたこともあり、クウェートに続いて自国も侵略される事を恐れていたサウジアラビアに「イラクによる攻撃もあり得る」と説得して、アメリカ軍駐留を認めさせ、軍のサウジアラビア派遣を決定しました。 この時、アルカイダを率いていたウサマ・ビンラディンはイスラム教の聖地であるメッカやメディナがあるサウジアラビアに異教徒のアメリカ軍の基地を認めたサウード王家と対立し、後に国外退去させられます。 クウェート侵攻の翌日、モスクワ訪問中のアメリカのベーカー国務長官と、ソ連のシェワルナゼ外相は共同声明を出して、イラクの侵攻を激しく非難しました。 これは冷戦時代には考えられないことです。 アメリカ下院議会の人権委員会公聴会でナイラという少女がイラク兵がいかに残虐な行為をしたか、証言をしています。 『私は病院でボランティアとして働いていましたが、銃を持ったイラクの兵隊たちが病室に入ってきました。 そこには保育器の中に入った赤ん坊たちがいましたが、兵士たちは赤ん坊を保育器の中から取り出し、保育器を奪って行きました。 保育器の中にいた赤ん坊たちは、冷たいフロアに置き去りにされ、死んで行きました』 上の動画で語っている通り、この証言は真っ赤なウソでした。 これをあばいたのはニューヨークタイムズのマッカーサー記者でした。 マッカーサー記者によると、クウェート政府は『自由クウェートのための市民運動』という名の偽装した市民運動を通じて、大手広告会社ヒル・アンド・ノウルトンにアメリカが軍事介入するよう世論を誘導してほしいと頼みました。 ヒル・アンド・ノウルトンは調査の結果、イラク兵の残虐性をアピールすることにして、在米クウェート大使の娘、ナイラを使いアメリカ下院議会人権委員会公聴会でうその証言をさせました。 この証言から3ヶ月後、アメリカは湾岸戦争を起こし、イラクをクウェートから撤退させました。 ヒル・アンド・ノウルトン社はこのキャンペーンで1200万ドル 14億円 の報酬を受け取りました。 もう一つが「油にまみれた水鳥」の写真です。 当時サダム・フセインがフセインがわざと油田の油を海に「放出」していると報道され、環境は破壊され、海の生物が犠牲になっている「環境テロ」と話題になりました。 出典 stavangersquares. org しかし、この映像はアメリカ軍が誘導爆弾にてゲッティ・オイル・カンパニーの原油貯蔵施設から流出させたため起こったことが明らかになっています。 新聞やテレビなどのマスメディアの報道が、常に真実であると言えないということです。 湾岸戦争 その後もイラクはクウェートの占領を継続し、国連の度重なる撤退勧告をも無視したため、11月29日、国連安保理は翌1991年1月15日を撤退期限とした決議678(対イラク武力行使容認決議、早い話が「言うことを聞かないと武力に訴えるぞ」ということ)を採択しました。 1991年1月12日にはアメリカの上下両院から大統領の軍事力行使認可決議も採択されます。 ・砂漠の盾作戦 クウェート侵攻の後、45万人と見られるイラク軍がサウジ・アラビア国境近くに展開し、サウジ・アラビアまで侵攻する恐れが出た為、アメリカとその同盟軍の軍用機がサウジ・アラビア国内に配備されました。 また、ソビエトがアフガニスタン戦争から撤退して、崩壊寸前だったため、アメリカはヨーロッパに展開している陸軍最強の機甲軍団、第7軍団を西ドイツから呼び寄せました。 これは重戦車師団2個、機械化師団1個からなる強力な軍団で、さらに戦時に本土から送られるはずだった補助部隊、第一機械化歩兵師団(第一機械化歩兵師団は第一大戦以来の歴史を持つ師団で、いわゆるBig red oneの通称で知られる精鋭部隊)が追加される事になります。 この第7軍団の規模は、人員14万6千人、各種車両約5万台、主力のM1A1戦車1500台で、今まで戦闘に投入された部隊としては最大の規模を持ってます。 アメリカの「有志を募る」という多国籍軍編成の呼びかけに応じ、クウェートと関係の深いイギリスをはじめ、同盟国のフランスもこれに加わります。 またエジプト、サウジ・アラビア、バーレーン、カタール、オマーン、アラブ首長国連邦もこれに加わり、アラブ多国籍軍を編成しました。 また用意された航空機は、固定翼機が2400機、ヘリコプターなどが1400機という具合であった。 この中には、アメリカ空軍機の他、紅海とペルシャ湾で待機する計6隻の空母にある航空機、イラク周辺諸国に元々あり臨時体制になった航空機が含まれます。 このためイラク空軍は最初から戦うのを諦め、戦闘機を他国に避難させるなどして空軍の温存を計りました。 ・砂漠の嵐作戦 砂漠の嵐作戦でアメリカの狙いは、クウェートからイラク軍を追い出すことではなく、イラク軍の主力を叩き潰すことにありました。 ただ追い出しただけでは、いつ何時再び戦いを挑んでくるか分かりませんから。 この主力部隊と見られていたのがイラク共和国防衛隊(Republican gurd)でした。 全部で8個師団あり、2個の装甲師団と5個の機械化師団、そして1個の空挺特殊部隊師団からなる精鋭部隊であり、湾岸戦争中はそのうち5個師団がクウェート北部、1個師団が西部の国境地帯に配備され、不利な状態になったらすぐイラク国内に撤退できるようにしてありました。 作戦の大まかな筋として、アメリカ海軍海兵隊とアラブ多国籍軍がクウェートに進軍して、イラク共和国防衛隊がそちらに気を取られている隙に、砂漠を大回りした最強の第7軍団が背後から襲い掛かり、殲滅させる予定でした。 イラクがクウェートから撤退する期限を過ぎて2日後の1月17日 この日は新月で月明かりがなく、真っ暗でした に「砂漠の嵐作戦」は開始されました。 F117がバグダットを空爆して司令部や無線局などの主な軍事施設を破壊します。 アメリカ軍の作戦本部はCNNニュースの現地速報で、作戦が無事実行されたことを知ったと言われます。 その後アメリカ海軍の各艦艇から24時間にわたって、100発のトマホーク巡航ミサイルが 1発2億5千万円します 大統領官邸、電話局、発電所、変電所を破壊します。 イラク国内の電力が失われたことで、レーダーや通信設備が使えなくなりました。 砂漠の嵐作戦地図 出典 こののち、20万人と言われる多国籍軍が、海からイラクとサウジ・アラビア最奥の国境沿い 約400㌔あります に配備完了するまでの約1か月間、空から攻撃を続けました。 この巨大な軍を支える補給基地も、軍と一緒に基地ごと砂漠を進軍するという凄まじいことをやっています。 ・「砂漠の剣」作戦 空爆開始から約1か月後の2月24日、配備が終了した地上軍が進軍し始めます。 始めは地上戦開始の前日2月23日、クウェート沖の艦船から艦砲射撃が始まり、海兵隊が上陸の準備を始めます。 クウェートにいたイラク軍は海からの上陸に注意を向けました。 その隙をついて2月24日午前4時、アメリカ海兵隊の本隊とアラブ多国籍軍がクウェートにやって来て、クウェートシティに向かって進軍しました。 この進撃の速度があまりにも早かったため、海からやってくるとばかり思っていたイラク軍は反撃の準備もできず、撤退してしまいます。 約1日遅れの2月25日午前5時30分に進軍予定だったアメリカ第7軍団は、イラク軍が予想より早く撤退したため、2月24日午後3時にイラク軍の共和国防衛隊を包囲殲滅するため進軍を開始します。 この後、第7軍団は大きな間違いを犯します。 24日深夜から25日朝にかけて進軍を停止してしまったのです。 この間にイラク共和国防衛軍は、一番サウジ・アラビアに近い所にいた一個師団を除き大部分が撤退を完了してしまいました。 このため最初の目的であったイラク軍の精鋭部隊、共和国防衛軍は殲滅を免れ戦力を温存することが出来ました。 2月26日撤退中のイラク軍に対してアメリカ空軍は猛爆を開始して、2本の幹線道路は死のハイウェイとなりました。 2月27日アラブ多国籍軍がクウェートシティを開放し、2月28日の朝、戦闘は終了しました。 ・湾岸戦争後のイラク 湾岸戦争後、イスラム教のシーア派や北部クルド人による反政府活動が活発になり、イラク18州のうち14州を支配しました。 彼らはアメリカの支援を期待しましたが、アメリカは何の行動も起こしませんでした。 アメリカが介入しないと見たサダム・フセインは、生き残った共和国防衛軍と大統領親衛隊で反乱を鎮圧し、多数の反政府国民を殺害しました。 結局アメリカは、サダム・フセインと、彼に反抗する市民双方から憎まれるようになりました。 DMMに入会すると、希望するタイトル あらかじめリストに登録しておきます が2枚づつ封筒に入れて、郵送されてきます。 返却は同じ封筒に入れて郵便ポストに投函するだけです。 近くにビデオレンタル屋さんがない所などでは、助かると思います。 またこのサイトで扱っている映画のDVDは、店舗に置いていないことが多いため、探したり取り寄せてもらったりする手間を考えると、望む商品を直接自宅に届けてもらえるこのサービスは、大変重宝です。 今はやりのネットによる動画配信サービスよりも、はるかに多い約44万タイトルのDVDを扱っておりますので、なかなか手に入りにくい映画も見ることが出来ます。 現在30日間無料体験サービスを行っておりますので、一度試してみることをお勧めいたします。

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サダム=フセイン

フセイン 政権

同じイスラム教徒でありながらスンニ派とシーア派の国はなぜ対立するのか。 背景には原油などの経済利権を巡る争いもある。 Q スンニ派とシーア派の違いは。 A もともとは預言者であるムハンマドの後継者をめぐる考え方の違いがある。 632年にムハンマドが死去した後、娘婿でいとこのアリを含む4人を最高指導者のカリフとして認めたスンニ派に対し、シーア派はアリとその子孫を正統な後継者と位置づける。 世界のイスラム教徒人口のうちスンニ派が約8割、シーア派が1割強を占めるとされる。 Q どうして対立するのか。 A 必ずしも信者同士が互いを敵視しているわけではない。 イラクなどでは異なる宗派同士が結婚することもしばしばだ。 表面的には宗派対立でも、実は経済的な利権争いであることも多い。 スンニ派の王室が支配するサウジアラビアでは東部の油田地帯にシーア派が多く暮らすが、経済的に冷遇されていると不満をくすぶらせている。 イラクではフセイン政権の崩壊で多数派のシーア派が政権を握った。 利権を失ったスンニ派旧支配層が過激派組織「イスラム国」(IS)の台頭に手を貸したとされる。 Q 対立が戦争に発展した事例もあるのか。 A 1980~88年まで続いたイラン・イラク戦争はシーア派のイランによるイスラム革命の影響が及ぶことを恐れたサウジなどの湾岸諸国が当時はスンニ派政権だったイラクを後押しする構図だった。 現在進行中のイエメンやシリアの内戦も、中東地域の覇権を巡る代理戦争の様相を呈している。

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イラク戦争(イラクせんそう)とは

フセイン 政権

青年時代のサッダーム イラク北部の近郊のアル=アウジャ村で農家の子として生まれ、「直進する者」を意味するサッダームの名を受けた。 であり、のちの大統領とはであった。 父フセイン・アブドゥル=マジード(フセイン・アル=マジードとも)はサッダームが生まれた時には既に死んでおり、母スブハ・タルファーフは羊飼いのイブラーヒーム・ハサンと再婚して、サッダームの3人の異父弟を生んだ。 10歳の時から、母方の叔父のもとで暮らした。 8歳の時に、ハイラッラーの娘でにあたると婚約している。 サッダームの敵に屈しない性格とイランを敵視するは、叔父ハイラッラーの影響から生まれたと言われている。 小学生の時から銃を持ち歩き(当時、銃を持つのはティクリート一帯で普通のことであった)、素行の悪さから学校を退学させようとした校長を脅迫して、退学処分を取り消させている。 に叔父とその息子と共にティクリートへ出て叔父が教師を務める同地の中学を卒業した。 バアス党 [ ] に当時、中央政府の教育庁長官になっていたハイラッラーの後を追ってに移り住む。 にに入党する。 このころのサッダームは、バグダードのを率いていたといわれる。 崩壊後のには叔父が教育庁長官の職を追放されるきっかけを作った(当時のイラクは親英派の王制であった)ティクリート出身の男性をハイラッラーの命により銃で殺害した。 ハイラッラーとサッダームは容疑でされたが、証拠不十分でとなった。 は、で革命が起こり、親英の王制が倒されてが樹立に向かっている時期にあたり、ではアラブ民族主義が高まりを見せており、サッダームもナーセルの影響を受けた。 には、イラクでも軍部による()により親英王制が打倒されている。 政治活動 [ ] 亡命 [ ] エジプトに亡命したサッダーム(前列右から3人目) バアス党は親英王制を打倒させについていたがアラブ統一よりもイラクのを優先する政策をとりへの参加に懐疑的だったため、にカースィム首相暗殺未遂事件を起こした。 この事件にの実行犯として関与したサッダームは、カースィムの護衛から銃弾を受けて足を負傷するが、剃刀を使って自力で弾を取り除き、を逃れるために変装し、を泳ぎ継いで、に、ついでに逃れた。 シリア滞在中にはの創始者の寵愛を受けた。 亡命中の欠席により、サッダームは宣告を受けた。 サッダームは、エジプトで亡命生活を送りながら高等教育を受け、に学んだ。 カイロでのサッダームは、何かと周囲に喧嘩を吹っかけるなど、トラブルメーカーであったと、当時サッダームが出入りしていたカフェのオーナーが証言している。 クーデター [ ] に将軍が率いたクーデター()によりカースィム政権が崩壊してが発足すると、サッダームは帰国してバアス党の農民局長のポストに就いた。 また、このころ党情報委員会のメンバーとして、に対する逮捕、投獄、などを行なったと言われているが真偽は不明。 1963年には党地域指導部(RC)メンバーに選出され、バアス党の民兵組織「国民防衛隊」の構築にも関与した。 この年サージダと正式に結婚する。 しかし、この第一次バアス党政権は党内左右両派の権力争いにより政権を追われる()。 、サッダームはアーリフ大統領の暗殺を企てたものの、事前に発覚し、逮捕投獄された。 に獄中でRC副書記長に選出された。 、を騙してし、地下活動を行なう。 、将軍の率いるバアス党主導の無血クーデター()により党は再び政権を握った。 このクーデターでサッダームは、で大統領宮殿に乗り付けて制圧するなど主要な役割を果たしている。 政権ナンバー2に [ ] 1975年、の国王(右)とサッダーム(左) バクル政権では副大統領になり、機関の再編成をまかされ、クーデターに協力したアブドゥッ=ラッザーク・ナーイフ首相の国外追放、イブラーヒーム・ダーウード国防相の逮捕など、バクル大統領の権力強化に協力し、その結果、1969年、(RCC)副議長に任命された。 また、この時期にサッダームはイラク・バアス党をシリア・バアス党の影響力から引き離す工作を始め、「イラク人民とは発祥の地、古代の民の子孫である」とする「 イラク・ナショナリズム」(ワタニーヤ)を(カウミーヤ)と融合させてイラクの新たなイデオロギーに据えた。 このころ、サッダームは治安・を再編成し、その長に側近や親族を充てて、国の治安機関を自らの支配下におき、イラクをに変貌させ、による国民の監視が強化された。 政府省庁や内部にも通称「」と呼ばれたバアス党員の密告者を送りこみ、逐一動向を報告させている。 また、政府の高位職に同郷であるティクリートやその周辺地域の出身者を多く登用している。 そのため、恩恵に与れない他地域の人間の間には不満が募っていった。 そんな中、6月、の国家内務治安長官が、バクルとサッダームの暗殺を企てるが、事前に露見し、サッダームの素早い決断によりクーデター計画を阻止している。 大統領就任 [ ] 大統領に就任したサッダーム(1979年) 7月17日、バクルが病気を理由に辞任すると発表した為、イラク共和国第5代大統領(兼首相)に就任した。 バアス党内には、バクルの突然の辞任に疑問を呈する者もおり、これはバクルが10月に当時対立していたのと統合憲章を結んだためとされた。 1979年7月22日、アル=フルド・ホールで開かれた党臨時会議により、党内部でシリアと共謀した背信行為が発覚したとして、サッダーム自ら一人ずつ「裏切り者」の名前を挙げていき、66人の人物が、会場に待機していた総合情報庁の人間によって外へと連れ出され、その日のうちに革命指導評議会メンバーで構成される特別法廷により、55人の人間が有罪を宣告され、22人は「民主的処刑」と呼ばれた方法、仲間の党員の手によって銃殺となった。 粛清された人間には、サッダームの大統領就任に反対した、ムヒー・アブドゥル=フセイン・マシュハダーニー革命指導評議会・中央書記局長、サッダームの側近の一人だったアドナーン・アル=ハムダーニー副首相、イラクの舵取り役だったムルタダー・ハディーシー元石油相も含まれる。 また、この時に党から除名された人物も後になって暗殺や投獄を受けて処刑され、党内の反サッダーム派は一掃された形となった。 イラン・イラク戦争 [ ] 詳細は「」を参照 、によってにのが成立し、イラン政府は極端な反欧米活動を展開した。 また、革命の波及を恐れていたのは欧米だけでは無く、周辺の・などの・の湾岸アラブ諸国も同様であった。 サッダームは、こうした湾岸諸国の危機感や欧米の不安を敏感に感じ取っていた。 に自らが当時のとの間で締結した合意で失ったの領土的権利を回復し、欧米諸国やスンニ派アラブ諸国の脅威であるイラン・イスラーム体制を叩くことで、これらの国の支持と地域での主導権を握り、湾岸での盟主の地位を目指すというのがサッダームの戦略であった。 また、革命の前年にバグダードで主催した首脳会議でから追放したに代わってイラクをアラブの盟主にすることも画策していた。 また、サッダーム率いるバアス党政権は、イラン革命がイラク国内多数派のシーア派にも波及することを恐れていた。 実際、1970年代には、南部を中心に・ ()率いるシーア派勢力が、中央政府と対立していた。 4月には、外相を狙った未遂事件が発生し、さらに同外相暗殺未遂事件で死亡したバアス党幹部の葬儀を狙ったが起こり、事ここに到ってサッダームは、ムハンマド・バーキル・サドルをし、実妹と共に処刑した。 その間、イラン国境付近では散発的な軍事衝突が発生するようになり、緊張が高まった。 1980年9月17日、サッダームはテレビカメラの前でアルジェ合意を破り捨てて 、同合意の破棄を宣言。 9月22日、イラク空軍がイランのなど数か所を空爆とイラン領内への侵攻が開始され、が開戦した。 を開始した理由は、イスラーム革命に対する予防措置であると同時に、革命の混乱から立ち直っていない今なら、イラクに有利な国境線を強要できると考えたからである。 侵攻当初はイラクが優勢であったが、しだいに物量や兵力に勝るイランが反撃し、戦線は膠着状態に陥り、1981年6月にはイラン領内から軍を撤退させざるを得なかった。 1986年にはイランがイラク領内に侵攻し、南部ファウ半島を占領されてしまう。 サッダームはイラン南部に住むが同じ「アラブ人国家」であるイラクに味方すると思っていたが、逆にフーゼスターンに住むアラブ人たちは「侵略者」であるに対して抵抗し、思惑は外れた。 また、北部ではイランと同盟を組んだ勢力が、中央政府に反旗を翻して武装闘争を開始した。 イラクと敵対していた隣国は、イランを支持してシリアとイラクを結ぶを停止するなど、イラクを取り巻く状況は日増しに悪くなっていった。 こうした中、イラクは湾岸アラブ諸国に支援を求めた。 湾岸諸国もイスラーム革命の防波堤の役割をしているイラクを支えるため経済援助を行った。 また、湾岸諸国に石油利権を持つもイラクに援助を行った。 、、などのの、さらに国内に多くのを抱えていたのやのようなの大国もイランからの「イスラーム革命」の波及を恐れてイラクを支援した。 ソ連()、フランス、中国は1980年から1988年までイラクの武器輸入先の9割を占め 、後のでもこの3国はイラクから最もリベートを受けてる。 さらにイラクには、、、、、、も武器援助を行った。 とはイランを支援したことを理由に1980年に断絶を行った。 また、「計画」としてカナダ人科学者のに全長150m口径1mの非常に巨大なを建設させていた。 サッダームは、イラン・イラク戦争が忘れられた戦争にならないように、戦争と先進国の利害を直接結びつけようとした。 そのためにイラクは、1984年からペルシア湾を航行するタンカーを攻撃することによって、石油危機に怯える石油消費国を直接戦争に巻き込む戦術をとり始め、イランの主要石油積み出し港を攻撃した。 この作戦が功を奏し、両国から攻撃されることを恐れたがアメリカにタンカーの護衛を求めた。 これにより、アメリカの艦隊がに派遣され、英仏もタンカーの護衛に参加してが起きたのであった。 当時、国家イランの影響力が中東全域に波及することを恐れた政権は、イラクを支援するため、まず1982年に議会との協議抜きでイラクを「」のリストから削除した。 1983年12月19日には、を特使としてに派遣し、サッダームと90分におよぶ会談を行った。 にはイラクと国交を回復し、アメリカとの蜜月を築いた。 に至るまでサッダーム政権に総額297億ドルにも及ぶ巨額の援助や、ソ連製兵器情報の供与を条件に、による情報提供を行ったとされ、後にで追及される「 イラクゲート」と呼ばれる ()も起きた。 だが、後に亡命した元軍事情報局副局長によると、サッダームは完全にはアメリカを信用しておらず、「アメリカ人を信じるな」という言葉を繰り返し述べていたという。 1987年にはで即時停戦を求める安保理決議が採択。 1988年にイランは停戦決議を受け入れた。 イラクはアメリカを含む国際社会の助けで辛くも勝利した形となった。 その1年後にはホメイニーが死去し、湾岸諸国と欧米が危惧した「イスラーム革命の波及」は阻止された形になった。 そして、後に残ったのは世界第4位の軍事大国 と呼ばれるほど力をつけたイラクであった。 湾岸戦争 [ ] 詳細は「」を参照 に終結したイラン・イラク戦争は、イラクを中東最大の軍事大国の1つへと押し上げる一方で、かさんだ対外債務や財政悪化、物不足やなど国内は深刻な経済状況にあった。 また、サッダームの長男ウダイが大統領の使用人を殺害するという不祥事も発生した。 サッダームは政権に対する国民の不信が高まらないよう、「政治的」を打ち出した。 現体制を維持しつつ、限定的なを推進して、国民の不満のガス抜きを行う狙いだった。 バアス党を中心に、情報公開、、憲法改正に関する特別委員会を設置し、大統領公選制などを盛り込んだ新憲法案が起草された。 政権が特に推進したのは情報公開であった。 サッダームは各メディアに投書欄を充実させるよう命じた。 だがそこに寄せられる政府批判は予想外に厳しいものであった。 批判はサッダーム個人では無く、官僚批判の形で操作されていたが、や復興の遅れなど、ありとあらゆる分野に苦情が殺到した。 さらに、ちょっとした情報公開でも体制崩壊に繋がりかねないと政権を恐れさせたのは、1989年に各地で起こった民主化であった。 とりわけサッダームが衝撃を受けたのは、のが、89年12月のによりの座を追われて処刑された出来事であった。 サッダームとチャウシェスクは、会議機構の中心的指導者として、互いに親密な関係にあったとされる。 そのため、サッダームはイラクの各機関にルーマニア革命の映像を見せ、同政権崩壊の過程を研究させている。 これを機に「政治的自由化」の動きは失速し、民主化も頓挫したのであった。 その一方で、イラクの軍備は増強されていった。 兵力は180万人に膨れ上がり、戦闘機の数も700機に上った。 サッダームは、イランが停戦に応じたのはイラク軍の軍備増強、兵器による攻撃などイランを力で追い詰めることが出来たからだと考えていた。 軍事大国化こそ勝利の道であるという信念がサッダームに植え付けられ、そのことが戦後も軍備増強を続ける原因になったとされる。 1990年3月、英紙「」の系イラン人の記者が、イラクの化学兵器製造工場に潜入取材をしたとして、の懇願にも関わらず処刑される事件が起きる。 4月に入るとサッダームは「もしイラクに対して何か企てるなら、の半分を焼きつくす」と発言した。 これは、戦後のイラクの軍事的プレゼンスをアラブ諸国に印象づけ、アラブ世界における主導権の獲得を目指した発言であったが、諸国の懸念を呼んだ。 さらに西欧諸国のサッダーム政権に対する懸念と警戒感を呼んだのは、イラクが自国民であるに対してを用いたを行っていたことが、欧米の人権団体により明らかにされた。 こうした事例に加え、イラクが起爆装置を製造しているのではないかという疑惑や、イギリスが長距離砲弾用と思われる筒()をイラクが輸入しようとしていたのを差し押さえるなど、イラクの軍備拡大に警鐘を鳴らす出来ごとが起きた。 欧米のメディアもこぞってサッダーム政権の「残忍性」を批判し、それにイラクが反発するなど欧州との関係は悪化していった。 一方、との関係は非常に良好であった。 アメリカは、1988年から89年までの間にイラクの輸入を急速に増やすと共に、年間11億ドルを越える対イラク輸出を行い、アメリカはイラクの最大の貿易パートナーとなっていた。 また、クルド人に対するイラクの化学兵器使用を非難し、イラクに対する信用供与を停止する決議をが採択しても、アメリカ政府はとりたてて動かず「制裁は米財界に打撃」との理由で、イラクに警告する程度にとどまった。 は自著「イラクとアメリカ」の中でこうした一連のアメリカの対応が、サッダームに「少々のことが起こっても、アメリカは対イラク関係を悪化させたくない」というメッセージとなって伝わったに違いないとしている。 一方でサッダームは、戦後復興のために石油価格の上昇による石油収入の増大を狙っていた。 1990年1月、サッダームは石油価格引き上げを呼びかけ、や同様に戦後復興に苦慮していた敵国イランもイラクの呼びかけに応じた。 しかし、はイラクの呼びかけに答えず、石油の低価格増産路線を続け、逆に価格破壊をもたらした。 イラクはクウェートを非難したが、クウェートは応じなかった。 7月に入るとイラク側は「クウェートがイラク南部のから盗掘している」と糾弾し、軍をクウェート国境に南下させて軍事圧力を強め、クウェートとの直接交渉に臨んだ。 7月26日、クウェートはようやくの会議で、石油価格を1バレル21ドルまで引き上げるとの決定に同意したが、イラクは軍事行動を拡大し、7月30日には10万規模の部隊が国境に集結した。 こうして1990年8月2日、イラクがクウェートに侵攻した。 当初は「クウェート革命勢力によってが打倒され、暫定政府が樹立された」として、「クウェート暫定政府による要請で」イラクがクウェートに駐留すると発表していた。 イラクがクウェートに侵攻した理由について、上記の石油生産を巡る政治的対立の他にも、歴代のイラク政権が時代の行政区分でクウェートがバスラ州の一部であったことを根拠に領有権を主張していたことや、クウェート領であるワルバ・ブービヤーン両島がイラクのに通じる狭い航路をふさいでおり、それを取り除いて石油輸出ルートを確保しようとしたとも言われている。 政権崩壊後、米国のの取調官がサッダームにの理由について尋ねると、原油盗掘などの懸案協議に向け外相を派遣した際、クウェート側から「すべてのイラク人女性を売春婦として差し出せ」と侮辱されたといい、「罰を下したかった」と述べたとされ、侵攻に向けた決断が感情的なものであったことが明らかになった。 しかし、このイラクの軍事侵攻は国際社会から激しい批判を浴び、アメリカは同盟国サウジアラビア防衛を理由として、空母と戦闘部隊を派遣した。 は対イラク制裁決議とクウェート撤退決議を採択した。 これに対してサッダームは、8月8日にクウェートを「イラク19番目の県」としてイラク領への併合を宣言。 同時に、イスラエルが占領地から撤退するならば、イラクもクウェートから撤退するという「パレスチナ・リンケージ論」を提唱し安保理決議に抵抗した。 また、日本やドイツ、アメリカやイギリスなどの非イスラム国家でアメリカと関係の深い国の民間人を、自国内の軍事施設や政府施設などに「」として監禁した。 このサッダームの姿勢は、など一部のアラブ民衆には支持されたが、同じのや、国であるもイラクに対して「クウェート侵攻以前の状態に戻る」ことを要求し、国際社会の対イラク包囲網に加わった。 12月に入って、イラクが1月15日までにクウェートから撤退しないのなら、「必要なあらゆる処置をとる」との武力行使を容認する安保理決議を採択した。 1991年1月17日、を中心とするが対イラク軍事作戦である「砂漠の嵐」作戦を開始し、イラク各地の防空施設やミサイル基地を空爆。 ここに湾岸戦争が開戦した。 サッダームは、多国籍軍との戦力差を認識しており、開戦後はいかにしてイラクの軍事力の損失を防ぐか、被害を最小限に食い止めるかに重きを置いており、空軍戦闘機をかつての敵国であるイランに避難させたりしている。 同時に、を使ってサウジアラビアやイスラエルを攻撃させている。 イスラエルを攻撃したのは、イスラエルを戦争に巻き込むことによって争点をパレスチナ問題にすり替えて、多国籍軍に加わっているアラブ諸国をイラク側に引き寄せようとの思惑であったが、アメリカがイスラエルに報復を自制するよう強く説得したため、サッダームの思惑は外れた。 2月に入り、サッダームと個人的に親交のあったの外相がバグダードを訪れてサッダームと会談し、停戦に向けて仲介を始めた。 そして外相と大統領との間の交渉により、撤退に向けて合意した。 その一方でイラクはクウェートの油田に放火するなどを始めた。 これに反発したブッシュ政権は2月24日、アメリカ軍による地上作戦を開始。 ここへきてサッダームはイラク軍に対してクウェートからの撤退を命じ、2月27日にはクウェート放棄を宣言せざるを得なかった。 4月3日、国連安保理はイラクの廃棄とイラクに連行されたクウェート人の解放を義務とした安保理決議を採択。 4月6日、イラクは停戦を正式に受諾し、湾岸戦争は終結した。 国連制裁下の政権 [ ] この節のが望まれています。 敗戦によるの隙をついて、国内のとが政権への反乱を起こした()。 民衆蜂起はまず南部で拡大し、一気に全国18県中14県が反政府勢力側の手に落ちた。 しかし、反政府勢力が期待していたの支援は無かった。 はと同じシーア派勢力の台頭を警戒しており、イラク国民に対してはサッダーム政権を打倒するよう呼びかけたが、自ら動くことは無かった。 アメリカが介入しないとみるや、サッダームは温存させてあった精鋭の共和国防衛隊を差し向けて反政府勢力のに成功する。 この際、反政府蜂起参加者に対して、非常に苛烈な報復が行われ、シーア派市民に対するが発生した。 政権による弾圧の犠牲者は湾岸戦争の犠牲者を上回る10万人前後と言われている。 南部の反乱を平定すると、政権は北部のクルド人による反乱を抑え込もうと北部に兵を進めた。 この時、サッダーム政権による化学兵器まで用いた弾圧の記憶が生々しく残っているクルド人たちは、一斉に国境を超え、大量のが発生し、人道危機が起こった。 こうした事態を受けて、米英仏が主導する形でイラク北部にを設置する決議が採択され、イラクのの飛行が禁止された。 1991年6月には、政権による強引な水路開発計画に抗議するため、南部の湿地帯に住むマーシュ・が反乱を起こした。 この反乱もマーシュ・アラブ人が住む湿地帯を破壊するという容赦の無い弾圧で抑え込んだものの、これにより飛行禁止空域はイラク南部にも拡大された。 飛行禁止区域は2003年まで設定され、米英軍のがの防空兵器を空爆したり、区域を侵犯したイラク軍機を撃墜するなどした。 1993年1月、サッダームは南部の飛行禁止空域にを設置し、再び国際社会を挑発する行動に出た。 この時期、アメリカではの結果、を破って当選したのの数日前という微妙な時期であった。 サッダームはこの時期ならばアメリカは軍事行動を起こせないと見込んでいたが、地対空ミサイル設置は国連安保理決議違反であるとして、米英仏によるによる空爆を招いてしまう。 その結果、地対空ミサイルやレーダー施設、核関連施設などが爆撃された。 1993年4月には、を訪問したブッシュ前のを企てていたとして、のがされるという事件が起こった。 同年6月、この報復として、アメリカ軍は23発をに発射し、イラクの「総合情報庁」の本部を攻撃している。 政権崩壊 [ ] イラク戦争 [ ] 詳細は「」を参照 2001年9月11日、が発生。 9・11テロについてもサッダームは演説で「アメリカが自ら招いた種だ」と、テロを非難せず、逆に過去のアメリカの中東政策に原因があると批判、同年10月20日まで哀悼の意を示さなかった。 同時テロ以降のは、を支援しているとしてサッダーム政権のイラクに強硬姿勢を取るようになった。 もっともイラク攻撃自体はアメリカ同時多発テロ事件以前から、湾岸戦争時のであったや国防長官を中心とする政権内部の対イラク強硬派、いわゆるらによって既に議論されていたようである。 ただし、サッダーム政権転覆計画については、前のクリントンから対イラク政策の腹案の一つとして存在していた。 2002年1月、アメリカ合衆国の政権は、をやと並ぶ「 」と名指しで批判した。 から3月まで、イラクはに基づくの全面査察を受け入れた。 2003年3月17日、ブッシュは48時間以内にサッダーム大統領とその家族がイラク国外に退去するよう命じ、全面攻撃の最後通牒を行った。 、、は回避のためにをするように要請したがサッダームは黙殺したため、開戦は決定的となった。 2003年、ブッシュ大統領は予告どおりイラクがを廃棄せず保有し続けているという大義名分をかかげて、国連安保理決議1441を根拠としてを開始。 攻撃はが主力であり、もこれに加わった。 開戦初日の20日に、サッダームは長男ウダイが経営する「シャハーブ・テレビ」を通じて録画放送ではあったが国民向けの演説を行い、自身の健在をアピールした。 この時のサッダームは普段の演説スタイルとは違い、場所不明の部屋の椅子に座り、老眼鏡を掛けて演説原稿を何度も折り返しながら読んでおり、欧米メディアや当局者などが「演説しているのは影武者」「最初の空爆で死亡もしくは重傷を負った」などと憶測報道・会見を行なった(なお、開戦初日の攻撃はサッダームの誤った所在情報を下にして行なわれた作戦であったことが後に明かされた)。 開戦当日以降も政権崩壊までの約3週間の間に国民に向けた演説や幹部を集めた会議の様子を収めた映像が国営テレビなどにより数回放送された。 、は陥落したが、サッダームは既にしていた。 アラブ首長国連邦の衛星チャンネル「・テレビ」にて、サッダームが次男のクサイと共にバグダード北部のアーザミーヤ地区を訪れ、サッダームを支持する群集の前に姿を現した映像が放送された。 AP通信が2007年12月に、当時その場にいた元教師Abu Rimaの証言を元に報じた取材記事によると、この時サッダームはアーザミーヤ地区にあるアブー・ハニーファモスクの前に現れ、小型トラックの上に立って200人の群集を前に「我々がアメリカ人を撃ち破るなら、私はアーザミーヤに黄金の記念碑を建てることを人々に約束する」と語ったという。 丁度その時、同じバグダードのフィルドゥース広場ではアメリカ軍と市民によりサッダーム像が引き倒されていた。 Abu Rimaによるとサッダームは、4月9日の昼過ぎにアブー・ハニーファモスクに現れ、次男のクサイ、大統領秘書官のを伴っていたという。 サッダームは軍服、クサイは紫のスーツを着ており、小型トラックの上に立っていた。 ある女性がサッダームに「疲れているのでは」と声を掛けると、「私は疲れていません。 インシャッラー、イラクに勝利を」と話したが、明らかに疲労の様子が伺えたという。 その日の夜サッダームは同地区にあるアブー・ビシャール・アル=ハアフィーモスクに一晩泊まった後、翌10日の午前6時ごろ、川を船で渡って対岸のカーズィミーヤ地区に向かって姿を消したという。 また、同じ9日に撮られたと思われる最後の国民向け演説の録画テープが、バグダード陥落後に発見され、メディアに公開された。 未編集だったのか、テープには演説途中に咳き込んで演説を途中で止めたり、カメラマンにうまく撮れたか確認するサッダームの様子が写っていた。 英紙「サンデータイムズ」の報道によれば、4月11日までサッダーム父子と行動を共にしていた共和国防衛隊参謀総長のの証言として、4月11日に車でバグダードを離れる際に車中で『もう終わりだ』と述べて敗北を認めた様子だったという。 サッダームに取り乱れた様子は無かったが、次男クサイは『一緒に逃げよう』と泣いて懇願した。 サッダームはそれを拒否し、『生き延びるためには別々に行動した方がよい』と聞き入れなかったという。 また、4月7日にバグダードのある地区で、サッダーム父子も参加する会議が開かれたが、父子が帰った10分後に彼らがいた建物がアメリカ軍に爆撃されたとも証言した。 後にアメリカの(FBI)の取調官に対しても、自分は4月11日までバグダードに潜伏しており、前日の10日に数人の側近と会合を持ち、アメリカ軍に対する地下闘争を行うよう指示したとされる。 、ブッシュ大統領はサンディエゴ沖の上に浮かぶ空母にて演説、戦闘終結宣言を出した。 サッダームは、戦闘終結宣言以降も行方不明であった。 時折、音声テープを使ってイラク国民や支持者に対してアメリカ軍に抵抗するよう呼びかけた。 アメリカ軍も度重なるサッダーム捕捉作戦を行い、この間サッダームの息子ウダイとクサイを殺害したが、サッダームの拘束には失敗している。 サッダーム逮捕 [ ] 米兵に取り押さえられた直後のサッダーム。 転機は、7月に拘束されたサッダームの警護官の供述であった。 この供述を元にアメリカ軍は2003年12月13日、サッダーム拘束を目的とした「赤い夜明け作戦」を決行。 サッダームはとにより、イラク中部にある隠れ家の庭にある地下穴に隠れているところを見つかりされた。 拳銃を所持していたが抵抗や自決などは行わなかった。 アメリカ軍兵士によって穴から引きずり出されて取り押さえられ、「お前は誰だ?」という問いに対し、「 サッダーム・フセイン。 イラク共和国大統領である。 交渉がしたい。 」と答えたとされる。 この時、アメリカ軍通訳のイラク人の姿を見るなり「裏切り者」と叫んで唾を吐きかけたため、この亡命イラク人に殴打されている。 ただし、後にサッダーム自身がを通じて語ったところによれば、「穴倉に潜んでいたのでは無く、朝の礼拝中に襲われた。 米兵に足を叩かれて、で眠らされた」とアメリカ軍発表を否定しており、「銃は持っていなかった。 持っていれば戦って自分は者になったはずだ」と語ったという。 なお、サッダームが隠れていた民家は、1958年にカースィム首相暗殺未遂事件を起こしたサッダームが、潜伏の際に使用した隠れ家と同じ民家であったと、後にサッダームがFBIの尋問で明らかにした。 獄中生活 [ ] 逮捕後のサッダーム(2003年12月14日) サッダームは、拘束後にアメリカ軍の収容施設「キャンプ・クロッパー」に拘置された。 ここでのサッダームの生活は、主に詩の創作、庭仕事、読書、聖典の朗読に占められた。 独房は窓のない縦3メートル、横5メートルの部屋で、エアコンが完備され、プラスチックの椅子が2つ、礼拝用の絨毯が1枚、洗面器が2個、テレビ・ラジオは無く、から送られた小説145冊が置かれていた。 庭には小さなヤシの木を囲むように白い石を並べていたという。 他人に自分の服を洗われることを拒否し、自分で洗濯を行っていたという。 エイズ感染を極度に恐れており、のアメリカ兵らの洗濯物と一緒に自分の洗濯物を干さないよう頼んでいたという。 また、米国製のや、などのも楽しんでいたとされ、2004年にや、を患った以外は病気はせず、逆に体重が増えてダイエットに励むなど健康的な生活を送っていた。 アメリカ軍側は、口ひげや顎ひげを手入れするハサミは支給しなかったという。 獄中で、サッダームは、を介して、に滞在する長女のラガドや孫のアリーに手紙を送っており、2004年8月2日に孫アリーへ届いた手紙では「強い男になれ。 私の一族を頼む。 一族の名声をいつまでも保ってほしい」と記した。 2005年5月、英大衆紙「」が、サッダームの獄中での生活を撮った写真を掲載。 独房で睡眠中の写真やサッダームの姿の写真が掲載され、波紋を呼んだ。 これに関しては、イラク国民の間からも「いくら独裁者でも、元大統領に対して非礼」と反発する意見が噴出した。 2005年10月と12月に行われたイラク新憲法を決めると選挙について、サッダームは獄中からイラク国民に投票ボイコットを呼びかける声明を出した。 ジャーナリストのロナルド・ケスラーの本『The Terrorist Watch 』によると、系米国人でFBI・対テロ部門主任のジョージ・ピロの回想として、サッダームは異常なで、手や足を隅々まで拭くために、乳幼児用のウェットティッシュを差し入れたところ、ピロはサッダームの信頼を得たという。 中も1日5回のを欠かさない敬虔なではあったが、一方で、高級やの 「ブルーラベル」と製を好んだ。 また、女性にはよく色目を使いアメリカ人の女性看護師が採血に現れたとき、「君は可愛いらしいね」とで伝えるよう頼んだとされ、大統領在任時とほとんど変わらない生活を送っていたようだ。 また、影武者存在説については「誰も自分を演じることはできないだろう」「映画の中の話だ」と否定したとされる。 2人はよく歴史や政治、芸術やスポーツなどについても語り合った。 ある日サッダームはFBIから支給されたノートを使って愛についての詩作を始めるなど、意外な一面も見せた。 また、診察に来た医師に対して、「私がもう一度結婚して子どもをもうけることをがお許しになりますように。 その子たちにはウダイとクサイ、ムスタファーと名付けよう」と、死んだ自分の息子と孫の名を口にして冗談を言ったという。 歴代のの評価についてピロが質問すると、を嫌悪しながらも、アメリカ人には親近感を抱いており、やについては尊敬の念すら示したという。 また、湾岸戦争については、アメリカ軍の戦力を過小評価していたと語り、イラク戦争では「ブッシュ政権が本気でイラクを攻撃してくるとは思わなかった」とし、2つの戦争における自らの対応は戦略的誤りであったとした。 一方、1980年代に政権によってクルド人に対する化学兵器を使用した大量虐殺について「必要だった」と正当性を主張。 1990年のクウェート侵攻については、侵攻前に行われた両国外相会議の際、クウェート側代表から「すべてのイラク人女性をとして差し出せ」と侮辱されたといい、「罰を下したかった」と述べたという。 サッダームは、イラクが大量破壊兵器を開発済であり、WMDを完成させて密かに国内のどこかに隠し持っているかのように振舞い続けたが、ピロから「なぜ、かかる愚かな行為をしたのか」と問われた際、サッダームは「湾岸戦争での敗北以降、通常戦力は大幅に低下したため、大量破壊兵器を持っていないことが明らかになると、イランやシリアに攻め込まれ、国家がなくなってしまうのではないかとの恐怖があったから」と答えている。 また、国連による制裁がいずれ解除されれば、計画を再開できるとも考えていた。 に新たに公表されたピロの尋問記録にも、同様の趣旨のことを話しており、国連査察を拒んだ場合の制裁よりも、イラクのWMDが存在しないことが明らかになり、イランに弱みを見せることの方を恐れたという。 またサッダームは、獄中記でにとってよりイランが脅威であると評しており 、イランのイスラーム体制の指導部を過激派と呼び、嫌悪していたという。 との関係についても否定し、を狂信者と呼び、「交流することも、仲間と見られることも望んでいなかった」とし、逆にアルカーイダを政権にとっての脅威と捉えていたという。 ピロによれば、尋問日程がすべて終了すると、サッダームは感情的になったという。 「私達は外に座り、キューバ葉巻を2、3本吸った。 を飲み、他愛ない話をした。 別れの挨拶をすると彼の目から涙があふれた」という。 またピロは「彼は魅力的で、カリスマ性があり、上品で、ユーモア豊かな人物だった。 そう、好感の持てる人物だった」と回想している。 同様の感想をサッダームがされたアメリカ軍収容所の所長だったジェニス・カーピンスキー元も述べており、よく若い監視役のアメリカ憲兵の話相手となり、ある時はアメリカ兵の職場結婚の相談などにも応じていたという。 カーピンスキーによるとサッダームは「お前は本当に司令官なのか?」とアメリカ軍に女性の将校がいることに関心を示し、「新イラク軍には、女性の司令官を新たに任命する」と語ったという。 また、サッダームの世話を担当したロバート・エリスアメリカ陸軍曹長が、2007年12月31日付きの米紙『セントルイス・ポスト・ディスパッチ』ので証言したところによると、看守のアメリカ兵達はサッダームを勝利者を意味する「victor」(ヴィクター)というニックネームで呼んでいたという。 エリス曹長は、2日に一回独房を見回っていた。 ある時、サッダームが自作の詩を読む声が聞こえ、それから互いに言葉を交わすようになったという。 自分が農民の子で、その出自を1度も忘れたことはないこと、自分の子に本を読み聞かせして寝かせたこと、娘がお腹が痛いと言ったときにあやしたことなどを語ったという。 また、葉巻とコーヒーは血圧に良いとして、エリスに葉巻を勧めたこともあったという。 エリスによれば、不平を言わない模範囚であり、アメリカ兵に敵対的な態度は見せなかった。 一度だけ、不平を訴えてハンストを起こした。 食事をドアの下の隙間から差し入れたからである。 その後、ドアを開けて食事を直接届けるようになると、すぐにハンストをやめたとされる。 ある時、サッダームが食事のをとっておき、庭で小鳥に食べさせていたのをエリスは見ている。 また、サッダームがエリスにアメリカ兵がを撃つ姿をジェスチャーで示しながら、『米軍はなぜ、イラクに侵攻したのだ』と質問したという。 「国連の査察官は何も見つけなかっただろう」とも述べた。 ある日、米本国にいるエリスの兄弟が死亡したため、米国に帰国しなくてはならなかったとき、サッダームは「お前はもう、オレの兄弟だ」と言ってエリスを抱きしめ、別れを惜しんだという。 サッダーム自身も弁護士に対し、「アメリカの兵士が私にサインをよく頼みに来る」「私は、イラクが(自分の手で)解放されたら、私の国に来るように彼らを招待した。 彼らは承諾してくれた」と米兵との交流の様子を明かしている。 サッダームの個人だったハリール・アッ=ドゥライミーは、2009年10月にアラブ圏で出版された回顧録『Saddam Hussein Out of US Prison』の中で、2006年夏にサッダームは米軍拘置施設からの脱走を計画していたことを明かした。 計画では、旧政権支持者とサッダームの元警護官で構成する武装集団が、バグダードのグリーンゾーンと国際空港にある基地を襲撃し、その隙に空港近くにある拘置施設キャンプ・クロッパーからサッダームを脱獄させ、イラクの武装勢力をまとめてイラク政府や駐留アメリカ軍を攻撃するために、西部まで逃亡させる計画だったという。 サッダームは、自分以外にも、同じく収監されているかつての自分の部下である、旧政権高官もさせることを望んでいた。 しかし、計画は別の武装勢力がキャンプ・クロッパー郊外でアメリカ軍と銃撃戦を行なう事件が起き、その結果、施設のが強化されたため未遂に終わったという。 その6ヵ月後、サッダームは処刑された。 ハリールの本によれば、サッダームはキャンプ・クロッパーに収監されている収容者にその計画を話したとされ、「イラクが解放されれば、私はこの国を誰からの援助も無しで、7年で発展させる」「イラクをのようにする」と語ったという。 裁判 [ ] 2004年7月、予審で意見を述べるサッダーム・フセイン 2004年7月1日、などの罪で訴追され、予備審問のためイラク特別法廷に出廷した。 訴追容疑に1990年のクウェート侵攻が加えられていることに「共和国防衛隊がイラクの権利を行使しただけだ」「公的行為が犯罪なのか?」と声を荒らげる一幕もあった。 状に署名するよう促されたが「弁護士が来るまで署名はしない」と拒否した。 この審問の様子は映像で公開されたが「ブッシュこそ犯罪者」と語った場面は放送されず、却ってイラクの地域やアラブ世界にサッダームの威信を高めるだけとなり、以後予審は2回ほど行なわれたが、音声無しの映像公開となった。 イラク特別法廷長官(当時)のサーリム・チャラビーは、予審前の6月30日にサッダームと3、4分面会した。 主権移譲によりサッダームの身柄がアメリカ軍からに移ったことを説明するためだが、彼は「私はサッダーム・フセイン。 イラク共和国大統領だ」と居丈高に告げたという。 サッダームは拘束時に伸びていたあごひげをそり落とし、トレードマークの口ひげを生やしてアラブの伝統衣装を身にまとっていた。 健康そうだったが拘束当時よりも痩せており、とても神経質そうだったという。 この間、サッダームはずっと座ったままで、周りに立っているチャラビーらに質問しようとしたが、チャラビーが「明日まで待ってほしい」と遮った。 サッダーム弁護団のスポークスマンであるヨルダン人のズィヤード・ハサウネ弁護士によると、2004年12月16日にサッダームの私選弁護人であるハリール・アッ=ドゥライミー弁護士と接見した際、自身のについて「恐れていない。 始まれば多数の当事者を巻き込む過去の情報を公にする」と述べ、欧米諸国との過去を裁判において暴露すると語った。 ハリール弁護士との4時間にわたる面会でサッダームは、弁護団の名称を「サッダーム・フセイン・イラク大統領弁護支援委員会」と改名するよう指示、メディアや人権団体などを活用するよう求めた。 政権崩壊後のイラクで活動については、「称賛する。 以前から練られていた計画によるものだ」と戦争前から外国軍に対するゲリラ戦を想定していたかのように発言した。 2005年7月21日、UAEのテレビ局「アル=アラビーヤ」が、予審の際に「弁護士と面会出来ないのか?」と不満を口にする映像を放送した。 クルド人の財産没収に関する予審で、サッダームは白いシャツにグレーの上着姿で登場。 かすれ気味の声ながら、挑発的な発言を繰り返した。 弁護士との面会が制限されていることについて「これで公正なのか」と反発を示し、判事が「イラク政府による拘束」に言及すると「どの政府だ」と聞き返し、「私はアメリカが任命したイラク政府に拘束されている。 これは策略だ」などと主張した。 度重なる発言を、予審判事が声を荒らげて制止する場面もみられた。 7月28日には、1991年に起こったシーア住民に対する大量虐殺事件についての予審の最中、席を立とうとしたサッダームに対して何者かが法廷に乱入し、素手で殴りあうという事件が発生した。 襲撃した人物や両者の負傷の有無は不明。 弁護団の発表によれば予審判事も法廷のもこれを止めようとしなかったと非難した。 その後、虐殺事件のを担当し、サッダームに尋問を行っていたタハシーン・ムトラクが2010年にの取材に応じて真相を明らかにした。 ムトラクによれば、尋問の日、黒っぽいジャケットに白いシャツ姿だったサッダームは「自分は軍最高司令官だ」「イラク人の中で(自分は)もっとも勇敢な人間だ」と自慢を始めた。 これに対して捜査担当判事が「(03年12月)拘束時になぜ穴に隠れていたのか」と聞くと、サッダームは激高して罵り始め、弁護士が尋問の中止を求めた。 ムトラクがサッダームを部屋から連れ出そうと腕を取ると激しく抵抗され、この一件が弁護団によって「元大統領が暴行を受けた」と発表されたとのことである。 2度目の尋問は2006年2月に行われたが、6時間の取り調べでサッダームは黙秘を貫いたという。 10月18日の初公判の前に、ドゥライミー弁護士との面会でサッダームは「自分は無実だ」「(罪状には)気にとめていない」などと語ったという。 10月19日、バグダードの高等法廷で、1983年にイラク中部の村において住民140人以上を殺害した事件の初公判が開かれた。 だが、初公判の時に裁判長(当時)の人定質問に答えずにを法廷中に唱えたり、名前を聞かれても名乗ることはなく、裁判そのものに対する拒否の意思をはっきりと示した。 また、裁判長がサッダームの経歴を朗読した際には「元ではない。 今も共和国大統領だ」と発言し、自身こそがイラクの合法的な大統領であると発言した。 一方で、裁判長を持ち上げるような発言も行った。 12月6日のでは、「サッダーム・フセインを弁護するためではなく、イラクが気高くあり続けるための率直な発言を許してほしい」と述べ、裁判長に対しても「あなたに圧力がかかっているのは分かっている。 わたしの息子の一人(裁判長を指す)と対峙しなければならないのは残念だ」と裁判長の職務に理解を示すような発言をしたかと思えば、「こんなゲームが続いてはいけない。 サッダーム・フセインの首が欲しければくれてやる」「私は死刑を恐れない」などと発言し、アミン裁判長を挑発した。 この日の公判では、事件のが側証人として出廷。 サッダームは、証人に対しても「小僧、私の話のこしを折るな」と述べ、挑発的な態度を崩さなかったが、一方で、の様子やでの実態を涙ながらに語る女性証人の証言の最中には、動揺した様子で顔をうつむいて静かに話に聞き入るなど、他の男性証人に対しては違う態度を見せた。 しかし、公判の最後では、弁護側の要求を無視して翌7日の公判開始を決めたアミン裁判長に対し、「不公正な裁判にはもう出ないぞ。 地獄へ落ちろ!」と罵る一幕もあった。 7日の公判では、同日に弁護側と接見出来なかったことに抗議してサッダームは出廷せず、他の被告は出廷したものの、開廷が4時間近く遅れ、サッダーム不在のまま裁判は続けられた。 12月21日、数週間ぶりに再開された公判には出廷したが、自身を「サッダーム」と呼び捨てにした検察側証人に「サッダームとは誰だ」と声をあげるなど、強気の姿勢を見せた。 、サッダームはイラク中部ドゥジャイルのシーア派住民148人を殺害した「」により、死刑判決を言い渡された。 サッダームは判決を言い渡されると、「イラク万歳」と叫び、裁判を「戦勝国による茶番劇だ」として非難した。 に開かれた第2審でも、第1審の判決を支持し、弁護側の上訴を棄却したため死刑が確定。 翌27日、サッダームはイラク国民向けの声明を弁護士を通じて発表し、「神が望むなら、私はに列せられるだろう」と死刑を受け入れる姿勢を見せると共に、イラクで当時激化していた宗派対立に言及し、「イラクの敵である侵略者とがあなたたちに憎悪をくさびを打ち込んだ」とアメリカとイランを非難。 そして、「信仰深き国民よ、私は別れを告げる。 私の魂は神のもとへ向かう。 イラク万歳。 イラク万歳。 パレスチナ万歳。 聖戦に万歳。 神は偉大なり」と結んでいる。 弁護士に対しては、「イラク国民が私を忘れないことを願う」と述べたという。 死刑執行 [ ] 「」も参照 2006年、サッダームは、アメリカ軍拘置施設「キャンプ・ジャスティス」から移され、のアーザミーヤ地区にあるにて、によるが執行された。 アメリカは処刑を翌年まで遅らせるようイラクに要請したが、政権は国内の「サッダーミスト」(サッダーム支持者)が本人の奪還を目的にを起こしかねないとの懸念から受け入れず、関係者共々刑を執行した。 サッダームの死刑にシーア派勢力・市民は歓喜し、一方スンナ派勢力・市民は現政権を非難した。 死後 [ ] 刑執行後、サッダームの遺体は故郷であるアウジャ村のに埋葬された。 埋葬後は、住民らによって葬儀が執り行われた。 その後もサッダームの誕生日と命日には地元児童らが「課外授業」の一環として、サッダームの墓前に花を捧げ、彼を讃える歌などを合唱していたが、2009年7月、イラク政府は当局に対して集団での墓参りを止めるよう命じた。 イラク政府の指導に反して、その後も主にスンナ派アラブ人のイラク国民やサッダーム支持者が墓のあるモスクを訪れ、サッダームがかつて住んでいたにある旧大統領宮殿と並んで半ば「聖地」のようになっていたが、2015年にイラク政府軍がイスラム国()からティクリート奪還作戦を行った際の戦闘によりサッダームの墓も破壊された。 ただし、どちらの攻撃で破壊されたのか、或いは戦闘の巻き添えで破壊されたのか、または意図的に破壊されたのかは不明である。 サッダームが所有していたものの、一度も乗ることがなかった豪華船「バスラ・ブリーズ号」が現存している。 イラク政府が売却を試みたが買い手が見つからず、港でホテルに転用された。 サッダーム政権 [ ] 倒されるサッダームの銅像 政治スタイル [ ] 反対派への、それによる、から諸外国から典型的なとして恐れられた。 特にサッダームはの政治スタイルを手本にしたとされる。 事実、サッダーム体制にはの特徴が見受けられる。 でを掲げて侵攻するに勝ったスターリンをかつての、その戦いがあったを、「サッダーム・シティ」に見立てた。 サッダームはスターリンをというよりと見ているとの政治家は推察している。 オスマーンによると、大統領宮殿のサッダームのオフィスにはスターリンに関する本が揃えてあり、オスマーンが「スターリンがお好きなようで」と言うと、「そうです。 彼の統治の仕方が気に入っているので」と答えた。 オスマーンが「あなたは共産主義者なのか?」と質問すると、サッダームは「スターリンが共産主義者とでも言うのかね」と反論したという。 また、史上初のをつくったとして、愛国者だったとして、、なども称賛していた。 しかし、サッダームの主治医アラ・バシール医師によるとサッダームは1度もスターリンについて語らなかったとし、サッダームが尊敬していたのはスターリンではなくの元であったという。 とりわけド・ゴールを「世界でもっとも偉大な政治家」と絶賛し、「彼は戦争の英雄、愛国者、立派なナショナリスト、フランス文明の真の産物」と評し、話をすると決まって最後はド・ゴールの話になったという。 者であるとも個人的に親しくしていた。 ちなみにについては「奴はを見下していた」と嫌っていたという。 警察国家 [ ] また、サッダーム政権下のイラクでは、幾つもの治安機関が存在し、の監視や反体制的言動の摘発に当たっていた。 主な物では、総合諜報局、総合治安局といった組織で、相互連携することなく、別個に行動している。 治安機関は、あらゆる市民社会に侵入し、の運転手、の店員などが治安機関の人間である場合もあった。 こうしたによる監視網は、国民を恐怖という心理で支配するだけでなく、隣人、家族、友人同士が互いに互いを監視し、密告し合う社会が形成された。 親が家で言ったことを子供が学校で喋ってしまい、教師が治安機関に通報したというケースもあったと言われる。 このため、サッダーム体制のイラクを、イラク人ので有名なは「 恐怖の共和国」と名付けた。 1980年ごろ開発の作業を拒否した科学者のの体験は凄惨を極め、22日間にわたり電気ショックなどのを受けたうえ、までの11年間を獄中で過ごしたという。 アメリカのテレビで告白し、恐怖政治の実態が明らかになった。 監視だけでなく、市民に対する恣意的や拷問も日常的に行われた。 によるとサッダーム時代には107種類の拷問がイラク各地ので行われていたとしている。 その拷問はわざと苦痛を感じさせて、障害を残すような極めて残忍な拷問である。 の報告によるとサッダーム政権下で約29万人が失踪あるいは殺害されたと報告している。 イラク現政府は、「サッダーム・フセイン時代の恐怖展」を開き、拷問道具や犠牲者の遺品などを展示した。 個人崇拝 [ ] サッダームが大統領に就任すると、自身への崇拝が強化され、イラク国内には彼の巨大な彫刻、銅像、肖像画やポスターが飾られるようになった。 それらを制作する専門の職人がいたほどであり、国民の人口よりサッダームの銅像やポスターの方が多いという笑い話が作られたほどである。 サッダームに対するは、中東でも異例であり、突出していた。 国営テレビは、毎日のようにサッダームを称える歌・詩を放送しており、歌の数は200種類あるとされていた。 イラクのテレビ・ラジオの監督部門の長を務めた人物の証言によると、サッダームもこれらの放送を見ており、一時、テレビで歌を流す回数を減らしてのドラマを放送していた(実際、素人臭い作品ばかりで、出来の悪い歌が多かったためである)。 これに気づいたサッダームは、担当者を呼びつけて放送を元に戻すよう指示したとされる。 また、アラブや古代の過去の英雄たちも引き合いに出され、即ち、サッダームはや、、にならぶ偉大な指導者であるとされ、あげくの果てに偽造ともされる家系図を持ち出しての子孫と喧伝された。 また、の英雄サラーフッディーンを同じティクリート出身のために尊敬・意識していたという説もあるが、皮肉にもサラーフッディーンはサッダームが苛烈な弾圧を行ったクルド人の出身である。 サッダームの主導でなどの再建計画が開始された古代遺跡の入り口にはサッダームとの肖像画が配置され、碑文には「ネブカドネザルの息子であるサダム・フセインがイラクを称えるために建設した」と刻まれ 、サッダームは遺跡群内にを模した宮殿もつくろうとした。 同様の計画が遺跡、遺跡、遺跡、遺跡でも行われた。 イラク近代化 [ ] 独裁者として、イラクを恐怖で統治していたサッダームであるが、1970年代から80年代に掛けて、イラクをアラブで随一の社会の世俗化を図り、近代国家にしたという功績がある。 その一つがイラク石油国有化である。 バアス党政権はと共同で南部最大のを開発させた後、に国家的悲願だった事業のを断行した。 長年イラクは外資系のイラク石油会社に権益を独占され、石油が国家に還元されていなかった。 一般に、石油国有化はサッダームの功績の一つにあげられているが、実際に計画を立てて指揮を執ったのは、当時の石油大臣であるムルタダー・アル=ハディーシーであり、政治決断をしたのがサッダームである。 バアス党政権は、国富の公平な配分を掲げていたが、が限られていたため国有化後も、思うような成果が上がらなかった。 事態が好転したのは1973年。 の原油価格が4倍に急騰した時だった。 このころを境にイラクの石油は伸び続け1980年には、1968年から比較して50%の260億ドルに達した。 この石油収入を背景にバアス党政権は第3次五ヵ年計画を立て、上中流階級の解体、経済と国有化推進、イラクの経済的自立を目指した。 石油産業、軍装備、はソ連、その一部を、建設は、生産施設は、旧ユーゴスラビア、東西、中国、にはハイテク分野のや、専門技師の派遣を要請した。 これにより、バアス党政権は約400億ドルを懸けて第4次五ヵ年計画を進め、全国に通信網・電気網を整備し、僻地にも電気が届くようになった。 家庭には無料で家電が配布された。 また農地解放により、の機械化、農地の分配を推進し、最新式の農機具まで配られ、国有地の70%が自営農家に与えられた。 こうした政策により、1970年代後半にはイラクの人口は35%増加した。 また、水利事業にも積極的であり、ドイツ、の協力で(旧サッダーム・ダム)、ソ連の協力で、中国の協力でなども完成させた。 における国営部門の比率も72年には35. 9%だったのに対し、77年には80. 4%と増加。 事実上、バアス党政権が、国民に富を分配する唯一の存在となり、最大の「 雇用主」であった。 1970年から1980年まで年率11. 9%という二桁の経済成長でイラクの一人当たりは中東で最も高くなり、サウジアラビアに次ぐ世界第2位の石油輸出国になった。 他にもサッダームはイラク全国にを作り、を強化した。 振興により児童就学率は倍増した。 イラクの低識字率の改善のため、1977年から大規模なキャンペーンを展開し、全国規模で読み書き教室を開講し、参加を拒否すれば投獄という脅迫手段を用いたものの、イラクの識字率はアラブ諸国で最も高くなり、1980年代に大統領となったサッダームに賞が授与された。 また、女性解放運動も積極的に行なわれ性別による差別や差別を法律で禁止し、家族法改正で度を規制、女性の婚姻の自由と離婚の権利も認められた。 女性の社会進出も推奨し、当時湾岸アラブ諸国では女性が働くことも禁じていた中で、イラクでは女性のが増え、予備役であるが軍務に付くこともあった。 男尊女卑の強い中東において「」が数多く行われていた中、この「名誉の殺人」を非難した人物であることは、あまり知られていない。 もっとも、1991年の湾岸戦争以後は、イスラーム回帰路線を推し進め、この「名誉殺人」も合法化。 販売の規制や女性の服装規定の厳格化を進めた。 さらにイラクのである(サッダーム国際空港)を建設した。 これらは石油生産性がピークに達するバクル政権と、それが連続するサッダーム政権初期の功績である。 がしかし、後のサッダームはやでの二度に渡る戦争での債務、その後の国連制裁によってこれらの成果を無に帰してしまった。 サッダーム政権崩壊後のイラク [ ] サッダームは恐怖によって・・の対立を抑え込んでいた。 しかしサッダーム政権崩壊後のアメリカの占領政策の失敗とイラク政府の無為無策により、一時宗派対立で内戦状態に陥り、さらにその後は隣国のの影響も受けてが流入してイラク政府軍、クルド人、シーア派民兵と衝突し、これにサッダームの最側近だったの旧バアス党残党のスンニ派勢力も加わり、も頻発しても悪化した。 のは解体がにつながった様にイラクを「パンドラの箱」と揶揄していた。 家族・親族 [ ] 実父フセイン・アル=マジードは、サッダームの妹シハーム・フセイン・アル=マジード出生後に行方不明となった。 盗賊に襲われたとも、家を捨てたとも言われるが定かでは無い。 後にサッダームは、父の名前を模した「フセイン・アル=マジード・モスク」を故郷ティクリートに建設している。 母のスブハ・ティルファーは農家出身で、占い師として生計を立てていた。 いつごろフセイン・アル=マジードと別れたのかは不明で、イブラーヒーム・ハサンと再婚し、、、、ナワールの3男1女を生んだ。 サッダームの継父にあたるハサンは周囲から「ホラ吹きハサン」と呼ばれており、決して周囲から尊敬されるような人物では無かったとされる。 妻は、サッダームの叔父ハイラッラー・タルファーフの娘に当たり、サッダームとの結婚はに当たる。 サッダームとの間に、長男( - )、次男( - 2003年7月22日)、長女(1967年)、次女ラナー(1969年)、三女 ハラー(1972年)を生んだ。 一方、サッダームはその他にも数人の妻がいたとされる。 、ニダール・アル=ハムダーニー、ワファー・ムッラー・アル=フワイシュの三人がサッダームと結婚したとされるが、サミーラ以外は真偽不明である。 このうちサミーラとの間には、アリーなる息子が生まれたとされるが諸説ある。 小説 [ ] サッダームは小説を4篇、詩を多数書いている。 小説のうちはじめの2篇は匿名で発表された。 『王様と愛人』( 、2000年。 邦訳 )• 『難攻不落の砦』( 、2001年)• 『男たちと都会』( 、2002年)• 『悪魔のダンス』( 、2002-3年頃。 邦訳 ) 年譜 [ ]• - イラク北部、ティクリートのアル=アウジャ村にて生まれる。 - に入党。 - アブドゥルカリーム・カーセム首相暗殺未遂事件で死刑判決を受け、に。 - イラクへ帰国。 - 投獄。 - バアス党によるに参画(発足)。 の大統領就任を助ける。 - 大統領就任。 - 開戦。 - を占領。 - に敗北。 - と契約。 - 開戦。 2003年 - 息子のウダイとクサイが、との銃撃戦で死亡。 2003年8月 - が懸賞金をかける。 2003年 - サッダーム逮捕。 2005年 - 特別法廷で初公判が開かれる。 - にて、として死刑判決。 2006年 - 同法廷にて1審死刑判決が審で支持され、死刑確定。 2006年 - サッダーム刑死。 彼を含め多くのイラク人の名前には、欧米やの人名慣習でいう「姓」にあたるものは存在しない。 の文脈で彼の名を縮めて呼ぶ場合、「フセイン」「フセイン大統領」といった形をとることが多いが、「フセイン」は彼の全名の中に含まれる父の名の部分であって、本来ならば適切ではない。 では、縮めて呼ぶ際には「サッダーム」とするのが一般的である(詳細はを参照)。 なお、フセインの表記をそのまま読むと「フサイン」であるが、実際には「フセイン」の表記の方がより原音に近い。 参考・関連書籍 [ ]• 特別版 『堕ちたフセイン』2003年の逮捕時発行• 『サダム その秘められた人生』コン・コクリン著 伊藤真訳• 『裸の独裁者サダム 主治医回想録』アラ・バシール ラーシュ・スンナノー著 山下丈訳• 『灰の中から サダム・フセインのイラク』パトリック・コバーン・アンドリュー・コバーン著 神尾賢二訳• 『フセイン・イラク政権の支配構造』著• 『イラクとアメリカ』酒井啓子著 映像作品 [ ]• 「」(原題:House of Saddam)- が製作したサッダームの生涯を描いたテレビドラマ。 が2008年7月30日に放送した。 全4回。 日本ではで2009年に放送された。 サッダームを演じたのはイラクに出自を持つ俳優、。 脚注 [ ] []• Orit Bashkin. The other Iraq: pluralism and culture in Hashemite Iraq. Stanford, California, USA: Stanford University Press, 2009. 174. Ma'oz, Moshe 1995. Syria and Israel : From War to Peacemaking. Oxford University Press. 153. Dawisha, Adeed 2009. Iraq: A Political History from Independence to Occupation. Princeton University Press. 214. McDonald, Michelle 2009. The Kiss of Saddam. University of Queensland Press. 128. 酒井啓子著 「イラクとアメリカ」p48• Claudia Wright, "Iraq: New Power in the Middle East," Foreign Affairs 58 Winter 1979-80• Nader Entessar, Kurdish Politics in the Middle East Lanham, MD: Lexington Books, 2010 , Chapter 5, p. 172• 特にフランスは、1981年の戦争開始後も1984年までに約50億ドルに相当する武器をイラクに供給し、1982年から1983年、フランスの武器輸出の40%はイラクがしめていた。 National Committee on North Korea. 2016年8月29日閲覧。 National Committee on North Korea. 2017年7月25日閲覧。 宮本悟 2007年8月1日. 環日本経済研究所. 2017年7月25日閲覧。 酒井啓子著 「イラクとアメリカ」p58• 同著「イラクとアメリカ」p92• 「イラクとアメリカ」p93• 同p94• コン・コクリン著「サダムその秘められた人生」 p338-339• 「イラクとアメリカ」p94-p95• 同p98• 同p99• フセイン元大統領、「ビンラーディンは狂信者」と供述 読売新聞 2008年1月28日配信記事• イラクを支持したのは、国内にパレスチナ人を抱えるや、など数カ国に留まった。 01年にイラク政権転覆画策=米公文書で判明• ディスカバリーチャンネル 「ZERO HOUR:サダム・フセイン拘束」(DVD)• 付記事• 2004年7月26日配信記事• [ ]イラク:フセイン元大統領、最後まで現実離れ 捜査官証言• 読売新聞 2006年12月27日付国際面記事• CNN 2015年3月15日. 2018年3月18日閲覧。 『毎日新聞』朝刊2018年6月2日(国際面)2018年6月6日閲覧。 2007年2月• Niblock 1982, p. 2003年12月3日. 2019年8月11日閲覧。 "Saddam removed from ancient Babylon 'brick by brick'", ABC News 20 April 2003. Lawrence Rothfield 1 Aug 2009. The Rape of Mesopotamia: Behind the Looting of the Iraq Museum. University of Chicago Press. Alnasrawi, Abbas 1994. The Economy of Iraq: Oil, Wars, Destruction of development and Prospects, 1950—2010. Alnasrawi 1994 , p. サッダーム・フセインの主治医、アラ・バシール医師は回顧録やインタビューで、アリーなる息子は存在しないと、三男の存在を否定している。 外部リンク [ ] ウィキメディア・コモンズには、 サッダーム・フセインに関連する および があります。 ウィキニュースに サッダーム・フセインに関するニュースがあります。

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