ポリコレ 共産主義。 NFLに吹き荒れるポリコレの嵐について。

ポリコレ嘲笑に4000いいね。それでもレイシズムと向き合う理由

ポリコレ 共産主義

ハフポストより引用 いやぁ〜、こんな少女に睨まれたらマコちゃんだったら、 傷つくわ!! ガクブルだわ!! で、なんでトランプさんにキレてるの? この怒れる少女、グレタ・トゥーンベリさんはスウェーデンの環境活動家だそうで、今年の世界経済フォーラム、ダボス会議にも招待されて、そこでも熱い演説をしたんだとか。 どーも、この少女、怪しいわなぁ。 どうして環境活動家を名乗るこんな少女が、ダボス会議やら、国連で演説してるんだか。 そして、トゥーンベリさんはアスペルガー症候群だそうで、『アスペルガーは私の誇り』と言っている。 それに対して、高須クリニックの高須医院長がこんなツイートをしてますよ。 僕はアスペルガー症候群は個性ととらえています。 差別はもっての他ですが誇ることでもありません。 対人恐怖症と妄想が同居している トゥ-ンベリさんはもっと複雑な精神状態に見えます。 「アスペルガーは私の誇り」 グレタ・トゥーンベリさんが投げかける「障がい」の意味 — 高須克弥 katsuyatakasu アスペルガー症候群とは アスペルガー症候群は、広い意味での「自閉症」のひとつのタイプです。 最初に症例を報告したハンス・アスペルガーというオーストリアの小児科医の名前にちなんでつけられました。 アスペルガー症候群は、自閉症の3つの特徴のうち「対人関係の障害」と「パターン化した興味や活動」の2つの特徴を有し、コミュニケーションの目立った障害がないとされている障害です。 言葉の発達の遅れがないというところが自閉症と違うところです。 知的発達に遅れのある人はほとんどいません。 スポンサーリンク 高須医院長が言うように、アスペルガー症候群なんてのは個性でしょうね。 最近はなんでもかんでも病気にしちゃってね。 医者と製薬会社が喜ぶだけでしょう。 トゥーンベリさんったら、またそれを売りにするあたりがねぇ。 なんとも怪しい。 そしたら、こんなツイートが。 まぁ、しょうがないでしょーね。 世の中プラスチックで溢れてるからねぇ。 いくら、プラスチックが環境に良くないと言っていても、いつの間にかプラスチックのお世話になっているわけでね。 んでもって、こんなツイートも。 温暖化していたとしても、それは人間の活動の結果ではない。 地球上の二酸化炭素排出のほとんどは海。 なのに「よくもそんなことを」、、、 「よくもそんなことを」 トゥンベリさん、怒りの国連演説(AFP=時事) — 竹田恒泰 takenoma そう、二酸化炭素はどうやら海から排出されている説があるのですよ。 その結果として、陸は年間約14億トン、海は約16億トン、合計約30億トンの炭素を吸収している。 2.人間活動は、化石燃料の消費によって年間64億トンの炭素を主にCO2の形で大気中に排出している。 このうち上記1の自然が30億トンを吸収するので、残り34億トンが大気中に毎年取り残される計算になる。 どうして人間活動による排出Dだけを2式に取り出すのでしょうか? 正しくは、 A-B-C-D-E+F=-34億トン(マイナスで排出のほうが多い) とすべきで、大気中に残るCO2はどこから排出されたものかは分からないはず。 排出量B、C、D、Eの比率で見れば、Dは2. 93%に過ぎない。 しかも、全体として排出のほうが多い場合も、逆に吸収のほうが多い場合もあるわけで、その変動機構はいまだ未解明である。 変動要因は、「温度効果だけにとどまらず、深層水の物理・化学的な変化、海洋表層水と中・深層水との物質交換、大陸棚における生物化学的な影響、海洋表層の波の運動エネルギーによる吸収特性の変化など、考えるだけでも多岐にわたる」。 CO2濃度の上昇を、人間活動によるものとする科学的根拠はありません。 自然に対してもっと謙虚になる必要を感じます。 引用元:るいネット 結局、CO2の濃度やら、温暖化は人間の活動が原因かどうかなんて、実は分かっていないのであ〜る。 あくまで、そういう予測をしている人たちがいるだけ。 トゥーンベリさん本人は気づいているのか分かりませんけども、悪い大人たちに良いよう操られているのでしょうね。 おそらく。 科学的根拠もないのに、いかにも人間が地球環境を壊しているという問題を提起して、その環境改善に向けて企業からお金を集める。 企業はECOという言葉を巧みに使って、ブランドイメージを良くして、商品、サービスを売りまくる。 またそれで金儲け。 環境ビジネスは実に儲かるわけですなぁ。 そして、トゥーンベリさんの影響で、世界中で環境デモが行なわれているようですよ。 イタリアのトレンドで (=金曜の環境デモ)が1位になってて、グレタ・トゥーンベリさんの影響力を実感するわけだが、気候変動の余波をモロに受けそうなヴェネツィアなんかは特に凄そう…と思って調べたら実際凄かった。 駅前や広場や河岸を埋め尽くす若者。 オバマ大統領とも会談。 思いっきり好き嫌い分かれそうだが、これはこれで興味深い。 まぁ、日本では認められないでしょうけどね。 ただ、気になる画像がツイートにあったのですよ。 デモを行なっている人たちの横断幕に握りこぶしのマーク。 16歳の少女が火付け役になった環境デモですが。 左が今回の海外の環境デモの様子なんだけど、どこかでこのマークに見覚えが…. と思ったらいつもの共産党の反安倍デモとそっくりなのよねぇ。 グレタさん、世界で一番環境破壊してる中国の批判はしてないそうじゃないの。 いろいろとお察しだわ〜。 この握りこぶしのマークは元は赤色戦線戦士同盟というドイツ共産党の準軍事組織のマーク。 なので全然、民主化とは真逆のマークなのですよ。 でもなぜだか、民主化運動する各国で握りこぶしのマークが使われていた。 そして、どうもこの民主化運動を影で操る組織があるとの噂もあるようですけども。 もしかしたらそれは、共産主義の団体だったりして?な〜んて、勘ぐったりしちゃうけども。 最近では何か大きなデモがあるたびに、このマークがやたらと出てくる。 デモと言えば、『握りこぶしのマーク』になっているのか。 それとも闇の組織が影でデモ隊を操っている時に使われているマークなのか分かりませんけどね。 ただ、やたらと最近はデモが多い。 カバール(闇の組織)は世界を混乱させるのが大好きですからね。 混乱をさせて、対立させて。 最終的には戦争へ。 そしてお互いを殺し合い、人口を減らしていく。 カバール(闇の組織)はこれから世界を対立させる方向にもって行きたいのかもしれないですな。

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ポリコレ嘲笑に4000いいね。それでもレイシズムと向き合う理由

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この記事には 複数の問題があります。 やでの議論にご協力ください。 がまったく示されていないか不十分です。 内容に関するが必要です。 ( 2016年5月)• によるの参照が不十分です。 ください。 ( 2016年5月)• が含まれているおそれがあります。 ( 2015年8月) ポリティカル・コレクトネス(: political correctness、略称:PC、ポリコレ)とは、・・・などに基づく差別・偏見を防ぐ目的で、的・的に・な言葉や表現を使用することを指す。 「政治的妥当性」、「政治的公正」、「政治的適正」、「政治的正当性」、「政治的正義」などの訳語も使われる。 にで始まった、「用語における差別・偏見を取り除くために、政治的な観点から見て正しい用語を使う」という意味で使われる言い回しである。 ポリティカル・コレクトネスは差別是正活動の一部として、英語だけでなくなど英語以外の言語にも持ち込まれ、一部の表現の置き換え・言い換えにつながった。 概要 [ ] 政治的立場では区別する以外の目的で、・・・・・・・・・()・・状況などによる社会的な・が含まれていない、公正・公平な表現・用語を使うよう推奨している。 適切な表現が存在しない場合は、新語が造られることもある。 のにおいては、男性を指す「 Mr. ( ミスター )」が未婚・既婚を問わないのに対し、女性の場合は「 Miss ( ミス )」(未婚)、「 Mrs. ( ミセス )」(既婚)と区別されるが、それを女性差別だとする観点から、未婚・既婚を問わない「」という表現に置き換えられるようになった。 この語は、「 mister」の女性形で、未婚・既婚を問わない語として17世紀頃に使用されていたが、その後、「 Miss」「 Mrs. 」に置き換えられていた。 それがポリティカル・コレクトネスによって復活したことになる。 人種・民族においては、を指す「 Black ( ブラック )」がを意味する「 African American ( アフリカン・アメリカン )」に置き換えられた。 一方、本来は人を意味する「 Indian ( インディアン )」がを指すことが多かったため、では「 First Nation ( )」、では「 Native American ( ネイティブ・アメリカン )」という表現に置き換えられた。 名に(伝統的に男性であることを示唆する)「~ man」がつくものは的であり、ポリティカル・コレクトネスに反するとして、「~ person」などに変更されているものがある。 以下のようにすでに定着している表現も多くなってきた。 職業 伝統的な表現 ポリティカル・コレクトな表現 議長 chairman chairperson または chair 警察官 policeman police officer 消防官 fireman fire fighter 実業家 businessman businessperson 写真家 cameraman Photographer 要の人物 key man key person や家政婦など、女性であることが当然と決め付けるような表現も問題となる。 であるやは言い換えない。 また、身体的特徴を持つ人を述べる際には、その特徴に直接言及することは避けて、を用いる。 例えば、「精神障害のある」を意味する「 mentally challenged」という表現、「耳の不自由な」を意味する「 hearing-impaired」という表現。 特定の用語の使用だけでなく、言葉の表現の仕方だけで問題になる場合もある。 例えば、アメリカ合衆国大統領候補であったは、ある公開質問の場において、黒人の観衆からの質問に対して「あんたたち」(: You People)という表現を多用した。 これが黒人をよそ者扱いしているとして批判された。 の年末の記者会見では、も「メリー・クリスマス」ではなく、「ハッピー・ホリデーズ」と述べた。 また、ではの年末の演劇会において、例年恒例であった劇を止めて、『』に変えるというところも現れた。 しかし、これらに対しては伝統や文化の否定であるという意見もあり、論争となっている。 1993年には「ポリティカリー・コレクトという概念を盲目的に信仰する」姿勢を皮肉り、敢えて自分の意見を主張するという趣旨のトーク番組()の放送が始まった(も参照)。 一部のでは、元来女性がその職務に就くことが想定されていなかったため、単純に女性形にすると「(職業名)の妻」などの意味になってしまうなど、適切な女性形がない場合もある。 例 言語 言葉• Zimmermann(大工)• timmerman(大工)• koopman(商人)• timmerman(大工)• fackman(専門家) また、のによってやの活用が左右されるため、男性形と女性形を分けるのように、このような言い換えが全く出来無い言語も少なくない。 日本における実例 [ ] 日本においても、ポリティカル・コレクトネスの考え方により、用語が言い換えられた事例がある。 一般用語 [ ] 従来の用語 中立の用語 備考 看護婦 看護士 2002年、改正。 男性も職業に就いているため。 障がい者 障碍者 「害」の字が使われていることに不満がある人の感じる悪い印象を回避するため。 2001年(平成13年)にが最初に採用。 助産婦 2002年、保健師助産師看護師法改正。 ただし現行では資格付与対象は女性限定である(同法3条)。 保健婦 2002年、保健師助産師看護師法改正。 保母 保父 1999年、改正。 男性も職業に就いているため。 スチュワーデス スチュワード フライトアテンダント キャビンアテンダント CA 1996年にが従来の呼称を廃止。 他社も追随した。 世界の航空会社では、男性も従事している。 1997年、廃止 トルコ人留学生、の抗議により、1984年に改称。 肌色 ペールオレンジ うすだいだい 人種により、肌の色は異なることから。 女優 男優という言葉があるのにもかかわらず、男性のみに俳優という肩書が使われることが多いため。 [ ] メクラフランジ 閉止フランジ JISなども改正済み 英語ではblank flange・blind flangeなどと云い、JISでも記号はBLと残る 学校などで名前を呼ぶときの敬称に、男子に「君」、女子に「さん」を用いていたのを、男女とも「さん」で呼んでいることが一部で行われている。 医学用語 [ ] 従来の用語 中立の用語 備考 1999年、廃止 痴呆症 2004年、による改名 精神分裂病 2002年、による改名 らい病 癩病 1996年、廃止 認知症、統合失調症などにおける当事者や家族の心理を慮ったものである [ ]。 生物名 [ ] のには、現在では差別的とされる語が使われていることがある。 このため博物館や水族館ではしばしばそれらを言い換えた別名を使用することもあった。 しかしその言い換え方には統一性がなく、かえって混乱をもたらす懸念があった。 そこで、では、差別的名称と考えられる和名について検討した結果、「メクラ、オシ、バカ、テナシ、アシナシ、セムシ、イザリ、セッパリ、ミツクチ」の9つの差別的語を含む魚類の標準和名については、 1 今後新規に発表する和名についてはこれらの語を含まないようにすること、 2 従来の名称についてはすべて改名すること、という結論に達した。 この結果を受けて、日本産魚類のうち、差別的語を含むと考えられる51の(分類単位)について改名の必要ありと判断され 、これらのタクサについて、例えば「メクラウナギ」を「 」、「イザリウオ」を「」に変えるなどの改名案 が勧告された。 また、1999年にとは「差別用語を用いた昆虫和名の扱いに関する要望」を連名で提出し、学会員に対し差別的な名称に関して、改称も含めて今後の命名や運用に関する配慮を要望した。 2000年には「メクラカメムシ」が「」と改称された(ただしこの改称は形態学的に不適当というのが理由であって差別的表現については言及されていない)。 起源と変遷 [ ] に依ると、ポリティカル・コレクトネスという用語自体は、1917年の後に成立したの語彙の中に初めて登場し、当時はの政策と原則の遵守を求める言葉として使用されていたという。 )との用例があり、この時点では皮肉として用いられていたことが分かる。 用語の意義に変化が生じたのは1940年代後半で、マルクス・レーニン主義が米国内で力を増す中で、の者が、の者に対して「『政治的には正しい』が、党路線を遵守する余り、道徳的思想が蹂躙されている」と非難を加える際に利用された。 1960年代には米国の教条的で過激な左派の学生グループが主義者や主義者とみられる学生を吊るし上げる際、しばしば「それは政治的に正しくないぞ!同士!」という言い回しが用いられたとも伝えられている。 1970年代には、この言葉は米国内のがの主張を的に揶揄する意味 例えばによる「それは政治的に正しい」という言及が、 ()に対する皮肉を込めたものであった等 で用いられ 、1980年代末から1990年代初頭には からの転向者も少なくなかった 派が主に大学内のリベラル系の教授達 を攻撃する用途で、その後はが主に新保守派の政治家の政治的言い回しを揶揄する目的で使用するようになったが、1990年代中盤以降はやを下敷きにした「差別的用語の使用がその差別をより助長する」という理論の元での歴史的用語の修正運動へと変化していき、の反対やの維持を求める反対派との間の激しい論争や、「政治的発言 の弾圧の為に用いられた」とするによる反論を招いているとされる。 「感作」の主目的として「従来から存在する言葉の意味を変容させ、一種のをに」という心理操作が含まれており、一例を挙げれば「右は悪、厄介、危険だが、左は善良、愛情があり、思いやりがある。 」「明るく光沢のある派手な色彩の食材は見た目に反して味が悪く、薄暗く茶色い色調の食材は味が良い」といった、の無い思い込みを国の東西を問わず広く大衆に植え付けていく事で、その国が従来から伝統的に持つ観念を破壊する意図が存在したという。 ポワティエは「は西側諸国に対して「ポリティカル・コレクトネス」という概念を定着させる事に成功した。 その国の言語が本来持つ意味を変え、可能な限り暴力的な意味と関連付けて「毒」化させる事によって、国内に不和の種をばら撒き、この概念を信じない者から見れば文化的な自己破壊やを誘発しているように見える事態を招いた。 」と指摘している。 ポリティカル・コレクトネスとマルクス主義を関連付ける主張は、1990年代初頭より米国の保守的な評論家の間で「ポリティカル・コレクトネスとは、のに基づき、 ()を破壊する目的で考案された思想運動である」として、「文化的マルクス主義」の名称で喧伝されていたものであるが、当時は典型的な「フランクフルト校」の一つとして、余り広くは支持されていない説であった。 こうした説の初出は1992年に ()率いる ()の機関紙に掲載されたエッセイで 、2001年にはが著書『 ()』に於いて、「ポリティカル・コレクトネスとは文化的マルクス主義であり、そのは 不寛容である。 」と記述した。 一方、の観点からは、元々は左翼同士が相手に対する皮肉を込めて用いていたポリティカル・コレクトネスという用語を、最も強く政治利用したのは1980年代中盤以降の者達であり、彼らがポリティカル・コレクトネスという言葉を使う度に、や、、その他様々な法的な不平等の本質的な問題点から人々の政治的議論を逸らしてしまう効果を生んだと主張されている。 英国のジャーナリスト、 ()は、「ポリティカル・コレクトネスという用語は、1980年代中期以降米国の右派が ()を解体する為の素晴らしい道具となった。 最も先鋭的な右派の思想家は、自由主義的な ()の実践に対して、この言葉を用いてする事をすぐに思いついた。 議論の提唱者に対して『それはポリティカル・コレクトネスである』と非難を行う事により、あらゆる自由主義的な問題を平準化してしまい この観点に立つと、が差別主義者だと主張する者も、に関与した純粋な青年も、未開の地の保護に奔走する者も、全て同じポリティカル・コレクトネスの犠牲者や提唱者であると結論づけられ、本質的な議論が行えなくなってしまう 、結果として政治全体に対する信頼性を損なってしまった。 」と指摘した。 脚注 [ ] []• 、小学館。 [ ]• 、三省堂。 藤本規夫「 」 『広島文教大学紀要』第30号、広島文教大学、1995年、 51-73頁、 、 2019年6月12日閲覧。 日本魚類学会標準和名検討委員会. 2019年6月12日閲覧。 日本魚類学会 2007年1月31日. 2019年6月12日閲覧。 松浦啓一 2007年2月1日. 日本魚類学会. 2019年6月12日閲覧。 湯川淳一、宮田正 1999. 昆蟲.ニューシリーズ 日本昆虫学会 2 4 : 197. 2019年6月12日閲覧。. 日本魚類学会標準和名検討委員会. 2019年6月12日閲覧。 ケイトリン・ギブソン「」『』2016年1月13日• ()「」『 () Volume 16, Number 1』1992年6月、1-16頁。 「」『The War of the Words: The Political Correctness Debate. 』1994年、164-184頁。 「Toward a Feminist Revolution」『No More Nice Girls: Countercultural Essays』1992年、 ()、19頁。 ポワティエ、「Chapt. ポワティエ、340-341頁。 「文化的マルクス主義」については、• ジョン・E・リチャードソン「'Cultural-Marxism' and the British National Party: a transnational discourse」『Cultures of Post-War British Fascism』2015年• ジェローム・ジャマン「Cultural Marxism and the Radical Right」『The Post-War Anglo-American Far Right: A Special Relationship of Hate』2014年、 ()、84-103頁。 を参照。 「」『 () 2010年秋-2011年冬号』2010年、168-169頁。 パット・ブキャナン『The Death of the West』89頁。 デブラ・L・シュルツ『』1993年。 ウィル・ハットン「Words really are important, Mr Blunkett」『日曜版』2001年12月16日。 参考文献 [ ]• ・著、訳『当世アメリカ・タブー語事典』(、、、""Villard Books, の訳)批判的立場から書かれている。 ドミニク・ポワティエ『DGSE : The French Spy Machine』、 、2019年8月21日。 関連項目 [ ]• - 日本のテレビ番組において、視聴者のクレームを避けるために使用されているとみなされる表示。

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【小浜逸郎】ポリティカル・コレクトネスという全体主義

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少し古い話ですが、これからも論議を呼びそうなので、ここで問題にしておきます。 2018年の12月に、滋賀県大津市で、住民票申請書に性別欄を記入しなくてもよいという決定がなされました。 LGBTというマイノリティに対する公共機関の配慮です。 その2か月前には、福岡県教育委員会が、高校の入学願書の性別欄をなくすという発表をしました。 ポリティカル・コレクトネスはいま世界の潮流のようですが、皆さんに違和感はありませんか。 筆者は、マイノリティに対する過剰な配慮ではないかという疑念が消えません。 初めの住民票申請書の場合、申請書に性別を記入しなくても、住民票の基本台帳には、性別が記載されているわけですから、受け取るコピーには性別が出てしまいます。 住民票が必要な場合とは、どんな場合でしょうか。 一般的には、行政や企業がそれを要求した時です。 具体的には、転居する時、不動産を契約する時、免許証を取る時、車を買う時、通帳などを作る時、携帯電話を契約する時、住宅ローン控除制度を受ける時、就職する時などがこれにあたります。 いずれも、提出する住民票そのものには、性別が書かれているわけです。 また、あとの高校受験の場合、これまで入学願書には本人が性別を記入していたわけですが、本人が性別を記入する必要から免れても、学校が提出する内申書には、性別が書かれます。 すると、大津市や福岡県教委などの配慮は、要するに、ただ単に、「記入したくない」という本人の感情に対する忖度だということになります。 性別を記入しなくても、彼または彼女がLGBTである事実には変わりません。 人間は、したくなくてもしなければならないことがいっぱいありますね。 人生はそんなことばかりと言っても過言ではありません。 性的マイノリティの心情がどんなに切実なものかは、筆者にはわかりませんが、世の中には、いわゆる「普通の人」で、もっと切実な悩みを抱えた人がたくさんいることはたしかでしょう。 では、なぜ性的マイノリティというカテゴリーに属する人に限って、これほどの配慮がなされるのか。 それは、「人権」や「差別」という概念に適合しやすいからでしょう。 普通の人の悩み苦しみは、どんなに深くても、なかなか「人権」や「差別」という概念に当てはまりにくい。 多数者と少数者という識別が難しいからです。 これに対して、障害者や人種なども、この識別がしやすいので、「人権」や「差別」という概念でとらえることが容易にできます。 そこで、この識別しやすさという特徴を狙って、左翼的な思想の持ち主が、これらを政治問題化するのですね。 お役所は、公正や平等をたてまえとしていますから、この種の政治的な批判に対して、きわめて脆弱な構造を持っています。 それで、糾弾されるとすぐそのまま言うことを聞いて、行政措置に踏み出すのです。 でも、本当に、LGBTの人たちの感情問題に、そこまで忖度する必要があるのでしょうか。 さて、この潮流がもっとエスカレートしていくと、住民票の基本台帳や、入学試験の内申書からも性別欄が抹消されるという事態に発展しかねません。 すると、住民票や入試資料を受け取る側にとって、現実的に困る事態が発生するのではないでしょうか。 たとえば、部屋を借りる人が男か女かわからない、免許証保持者が男か女かわからない、など、まずくないですか。 でも、何といっても、いちばん困るのは、企業が新入社員を採用する時ですね。 仕事の配分で男女差をなくそうという「平等」理想を掲げても、現実には、職業の性別適役というものがあります。 個人に職業選択の自由があるように、企業の側にも、その職種によって、採用男女割合を決定する自由があるはずです。 また、企業は、継続的集中的な戦力を必要としますから、妊娠した女性の長期休業や退職を本音では喜ばないでしょう。 こうした企業の論理は、もっともというべきです。 学校が入学生徒を採用する時も、男女の区別なしに試験を受けさせたら、女子のほうが成績がいいので、ふたを開けてみると、大部分が女子ばかりになってしまったなんてことにもなりかねません。 さらにさかのぼりますが、『新潮45』の2018年8月号に、杉田水脈氏の「『LGBT』支援の度が過ぎる」という論文が載り、大炎上を巻き起こしました。 「LGBTには生産性がない」という部分だけが切り取られて、左翼陣営から人権侵害だと大騒ぎされましたが、これは、子どもが作れないことを「生産性がない」と表現したまでです。 杉田論文の要旨は、少子化の解決に貢献しない彼らに格別の政治的・法的な支援や税金の投入をする必要があるのかと問題提起しているだけでした。 ただ、ここで、税金の投入というのが何を意味しているのかがあいまいです。 また、彼女は、LGBとTとを分けていて、T(トランスジェンダー)は性的な指向というより、むしろ「障害」として位置づけられるので、そのつらさを救うための制度的支援(社会福祉)はありえてもよいという意味のことを述べています。 これはごくまともな見解でしょう。 さらに、LGBT当事者にとってつらいのは社会的な差別よりも、親が理解してくれないことだと指摘しています。 親が自分の子どもは普通に結婚して子どもを産んでくれると信じているのに、それができないことを知ったらすごくショックを感じるだろう、だからなかなか告白できずに悩み続けてしまうというのです。 これは、筆者がLGBTの若い人に実際に聞いてみたところと一致しています。 つまり杉田論文は、エロス問題を政治的・制度的に解決することの困難さを指摘しているのです。 そしてそれが、LGBTという性的マイノリティを政治課題としてことさら前面に押し出す勢力に対する鋭い反論になっていたわけです。 筆者には、あるゲイの友人がいますが、その人は、ゲイであることを政治問題に結びつけることを嫌っていました。 そういう人のほうが多いかもしれません。 あるカテゴリーに属するとされた人々が、日常生活の中で、実際にどれくらいの差別を被っているのか、その実態を調べずに、LGBTだから差別されているはずだ、と決めつけるのはおかしなことです。 さて杉田論文にいきり立った左翼人権主義者たちは、自分たちのイデオロギーに反する考えを頭から否定しようとしました。 否定しないと、同和問題と同じで、自分たちの反権力的な政治思想に利用できるネタがなくなってしまうからでしょう。 ただ、杉田論文には、荒っぽいところもありました。 たとえば、何でも多様性を認めて、結婚相手にだれを選んでもいいとなったら、ペットや機械と結婚させろなどという要求さえ出てくる。 そうなると常識や社会秩序は崩壊してしまう。 LGBTを取り上げる報道はそうした傾向を助長しかねないと述べているくだりです。 実際にそういう要求をする人がいるというのは事実でしょう。 しかし、それはごく特異例で、あったとしても、そんな要求が認められるはずがありません。 法制度というのは、人間のさまざまな欲望をどこまで容認し、どこまで規制するかを決めるところに意義があります。 そして、エロス欲望に関する限り、それはあくまで人間どうしの関係のあり方にかかわっています。 自分はネコちゃんと夫婦ですと思うのは自由ですが、社会がそれを制度的に公認するかどうかとはまったく別問題です。 それはともかく、杉田氏が、「何でも多様性がいい」「何でも自由がいい」という左翼リベラルのイデオロギーを攻撃する気持ちの中には、「変えよう、壊そう」とする勢力に対する健全な常識感覚が読み取れます。 「自由」などと理想を掲げてみても、実際にはこの世は困難と制約だらけです。 そのただ中をかいくぐることによってしか、自由は実感できません。 そしてそれはこれからも変わらないでしょう。 最近、こんなことがありました。 税務署に税務申告に行ったとき、裏に20台以上止まれる駐車場があり、半分ほどが埋まっていました。 そこに車を入れようとしたら、工事現場用のフェンスでふさいであり、係員が出てきて、「ここは身障者用です」と言います。 私は、「あの駐車している車の主はみんな身障者の方なんですか」と聞いてみました。 すると黙ってフェンスを取り外してくれました。 一応断らなくてはならないお役目らしい。 ご苦労なことだと思いました。 建物の表側には数台しか止める場所がなく、しかも人で混雑しているので、駐車禁止。 「あなたに言ってもしょうがないけど、これってバカらしいと思いませんか?」と柔らかく聞いてみました。 係員は面倒くさそうに、「そういうことは上のほうの人に言ってください」と、予想通りの答えを返してきました。 「上のほうの人」の愚かな判断のために、せっかくの広い駐車場を、ほとんどいるはずのない「身障者」専用にしています。 ほんの一部用意しておけば済むことなのに。 しかも「ここはすべて身障者用」と命じられた係員の人は、いちいち断ってはフェンスを開けたり閉めたりしなくてはなりません。 「社会的弱者にウチはこんなに配慮しています」という表看板のために、係員の人は、不条理と知りながら、毎日空しい仕事を続けているのです。 この人のほうがよっぽど弱者だ、と思いました。 何ごともバランスが大事です。 平等原理主義というポリティカル・コレクトネスに固執することが、普通の庶民を苦しめていないかどうか、それが新たな全体主義を生んでいないかどうか、わたしたちは、この世界の潮流に対して、注意の目を光らせることにしましょう。 一度、以下のURLにアクセスしてみてください。 雑誌『表現者criterion』の定期購読はこちらから。 その他『表現者criterion』関連の情報は、下記サイトにて。 そして応援します。 ただし、LGBTの権利とは別としてであります。 そもそもこの問題の根本は糞ヘタレ男達の思考回路にあります。 私はフェニミズが大嫌いです。 しかし気持ちは分かります。 本来、女は人間的にも生物的にもすべてにおいて男よりも優れています。 そして女は一番大切で過酷な労働、つまり子孫 未来 を作る事に専念するため他の事を男に任した訳です。 しかしながらこのバカ男、女の真似事をしているにも拘わらず、己が作り上げたと勘違いし調子に乗り、あろうことか女を支配しはじめた訳です。 そらあ、女は黙ってはおれません! 「そんならそっちの仕事もやったろか? 」と女がキレるのも当然! それを受けヘタレ男は「ヤバイ、あっ! 戦争しよ。 戦争したら男の価値あがる! 」と…..。 案外これが歴史かもw で、現在、ヘタレ男は戦争の道を選ぼうとしてるわけ。 その先駆けがネオリペ! ネオリペ思考は男の価値を高める社会。 男にあるのは力だけでありネオリペとは力が物を言う社会です。 それを誤魔化す為「自由、平等」を付け足してるだけの御飾り。 女がその言葉に弱いのを利用してるだけ。 女性の皆様! よく考えて下さい。 自由、平等の後に何が付いてますか? 「競争」でしょ。 競争を言い換えれば「勝敗」です。 「勝敗」は力で決まります! 勝敗とは強弱。 つまり強者弱者の論理構成をしているかぎり男に支配されているんですよ。 男に支配されない為には強弱の論理ではなく何が「大切か」で論理構成を作らなければ何時までもバカ男に支配されますよ! そして忘れてはならないのは「この世に無駄など存在しない」を前提とすることで御座います。

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