は くす きのえ の 戦い は く そんこう。 百済|百済の歴史

白村江の戦い

は くす きのえ の 戦い は く そんこう

By Evawen [ or ] 百済 くだら は、朝鮮半島南西部を占めた古代国家。 一般的に、支配階級は北の高句麗王族と同じく、中国満州付近から出た扶余族と見られています。 「隋書」百済伝には、「百済の祖先は高 句 麗国より出づる」とあり、新羅、倭国、また中国からも渡来してきた人が住み、他民族的な国家を形成していたようです。 韓国・朝鮮史上では、およそ紀元前1世紀から紀元後7世紀までの間、半島北部の「高句麗」、南東部の「新羅」、そして南部の伽耶諸国とあわせて南西部の「百済」の三国が支配していた時代を「三国時代」といいます。 温祚は、慰礼城 現在の広州市 南漢山城か? に都を定め、10人の臣下にちなんで、国の名を「十済」と呼んだのが始まりとされています。 韓国の教科書でも、紀元前18年を百済建国の年として採用しているそうですが、韓国の歴史家の間では、紀元前1世紀から紀元後3世紀まで様々な説があり、日本や中国では3世紀頃の成立という見方が有力です。 そのため聖王は、倭国に援軍を要請、仏像・経典などを送ったのもこの時期です。 聖王は、積極的に仏寺の造営をすすめ、王興寺・定林寺などの寺址が扶余で発見されています。 しかし、聖王は、554年に新羅との戦いで戦死します。 その後、百済は次第に、かつての宿敵・高句麗と同盟を結ぶようになり、百済最後の王となる第31代義慈王は、執拗に新羅に攻め入ります。 国際的にも孤立することとなった新羅は、善徳女王をはじめとして、唐に救援を求めるようになります。 はじめは新羅と百済の和平を求めていた唐ですが、百済 義慈王に和平の意思はなく、唐の3度にわたる高句麗制圧も失敗に終わると、唐は新羅と同盟を結び、百済を攻撃する方針に切り替えていきます。 こうして半島情勢は、「百済-高句麗」VS「新羅-唐」の対立構造となり、日本 倭国 ががどちらに着くかが外交の焦点となりました。 日本 倭国 からも、3万7千人余りの軍が送られ、豊璋らとともに、663年、「白村江」 今の錦江? の河口付近で、唐・新羅の連合軍と戦いますが、結果、大敗に終わりました。 日本史上の「白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦い」です。 百済滅亡についで、唐・新羅連合軍は、668年に高句麗を滅ぼし、これによって三国時代は終わり、統一新羅の時代がはじまりました。

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白村江の戦い / ua.nfhsnetwork.com

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白村江の戦い 出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。 記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。 2012年3月白村江の戦い戦争白村江の戦い年月日 旧暦天智天皇2年8月27日-同年8月28日 ユリウス暦663年10月4日-10月5日場所朝鮮半島、白村江現在の錦江近郊結果唐新羅連合軍の勝利交戦勢力唐 新羅倭国 百済遺民勢力指導者指揮官劉仁軌 文武王上毛野君稚子 阿倍比羅夫 扶余豊璋戦力不明 唐軍1300001 唐船舶170余以上 新羅軍500001倭国軍42000 倭国船舶800余 百済軍5000損害不明船舶400 兵10000 馬1000表示 中国白江口の戦い各種表記繁体字白江口之戰簡体字白江口之?? 音Bijingkuzhzhn注音符号英文Battleofテンプレートを表示朝鮮白江の戦い各種表記ハングル漢字白江戰鬪発音ペッカンチョントゥ日本語読みはっこうせんとう2000年式 MR式 英語表記Baekgangjeontu Paekkangchntu BattleofBaekgangテンプレートを表示白村江の戦いはくそんこうのたたかい、はくすきのえのたたかいは、天智2年8月663年10月に朝鮮半島の白村江現在の錦江河口付近で行われた、倭国百済遺民の連合軍と、唐新羅連合軍との戦争のことである。 目次1名称2背景21朝鮮半島と中国大陸の情勢22唐による新羅冊封23百済の情勢24倭国の情勢3百済の役31百済滅亡32百済復興運動33倭国による百済救援4軍事力41唐新羅連合軍42倭国軍5戦いの経過51海上戦52陸上戦6戦後の朝鮮半島と倭国61朝鮮半島611高句麗の滅亡612渤海の建国613新羅による半島統一62倭国621総説622戦後交渉および唐との友好関係の樹立623捕虜の帰還624防衛体制の整備625中央集権体制への移行と国号の変更626百済遺民の四散7異説8関連項目9脚注10参考文献11外部リンク 名称日本では白村江はくそんこうは、慣行的にはくすきのえと読まれることが多い。 白村江という川があったわけではなく、白江現錦江が黄海に流れ込む海辺を白村江と呼んだ2。 江えは入り江のえと同じ倭語で海辺のこと、またはくすきのきは倭語城きで城や柵を指す2。 白江の河口には白村という名の城柵きがあった2。 ただし、大槻文彦の大言海では村主スクリ帰化人の郷長の村を百済語としてスキとしている。 漢語では白江之口と書く旧唐書2。 背景朝鮮半島と中国大陸の情勢6世紀から7世紀の朝鮮半島では高句麗百済新羅の三国が鼎立していたが、新羅は二国に圧迫される存在であった。 倭国は半島南部に領有する任那を通じて影響力を持っていたことが日本書紀の記録から知られている。 大陸側でも、広開土王碑400年条の任那の記述が初出である。 宋書では弁辰が消えて438年条に任那が見られ、451年条には任那、加羅と2国が併記され、その後も踏襲されて南斉書も併記を踏襲していることから、倭国が任那、加羅と関係が深いことを示している。 任那、加羅は、倭国から百済への割譲や新羅の侵略によって蚕食され、562年以前に新羅に滅ぼされた。 475年には百済は高句麗の攻撃を受けて、首都が陥落した。 その後、熊津への遷都によって復興し、538年には泗? へ遷都した。 当時の百済は倭国と関係が深く倭国朝廷から派遣された重臣が駐在していた、また高句麗との戦いに於いて度倭国から援軍を送られている3。 一方、581年に建国された隋は、中国大陸を統一し文帝煬帝の治世に4度の大規模な高句麗遠征隋の高句麗遠征を行ったもののいずれも失敗した。 その後隋は国内の反乱で618年には煬帝が殺害されて滅んだ。 そして新たに建国された唐は、628年に国内を統一した。 唐は二代太宗高宗の時に高句麗へ3度644年661年667年に渡って侵攻を重ね唐の高句麗出兵征服することになる。 唐による新羅冊封新羅は、627年に百済から攻められた際に唐に援助を求めたが、この時は唐が内戦の最中で成り立たなかった。 しかし、高句麗と百済が唐と敵対したことで、唐は新羅を冊封国として支援する情勢となった。 また、善徳女王632年647年のもとで実力者となった金春秋後の太宗武烈王は、積極的に唐化政策を採用するようになり、654年に武烈王661年として即位すると、たびたび朝見して唐への忠誠心を示した。 648年頃から唐による百済侵攻が画策されていた4。 649年、新羅は金春秋に代わって金多遂を倭国へ派遣している。 百済の情勢百済は642年から新羅侵攻を繰り返した。 654年に大干ばつによる飢饉が半島を襲った際、百済義慈王は飢饉対策をとらず、655年2月に皇太子の扶余隆のために宮殿を修理するなど退廃していた5。 656年3月には義慈王が酒色に耽るのを諌めた佐平の成忠浄忠が投獄され獄死した。 日本書紀でもこのような百済の退廃についてこの禍を招けりと記している6。 657年4月にも干ばつが発生し、草木はほぼなくなったと伝わる7。 このような百済の情勢について唐はすでに643年9月には海の険を負い、兵械を修さず。 男女分離し相い宴聚えんしゅうするを好む冊付元亀として、防衛の不備、人心の不統一や乱れの情報を入手していた7。 659年4月、唐は秘密裏に出撃準備を整え、また同年国家来年必ず海東の政あらん。 汝ら倭客東に帰ることを得ずとして倭国が送った遣唐使を洛陽にとどめ、百済への出兵計画が伝わらないように工作した7。 倭国の情勢この朝鮮半島の動きは倭国にも伝わり、大化の改新最中の倭国内部でも警戒感が高まった。 大化改新期の外交政策については諸説あるが、唐が倭国からは離れた高句麗ではなく伝統的な友好国である百済を海路から攻撃する可能性が出てきたことにより、倭国の外交政策はともに伝統的な友好関係にあった中国王朝唐と百済との間で二者択一を迫られることになる。 この時期の外交政策については、一貫した親百済路線説孝徳天皇親百済派、中大兄皇子親唐新羅派孝徳天皇親唐新羅派、中大兄皇子親百済派など、歴史学者でも意見が分かれている。 新羅征討進言白雉2年651年に左大臣巨勢徳陀子が、倭国の実力者になっていた中大兄皇子後の天智天皇に新羅征討を進言したが、採用されなかった。 遣唐使白雉4年653年5年654年と2年連続で遣唐使が派遣されたのも、この情勢に対応しようとしたものと考えられている。 蝦夷粛慎討伐斉明天皇の時代になると北方征伐が計画され、越国守阿倍比羅夫は658年斉明天皇4年4月、659年3月に蝦夷を、660年3月には粛慎の討伐を行った。 百済の役.

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中大兄皇子(天智天皇)について:中臣鎌足との関係やどんな時代だったか解説

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日本が高句麗とかかわりを持ち始めるのは、日本がまだ「倭国」と呼ばれていた古墳時代のこと。 その頃の朝鮮半島は、中国、日本、朝鮮半島の小国らがその土地の利権と資源をめぐって戦いを起こしていました。 中国の北東部から興った高句麗という国は、勢力を拡大しながら朝鮮半島北部にまで支配を広げ、313年、中国の植民地だった楽浪郡(らくろうぐん)を滅ぼしました。 さらに4世紀後半になると、高句麗は朝鮮半島をさらに南下の進路をとるようになり、同時期に興っていた新羅や百済、加耶(加羅)などを圧迫し始めていました。 鉄資源を確保するために、加耶と親交関係の深かった倭国(わこく=日本のヤマト政権)も、当然ながら高句麗との争いに巻き込まれていきます。 高句麗との直接対決!?朝鮮半島で倭国が学んだことは 当時高句麗の都として栄えていた丸都(がんと)、現在の中国吉林省集安市には、高句麗の好太王の大きな石碑があります。 由来朝貢す。 高句麗はたけだけしい騎馬軍団を持つ軍国主義帝国でした。 それまで「馬に乗る」という風習がなかった倭国は、高句麗との戦いで痛いほど騎馬の必要性を感じます。 親交関係のあった百済や加耶から技術者を呼び寄せ、馬の育成や馬具などの生産が倭国で始まるきっかけとなったのです。 さらに5世紀以降に作られた古墳の中には、これまでになかった馬具が副葬されるようになりました。 このことは、倭国に馬の文化が定着していることを示しています。 馬は聡明で力も強く、移動手段としてや農耕のため、重いものを運んだり、皮や毛を利用できたりと、人々の生活に必要不可欠な動物となっていったのです。 この朝鮮半島の戦乱から逃れてきた人々の多くは、海を越え倭国に多く渡ってきました。 同時に大陸の多彩な技術や文化が倭国にもたらされたのです。 機織りや金属加工技術、焼き物の生産、土木技術などが、その良い例です。 倭国は朝鮮半島からの渡来人を積極的に取り入れ、技術組織集団を組織しました。 鞍作部(くらつくりべ)、錦織部(にしごりべ)、陶作部(すえつくりべ)などと呼ばれ、各地に配置されたのです。 また、漢字が導入され文字を使用するようになったのもこの頃といわれています。 漢字の音を使って、倭人の言葉や人の名前を表記することができました。 さまざまな記録や出納も、史部(ふひとべ)などと呼ばれる渡来人が作成を担っていたようです。 このようにして、倭国には大陸の優れた文化を吸収する土台が作られていきました。 この後も、朝鮮半島からは儒教や仏教、暦や医学、易などがもたらされ、倭国の文化技術のますますの発展がもたらされました。 その後高句麗はどうなったのか 七世紀半ばの朝鮮半島の情勢を見てみましょう。 655年、高句麗と百済が手を結び、新羅を攻めています。 新羅は中国統一を成し遂げた唐に援軍を求めます。 新羅・唐の連合軍は圧倒的な兵力で百済を攻め滅ぼします。 しかし百済の遺臣たちは復興を願い、倭国に滞在していた百済王子豊璋(ほうしょう)の送還と、倭国の援軍を要請してきます。 それに応えるべく向かったのは斉明天皇(在位655~661年)のと、乙巳の変・大化の改新で有名な中大兄皇子です。 しかし、倭国は大軍を率いるも663年白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦いにおいて大敗を喫してしまいました。 百済と結んでいた高句麗は、百済の滅亡によって孤立してしまいます。 すでに疲弊していた高句麗でしたがおり悪く内紛が勃発、これをチャンスと見た新羅・唐の連合軍は高句麗の都平壌に侵略を開始します。 そしてついに668年、東アジア圏内で強い影響力を誇った高句麗は、ここに滅亡したのでした。

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