幽霊塔。 図書カード:幽霊塔

幽麗塔のネタバレ!キスシーンに込められた驚きの秘密がヤバイ!

幽霊塔

解説 「誰に恋せん」を企画した黒岩健而が当たり、江戸川乱歩の原作を「狸になつた和尚さん」の岡田豊と「死美人事件」の笠原良三の協同脚本、監督は「鉄拳の街」以来の佐伯幸三が一年ぶりの担当、カメラは「誰に恋せん」の柿田勇、出演者は「殺すが如く」の羽鳥敏子「三面鏡の恐怖」の船越英二や「すいれん夫人とバラ娘」の見明凡太朗「死美人事件」の美奈川麗子らが助演する。 1948年製作/78分/日本 配給:大映 ストーリー 荒りょうとした山すその道に古めかしい洋風の家が、山ろくの林にかこまれている風変わりな時計塔のみが白い文字盤を無気味に浮き出している。 土屋達夫は伯父の賛平と長らく放り出しておいたこの家をホテルにしようと計画、早速手入れにおもむくが、村人のうわさによれば、殺人、幽霊の家だという、以前に殺人の事実はあったが、それが話題になって無気味に寒気をよぶ家の中である。 そこで達夫は見知らぬ娘園枝に会うが、その女はナゾの様に「時計台に宝石がある」といって、身分も明かさず、ホテルの使用人に叔母松代と住み込む、建築技師の落合、弁護士の柏木らがホテル建築に協力する。 達夫の許嫁の順子も来ている、達夫の親は無理解な結婚をさけようとすれば、順子は園枝に当たってくる、園枝は以前従妹の妙子の友人であることだけ分かっているが、それ以外何も分からない。 妙子は父親を殺して今は亡き人、しかしその殺人事件も解決していない様だ。 達夫は先ず時計台のナゾを解こうとする、園枝は苦悩の表情をいだきながら何か解決しようとしている、落合、柏木らは園枝について何かしら感ずいている、突然叔母の松代の死体、警官が乗り込んでくる、深夜の十二時。 園枝は時計台に登って行く、あとをつける達夫、叫び声、「あの人が父を殺した人です」達夫は園枝をかかえながら追う。 警官隊に捕らわれた人、落合である。 園枝は語る「私は妙子です、父を殺したのは私ではありません、私は父の犯人をさがすために顔面の手術をされました、叔母や落合は宝石のありかが分かっていたのですね」バルコニーに達夫と園枝ならず妙子が、順子と柏木達を送っている姿が見えた。

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黒岩涙香の「幽霊塔」 : 備忘の都

幽霊塔

「有名な幽霊塔が売り物に出たぜ、新聞広告にも見えて居る」 未だ多くの人が噂せぬ中に、直ちに買い取る気を起したのは、検事総長を辞して閑散に世を送って居る叔父 丸部朝夫 ( まるべあさお )である。 「アノ様な恐ろしい、アノ様な荒れ果てた屋敷を何故買うか」など人に怪しまれるが 夏蝿 ( うるさ )いとて、誰にも話さず直ぐに余を呼び附けて一切買い受けの任を引き受けろと云われた。 余は早速家屋会社へ掛け合い 夫々 ( それぞれ )の運びを附けた。 素より叔父が買い度いと云うのは不思議で無い、幽霊塔の元来の持主は叔父の同姓の家筋で有る。 昔から其の近辺では丸部の幽霊塔と称する程で有った。 夫が其の家の零落から人手に渡り、今度再び売り物に出たのだから、叔父は兎も角も同姓の旧情を忘れ兼ね、自分の住居として子孫代々に伝えると云う気に成ったのだ。 買い受けの相談、値段の打ち合せも 略 ( ほ )ぼ済んでから余は単身で其の家の下検査に出掛けた、土地は都から四十里を隔てた山と川との間で、可なり風景には富んで居るが、何しろ 一方 ( ひとかた )ならぬ荒れ様だ、大きな建物の中で目ぼしいのは其の玄関に立って居る古塔で有る。 此の塔が英国で時計台の元祖だと云う事で、塔の 半腹 ( なかほど )、地から八十尺も上の辺に奇妙な大時計が 嵌 ( はま )って居て、元は此の時計が村中の人へ時間を知らせたものだ。 塔は時計から上に猶七十尺も高く聳えて居る。 夜などに此の塔を見ると、大きな化物の立った様に見え、 爾 ( そう )して其の時計が丁度「一つ目」の様に輝いて居る。 昼見ても随分物凄い有様だ。 而し此の塔が幽霊塔と名の有るのは外部の物凄い為で無くて、内部に様々の幽霊が出ると言い伝えられて居る為で有る。 管々 ( くだくだ )しけれど雑と此の話に関係の有る点だけを塔の履歴として述べて置こう。 昔此の屋敷は国王から丸部家の先祖へ賜わった者だが、初代の丸部主人が、何か大いなる秘密を隠して置く為に此の時計台を建てたと云う事で有る。 大いなる秘密とは世間を驚動する程のドエライ宝物で、 夫 ( それ )を盗まれるが恐ろしいから深く隠して置く為に、十数年も智慧を絞って工夫を廻らせヤッと思い附いて此の時計台を建てたと云うのだ、所が出来上ると間も無く主人が行方知れずに成った、イヤ行方知れずでは無い、塔の底の秘密室へ(多分宝物を数える為に)降りて行ったが、余り中の仕組が旨く出来過ぎた為に、自分で出て来る事が出来ず、 去 ( さ )ればとて外の人は何うして塔の中へ這入るか分らず、何でも時計の有る所まで行かれるけれど其の所限りで後は厚い壁に成って一歩も先へ進めぬから、救いに行く事も出来ぬ、其の当座幾日の間は、夜になると塔の中で助けて呉れ、助けて呉れと主人の泣く声が聞こえる様に思われたけれど、家内中唯悲しんで其の声を聞く許りで如何とも仕方が無い、塔を取り頽すと云う評議も仕たが、国中に内乱の起った場合で取り 頽 ( くず )す人夫も無く其のまま主人を見殺し、イヤ聞き殺しにした、けれど 真逆 ( まさか )に 爾 ( そう )とも発表が出来ぬから、主人は内乱に紛れて行方知れずに成ったと云う事に噂を伏せて仕舞ったそうだ。 其の後は此の主人が幽霊に成って出ると云う事で元は時計塔と云ったのが幽霊塔と云う綽名で通る事と為り、其の後の時計塔は 諸所 ( しょじょ )に出来た者だから、単に時計塔とばかりでは分らず 公 ( おおやけ )の書類にまで幽霊塔と書く事に成った、勿論ドエライ宝が有ると云う言い伝えの為にも其の後此の塔を頽そうかと 目論 ( もくろ )む者が有ったけれど、別に証拠の無い事ゆえ 頽 ( くず )した後で若し宝が出ねば詰まらぬとて、今以て幽霊塔は無事で居る。 余が下検査の為此の土地へ着いたのは夏の末の日暮頃で有ったが、先ず塔の前へ立って見上げると如何にも化物然たる形で、扨は夜に入るとアノ時計が、目の玉の様に見えるのかと、此の様に思ううち、不思議や其の時計の長短二本の針がグルグルと自然に廻った。 時計の針は廻るのが当り前とは云え、数年来住む人も無く永く留まって居る時計だのに、其の針が幾度も盤の面を廻るとは余り奇妙では無いか、元来此の時計は塔其の物と同じく秘密の仕組で、 何 ( ど )うして捲き何うして針を動かすかは、代々此の家の主人の外に知る者無く、爾して主人は死に絶えた為に恐らくこの針を動かし得る人は此の世に無い筈だ、余の叔父さえも、数日来色々の旧記を取り調べて此の時計の捲き方を研究して居た、余は 若 ( も )しや川から反射する夕日の作用で余の眼が欺されて居るのかと思い猶能く見るに、全く剣が唯独りで動いて居るのだ。 真逆幽霊が時計を捲く訳でも有るまい。 誰が 何 ( どう )して戸を捲くかを知らぬ錆附いた時計の針が、塔の上で独りで動き始めるとは唯事で無い、併し余は是しきの事には恐れぬ、必ず仔細が有ろうから夫を見出して呉れようと思い、直ちに進んで塔の中へ這入った。 勿論番人も無い、入口の戸も数年前に外した儘で、今以て鎖して無い、 荒 ( あば )ら屋中の荒ら屋だ、 頓 ( やが )て塔へ上る階段の許まで行くと、四辺が薄暗くて黴臭く 芥 ( ごみ )臭く、如何にも幽霊の出そうな所だから、余は此の屋敷に就いての一番新しい幽霊話を思い出した、思うまいと思っても独り心へ浮んで来る。 其の話たるや後々の関係も有るから茲に記して置くが、此の屋敷を本来の持主たる丸部家から買い取ったのは、其の家に奉公して居た輪田お紺と云う老女だ、何でも濠洲へ出稼ぎして居る自分の弟が死んで 遺身 ( かたみ )として大金を送って来たと云う事で、其の金を以て主人の屋敷を買い取り、此の塔の時計室の 直下 ( すぐした )に在る座敷を自分の居間にして、其の中で寝て居たが、或る夜自分の養女に殺されて仕舞った、 夫 ( それ )は今より僅かに六年前の事で、其の時から今まで此の屋敷はガラ空になって居るが、其の老女の亡魂も矢張り幽霊に成って其の殺された室へ今以て現れると云う事だ、其の室は丁度余が立って居る所の頭の上だ、斯う思うと何だか頭の上を幽霊が歩いて居る様な気もする。 爾して其の殺した方の養女と云うは直ぐに捕まり裁判に附せられたが、丁度余の叔父が検事をして居る頃で、叔父は我が為に本家とも云う可き同姓の元の住家へ又も不吉な椿事を起させた奴と睨み、多少は感情に動かされたが、厳重に死刑論を唱えて目的を達した。 余は此の忌わしい話を思い出し、少し気が 怯 ( ひるん )だけれど、素より幽霊などの此の世に在る事を信せず、殊には腕力も常人には勝れ、今まで力自慢で友人などにも褒められて来た程だから「ナアニ平気な者サ」と 故 ( わざ )と口で平気を唱え、階段を登り始めた。 登り登りて四階まで行くと、茲が即ち老女輪田お紺の殺された室だ。 伝説に由ると室の一方に寝台が有って、其の上からお紺が口に人の肉を咬え 顋 ( あご )へ血を垂らしてソロソロ降りて来ると云う事だ、何分にも薄暗いから、先ず窓の盲戸を 推開 ( おしあ )けたが、錆附いて居て好くは開かぬ。 夫に最も夕刻だから大した明りは射さぬ。 何処に其の寝台が有るか、此の上の時計の裏へは何して登られるかと、静かに透す様にして室の中を見て居ると、一方の隅で、人の着物を引き摺る様な音がする、其の中に眼も幾分か暗さに慣れたか、其の音の方に当り薄々と寝台の様な物も見える。 すると其の寝台の上に、何だか人の姿が有って起き直る有様が殆ど伝説の通りで在る、此の様な時には暗いのが何より不利益(幽霊にとっては利益かも知らぬが)だから余は窓の方へ寄り、 最 ( もう )一度 盲戸 ( めくらど )を今度は力一杯に推して見た、未だ盲戸は仲々開かぬに、怪しい姿はソロソロと寝台を下り、余の傍へ寄って来るが併し足音のする所を見ると幽霊では無さ相だ、けれど幽霊よりも却って薄気味が悪い。 余は猶も力を込めて戸を推したが、メリメリと 蝶番 ( ちょうつがい )が毀れて戸は下の屋根へ落ち、室の中が一時に明るく成った、とは云え夕明りで有るから昼間ほどには行かぬが幽霊の正体を見届けるには充分で有る。 「能く其の戸が 脱 ( はず )れましたよ、私しも開け度いと思い、推して見ましたけれど女の力には合いませんでしたが」 之が幽霊の発した初めての声で音楽の様に麗しい、余は荒々しく問い詰める積りで居たが、声の麗しさに、 聊 ( いささ )か気抜けがして 柔 ( やさ )しくなり、「今し方、大時計の針を動したのは貴女でしたか」 と、問いつつ 熟々 ( つくづく )其の姿を見ると、顔は声よりも猶麗しい、姿も 婀娜 ( なよなよ )として貴婦人の様子が有る、若し厳重に批評すれば其の美しさは舞楽に用ゆる天女の仮面と云う様な 塩梅 ( あんばい )で、生きた人間の顔としては余り規則が正し過ぎる。 三十二相極めて行儀好く揃って居る。 若しや此の女は何か 護謨 ( ごむ )ででも拵え屈伸自在な仮面を 被 ( かぶ )って居るのでは無かろうか、併し其の様な巧みな仮面は未だ発明されたと云う事を聞かぬ。 愈々之が仮面で無くて本統の素顔とすれば絶世の美人である、余は自分の女房にと叔父や当人から推し附けられ、断り兼ねて居る女は有るけれど、断然其の女を捨てて此の女に取り替えねばならぬ、と殆ど是ほどまでに思った。 真逆 ( まさか )に此の天女の様な美人が今まで主人無しに居る筈も無く、 縦 ( よ )しや居たとてそう 容易 ( たやす )く余に 靡 ( なび )く筈は無く、思えば余の心は余り軽率過ぎたなれど、此の時は全く此の様にまで思った、夫だから此の美人の顔が仮面で有るか素顔で有るか、物を云う時には 看 ( み )破らんと、熱心に目を光らせて待って居ると、美人は少し余の様子を頓狂に思ったか笑みを浮べて、 「ハイ今し方、此の時計を捲いたのは私ですよ」 仮面で無い、仮面で無い、本統の素顔、素顔。 此の美人は何者だろう、第一、此の荒れ果てた塔の中に、而も輪田お紺の幽霊が出ると云われる室の中に、丁度其のお紺の寝たと云う寝台の上に、唯一人で居たのが怪しい、第二には此の世に知った人の無い秘密、即ち時計の捲き方を知って居るのが怪しい、第三に、 故 ( わざ )々其の時計を捲いたのが怪しい、余は初めに其の顔の美しさに感心し、外の事は心にも浮かばずに居たが、追々斯様な怪しさが浮かんで来た、猶此の外に怪しい箇条が有るかも知れぬ、怪しんで暫し茫然として居ると、塔の時計が鳴った、数えると七時である、自分の時計を出して眺めると如何にも七時だ、美人は余の怪訝な顔を見て、可笑しいのか「ホ、ホ」と笑み「塔の時計の合って居るのが不思議ですか」と余を 揶揄 ( からか )う様に云った、其の笑顔の美しさ、全体此の様な辺鄙な土地へ是ほどの美人が来て居るのさえ怪しいと云う可しだ。 其のうちに美人は堀の土堤を、庭の奥の方へ歩み初め、一丁余も行って終に堤下に降りた、茲に大きな榎木が五六本聳えて居る、其の一本の下に余り古く無い石碑が立って居る、土の盛り方や石の色では昨年頃誰かを葬った者でも有ろうか、屋敷の中に墓の有るのも不思議、誰も住んで居ぬ空屋敷へ新墓の出来るも不思議、余は益々異様に思い、口の中で、思わずも「怪美人」と呟いた、実に怪美人だ、此の美人の身に就いての事は皆な「怪」だ言葉も振舞も着物も飾り物も、爾して妙に此の屋敷の秘密を知って居る事も地図などを持って居る事も、一の怪ならざるは無しだ、頓て美人は新墓の前に跪づいて、拝み初めたが、何だか非常に口惜しいと云う様子が見え、次には 憫 ( あわれ )みを帯び来って両眼に涙を湛えるかと思われた、懐かしい情人の墓か、嫉ましい恋の敵の墓か、何しろ余ほど深く心を動かす様な事柄が有ると見える、余は美人の拝み終るを待ち兼ねて「誰の墓ですか」と云ってズウズウしく降りて行き、石碑の文字を読んだが、少し驚いた。 「輪田夏子之墓」と有る。 「明治二十九年七月十一日死、享年廿二歳」と左右に記して有る、輪田夏子とは誰、読者は前回の記事を記憶して居るだろう、此の家の主婦輪田お紺の養女で、お紺を殺し終身刑に処せられて牢の中で死んだ殺人者だ、養母殺しの罪人だ、成るほど考えて見ると其のお夏の死骸を、弁護士権田時介と云う者が、前年自分が弁護した 由縁 ( ゆかり )で引き取って此の屋敷へ埋めたと云う事を其の頃の新聞で読んだ事が有る、其の様な汚らわしい者の墓へ此の美人が参詣とは是も怪だ。 養母殺しの大罪人の墓へ参詣するなどは余り興の醒めた振舞ゆえ余は容赦なく「貴女は此の女の親類か友達ですか」と問うた、怪美人は「イイエ、親類でも知人でも有りません」と答えた。 益々不思議だ、是が貞女烈女の墓とか賢人君子の墓とか云えば、知らぬ人でも 肖 ( あや )かり度いと思って或いは参るかも知れぬが、人を殺して牢死した者の墓へ、親戚でも知人でも無い者が参るとは、全く有られも無い事だ、余「夫では何の為にお詣り成さる」怪美人は真面目に顔を上げ、 「其の様にお問いなさらずとも、分る時が来れば自然に分りますよ」と云い、其のまま今度は玄関の方を指し 徐々 ( そろそろ )歩み始めたが、何だか意味の有り 相 ( そう )な言葉だ。 余は 最 ( も )そっと深く此の美人の事が知り度く此のまま分れるは如何にも残念だから、猶此の後に附いて歩みながら、横手へ首を突き出して「貴女は先刻、私の叔父へ、時計の捲き方を教えて下さる様に仰有りましたが、何うかお名前などを伺い度く思います」美人は何事をか考え込んで、今までより無愛想に「私は姓名を知らぬ方に自分の姓名は申しません」成るほど余は未だ此の美人に姓名を告げなんだ、「イヤ、私は丸部道九郎と云う者です、叔父は丸部朝夫と申します」美人は少し柔かに「アア兼ねて聞いて居るお名前です、私は松谷秀子と申します」余「お住居は」美人「今夜は此の先の田舎ホテルと云う宿屋に泊ります」田舎ホテルとは余が茲へ来る時に、荷物を預けて来た宿屋で、余も今夜其所に泊る積りである。 「イヤ夫は不思議です、私も其の宿屋へ行くのです、御一緒に参りましょう」 美人は宿屋まで送られるのを有難く思う様子も見えぬ、単に「爾ですか」と答えたが、併し別に拒まぬ所を見れば同意したも同じ事だ、此の時は既に夜に入り、道も充分には見えぬから、余は親切に「私の腕へお縋り成さっては如何です」美人「イイエ、夜道には慣れて居ます」食い切る様な言い方で、余は取り附く島も無い、詮方なく唯並んで無言の儘で歩いて居たが其の中にも色々と考えて見るに、松谷秀子と云うも本名か偽名か分らぬ、全体何の目的でアノ幽霊塔へ入り込んだ者であろう、真逆に時計を捲き試して相当の人へ教え度いと云う許りではあるまい、何にしても余ほど秘密の目的が有って、爾して其の身の上にも深い秘密が有るに違い無い、果して「分る時には自然に分る」だろうか、其の「分る時」が来るだろうか。 此の様に思って歩むうち、忽ち横手の道から馬車の音が聞こえて、燈光がパッと余の顔を照らすかと思ったが、夫は少しの間で其の馬車は早や余等を追い越して仕舞った、併し余は其の少しの間に馬車の中の人を見て、思わず「アレ叔父が来ましたよ」と叫んだ、確かに馬車の中に余の叔父が乗って居る、尤も馬車の中から余の顔を見たと見え馬車は十間ほど先へ行って停り、其の窓から首を出して「アレ道さん、道さん」と余を呼ぶ者が有る。 「道さん」などと 馴々 ( なれなれ )しく而も 幼名 ( おさなな )を以て余を呼ぶ者は外に無い、幼い時から叔父の家で余と一緒に育てられた乳母の連れ子で、お浦と云う美人で有る、世間の人は確かに美人と褒め、当人も余ほど美人の積りでは居るけれど、余の目には爾は見えぬ、併し悲しい事には此の女が余の妻と云う約束に成って居る。 何で其の様な約束が出来たか知らぬが、本来其の乳母と云うのが仲々剛い女で、叔父の家を切って廻して居たが、死ぬ前に叔父を説き附け、余が学校へ這入って居る留守中に余の未来の妻と云う約束を極めた相で、尤も余の叔父は人が願えば何事でも 諾 ( うん )、諾と答える極めて人好しゆえ此の様な約束にも同意したのであろう、余は大恩ある叔父の言葉に背く訳にも行かず又今まで外に見 初 ( そ )めた女も無かったから其の約束に従い、何時でも余の定める日を以て婚礼すると云う事に成って居るが、余は余り進まぬから生涯其の日を定めずに居ようかと思って居る、美人でも何でも乳母の娘では、余り感心が出来ぬ、併しお浦は既に丸部夫人と云う気位で交際社会からも持て囃されるし、通例世間一般の女房たる者が酷く 所天 ( おっと )を圧制する通りに余を圧制しようと試みる、余の為す事には何でも口を出す、愈々婚礼でも仕た後は余ほど 蒼蝿 ( うるさ )い事だろうと覚悟して居る、併し 閑話 ( あだしごと )は扨置いて、余は呼ばるる儘に急いで馬車の傍へ行こうとしたが、暫し怪美人に振り向いて「丁度叔父が来ましたから何うか今夜食事の後で時計の捲き方をお教え下さい、私が叔父へ話し、貴女へ面会を願わせますから」斯う云って怪美人に分れ、馬車の許へ駆けて行くと、叔父は怪訝な顔で「怪我は何うした、怪我は何うした」と畳み掛けて問わる。 余「エ、怪我とは誰の」叔父「お前のよ」余「エ、私が怪我したなどとは夫は何かの間違いでしょう、此の通り無事ですが」叔父「無事なら何より結構だが、ハテな、誰の悪戯だろう、先ず此の電信を見よ」と云って一通の電信を差し出した、馬車の燈火に照して読むと「ドウクロウ、オオケガ、スグキタレ、イナカホテルヘ」と有り「叔父さん誰かが貴方を欺いて誘き寄せたのですよ、跡方も無い事です、併し此の様な悪戯者が有っては不安心です、貴方は直ぐに宿屋へお出なさい、私は直ぐに電信局へ行き、何の様な奴が此の電信を依頼したか聞いてから帰ります」叔父「四十里を通し汽車で、二時間半で此の先の停車場へ着いたが、己は疲れたから其の言葉に従おう」お浦は余が一言も掛けぬに少し不興の様子で「おや道さん四十里も 故々 ( わざわざ )介抱に来た私には御挨拶も無いのですか、今一緒に歩んで居た美人にでも此の様に余所々々しいのですか」と、叔父の顔を 顰 ( しか )めるにも構わず 呶 ( ど )鳴った、余は単に「イヤ挨拶などの場合で無い」と言い捨てて電信局を指して走ったが、何うも変だ、何だか幽霊屋敷の近辺には合点の行かぬ事が満ちて居る様だ、併し今までの事は此の後の事に比ぶれば何でも無い。 何者が何の為嘘の電報など作って余の叔父を呼び寄せたのだろう、余は電信局で 篤 ( とく )と聞いて見たけれど分らぬ、唯十四五の穢い小僧が、頼信紙に認めたのを持って来たのだと云う、扨は発信人が自分で持って来ずに、路傍の小僧に金でも与えて頼んだ者と見える、更に其の頼信紙を見せて貰うと、鉛筆の走り書きではあるが文字は至って 拙 ( つた )ない、露見を防ぐ為故と拙なく書いたのかも知らぬが、余の鑑定では自分の筆蹟を変えて書く程の力さえ無い人らしい、而も何だか女の筆らしい。 是だけで肝腎の誰が発したかは分らぬ故、余は此の地の田舎新聞社に行き広告を依頼した、其の文句は「何月幾日の何時頃人に頼まれて此の土地の電信局へ行き、 倫敦 ( ろんどん )のAMへ宛てた電信を差し出した小供は当田舎新聞社へまで申し来たれ、充分の褒美を与えん」と云う意味で、爾して新聞社へは充分の手数料を払い、若し其の小供が来たら、直ぐに倫敦の余の住居へ寄越して呉れと頼んで置いた。 何も是ほどまで気に掛けるには及ばぬ事柄かは知らぬが斯う落も無く取り計ろうが余の流儀で、何事にも 盡 ( つく )す丈の手を盡さねば気が済まぬから仕方が無い。 是で宿へ帰り、是だけの事を叔父に話し、爾して更に、彼の時計の捲き方を知って居る人の有る事を話した、叔父は非常に喜び、若し其の人に逢う事が出来るなら贋電報に欺されて此の地へ来たのが却って幸いだと云い、是非とも晩餐を共にする様に計って呉れと云うから、余は 彼 ( か )の怪美人を捜す為に室を出て帳場の方へ行くと丁度廊下で怪美人に行き合った、是々と叔父の 請 ( こい )を伝えると怪美人は少し迷惑気に「私だけなら喜んでお招きに応じますが、実は外に一人の連れが有りますので」余「結構です、其のお連れとお二人」美人「ですが其の連れに附き物が有りますよ」附き物とは何であろう、余「エエ附き物」美人「ハイ、一匹、狐猿と云う動物を連れて居まして、何処へ行くにも離しませんから、人様の前などへは余り無躾で出られません」狐猿とは狐と猿に似た印度の野猫で、木へも登り、地をも馳け、鳥をも蛇をも捕って食う動物だが何うかすると人に 懐 ( なつ )いて家の中へ飼って置かれると、兼ねて聞いた事はある、余「ナニ貴女、人の前へ飼犬を抱いて出る貴婦人も此の節は沢山あります、狐猿を連れて居たとて晩餐の招きに応ぜられぬ筈は有りません」美人は渋々に、「ではお招きに応じましょう、貴方の叔父様の様な名高い方には予てお目に掛り度いと思って居ますから」と約束は一決した。 余は喜んで叔父の室へ帰ろうとすると、美人は何か思い出した様に追っ掛けて来て呼び留め「愈々叔父様が幽霊塔を買い取れば貴方もアノ屋敷へ棲む事になりますか」余「ハイ」美人「では必ず、今日私のお目に掛ったアノ室を貴方のお居間と為し、夜もあの室でお寝み成さい」実に不思議な忠告だ、余「エあの、お紺婆の殺されて、幽霊の出るという室ですか」美人「大丈夫です、幽霊などは出や致しません、私は先刻もお紺婆の寝たと云う寝台へ長い間寝て見ましたが何事も有りません」成るほど此の美人はあの寝台から幽霊の様に起きて来たので有った。 併し此の美人のする事を見れば、如何にも密旨でも帯びて居そうだ、密旨、密命に使われて居るので無ければ、人の殺された寝台に寝たり、養母殺しの墓へ参詣したり其の様な振舞はせぬ筈だ、余「其の密旨とは人から頼まれたのですか」美人「イイエ、自分から心に誓い、何うしても果さねば成らぬ者と決して居るのです、是だけ打ち明けるさえ実は打ち明け過ぎるのですけれど、貴方は正直な方と見えますから打ち明けるのです」余「夫だけの打ち明け方では未だ足りません、約束は出来ません」美人「イエ、何も貴方の身に害になる事では無く、あの室を居間にさえ為されば必ず私に謝する時が有りますよ」外の人の言葉なら余は決して応ずる所で無いが、此の美人の言葉には、イヤ言葉のみで無い目にも顔にも何となく抵抗し難い所が有る、此の異様な請に応ずれば、其の中には此の美人の密旨の性質も分る時が来よう、幽霊の出る室へ寝るも亦一興と、 多寡 ( たか )を括って「では約束します、あの室を居室と仕ましょう」美人「爾成されば、昔から那の家に伝って居る咒文が手に入りますから、其の咒文を暗誦して、能く其の意味をお考え成さい、必ず貴方に幸福が湧いて来ますよ」密使の上に咒文などとは、文明の世には聞いた事も無い言葉だ、余「其の咒文を暗誦すれば妖術を使う事でも出来ますか」美人「妖術よりも勝った力が出て来ます」余「其の様な力が今の世に有りましょうか」美人「有るか無いか、夫も分る時には分ります」 何所までも人を 蠱惑 ( こわく )する様な言い方では有るが、余は兎も角も其の言葉に従って怪美人の密旨をまで見究めようと思ったから、言いなりに成って夫から叔父の所へ帰り美人が一人の連れと共に晩餐の招きに応ずる旨を述べた、尤も此の美人の素性は語らず、単に余の知人で松谷秀子と云うのだと是だけを叔父には告げて置いた、叔父は直ちに別室を借り、之へ食事の用意を為さしめ、用意の整うと共に給使を遣って松谷秀子を招かせた、叔父は例の通り陰気に物静かだが、余の 許嫁 ( いいなずけ )お浦は益々不機嫌だ、日頃の鋭い神経で、余の心が他の女に移る 緒口 ( いとぐち )だと見たのでも有ろう、唯機嫌の好いのは余一人だ、三人三色の心持で、 卓子 ( ていぶる )に附いて居ると、松谷秀子は、真に美人で無くては歩み得ぬ 娜々 ( なよなよ )とした歩み振りで遣って来た、後に随いて来る其の連れは、余り貴婦人らしく無い下品な顔附きの女で年は四十八九だろう、成るほど非常に能く育った大きな狐猿を引き連れて居る、美人は第一に余に会釈し後に居る下品な女を目で指して、「是は私の連れです、虎井夫人と申します」と引き合わせた、苗字からして下品では無いか、併し其の様な批評は後にし、余は直ぐ様叔父に向い、美人を指して「是が松谷令嬢です」と引き合わせたが、叔父は立ち上って美人の顔を見るよりも、何の故か甚く打ち驚き、見る見る顔色を変えて仕舞ったが、 頓 ( やが )て心まで顛倒したか、気絶の体で椅子の傍辺へ打ち 仆 ( たお )れた。 幾等驚いたにもせよ、余の叔父が男の癖に気絶するとは余り意気地の無い話だ、併し叔父の事情を知る者は無理と思わぬ、叔父は仲々不幸の身の上で近年甚く神経が昂ぶって居る、其の 抑 ( そもそ )もの元はと云えば今より二十余年前に、双方少しの誤解から細君と不和を起し、嵩じ/\た果が細君は生まれて間も無い一人娘を抱いたまま家を出て米国へ出奔した、叔父は驚いて追い駆けて行ったが彼地へ着くと悲しや火事の為其の細君の居る宿屋が焼け細君も娘も焼け死んで、他の焼死人の骨と共に早や共同墓地へ葬られた後で有った、是は有名な事件で新聞紙などは焼死人一同の供養の為に義捐まで募った程で有ったが、叔父は共同墓地を 発 ( ひら )き混雑した骨の中の幾片を拾い、此の国へ持ち帰って改めて埋葬したけれど、其の当座は宛で狂人の様で有ったと云う事だ、其のとき既に辞職を思い立ったけれど間も無く検事総長に成れると極って居る身ゆえ、同僚に忠告され辞職は思い留ったけれど、其の時から自分が罪人に直接すると云う事はせず唯書類に拠って他の検事に差図する丈で有った、是より後は兎角神経が鎮らず、偶には女の様に気絶する事も有り愈々昨年に至り斯う神経の穏かならぬ身では 迚 ( とて )も此の職は務らぬとて官職を辞したのだ。 此の様な人だから今夜も気絶したのだろう、兎に角余は驚いて抱き起こした、卓子の上の皿なども一二枚は落ちた、余は抱き起しつつ「水を、水を」と叫んだが、一番機転の利くのは怪美人で、直ぐに卓子の上の水瓶を取り 硝盃 ( こっぷ )に注いで差し出した、夫と見てお浦は遮り、一つは嫉妬の為かとも思うが声荒く怪美人を叱り「貴女は叔父の身体に触る事は成りません、気絶させたのも貴女です」と云って更に余に向い「道さん、此の女に立ち去ってお貰いなさい」と甚い見幕だ、余は「道さん」では無い、 道九郎 ( どうくろう )だ、「道さん」とは唯幼い頃に呼ばれたに過ぎぬのに、何故かお浦は兎角他人の前でも猶更余を「道さん」と呼びたがる、エラク度胸の据った女だから此の様な際にも、余を自分の手の中の物で有ると怪美人へ見せ附けて居るらしい。 怪美人は余ほど立腹するかと思いの外、真実叔父を気の毒と思う様子で「イヤお騒がせ申して誠に済みません、 敦 ( いず )れお詫びには出ますから」と云うて立ち去ろうとする、余「イヤ少しも貴女が騒がせたのでは有りません」とて引き留めようとする中に叔父は聊か正気に復った、併し猶半ばは夢中の様で手を差し延べ、何か確かな物に縋って身を起そうとする、此の時其の手が丁度怪美人の左の手に障った、読者が御存知の通り左の手は異様な飾りの附いた手袋で隠して居る、怪美人は少し 遽 ( あわ )てた様で急いで左の手を引きこめ右の手で 扶 ( たす )けた、お浦の鋭い目は直ぐに異様な手袋に目が附き、開き掛けた叔父の目も此の手袋に注いだ様子だ、けれど怪美人は再び左の手を使わず、右の手に取った叔父の手を、無言の儘お浦に渡し、一礼して立ち去り掛ける、叔父は全く我に復り一方ならず残り惜げに「イヤお立ち去りには及びません、何うぞ、何うぞ、お約束通り食事の終るまで」と叫んだ、其の声は宛で哀訴嘆願の様に聞こえた。 叔父の其の言葉に美人も留まる気に成って、政治家の言葉で言えば茲に秩序が回復した、斯うなるとお浦を 宥 ( なだ )めて機嫌好くせねば、折角の晩餐小会も角突き合いで、極めて不味く終る恐れが有るから、余は外交的手腕を振い、お浦に向って、「貴女が今夜の此の席の主婦人では有りませんか、何うか然る可く差し図して下さい」と、少し花を持せると、お浦は漸う機嫌も直り直ぐに鈴を鳴らして給仕を呼んだ、給仕は遣って来て皿の一二枚割って居るのを見て少し呆れた様子だが、誰も何と説明して好いかを知らぬ、互いに顔を見合わす様を、今まで無言で居た虎井夫人が引き受けて、半分は独言、半分は給仕に向っての様に「何うも此の節は婦人服の裳の広いのが流行る為に時々粗 ( そう )が有りまして」と云いつつ一寸下を見て自分の裳を引き上げた、旨い、旨い、斯う云うと宛で裳が何かへ引っ掛って夫で皿が割れた様にも聞こえ、今の騒ぎはスッカリ此の夫人の裳の蔭へ隠れて仕舞う、裳の広いも仲々重宝だよ、だが併し余は見て取った、此の夫人、何うして一通りや二通りの女でない、嘘を吐く事が大名人で、何の様な場合でも場合相当の計略を回らせて、爾して自分の目的を達する質だ、恐らくは怪美人も或いは此の夫人に制御されるのでは有るまいか、怪美人が極めて美しく極めて優しいだけ此の夫人は隠険で、悪が勝って居る、斯う思うと怪美人と此の美人とを引き離して遣る方が怪美人の為かも知れぬ事に依るとアノ贋電報まで、怪美人が出た後で此の夫人が仕組んだ業では無いか知らん、何か怪美人を余の叔父に逢わせて一狂言書く積りでは無いのか知らんと、余は是ほどまでに疑ったが愈々晩餐には取り掛った。 食事の間も叔父の目は絶えず怪美人の顔に注いで居る、余ほど怪美人に心を奪われた者と見える、斯うなると余も益々不審に思う、叔父が怪美人をば昔の知人に似て居ると云うたのは誰にだろう、叔父の心を奪うほども全体何人に似て居るだろう、是も怪美人の言い草では無いが分る時には自から分るか知らん。 且食い且語る、其のうちに話は自然と幽霊塔の事に移った、叔父は怪美人を見て「貴女が塔の時計の捲き方を御存知とは不思議です、屡々アノ塔へ上った事がお有りですか」怪美人「ハイ以前は時々登りました、何しろ昔から名高い屋敷ですから、年々に荒れ果てるのを惜く、茲を斯う修復すればとか彼処を何う手入れすればとか、自分の物の様に種々考えた事なども有りました」叔父は熱心に「夫は此の上も無い幸いですよ、実は私が那の屋敷を買い取る事になりましたから、必ず貴女の御意見を伺って其の通りに手入れを致しましょう」怪美人「イエ実は先頃も甥御から事に由ると貴方がお買い取り成さるかも知れぬ様に伺いましたから、一度はお目に掛り私の知った事や思う事なども申し上げ度いと思いました」此の通り話の持てるは甚くお浦の癪は障ると見える、お浦は機さえ有れば此の話を遮り叔父と怪美人の間を引き割こうと待って居る有様で、眼の光り具合も常とは違う、叔父「孰れにしても此の後、屡々貴女へお逢い申し、又場合に依れば逗留の積りで塔へお出をも願い度いと思いますが、貴女のお住居は何ちらでしょう」怪美人は少し当惑の様で、「イエ住居は定らぬと申すより外は有りません、なれど是から大抵の宴会には招きに応ずる積りですから、貴方が交際社会へお出掛けにさえなれば、一週間とお目に掛らぬ事は有りますまい」叔父「イヤ私は更に左様な招きには応ぜぬ事にし、今まで宅に閉じ籠ってのみ居ましたが貴女にお目に掛れるとならば此の後は欠さず宴会には出席しましょう」此の丁寧な挨拶を傍から聞いて、お浦は耐え兼ね「叔父さん、其の様な勿体を附けて住居さえ明らかに云わぬ方の後を、何も追い掛るには及ばぬでは有りませんか」叔父は赫っと立腹したが直ぐに心を取り直して美人に謝し、「誠に我儘者で致し方が有りません、何うか此の女の云う事はお気に留めぬ様に」といい更に余に向ってお浦を取り鎮めよと云わぬ許りの 目配 ( めくばせ )した、怪美人は謙遜し「イエ何に、あの様仰有るが当り前です、今の所私は少し住居を申し上げ兼ねる訳が有りまして、知らぬ方からは総て幾等か疑われます」叔父「貴女を疑うなどとは飛んでも無い、何うか何事もお気に留めず、幽霊塔に就いての貴女の設計や、時計の捲き方など充分にお知らせを願います」怪美人「ハイ夫は初めから申し上げる積りですから、必ず申し上げますが、夫にしても此の様な所では、イヤ貴方の外に何方も居ぬ時に申し上げましょう、甥御にもそうお断り申して置きました」お浦は前よりも声荒く「叔父さん、私は黙って居度いと思っても、黙っては居られません、今の其の方のお言葉は確かに私と道さんとを邪魔にするのです、晩餐に招かれて爾して主人の方の人々を邪魔にする様な無礼は、此の節余り流行りません、ハイ私はそう邪魔にされ慣れては居ませんから、此の座に耐えて居る事は出来ません、サア道さん私と一緒に退きましょう、此のお客様が我々とは列席して下されませぬよ」と全くの悪態と為った、叔父は何れほどか腹が立ったろうけれど、日頃の気質で充分に叱りは得せぬ、 只管 ( ひたすら )怪美人に謝まろうと努めたが、怪美人も斯うまで云われては謙遜もして居られぬと見え、突と立って虎井夫人に目配せをし、其の様な言い掛りは受けませぬ、と言わぬ有様で静々と立ち去った、折角の晩餐も滅茶滅茶に終ったが、併し其の立ち去る風は実に何とも云い様の無い気高い様である、女王の 瞋 ( いか )るのも此の様な者で有ろうか、夫に引き替えお浦の仕様は何うであろう、余は両女の氏と育ちとに確かに雲泥の相違が有るのを認めた。 怪美人は決して乳婆などの連れ子ではない。 叔父も非常な不機嫌で、余がお浦に成り代ってお詫びする間も無いうちに室へ退いて仕舞った、後に余はお浦に向い、荒々しく叱った位では迚も追い附かぬから、無言の儘目を見張って睨み附けた、此の時の余の呼吸はお浦の顔を焼くほどに熱かったに違い無い、本統に火焔を吐くほど腹が立ったのだ、お浦は少しも驚かぬ「貴方の其の大きな眼は何の為に光って居ます、貴方は叔父さんが何れほど深くあの何所の馬の骨とも知れぬ女を見初めたかを知りませんか、貴方は本統に明き盲目です、此のまま置けばアノ女に釣り込まれて叔父さんは二度目の婚礼までするに極って居ます、爾なれば叔父さんの身代を相続する為に待って居るお互いの身は何なります」エ、益々忌わしい根性を晒け出すワ余は決して叔父の身代に目を附ける様な男で無い、相続する為に待って居るお互いなどは余り汚らわしい言い様だ、幾ら乳婆の連れ子にもせよ斯くまで心が穢かろうとは知らなんだ、若し知ったなら決して今まで一つ屋根の下には住まわれぬ、余りの事に余は呆れて猶も無言のまま睨んで居たが、お浦は忽ち椅子を 攫 ( つか )み、悔し相に身を震わせて「エ、憎い、憎い、アノ女は取り殺しても足らぬ奴だ、道さん見てお出で成さい、アノ女が猶も貴方や叔父さんに附き纒うなら、私は 屹 ( きっ )と殺して禍いの根を留めますから」と云った、何もアノ女が余や叔父に附き纒っては居ぬ、若し附き纒って居るとすれば余や叔父の方がアノ女に附き纒って居るのだ、併し余はお浦の怪美人を殺すと云う言葉が全く真剣と云う事は此の後 面前 ( まのあた )り事実を見るまで信じ無かった、信じはせぬが併し余とお浦との間は是ぎりで絶えて仕舞った、余は勿論お浦は厭、お浦も厭で幸いと云う程だろう。 確かに松谷秀子と虎井夫人とが争って居る。 「イイエ、貴女が何と仰有っても嘘を吐いたり人を欺いたりする事は私には出来ません。 正直過ぎて夫が為に失敗するなら失敗が本望です」と 健気 ( けなげ )にも言い切るは怪美人だ、扨は虎井夫人から余り正直すぎるとか何故人を欺さぬとか叱られて、夫に反対して居ると見える、何と感心な言葉ではないか、正直過ぎて失敗するなら失敗が本望だとは全く聖人の心掛けだ、余は一段も二段も怪美人を見上げたよ、次には虎井夫人の声で「場合が場合ですもの少し位は嘘を吐かねば、其の様な馬鹿正直な事ばっかり言って何うします」怪美人「イエ何の様な場合でも同じ事です、若し私の馬鹿正直が悪ければ是で貴女と分れましょう、貴女は貴女で御自分の思う様にし、私は独りで自分の思う通りにします、初めから貴女と私とは目的が別ですもの」斯う争って居る仲へ、日頃から懇意な人ならば兎も角、今日初めて逢った許りの余には真逆に飛び込んで行く訳に行かぬ、さればとて探偵然と立ち聞きをして居るのも厭だから、謝するのは明朝にしようと思い直し余は自分の室へ帰った、多分は叔父も明朝を以て篤と謝する積りで居るのであろう。 翌朝は少し早目に食堂へ行って見た、お浦も早や遣って来て居たが、勿論余とは口を利かぬ。 何でも給仕に金でも与えて、怪美人の素性を聞き糺して居たらしい、何だか余の顔を見て邪魔物が来たと云う様な当惑の様子も見えたが給仕は更に構いなく「ハイお紺婆を殺した養女お夏というは牢の中で死にましたが、同じ年頃の古山お酉と云う中働きが矢張り時計の捲き方を知って居た相です」お浦は耳寄りの事を聞き得たりと云う様子に熱心になり「その古山お酉とは美しい女で有ったの」給仕「ハイ之は最う非常な美人で、イヤ私が此の家へ雇われぬ先の事ゆえ自分で見た訳ではありませんが人の話に拠ると背もすらりとして 宛 ( まる )で令嬢の様で有ったので、村の若衆からも大騒ぎをせられ、其の中に一人情人が出来たそうです、爾してお紺の殺される一ヶ月ほど前に色男と共に駈落し、行方知れずに成って居たが、お紺の殺された後故郷 州 ( ウェールス )に居る事が分り其の色男と共に裁判所に引き出されてお調べを受けましたが、遠い 州に居て此の土地の人殺しは関係の出来る筈もなく、唯証人として調べられたのみで直ちに放免せられました、何でも其の後色男と共に外国へ移ったと云う事です。 今頃は米国か 濠洲 ( おうすとらりや )にでも居るのでしょう」お浦「随分其の女は貴婦人の真似でも出来る様な質だったの」給仕「ハイ不断貴夫人の様に着飾ると、田舎者などに感心せられるのを大層嬉しがって居たと云う事です」お浦「今居れば幾齢ぐらいだろう」給仕「お紺婆の殺された時、十九か二十歳だったと云いますから今は二十五六でしょうが、併し美人に年齢無しとか云いますから矢張り若く見えて居る事でしょう」 お浦は是だけで満足したか、問うのを止めて余の傍へ来て、最と勝ち誇った様子で「今の話を何と聞きました」余「何とも聞きませんよ」お浦「道さん、貴方の 尊 ( うやま )う貴婦人は立派な素性です事ねエ。 併し別に争い様もないから、無言の儘で、何とかお浦の疑いを挫く工夫は有るまいかと、悔しがって居ると、丁度叔父朝夫が這入って来た、叔父は甚く落胆の様子で「ア、今朝篤と松谷秀子嬢に逢い、昨夜の詫びも云い 更 ( あらた )めて時計の秘密を聞き度いと思い其の室を尋ねたら、虎井夫人と共に早朝に此の宿を立った相だ、爾して行く先も分らぬ」お浦は益々勝ち誇って「爾でしょうよ、昔の素性を知った人が多勢居る土地に、そう長居は出来ぬ筈です」と独語の様に云い、更に余に向って「道さん、夜逃げよりも朝逃げの方が、貴方のお目には貴婦人らしく見えましょうネエ」何方まで余を遣り込める積りだろう、併し余は相手にせず、食事の終るまで無言で有ったが、頓て叔父は余に向い「来た序でだから是より幽霊塔の中を見て来よう」と云い、共々に出かける事とは成ったが、本統に幽霊塔を昼の中に検査するのは是が初めてだ、検査の上で何の様な事を発見するかは烱眼な読者にも想像が届くまい。 愈々幽霊塔の検査に行く事と為って、余は一番先に此の宿の店先まで出掛けた、叔父とお浦は未だ出て来ぬ、多分は叔父がお浦に向い、昨夜の小言を云って居るので有ろう、余の居る所で小言を云うのを余り気の毒だと思い、故と余を先へ出したらしい。 余は待ちながら帳場に在る客帳を開いて見た、見ると松谷秀子と虎井夫人との名が余の直ぐ前へ 記 ( つ )いて居る、即ち二人は余等より一日先に此の宿へ来た者だ、此の宿ではタッた二晩しか泊らなんだのだ、余は若しや此の客帳の字と昨夜の贋電報の字と同じ事では有るまいかと思い、能く能く鑑定して見たが全く違って居る、客帳のは余ほど綺麗な筆蹟で珍しい達筆と云っても好い、多分怪美人が自分で書いたので有ろう、仲々電報の頼信紙に在った様な悪筆では無い、余は猶帳場の者に少し鼻薬を遣り此の客帳は誰が記けたと問い、果して怪美人が記けたのだと聞いて、更に何か虎井夫人の書いた者は無いかと尋ねたが、生憎之は無い、若し有ったなら贋電報に関する余の疑いの当り外れが分っただろうに。 夫から又怪美人は今朝何時頃に立ったかと問うた、帳場の返事では六時前に怪美人が一人で帳場へ来て二人の勘定を済ませ其のまま立ち去ったが七時頃に虎井夫人は怪しむ様子で降りて来て、既に怪美人が勘定まで済ませて立ったと聞き、驚いて二階へ行き例の狐猿と荷物とを携えて、 々 ( そこそこ )に其の後を追っ掛けて行ったという事だ、是で見ると昨夜余の漏れ聞いた争いの結果が到頭円満には纒らずに怪美人が虎井夫人を振り捨てて立ったのだろう、何の様な間柄かは知らぬけれど、余り気の合った同士とは思われぬ。 其のうちに叔父もお浦も来て、共々に用意の馬車に乗り、間も無く幽霊塔には着いたが、別に異様な事もない、相変らず陰気な許りだ、塔の上は後として先ず下の室々から 検 ( あらた )めたが、何しろ何代も続いた丸部家が、後から後からと建て足した者で座敷の数は仲々多く、其の癖座敷と座敷との関係などが余り旨く出来て居無くて、何の為だか訳が分らぬ室なども有るけれど叔父の気には充分入ったと見え、叔父「フム悉く雑作を仕直せば仲々面白い屋敷になる」と云い、愈々買い取る事にするとの意を洩した、下の検査は是だけにして今度は塔の上へ登ったが、検め検めて昨夕余が怪美人に逢った室迄行って見ると、昨夕は此の上に在る時計室へ上る道が分らなんだのに、今朝は壁の一方に在る秘密戸が開いて居て時計室が見えて居る、何うして此の秘密戸が開いたのかと敢て怪しむ迄もない、今朝六時に宿を立った怪美人が茲へ立ち寄り此の戸を開けて置いたので有ろう、怪美人が此の秘密戸の開閉の仕方を知って居る事は昨夕時計を捲いたので分って居る、此の戸の開け方を知らずに時計を捲く事は勿論出来ぬ筈だから。 とは云え怪美人は何故に今朝故々此の塔へ来て此の秘密戸を開けたのだろう、余は何とやら余等に対する親切で故々此の戸を開けた儘で置いて呉れたのだと思う、爾すれば外にも猶室の中に何か怪美人の来た印が有るかも知れぬと思い、室の中を見廻すと、お紺婆の寝台の上に一輪の薔薇の花が落ちて居る、余よりも先にお浦が之を看て「オヤオヤ今朝か昨夜か此の寝台へ来た人が有ると見える此の花は未だ萎れて居ぬ」と云って取り上げた、全く余の思う通りだ、怪美人が今朝茲へ来たという事を余に知らせるのだ、余は親切の印ともいう可き此の花をお浦風情に我が物にされて成る者かと殆ど腕力盡で 引奪 ( ひったくっ )たが、悲しい哉花よりも猶大切な者をお浦に取られて仕舞った、夫は花の下に伏せてあった一個の鍵である、お浦は花を余に取られて惜しみもせず、直ぐに又寝台に振り向き「ア、丁度花の下にこれ此の様な古い銅製の鍵が有ります」と云って、今時のよりは余ほど不細工に出来た鍵を取り上げた、扨は「怪美人が此の鍵を受け取れ」と余へ注意する為、鍵の上へ花を載せて目に附く様にして置いたのだ、余は此の鍵をも取り上げようと手を延べたのに、お浦「オット爾は 了 ( いけ )ません、此の鍵は私が拾ったのだから、真の持主が現われるまで私が預ります、誰にも渡しません」と言い切り早や衣服の何所へか隠して仕舞った。 爾して余と叔父とが上の時計室を検めて居る間に、其の鍵を方々の錠前へ試みたと見え忽ち声を上げ「オヤ茲に此の様な物が有ります」と叫ぶから行って見ると寝台の枕の方にある壁の戸棚を開けて居る、今の鍵は確かに此の戸棚に用うるのだ、戸棚の中には一冊の大きな本が有る、今度は余が此の本を取り出して見ると昔し昔しの厚い聖書だ、是ほど立派なのは図書館にも博物館にも多くはない、之を若し考古家に見せたら千金を抛っても書斎の飾り物にするだろう、何しろ珍しい書籍だから「是は丸部家の宝物の一つでしょうね」といゝつゝ表紙を開いて見ると、これは奇妙、表紙裏も総革で、金文字を打ち込んで有る、文字の中にも殊に目に附くは、最初に記した「咒語」の二字だ、思えば昨夜、怪美人がこの室に丸部家の咒文が有るといゝ余に暗誦せよと告げた、即ち此の咒語に違いない、咒語か、咒語か、何の様な事を書いて有る、文字は 鮮 ( あざや )かで有るけれど、仲々難かしい、余は漸く読み下した。 何にしても此の咒文は幽霊塔の秘密を読み込んで有るに違いない、この意味が分れば、幽霊塔の秘密も分るに違いない。 「 明珠百斛 ( めいしゅひゃっこく )、 王錫嘉福 ( おうしかふく )、 妖 偸奪 ( ようこんとうだつ )、 夜水竜哭 ( やすいりょうこく )、 言探湖底 ( げんたんこてい )、 家珍還 ( かちんかんとく )、 逆焔仍熾 ( ぎゃくえんじょうし )、 深蔵諸屋 ( しんぞうしょおく )、 鐘鳴緑揺 ( しょうめいりょくよう )、 微光閃 ( びこうせんよく )、 載升載降 ( さいしょうさいこう )、 階廊迂曲 ( かいろううきょく )、 神秘攸在 ( しんぴしゅうざい )、 黙披図 ( もくひとろく )」 昔の韻文で、今人の日常には使用せぬ文字も多いが、併し兼ねて余が聞き噛って居る幽霊塔の奇談と引き合せて考えれば、初めの方だけは薄々に斯う云う意味だろうかと推量は附く、平たく云えば「沢山な宝を(第一句)国王から恵まれた(第二句)怪しい悪僧が盗み去って(第三句)暗い水の中へ落した(第四句)いま水海の底を探して(第五句)我が家の宝が元の箱へ還った(第六句)今は物騒な世の中だから(第七句)人の知らぬ様に家の中へ隠して置く(第八句)」と、此の様な事でも有ろうか、併し此の次の四句は更に分らぬ、鐘が鳴るの、緑が動くの、微かな光が閃めくの、昇るの降るのとて、全体何の事だ、此の四句が能く分れば多分は其の宝の在る所へ行く路も分り、従って其の宝と云う物は全くあるかないか此の伝説が虚か誠かと云う事を見極める事も出来ようけれど、到底此の意味は分らぬから仕方がない、唯余に分らぬのみでなく恐らくは誰にも分らぬで有ろう、分らねばこそ今まで何百年も秘密と為って存して居るのだ、とは云え末二句には聊か頼もしい所がある「神秘の在る所、黙して図 を披け」と云うは「詳しい事は図面で見よ」と云う様な心ではあるまいか、爾とすれば其の図 とか云う図面を見れば、 最 ( もっ )と能く分り相に思われる。 此の様に考え回す所へ、叔父は時計室から降りて来て「何う見ても時計の捲き方は分らぬ、夜前の松谷秀子嬢に最一度逢って教えて貰うより外はない」と云ったが、頓て背後から此の咒語此の聖書を見、驚いて「ヤ、ヤ、是は大変な物が出て来た、此の聖書は昔から丸部家の家督を相続する者に伝えて来た宝の一だ、咒語は到底何の事だか分らぬけれど丸部家の当主たる者は誕生日毎に此の咒語を暗誦して其の意味を考えねばならぬと云う事に成って居たのだ、全体此の聖書は何所から出た」余「今此の戸棚に在りました」叔父「それは益々もって不思議だ、此の聖書は輪田お紺婆が此の塔を買い取るより数年前に紛失して、時の当主は大金を掛けて詮索したが到頭出ずに仕舞ったのだ、若しその時に此の戸棚に在ったなら直ぐに当主が見出す可き筈で有る、勿論此の戸棚などは空にして探したけれど出て来なんだ、何でも一旦紛失した物が時を経て茲へ返ったのだ、聖書が独りで返る筈はないから誰かが持って来て密っと入れたのだ」余は益々怪美人の言葉を思い合せ、彼の美人が余に此の咒語を解かせ度いとでも云う親切で此の聖書を茲へ入れたに違いないと思う、併し彼の美人が何うして此の聖書を持って居たかなど云う点は更に分らぬ、分らぬけれど分らぬ事だらけの怪美人のする事だから、何も是のみを怪しむにも及ばぬ訳サ。 叔父は聖書の表紙などを検めて「表紙に塵などが溜って居ぬ所を見ると此の頃まで人手に掛って居た者だ、何うも己の推量が当って居る様だ」余「エ、貴方の推量とは」叔父「昔、此の書が紛失したと聞いた時、己は多分其の頃老女を勤めて居たお紺婆が盗んだのだと思った、アノ婆は非常な慾張りで有ったから、此の塔に宝物が隠れて有ると云う伝説を聞き、咒語さえ見れば其の宝の在る所が分る事と思い、先ず此の聖書を盗み、爾して其の後此の塔を買い取ったのだ」余「では此の聖書が何うして茲に在ります」叔父「多分はお紺の相棒が有ったのだろう、お紺自身は咒語を読む事などは出来ぬから其の相棒へ之を渡して研究でもさせたのだ、其の相棒が研究しても分らぬから終に絶望して聖書を茲へ返したのだろう」果して其の推量の通りならば、怪美人が其の相棒と云う事になる、余は何うも爾は思わぬ。 アノ様な美しい女が其の様な悪事に加担する筈はない、若し加担したのならば此の聖書を余の手に這入る様に茲へ入れて置く筈はない、叔父とても若しアノ美人が此の聖書を茲へ置いた者と知れば、お紺の相棒などと云う疑いは起さぬに違いない、併し余は今、アノ美人の事を叔父に告げ、美人が此の聖書を持って来たらしいなどと知らせる事は出来ぬから、唯無言で聞いて居ると、智慧逞しいお浦は其の辺の事情を察したのか「爾です叔父さんの御推量の通りでしょう」と云い更に余にのみ聞える様に「是で益々アノ松谷秀子が、お紺の仲働き古山お酉だと云う事に成るでは有りませんか、何でもアノお酉が自分一人の力では行かぬから貴方をタラシ込んで相棒に引き込む為、薔薇の花も銅製の鍵も置いて行ったのです、あの女は叔父さんが此の屋敷を買う事を知り、叔父さんの家族の中に相棒がなくては了ぬと思って居ます、若し貴方を相棒にする事が出来ねば直接に叔父さんを欺し、後々此の家へ自由自在に入り込む道を開いて爾して宝を盗み取る積りです、叔父さんへ贋電報を掛けたのもあの女ですよ」 余は此の疑いには賛成せぬけれど、爾でないと云えば八かましくなる故、 無言 ( だまっ )て聞き流したが、其の間に叔父は咒語を繰返し「何でも図 という者がある筈だ図 は此の本の中へ秘して有ると兼ねて聞いて居たが」と云い、本の小口を下に向けて振って見た、すると中から一尺四方ほどの一枚の古い古い図面が出た、図面には「丸部家図 」と書いてある、是だ、是だ、是さえあれば何事も分るだろう。 図 とは何の様な者だろう、余も叔父も首を差しのばして検めたが、全く幽霊塔の内部を写した図面であるが、悲しい事には写し掛けて中途で止めた者で、即ち出来上らぬ 下画 ( したえ )と云うに過ぎぬ、是では何の役にも立ぬ、咒文を読んで分らぬ所は図 を見ても矢張り分らぬ、叔父の説では幽霊塔を立てた人が、先ず咒文を作って次に図 を作り始めたが、中途で自ら塔の中へ落ち、此の世へ出ずに死んだから、夫で図 だけは此の通り出来上らずに仕舞ったと云う事だ。 併し叔父が此の塔を買おうと云うのは元々咒文や図 の為ではない。 噂に伝わる宝とても初めから叔父の眼中にはないので有る、図 が充分に分らぬからとて何も失望する事はない、けれど兎に角此の図 は聖書と共に丸部家の血筋へ伝え来たった者で、今では叔父が其の最も近い血筋だから之を預って保管して置くと云う事に成った、之にはお浦も故障を入れる事は出来ぬ、併しお浦の拾い上げた銅製の鍵だけはお浦が何うしても放さぬ「他日必ず役に立ててお目に掛けます」と余に向って断言した。 ハテな、何の様な役に立てる積りなのか。 塔の検査は之だけで終り、吾々三人直ちに倫敦へ帰ったが、翌々日は早や買い受けの約条も終り、何の故障もなしに幽霊塔は本来の持主丸部家の血筋へ復った、是からは修繕に取り掛る可きで有るが、叔父は修繕の設計に付いては是非とも松谷秀子の意見を聞き度いと云い、此の後は何の様な招待にも必らず応じて出掛けて行く事にした、是は総ての招待に応ずれば一週間と経ぬ中に廻り逢う様に言ったあの怪美人の言葉を当てにしての事らしい、勿論余も最一度怪美人に、逢い度いから必ず叔父に随いて行く、お浦も同じく逢い度いのか随いて行く、けれど仲々廻り逢う事が出来ぬ、其の中に叔父は何所で探ったか一冊の本を買って来て余に示したが、其の本は「秘書官」と題した小説(だか実験談だか)で、米国で出版した者だ、著者は「松谷秀子」とある、叔父は之を余に示して「アノ方は米国の令嬢と見える、爾して此の様な書を著す所を見ると仲々学問も有る、事に依ると女ながらも米国政治家の私雇の書記でも勤めて居た者では有るまいか」と云われた、余は受け取って其の本を読んで見た、小説としては少しも面白い所はないが、如何にも米国の政治家の内幕を能く穿った者で、文章の美しい事は非常で有る、大体の目的は米国の平民主義の共和政治とを嘲り暗に英国の貴族制度と王政とに心を寄せた者だ、此の様な書は米国で好く言われまいけれど、英国の読書家には非常に歓迎せられるだろうと、余は此の様に思ったが、果せる哉是より数日を経て評論雑誌に此の書の評が出て、甚く著者の才筆を褒め、猶此の書の著者が先頃より此の英国へ来て居る、一部の交際社会に厚く待遇されて居ることや、目下サリー地方を漫遊して居る事まで書き加えて有る。 此の時宛も其のサリー地方の朝倉と云う家から叔父の許へ奇妙な招待状が来て居た、奇妙とは兼ねて色々な遊芸を好む其の家の主人(朝倉男爵)が此の頃新たに覚えた手品を見せ度いと云うので有る、素人手品は総ての素人芸と同じく当人には甚く面白いが拝見や拝聴を仰せ付けられる客仁に取っては余り有難い者でない、朝倉男爵は通人だけに其の辺の思い遣りも有ると見え、猶隣の郷へ恰もチャリネとて虎や獅子などを使う伊太利の獣苑興行人が来て居るから夫をも見せると書き添えて有る、虎にしろ獅子にしろ叔父は余り其の様な事を好まぬ気質で、此の招待は断るなどと云って居たが、評論雑誌の記事を見てから急に行く気になり、相変らず余とお浦とは附き随われて出掛けて行ったが、途中で大変な事件を聞いた、夫は外でもない、チャリネ先生が印度とか亜弗利加とかから生け捕って来た大きな虎が、夜の間に柵を破って行方知らずと成ったと云う事で、警官などが容易ならぬ顔をして立ち騒ぎ、旅人にも夫々注意を与えて居る、実に是は容易ならぬ、 寧 ( いっ )そ行かずに引き返す方が安全だ、未だ虎に食われて死に度くはない。 斯う云う評議に成って暫く途中で停ったが、常の場合ならば無論引き返す所だけれど彼の評論雑誌の記事を思い出すと如何にも引き返えすのは惜しい、事に由れば才媛と云われる「秘書官」の著者も朝倉家へ来て居るかも知れぬ、猶深く気遣えば若しや其の才媛が其の虎に食われるかも知れぬ、真逆に斯くまでは口に出さぬが叔父もこの通りの考えと見え、思い切って行く事に成った、お浦だけは少し苦情を唱えたけれど、余と叔父とが行くと云えば決して自分一人帰りはせぬ、併し此の評議の為、予定の時間より余ほど後れ、愈々朝倉家へ着いたのは夜の九時であった。 着くと朝倉夫人が独り出迎え、三人の遅いのを気遣って居た旨を述べて「サア丁度手品が是から興に入る所です、今お客の中で籖を引き、一人其の手品の種に使われる約束で、大変な方が其の籖に 中 ( あた )ったから、実に大騒ぎでしたよ」と、自分の亭主の素人芸を唯一人で面白がり、客には口も開かせぬのは、随分世間に在る形だ、三人は烟に捲かれた心持で、電燈の光まばゆき廊下を通り、笑い動揺めく声が波の様に聞えて居る大広間へ這入ろうとすると、此の時満堂の電燈が一時に消えて全く 暗 ( やみ )の世界となった、余も叔父も驚けばお浦も「アレー」と叫んだが主夫人は暗の中で説明し「ナニお驚くに及びませんよ、是が手品の前置きですよ、丁度パノラマへ這入る前にお客の目を暗まして置いて夫から大変な者を見せるのと同じ事です」とて、探りに探りに三人を大広間へ入れたが暫くすると堂の中が少しずつ明るくなり、正面の青白い幕へ、幻燈の画の様に、美人の姿が現われて動き始めた、尤も此の美人は背の高さが僅かに二尺位だから本統の美人で無く、幻燈の影であるに極って居る、所が篤と見て居る中に其の影が段々大きくなり、遂に本統の美人と為って、 嫣然 ( にっこり )と一笑したが、読者よ、何うであろう、其の美人は 擬 ( まご )う方も無い松谷秀子であった、余も叔父も逢い度いと思って居た怪美人だ、成るほど客の中から一人籖に中り手品の種に使われる事に成ったを今主夫人の云ったのが此の才媛で有ったと見える。 幻燈の影が何時の間にか本統の美人と為るのは別に珍しくは無い芸だ、併し素人としては仲々の手際だから客一同は喝采した。 真に満堂割るる許りの喝采で、中には「朝倉男爵万歳」とまで褒める者も有った。 再び満堂が明るくなると松谷秀子は元の席へ復って居る、客は口々に主人を褒め又秀子を褒めたが、主人の芸は最一度と所望する人無けれど松谷秀子の音楽は是非最一度と後をネダる人が多い、シテ見ると秀子の芸が主人よりも上か知らん、其のうちにも余の叔父は嬉し相に立って行き再会の歓びを述べて最う一回をと言葉を添えたが其の様は恋人の有様で有る、秀子も甚く余の叔父を懐かしく思う様子で、特別の笑顔を現わしたが併し「私の音楽は二度目をお聞きに入れると荒が出ます」と謙遜して所望に応ぜぬ、其の辺の応対の様や物の言い振りの仇けない所を見ると余は実に矢も楯も耐らぬ、自分の魂が鎔けて直ちに秀子の魂に同化するような気がした、勿論余は秀子の身に何か秘密の有る事は知って居る、余自ら怪美人と云う綽名を加えた程だから、 玲瓏 ( れいろう )と透き徹った身の上とは思わぬ。 「秘書官」と云う著者で文学の嗜みのある事も分り今夜の芸で音楽の素養の有る事も分ったとは云え、或る方面から見れば之さえも怪しさの一つでは有るが、併し幾等怪しくても立派な令嬢には違いない、誰の妻としても決して非難すべき者ではない、自分自ら「私は密旨を帯びて居ます」など有体に云う所を見ても嘘偽りなどを云う様な暗い心でない事も分って居る、余は斯う思うと余り叔父と秀子との仲の好いのが気に掛かり、邪魔すると云う訳ではないが同じく秀子の傍へ行って、叔父を推し退ける程にして挨拶した。 すると此の時、余の背後で、満場の人々に聞こえよがしに、大きな声をする者がある、それは浦原嬢だ、イヤ浦原嬢と許りでは読者に分るまい、例のお浦である、お浦の本姓は浦原と云い他人からは浦原嬢と呼ばれて居るのだ、浦原嬢は強いて此の怪美人の傍へ来るは見識に障ると思ったか 顋 ( あご )で松谷嬢を指して「本統に貴女は化けるのがお上手です」と叫んだ、褒め様も有ろうのに化けるのがお上手とは余り耳障りの言葉ではないか、満場の人は異様に聞き耳を立てた様だ、松谷嬢は気にも留めず唯軽く笑って「私が化けたのではなく幻燈の光が化けさせて呉れたのです」浦原嬢は此の返事を待ち設けて居た様子で「アレ彼の様におとぼけ成さる、今夜の事では有りませんよ、仲働きが令嬢に化けるを云うのですよ」扨はお浦め、此の美人を昔のお紺婆の雇人古山お酉とやら云う仲働きとの兼ねての疑いを 稠人 ( ちょうじん )満座の中で 発 ( あば )いて恥を掻せる積りと見える、去れば怪美人は全く其の意味が分らぬ風で「エ貴女の仰有る事は、何だか私には」お浦「お分りに成りませんか、私は又仲働きとさえ云えば直ぐにお紺婆の仲働きとお悟り成さって何も詳しく申して貴女に赤面させずに済むだろうと思いましたのに、お分りがないなら詮方なく分る様申しましょう、婆あ殺し詮議の時に色男と共に法廷へ引き出された古山お酉と云う仲働きの事ですよ、ハイ下女の事ですよ、其のお酉が下女の癖に旨く令嬢に化け 果 ( おわ )せたから夫で呆れる、イヤ感心すると褒めたのです」余は此の言葉を聞きお浦を 擲倒 ( はりたお )して遣り度い程に思ったが爾も成らず、且は此の美人が果してお酉で有るか否やを見極め度いと云う心も少しは有る、何も自分だけは好い児に成ってお浦が確かめて呉れるのを待つと云う猾い了見ではないけれど、唯其の心が少し許りある為に、お浦を擲り倒すのを聊か猶予した、聊か猶予の間に争いは恐しく亢じて仕舞った。 何所迄も愛嬌のある頬笑だ、余は此の有様を見て全く此の美人松谷秀子が古山お酉でないと云う事を見て取った。 尤も此の様を見ずとても下女や仲働きが「秘書官」と云う様な文章も観察と共に優れた本を著わし得る筈はない故、少し考えればお酉でないと充分に分る所では有るのサ。 斯う軽く受け流されて浦原嬢は全く 焦気 ( やっき )だ「オヤ、オヤ、夫では貴女はお酉を知らぬなどと白ばくれ成さるのですか」怪美人「イイエ私はお酉を能く知って居ますよ、今は何所に居るか知りませんけれど幼い時は友達の様に仲能く致しました」この打ち明けた而も訳もない返事に、お浦はギャフンと参った、ギャフンと参って何うするかと思うと「エ、悔しい」と云って立ち上り「何方も私には加勢して下さらぬ、道さんまで知らぬ顔で居るのだもの」と恨めし相に泣き出した、思えば可哀相にも有る、全く自分の間違った疑いの為自ら招いた失敗だとは云え満座の中で大声に言い出した事が少しも功能無しに終るとは成るほど悔しくも有ろう。 叔父も非常に当惑の様子、余も捨て置き難い事に思い、お浦を取り鎭めようとすると、物慣れた当家の夫人がお浦を抱いて、宛で、小供を取り扱う様に「貴女は未だ幼い時から我儘に育った癖がお失せ成さらぬから了ません、第一其の様に人を疑う者ではなく、疑ったとて此の様な所で口に出す者では有りません、口に出せば自分の方が恥ずかしい思いをするに極って居ますよ、殊に松谷さんは「秘書官」の著者でも有り立派な紹介を以て此の国へ来た方ですもの」此の当然な戒めに少しは合点が行ったか「ハイ私が悪う御座いました、相手は下女の癖に大勢の人様に、全くの令嬢だと思わせる様に智慧に逞しい女ですもの私一人の力に余るは知れた事です、爾と気附かずに相手にして此の様な目に逢ったは全く私が馬鹿な為です」と何処までも怪美人を下女にして仕まって憤々と怒ッて此の室を出た。 余は松谷秀子にも済まぬが兎も角お浦を捨て置く訳に行かぬから引き続いて室を出たが、見るとお浦は当家の夫人に送られて、慰められつつ自分に 充行 ( あてがわ )れてある二階の室へ這入って仕舞った、余は直ぐに元の客間へ帰って行くも何となく極りが悪く、少し廊下でグズグズして凡そ二十分も経った頃一同の前へ出たが、一同は余ほど興を覚し、単に一座のテレ隠しの為に松谷秀子を強いて再び音楽台へ推し上せたと見えて、秀子が又も琴台に登って居る、けれど秀子も何となく沈んだ様子で音楽も甚だ引き立たぬ、其の傍に附き切りで秀子の為に譜の本を開いて遣りなどする親切な紳士は年にも恥じぬ余の叔父で有る、叔父は余の居ぬ間に余っぽど秀子にお詫びを申したらしい。 其のうちに客も一人二人と次第に退き去り、全く残り少なと為って愈々会も終りになった、秀子は曲を終って降りて来たが、第一に余の傍へ来て「本統に私は浦原嬢にアノ様に立腹させて済みませんでした、直ぐに私も自分の室へ退こうと思いましたが皆様が夫では猶更本統の喧嘩らしくなるとて達ってお留め成さる者ですから」余「イエ何も貴女が済まぬなど仰有る事はありません、全くお浦が貴女へアノ様な無礼な言い掛りをしたのですよ」秀子「此の様な時は虎井夫人でも居て呉れますと又何とか皆様へお詫びをして呉れますのに」余は此の言葉を聞き、初めて虎井夫人の居ぬに気が附き「オヤあの夫人は何うしました」秀子「ハイ獣苑の虎が抜け出したと聞いて、若しも大事の狐猿を噛み殺されては成らぬと云い倫敦まで逃げて帰りました」 言って居る所へ給使の一人が何か書き附けの様な者を持って来て秀子に渡し「直ぐに御覧を願います」と言い捨て立ち去った、秀子は「誰が寄越したのだろう」と云って開き読んだが、余はチラと其の文字を見て確かにお浦が寄越したのだと知った、扨は男ならば決闘状の様な者では有るまいかと、此の様に思ううち秀子は読み終って立ち去ろうとする、余「お浦から呼びに寄越したのなら、何もお出なさるに及びません、私が貴女に代ってお浦に逢いましょう」秀子「イヽエ、自分で行かねば宜く有りません、益々我が身に暗い所でも有る様に思われましては」と、斯う云い捨て廊下へ出た、此の時叔父は外の紳士と何事をか話して居て秀子を送る様子も無いから、余は自分で送ろうと思い続いて廊下へ出た、実はお浦と秀子の間に又何の様な争いが有ろうかと多少は心配にも堪えぬのだ、爾して廊下へ出ると早や秀子はズット先に居て右の方へ曲ろうとして居る、其所まで行くと又既に先の方の階段の所まで行って、丁度其の階段の下に在る銃器室とて鉄砲ばかり置いて有る室の中へ這入って仕舞った、銃器室で面談とは奇妙だと思ううち、階段の影から女の姿が忍び出た、之はお浦だ、其の忍び出る様は宛も泥坊猫が物を盗みでもする時の姿の様に見えた、扨は続いて銃器室へ這入るのかと思って居るうちお浦は這入りはせず、外から銃器室の戸へ錠を卸した、オヤオヤお浦は怪美人を銃器室へ閉じ込めたのだ、何の為だか少しも分らぬ、余は足を早めて其の所へ行ったが此のときお浦は早や階段の中程より上まで登り、其所から銃器室の窓を 瞰下 ( みおろ )して爾して二階へ登り去って見えなく成った、余は益々お浦の所行を怪しみ、銃器室の戸を推して見ると全く怪美人は此の中へ閉じ籠められたに違いない、戸には錠が卸りて仲々開かぬ、鍵はお浦が持ち去ったので茲にはない、何にしても秀子の身の上が気遣われるから余は詮方なく階段を上り、丁度お浦が 瞰 ( のぞ )いた通りに、銃器室の窓から其の中を 窺 ( のぞ )いて見た、読者諸君よ、此の時の余の驚きは、仲々「驚き」など云う人間の言葉で盡され可き訳な者でない、毛髪悉く逆立った、其のまま身体が化石するかと疑った、何うだろう銃器室の一方に大きな虎が居て、今や怪美人に飛び附こうと前足を短くして狙って居るのだ、分った、お浦は此の室に虎が紛れ込んで居るのを見て松谷秀子を此の室へ誘き入れたのだ。 余は何れほど驚いたかは、読者自ら此の時の余の地位に成り代わって考えれば分るだろう、此の時の驚きは到底筆や口に盡す事は出来ぬ。 読者銘々の想像に任せるより外はない。 真に咄嗟の間では有るけれど余が心は四方八方に駈け廻った、第一お浦の邪慳なのに驚いた、如何に腹が立ったにもせよ人を虎穴も同様な所へ欺き入れ、爾して外から錠を卸して立ち去るとは何事だろう、余はお浦を斯くまでも邪慳な女とは思わなんだが実に愛想が盡きて仕舞った。 今まで 仮初 ( かりそめ )にも許嫁と云う約束を以て同じ屋根の下に暮して来たのが、忌々しい、併し夫よりも差し迫った問題は何うして此の松谷秀子を虎の顋から救い出すかと云うに在るのだ、余は秀子の様を見て其の最と静かに落ち着いて居るにも驚いた、秀子は虎の恐ろしい事を知って居るか知って居ないか、見た所では殆ど知って居ないと思わるるほど落ち着いて、虎に向ったまま睨み合って居る、真に泰然自若とは此の事だ、感じの有る人間に、何うして此の様な場合に斯うも落ち着く事が出来るだろう、余りの事に虎までも少し呆気に取られ、相手の胆略を計り兼ねて大事を取って居るらしい、併し何時まで虎が猶予して居る者ではない、助けるなら今の間だ、今の間に何とかせねば成らぬ。 何とかとて何と仕様もないけれど、ないと捨て置く事は出来ぬ、余は必死と考えて、何うしても余自から虎と秀子との間へ飛び降り自分を秀子の身代りとして虎に噛ませ、爾して其の間に秀子を逃げさせる外はないと決心した、余の今瞰いて居る窓から、銃器室へ飛び降りるは左まで六ずかしいことでない、けれど飛び降りると、虎と秀子との間へは行かず、丁度虎の背後へ落ちる事になる、併し夫も好かろう、虎は自分の背後へ急に何者か落ちて来たを知り、驚いて振り向くに違いない。 振り向いて何うするだろう、直ちに余を取って押えて噛み殺すが一つ、驚いて元自分の這入って来た窓から逃げ出すが一つだ、若し逃げ出すとせば此の上もない幸いよ、丁度虎の這入って来たと思われる窓は、秀子の這入って来た入口と相対し、庭の方に開け放しに成って居る、虎が立ち去る気に成れば、何時でも立ち去ることは出来るのだ、唯少し工合の悪い事は、其の窓から立ち去るには、背後に落ちた余の身体を踏み越して行かねばならぬ、虎が少しも余を害せずに穏かに踏み越して行く様な事をするだろうか、少々覚束無いけれど仕方がない、運を天に任せて遣って見るのサ。 余が此の通り決心したのは少しの間だ、話すには長く掛かるけれど、実際は二分とは経って居ぬ、余は何事も決心すると同時に実行する流儀ゆえ、思案の定まるが否や直ぐに窓の横木へ手を掛けて足から先へ虎の背後の方へブラ下り、自分の身を真直ぐに垂れて置いて爾して手を離し、丁度虎の背後へドシリと大きな音をさせて落ちた、兼ねて余は体操に熟達して居る故、是しきの事は訳も無く不断ならば下へ落ちて倒れもせずに其のまま立って居る所だのに、此の時は余ほど心が騒いで居たと見え、落ちると共に と横様に倒れて仕舞った、今まで泰然自若として虎と睨み合っていた松谷秀子も是には痛く驚いたと見え、声を立てて打ち叫んだ、何でも「アレ丸部様」と云った様で有った、併し其の声と殆ど同時に虎は早や余の上へ傘の様に被さって来た、余は殺されても仕方がないと断念めては居る者の、何の抵抗もせずに 阿容 ( おめ )々々と食われて仕舞うは否だ、叶わぬ迄も力の限りを盡して雌雄を決して見ねば成らぬ、ナンの虎ぐらいがと跳ね返して飛び起きようとしたが、早や虎の蒸苦しい様な臭気がプーンと鼻に入り、爾して其の熱い息が湯気の様に顔に掛かる、余は是だけで既に気が遠くなり雌雄を決するなどは扨て置いて此のまま命が盡きると思った、動物園などで虎を見た人は爾まで臭いものとは思うまいが、実際虎に組み伏せられて見ると実に驚く、何うせ命がけの場合だから、痛いことや恐ろしい事は何とも思わぬけれど、臭い許りは如何とも仕方が無い、殆ど目へ浸みるかと思われる程で呼吸さえもする事が出来ぬ、余は悶いても駄目だと悟った、若し此の臭気さえなくば虎の目へ指を突っ込んでなりとも一時の勝を制する工風も有ろうが、余は最う身動きも得せぬ中に殺されて仕舞うに違いない、彼は余の身体を一揉に揉み転し、柱の様な重い前足に余を踏まえ爾して口を開いて余の顔を噛み砕こうとしたが、余の運が虎の運より強かったと見え、此の時一発の銃声、余の耳下で聞こえると共に、虎は自ら転りて跳ね退き、実に凄まじい怒りの声を発して 咆哮 ( ほえたけ )ったが、第二発目に聞える銃声と共に一躍り躍り揚って大山の頽れる様に其の所へ死んで仕舞った、誰が虎を射殺して呉れたのだろう。 誰が虎を射殺して呉れただろう其の人こそは実に余が命の親だ。 全体余は、単に怪美人の危急を救い度い一心で自分の力をも計らずに此の室へ飛び込んだ者の、思えば乱暴極った話で、如何に腕力が強くとも赤手空拳で虎を制する事の出来る筈がない、若し此の通り虎を射殺して呉れる人がなかったなら、余は唯自分が殺されるのみでない、怪美人秀子までも虎に遣られて、余の助け度く思う本来の念願も届かぬ所だ、爾すれば今此の虎を射留めて呉れた人は秀子に対しても命の親だ、イヤイヤ斯う云う中にも秀子は実際何うしただろう、果して助かって居るか知らんと、余は起き上って見廻したが、直ぐに我が目の前に、鉄砲を手に持ったまま立って居るは確かに秀子だ、余は呆れて一語をも発し得ぬ間に、秀子は落ち着いた声で「オヽ貴方はお怪我がなかったのですか、万一にも貴方を射ては為らぬと私は深く心配しましたが」と、早や鉄砲を一方の卓子の上に置き、介抱でも仕ようと云う面持で余の傍へ寄って来る、嗚呼余は怪美人を助ける積りで却って怪美人に助けられた、扨は余が命の親は此の美人で有ったかと思えば憎うはない、余「実に貴女の落ち付いて居らっしゃるには驚きました、全く其のお蔭で私は助かりました」怪美人は頬笑みて「貴方は私を助けて下さる為に、アノ窓から飛び込んだのでしょう」余「ハイそうでは有りますが、迚も私の力で虎を退治する事は出来ず、反対に貴女に助けて戴いたのは」怪美人「イヽエ、全く私が貴方に助けられたのです。 私は此の室に這入って初めて虎の居るのに気の附いたとき、射殺すより外はないと思いましたが、若し遽てて鉄砲を取り上ぐれば虎が悟って直ぐに飛び附くだろうと思い、何うかして虎が少しの間でも他の方角へ振り向く時は有るまいかと唯夫を待って居たのです、或る旅行家の話に何でも猛獣に出会ったとき少しでも恐れを示しては到底助からず、極静かに大胆に先の眼を睨み附けて居れば先も容易に飛び附く事は出来ず、ジッと此方の様子を伺って居る者だと兼ねて聞いて居ましたから私は其の通りにして居たら、貴方が飛び込んで下さって、虎が貴方へ振り向きましたから夫で初めて鉄砲を取り上げる隙が出来たのです、取り上げてからは、モッと早く射る事も出来ましたけれど何でも急所を狙って一発で射留めねば成らぬと思い、夫に若し誤って貴方を射てはと、充分に狙いを附けた者ですから」余「イヤ夫にしても能く 弾丸 ( たま )を籠めた鉄砲が有りましたネ」怪美人「ハイ是は今朝、獣苑の虎が逃げたと聞いた時、此の家の主人が若しも何の様な事で此の辺へ迷って来ぬとも限らぬから、何時でも間に合う様に弾丸を籠めて置くと云い、兼ねて此の家に逗留して居る数人の客を此の室へ連れて来て、誰でも虎を 見次第 ( みしだい )直ぐに他の者へ合図を与え、爾して此の室へ駆け附けて鉄砲を取り出す事を約束を致しました、私も両三日以前から此の家へ逗留して居る者ですから、其の時に此の室へ来て居たのです」余は何にも云わず、唯主人の周到な注意に感服し情が余りて我知らず秀子の両手を我が両手に捉え「アヽ有難い」と心底から感謝した。 此の時鉄砲の音に驚き、此の室へ駆け附けた人は多勢有った、其の真先に立つは此の家の主人で、外から此の室の戸を 推排 ( おしひら )こうとして「オヤ是は怪しからぬ、先刻誰にも開く様に鍵を錠の穴へ押し込んで置いたのに其の鍵が見えないが」と云って更に何処からか合鍵を取って来て戸を開き中へ這入った、主人「今のは確に先刻約束した合図でしょうネ、虎は何処に居ます」とて、煙に満ちた室中を見廻して「ヤヤ、最う丸部君が射殺したのですか流石に日頃銃猟自慢を成さる丈の手際は有る」余「イヤ私ではなく松谷嬢が射留めました」主人「夫は愈々感服です、成るほど嬢は米国に居らしった丈け銃猟も男子に劣らぬ程と見えます、何しろ私が此の虎猟に洩れたのは遺憾です」と云い、少しも余と秀子が此の室へ這入った異様な事情には気が附かぬ様子だ、尤も気の附く筈もない、虎の居るを知って人を誘き込む人や上の窓から虎の背後へ天降る狂気じみた人などは余り世間に類がないからネエ。 客一同も口々に「何うして一発や二発で射殺しました」「何うして虎を見附けました」「虎は何だって此の室へ這入って居ました」など、宛も余と秀子とが虎の心まで知って居る様に問う者さえ有ったけれど、秀子は敢て浦原お浦に疑いの掛るを好まぬと見え、成る丈け事もなげに答えた故、客一同は虎が此の室で眠って居るのを余と秀子とが見附け忍び寄って射留めたのだと思って仕舞った、斯う思わせたのは全く秀子の力で、余は益々深く其の心栄の美しいに感心したが、客の中に唯一人心の底で聊か事情を疑った人が有る、夫は余の叔父だ、叔父は物静かでは有るけれど多年検事を勤めただけ、斯様な場合には幾分か当年の鋭い所が未だ残って居る、叔父「夫にしても此の室の戸へ外から錠を卸し爾して鍵まで見えなく成って居たのが聊か不審ではないか」と言いだした。 叔父の不審は成るほど 有理 ( もっとも )至極であるが、併し真逆に余と怪美人とを此の室へ閉じ籠めて外から、錠を卸して去る様な悪戯者が有ろうとは、誰とて思い寄る筈がない、殊に客一同は虎の死骸を取り囲んで思い思いに評をして居る場合ゆえ、此の様な陰気な問には耳を傾けぬ、 纔 ( わずか )に其のうちの一人が「ナニ此の様な遽てた時には必ず後で合点の行かぬ様な椿談が有るもんだよ、多分朝倉男爵が戸の引き手を廻さずに唯無暗と引っ張ったから、錠の卸りて居ぬ者を卸りて居る様に思ったのだろう」と云った。 スルト二人ほど「爾だ、爾だ、是も話の種を増したと云う者だ」とて打ち笑った、主人男爵は何か弁解し相に構えたけれど、若し深く洗い立てして客の中の誰かの名誉にでも障る様な事が有っては主人の役が済まぬと思ったか、夫とも真実に自分の思い違いと思ったか同じく打ち笑って「夫にしても合い鍵の用意が有って仕合せでした、合い鍵を右へ廻したか左へ廻したか夫さえ覚えぬ程ですけれど、若し合鍵がなかろう者なら、益々 周章 ( あわて )て、錠の卸りて居もせぬ戸を、自分の腕が脱けるまで引っ張る所だったかも知れませんアハヽヽヽ」と訳もなく腹を抱えたので、叔父の疑いは煙に捲かれた様に消えた。 併し叔父自身は猶疑いの解けぬ様で、客一同が或いは虎の死骸を評し或いは松谷嬢の狙いを褒め或いは昼間より鉄砲を籠めて万一に備えて置いた主人男爵の注意を称するなど我れ先に 多舌 ( しゃべ )り立てて居る間に、 切 ( しき )りに室の中を詮索する様子で有った、余は眼の角から、見ぬ振りで見て居たが到頭叔父は卓子の下に落ちて居る紙切れの様な者を拾い衣嚢の中へ入れた様だ。 此の外には別に記すほどの事もなく此の夜は済んだ、翌朝余は早くに叔父の室へ機嫌伺いに行った、叔父は余よりも早く起きたと見え既に卓子に向い、宛も昔検事で居た頃、罪案を研究した様に、深く何事をか考え込んで居たが、余に振り向いて、言葉短かに「お浦を是へ呼んで来い」と云った。 扨は早やお浦の仕業に気が附いたかと、少し驚きながら其の命に従ったが、何うだろうお浦は叔父よりも猶早く起きたと見え、今朝早々に荷物を纒め倫敦へ立ったとの事だ、風を喰って逃げたとは此の事だろうか。 余は直ぐに叔父へ其の旨を復命した、叔父は聞き終って別に驚きもせず前よりは更に 厳 ( おごそ )かな声で「夜前の事はお浦の詐略だろう」余「エヽ何と」叔父「イヤ、己は昨夜松谷嬢の元へ給使が手紙を持って来た時、既にお浦が害意を以て嬢を呼び出すのでは有るまいかと疑ったが、其の方が直ぐに後から附いて行った様子ゆえ間違いもなかろうと思ったのに、アノ通りだ、其の方が彼の室へ這入ると直ぐにお浦が外から戸をしめたに違いない、お浦は虎の居る事を知って居たので有ろう」真逆に余が窓から天降った事までは推量し得ぬと見えるが、何しろ其の活眼には敬服だ、余「何うして其の様にお疑いです」叔父「是を見よ」とて差し出さるるは一片の紙切れで有る、文句は「至急御話し申し度き事有之候間、直ぐに銃器室まで御出被下度候、若し私を恐れて躊躇なされ候わば夫が何よりも、御身が古山お酉たる証拠に候、浦原浦子より」と有る。 扨は叔父が昨夜拾ったのは此の書き附けだ、秀子が手に持ったままアノ室へ這入り、鉄砲を取る時に落した者と見える、此の書き附けが何も彼も説明して居るのだろう、余はグウの音も出ぬ、唯叔父に向って頭を垂れる許りだ、叔父「其の方は直ぐに倫敦へ行ってお浦を呼んで来い、一応当人を詰問した上で、松谷秀子に向い、己から充分に謝せねば成らぬ」是も有理至極の言い分で有る、余「ハイ直ぐに倫敦へ行きますが若しお浦が茲へ来ぬと言い張れば」叔父「其の時は己が行く」凛然と言い切った、逆らう余地もない。 余は直ぐに倫敦へ帰ったが、お浦は早や茲でも荷物を引き纒めて出奔した後だ、唯余に一通の走り書きを残して有る「貴方が命を捨ててまで折角の私の計略を邪魔するとは驚き入り候、貴方がアノ女を何れほど愛するか又私を何れほど愛せぬかは明らかに分り候、勿論私も御存じの通り初めより貴方を愛する心はなく、唯丸部家の相続が全く他人に渡るを惜しみ貴方と夫婦約束をなせしまでゆえ、今は約束を取り消して綺麗に他人となり互いに誰と婚礼するも自由自在の身に帰る可く候。 愛無くして夫婦と為らば末は互いに妨げ合いて不愉快に終ること既に昨夜までの事にて思い知られ候、私は根西夫人に従い今日出発して大陸へ旅立ち、貴方が私に分れて如何に淋しきかを思い知る頃帰り来る可く候、私の留守中にあの仲働が叔父様を(併せて貴方を) 鎔 ( とろ )かし丸部家を横領するは目に見えたる所なれど如何とも致し方無く候、今既に貴方も叔父様も心の鎔けたる者に御座候、彼女は確かに幽霊塔の底に在りと云う宝物まで奪い去る大望に候、彼の女の身に深い秘密の有ることは、左の手に異様な手袋を嵌め、何の場合にも夫を脱がぬ丈にても明白の次第に候、貴方なり叔父様なり彼の女と婚礼の約束を成さるには彼の手袋を取らせたる上にて成さる可く候、是だけ 御誡 ( おんいまし )め申し置き、猶貴方が彼の女に陥られる事あらば は全く陥めらるる貴方の過ちゆえ私は知り申さず候」 余は「何の小癪な」と嘲笑ったが、兎に角お浦から夫婦約束を解かれて自由自在の身と為ったのが嬉しい、此の後は最う何れほど秀子を恋慕い、縦しや夫婦約束を仕たとても差し支えは無い、斯う思って重い荷物を解き捨てた様な気がしたが併し自分の仕合せを喜んでのみ居る場合で無い、兎に角お浦に逢わねばと直ぐに兼ねて知る根西夫人と云う人の許を尋ねたが間の悪い時は悪い者で、一歩違いに行違い、追い掛けて行く先々で毎もお浦の立った後へ行って、到頭一日無駄に暮した、勿論叔父には其の旨を電報した、爾して翌日も日の暮まで馳せ廻ったが逢う事は出来ず、三日目にはドバの港まで追い掛けたが是も一船先にお浦と根西夫人との一行が立った後で有った、落胆して倫敦の叔父の家まで帰って見ると、叔父からは「最う来るには及ばぬ、己は近日帰る」と云う電報が来て居る、来るには及ばぬとは何事ぞ。 人に之ほどの苦労を掛けて、扨は余の便を待たずに怪美人へは充分に詫びをして其の心を解く事が出来たと見える、爾すれば最う倫敦へ帰る筈だのに近日帰るとは是も何事ぞ、扨は、扨は、怪美人松谷秀子と分るるに忍びずして便々と日を送る気か。 事に由ると是はお浦の手紙に在る事が当るか知らんなど、余は気が揉めて成らぬけれど、来るに及ばぬと明らかに制して来たのを、押し掛けて行く事も出来ず、身を掻きむしる程の思いで控えて居ると二日、三日、四日を経って、叔父はニコニコ者で帰って来た、帰って来て直ぐに余を一室へ呼び、今迄の陰気な顔を、見違える程若返らせて「コレ道九郎、其の方に祝して貰わねば成らぬ事が有る、何しろ目出度いよ」余は 悸 ( ぎょっ )とした、「ハイ、夫ほどお目出度い事ならお祝い申しますが」と返事の声も何となく咽に詰った、叔父「己は此の年に成って此の様に嬉しい事はない」余に取っては少しも嬉しくはない、叔父「本統に嬉しいよ、アノ『秘書官』の著者よなア」余「エヽエヽ松谷秀子ですか」叔父「爾よ、其の松谷秀子がよ、己の親切に 絆 ( ほだ )されて、到頭約束をして呉れた」余は全く声が出ぬ、漸く 縊 ( くび )られる様な思いで「何時御婚礼を成されます」と問い返した辛さは真に察して貰い度い。 「何時御婚礼を為されます」との余の問いに、叔父は甚く驚いた様子で「其の方は何を云うのだ婚礼などと」余は怪訝に思い「松谷秀子と貴方の御婚礼は」叔父「アハヽ是は可笑しい、其の方は五十に余った己が再び婚礼すると思うのか、爾ではないよ、松谷秀子を己の養女にするのだよ」斯う聞いては実に極りが悪い、極りは悪いが併し嬉しい、彼の秀子が此の叔父の養女として永く此の家に、余と一緒に棲む事と為れば、其のうちに又何の様な好い風の吹くまい者でもない。 叔父は猶説明して「己は直ぐにも披露し度いけれど、当人の望みに由り、愈々幽霊塔の修繕が出来上り己が引き移って転居祝いの宴会を開く時に、一緒に養女の披露をする。 夫まで秀子は今まで通り此の土地の宿屋に居て日々此の家へ来る筈だ」余「何しに来ます」叔父「己の書き物などを手伝いに来るのサ実は朝倉家に居る間も手紙の代筆などを頼んで見たが流石『秘書官』の著者だけに、己が在官中に使って居た書記よりも筆蹟文章ともに旨い。 是から日々此の家へ来て幽霊塔の修繕に就いての考案などを己と相談し其の傍ら己の書斎をも整理して呉れる筈だ、其の様な事柄には仲々面白い意見を持って居るよ、己は先ア娘兼帯の秘書官を得た様な者だ」と云い、更に思い出した様に「シタがお浦は何うした」と問うた。 余はお浦が根西夫人と共に外国へ行った一部始終を告げ、 且 ( かつ )は余とお浦との間の許婚も取り消しに成った事を話した、叔父は真面目に「己もお浦を彼の様に恐ろしい心とは思わず其の方と夫婦にしたら好かろうと其の様に計ったが、今では其の約束の解けるのは当然で有る、其の代り其の方には更に立派な許婚が出来るだろう」と様子ありげに云うた、何でも立派な許婚とは確かに秀子を指して居るらしい、余は襟元がゾクゾクした。 話の 漸 ( ようや )く終る所へ、取り次の者が来て、異様な風体の子供が余に面会を求めて居ると伝えた、或いは慈善を乞う乞食の子ででも有ろうかと思い、余は叔父の前を退いて直ぐに玄関へ出て見ると成るほど十五六歳に見える穢い子供が立って居て、卒然と一枚の田舎新聞を出し「此の広告に在る電報を人に頼まれて掛けたのは私ですが、頼み主を白状すれば幾等お銭呉れるのです」と、憎いほど 露出 ( むきだ )しに問い掛けた、余は今以て、余の叔父を幽霊塔の近辺へ誘き出した彼の贋電報の作者が誰で有るかと怪しんで居る事ゆえ、聊か喜び、先ず子供の身姿を見て、是ならば充分と思う値を附け「三 磅 ( ぽんど ) 遣 ( や )るよ」と云うに、子供は単に「夫ではお話に成りません」と云って早やスタスタ立ち去り掛けた「コレ、コレ待て、貴様は幾等欲しいのか」子供「十磅」余「エ、夫は余り高過る」子供「でも頼んだ人から手紙が来て、此の広告を知らぬ顔で居れば今から二月の後、五磅遣ると云って来ました、其の方に従うが得ですもの」五磅と云う分外の報酬を此の子に遣り口留めを仕ようとする所を見ると先も余ほど自分の名を厭う者に違いない、爾すれば愈々彼の贋電報は深い目的が有って掛けた者ゆえ余も愈々差出人を知らねば成らぬ。 「好し、十磅は茲に在る」と云って夫だけの紙幣を差し出して示すと、小供は「是だけ戴いても茲へ来る旅費も掛って居ますから余り旨い事は有りません」小利口な前置きを置いて爾して、説き出した。 小供の説き出した所に由ると、幽霊塔から僅かに七八丁離れた所に、草花を作って細々に暮して居るお皺婆と云う寡婦が有る、其の家は 千艸屋 ( ちぐさや )と云って近辺で聞けば直ぐ分る、此の小供は其の家に雇われ草花の配達をして居る小僧である、或る時其の家へ年頃五十位の背の低い婦人が来て草花を買い、帰りがけに 密 ( そっ )と小僧を物影に呼び、誰にも知らさずに此の電報を打って呉れと頼み、後々までも無言で居る様にとて口留めの金を一磅呉れた、其の翌朝、草花を配達して田舎ホテルへ行った所、其の婦人が犬猫よりも大きい狐猿を抱いて宿を立つ所で有ったと、是だけの事である、シテ見れば贋電報の本人は全く松谷秀子の附添人虎井夫人だ、勿論小僧の言葉に疑いは無いけれど、念の為に何か汝の言葉が証拠が有るかと問うた所、証拠は無いが五日程経て此の手紙が来た、と云って小僧の差し出すのを見ると、全く余が電信局で見た頼信紙の拙い文字と同じ筆蹟で「電信の事、誰にも云うな新聞の広告にも返事するな、誰にも知られぬ様に伏せ果せたなら今より二月の後、持って行って褒美を五磅遣る、きっとだよ」と書いて有る、是で充分だから余は約束の金を与え小僧を帰した。 考えると余り愉快では無い、勿論怪美人、イヤ最う怪美人とは云うまい松谷秀子だ、其の秀子が知った事では無く全く秀子に隠して仕た事に相違は無いが、兎も角秀子の附添人が此の様な事を仕たかと思えば余の心中は何と無く穏かならぬ、贋電報まで作って余の叔父を誘き寄せる所を見ると叔父に対して何か軽からぬ目的を持って居るとしか思われぬ、爾すればお浦の疑った事も幾分か事実らしくも成る、併しナニ、併しナニ、秀子の知らぬ事だから何も虎井夫人の罪の為に秀子を疑う可き道はないなど、余は成る可く我が心で疑いを掻き消す様にしたが、実際秀子に逢って其の美しい顔を見ると、其の様な疑いは自分で掻き消す迄も無く独りで消えて仕舞った、決して悪事をする様な顔ではない。 僅かに聞き得たのは、此の国へ来るまで米国のルイジヤナ州の州会議員から挙げられた行政官何某の秘書を勤めて居て、爾して彼の「秘書官」と云う書を著し、其の書の出版前に米国を出たと云う一事だけだ。 先ず此の様な様で幾月をか経たが其のうちに幽霊塔の大修繕が出来上り、愈々引き移って、茲に転居の祝いと秀子を養女に仕た披露とを兼ね宴会を開く事に成った、叔父は一方ならぬ喜びで、最う恨みだの悲しみだのと云う事は一切忘れ、成る丈世を広く、余命を面白く送ると云い、朋友は勿論、是まで疎遠に成って居る人や多少の恨みの有る人にまで招状を発し、来る者は拒まずと云う珍しい開放主義を取った、余は今まで幽霊塔、幽霊塔と世人から薄気味悪く思われた屋敷が斯くも 快豁 ( かいかつ )な宴会の場所と為り又此の後の余等の住居になるかと思えば何とやら不思議な国へ住居する様な心地がしてただ物新しい感じがする、 居心 ( いごころ )は何の様だろう、何の様な事柄に出会すだろうと此の様に怪しんで、其の当日宴会の刻限より余ほど早く、未だ午後五時に成らぬうち汽車で塔の村へ着いた、停車場から凡そ二哩半の道を馬車も雇わずブラブラと歩んで行ったが、今思うと是が全く一家一族、最と異様な舞台へ入る花道の様なもので有った。 ブラブラと歩み、幽霊塔の間近まで行くと聊か余の注意を引いた事がある。 幽霊塔には隣と云う可き家がない、一番近い人家は、小さい別荘風の建物で、土地の人が 鳥巣庵 ( とりのすあん )と呼ぶ家である、此の家と幽霊塔とは二丁の余も離れて居れど、其の間に人家はない樹木ばかりだ、だから之を隣家と云えば云っても好い、聞く所に由ると昔都の贅沢家が唯夏ばかり遊びに来る為に建てた消夏亭で有るけれど先年幽霊塔でお紺婆が殺されて以来持主は其の様な近所は気味が悪いと云い、雑作まで取り外して他の別荘へ運んで仕舞い、爾して此の家は幽霊塔同様に立ち腐れに成って居た相だ。 今まで余が此の土地へ来る度に其の家の壁に「雑作なし、貸し家」と云う朽ち掛けた札の下って居るのを見た、所が今度は、是も幽霊塔同様に誰か借り手が出来たと見え、其の札もなくなり、爾して中へは一通り雑作を仕た様子で、内外の掃除も届き、一目で以て中に人の気の有る事が分るのみならず矢張り今日が引越しと見え、多少の荷物などを停車場の辺から車で引いて来て箱に入れて居る、ハテ扨、此の借受人は何者で有ろうと、余計な事ながら余は其の家の窓を見たが、窓に誰だか人が居て、遽てて其の戸を締めて了った、何でも窓から首を出し余の様子を見て居たらしい、それが反対に余から認められるが厭だと思い急に戸を占めたのでは有るまいか、勿論誰だか分らぬけれど 瞰 ( のぞ )いて居たのは若い婦人らしい、戸を締める途端に、華美な赤い着物が余の目へチラと見えた。 けれど取り糺す訳に行かぬから余は其のまま去って幽霊塔まで行ったが、前に見た時とは大違い、手入れ一つで斯うも立派に成る者かと怪しまるる程に、塔の年齢が三四代若返って居る、殊に屋敷の周囲に在る生垣などは、乱雑に生え茂って垣の形のない程に廃れて居たのが、今は綺麗に刈り込んで結び直し、恐らく英国中に是ほど趣きの有る生垣は有るまいと自慢じゃないが思われる、余は内よりも先に外の有様を検め度いと思い、生垣に添うて一廻り巡って、終に裏庭から堀端へ出て土堤を上った、土堤を猶も伝うて行くと、読者の知っての通り、お紺婆を殺して牢死した殺人女輪田夏子の墓が有る、先に怪美人が此の墓に詣でたのを見て余は非常に怪しんだが、今度も亦詣でて居る人が有る、イヤ詣でたか詣でぬかは知らぬが、様子有りげに墓の前にたたずんで居るが、此の人は女でない。 三十四五歳に見ゆる立派な紳士だ。 余の足音を聞き、悪い所を見られたとでも思ったか素知らぬ顔で立ち去ろうとする、勿論余は引き留める事も出来ぬが、何うか其の顔を見たいと思い、顔の見える方へ足を早めた。 先は真逆に逃げ走る訳にも行くまい、墓より少し離れた所で三間ほど隔てて余と顔を合わせたが、余は最早此の後十年を経て此の人を人込の中で見るとも決して見違える恐れはない、別に異様な顔ではないけれど、妙に妙に、ノッペリして、宛かも女子供に大騒ぎせられる 俳優 ( やくしゃ )の顔とでも云い相だ、何となく滑らかで、何となく厭らしい、美男子は美男子だが余は好まぬ、恐らくは秀子とても決して好みはすまい、此の人は余と顔を合わせて宛も挨拶でも仕たそうに見えた、併し余が余り怪しむ顔をして居た為か思い直した様子で、徐々と立ち去り掛けた、何所へ立ち去る積りであろう、余は何うも見届けねば、気が済まぬ。 夫とはなく見送って居ると、余が来た通りの道を取り土堤から生垣の外へ降り、頓て姿が隠れて了った、余は其の間に走って生垣の所へ行くと、先は後をも見ずに、何事をか考え考え外へ出る、是ならば振り向く気遣いもなかろうと余は猶も尾けて行ったが、或いは尾けられると知って故と背後を向かぬかも知れぬ、何うも爾らしい、爾して到頭彼の鳥巣庵へ這入って仕舞った、扨は是が鳥巣庵の主人かな、縦しや主人ではなくとも、夏子の墓の辺に徘徊する所を見ると何か一種の目的が有ってではなかろうか、鳥巣庵の窓から余を 瞰 ( のぞ )いて居た女の影と云い、鳥巣庵が急に塞った所と云い、それこれを考え合わすと何だか偶然ではなさそうにも思われる。 余は何うも鳥巣庵の事が気に掛かる、誰が借りたで有ろう、何故に借りたで有ろう、彼の窓から余を瞰いた女は誰で有ろう、爾して彼の家に住む一人が殺人女の墓を見て居たのは何の為で有ろう。 其のうちに宴会の時刻と為った。 叔父は此の前日に数名の 下部 ( しもべ )を引き連れて此の家へ来、松谷秀子も今朝来たと云うことで二人とも非常な好い機嫌である、来客も中々多く、後から後からと遣って来る、やがて叔父より客一同に対して、此の度松谷秀子を養女にしたとの披露も終り、客より夫々の祝詞なども済み、爾して愈々舞踏に取り掛る場合と成った、勿論客の眼は一番多く秀子に注ぎ、誰も彼も先に秀子と共に 躍 ( おどろ )うと思い其の旨を申し込むけれど、秀子は充分に返事をせぬ。 何だか物思わしげに控えて誰をか待って居る様子に見える、扨は最初の相手に余を選ぶ積りで夫で他の人を断って居るのだな、と余は斯う思って秀子の傍に行き「秀子さん何うか最初の踊りを私と御一緒に」と云うに、秀子は少しも喜ぶ様子が無い。 「イイエ先刻から皆様に御断り申して居ります、今に否と云われぬ人が来るだろうと思いますから」オヤオヤ余より猶其の様な人が有るだろうか、余は聊か嫉ましい様な気がした、「其の人は誰ですか。 以前から今夜の会に共に躍ると約束して有るのですか」秀子「イイエ約束はして有りませんが、若し其の人が所望すれば私は断る事が出来ません、其の人の許しを得ぬうち他の人と踊れば後で叱られるかも知れませんから」と益々異様な言い様だ。 後で叱るなどとは父か 所天 ( おっと )で無くては出来ぬ事だ、余「其の人は誰ですか。 余は全体何者を斯う恐れるのかと振り向いて見ると、茲へ這入って来る一組の客は実に意外な人々で有る。 一番先に立つのが余の元の許嫁浦原お浦で、お浦と手を引いて居るは、先刻殺人女輪田お夏の墓の辺にたたずんで居て余に認められた、彼の鳥巣庵の住人、ノッペリした紳士で有る、其の背後からお浦と共に外国に行って居た根西夫妻が遣って来る、扨は秀子が逃げたのは此の一行を恐れたに違い無い、真逆にお浦から仲働きの古山お酉などと疑われるが辛くての事でも有るまいが、兎に角余はお浦に逢って其の手を引ける紳士の名をも知らねば成らぬと思い、進み出でお浦の前に立った、お浦は平気な顔で「道さん貴方は此の方を御存じですか、之は此の塔の前の持主、不幸なお紺婆の養子で高輪田長三と云う方です、叔父さんへ此の塔を売り渡したのも此の方です」扨は是がお紺婆の相続人であるのかと、余は初めて知ったが、是でお浦の目的も分った、此の人ならば無論仲働きお酉の顔を知って居る故、夫で秀子を此の人に見せ、爾して化の皮を 引剥 ( ひんむ )くと云う積りである、其の執念の深いには驚くが、夫にしても秀子が此の人を恐れて逃げたのは何故だろう、虎井夫人の言った事を考え合わすと、何だか看破せられるを恐れると云う様子も無きにしもあらずだ。 お浦は全く秀子に対し戦争の仕直しに遣って来たのに違い無い、前の戦争は秀子を虎の顋に推し附け充分の勝利と云う間際で失敗した、今度は高輪田長三と云う恐る可き後押しを連れて居る、万に一つも失敗せぬ積りで有ろう。 成るほど、若しもお浦の疑う通り秀子を仲働き古山お酉とやらに化けた者とすれば、此の高輪田長三に一目見られたなら直ぐに看破される筈だ、夫にしてもお浦は何うして此の様な屈強な味方を得たで有ろう、後で聞けば、お浦が根西夫人と三ヶ月ほど旅行して居るうち偶然に伊太利の宿屋で懇意に成ったと云う事だ、道理で分った、お浦は先頃より頻りに叔父の所へ詫び手紙を寄越して居た、一刻も早く此の高輪田長三を連れて秀子の化の皮を 引剥 ( ひんむ )きたいと思った為で有ろう、叔父はそう執念深く人を怨まぬ気質で、一時はお浦の所業を怒ったけれど間も無く心が解け、帰参を許す気に成った、併しお浦へ帰参を許すは秀子に対して聊か憚る可き様に思い少し躊躇して居た様子で有ったが何に付けても思い遣りの有る秀子が夫と察し、若し私の為にお浦さんが何時までも此の家へ出入りが叶わぬ様では何だか私がお浦さんを恐れて邪魔でもする様に当り誠に心苦しいから何うか早速にお浦さんを許して上げて下さいと此の様に叔父に嘆願したと云う事だ、此の辺から見ると秀子は決して古山お酉では無い、若しお酉ならば益々お浦を避けこそすれ 故々 ( わざわざ )口を利いて其の帰参に骨を折る筈は、決してない、トサ余は今まで全く斯う思い詰めて居たけれども、今し方、秀子が遽てて逃げた所を見ると何だか心もとなくもある、若しや秀子は、お浦には看破される恐れはないが高輪田長三に逢っては迚も叶わぬと斯う思ったのでは有るまいか。 爾すれば矢張お酉かしらん。 真逆にとは思うけれど余は何となく心配で寧そ叔父が何時迄もお浦の帰参を許さねば好かったのにと、今更残念だけれど仕方がない、お浦は余に反し最う全くの勝利が見えたと安心してか、充分落ち着いて居て、今迄の様に粗暴でない、真に貴婦人の如く、物静かだ、言葉も振舞いも一寸と奥底の計り難い所がある、猶も余に向い説き明す様に「此の高輪田さんは輪田お紺の養子ですから此の頃まで単に輪田長三と云ったのですが、養子になる前の姓が高田と云い、此の頃実家の相続をも兼ねてせねば成らぬ事と成った為、実家の姓と養家の姓とを合わせて高輪田と改めた相です。 今夜は私の知って居る方へは大抵お引き合せ申す筈です」とて、言葉の中へ秀子にも引き合わせろと云う意味をこめて居るらしい、余は唯「爾ですか」と云うより上の言葉は出ぬ、お浦「爾して此の度根西さんが此の隣の鳥巣庵を借り、私も高輪田さんも、根西夫人が再び旅行に出る迄は一緒に居る筈ですから、此の後は最う隣同志で、毎日お目に掛られます」余は呆れて「アア根西夫妻が隣の家を借りましたか。 分りました。 先刻窓から私を見て急に姿を隠したのは浦原さん、貴女でしたネ」と極めて他人行儀に恭々しく云うた、お浦「爾です、彼処に居る事を知らさずに不意に来た方が貴方も叔父様もお喜びなさるだろうと思いましたから認められぬ様に姿を隠しましたのさ」旨く口実を設けるけれど、全くの所は秀子へ少しも覚らせずに出し抜けに来て看破すると云う計略の為で有ったに違いない、斯う云う中にもお浦は夫となく室中を見廻して居る、秀子は何処に居るだろうと夫とはなく捜して居るのだけれども秀子の姿は見えぬ、終には耐り兼ねたか「今夜は秀子さんにも逢ってお祝いを述べましょう、ナニ道さん、イヤ丸部さん、私は少しも秀子さんを恨みはしませんよ、元は私が此の家の娘分で、今は追い出されて、其の後を秀子さんが塞いだと云えば世間の人は定めし私が恨む様に思うかも知れませんが夫は邪推です、御存じの通り私は叔父に追い出されたのではなく、自分から出たのですもの、叔父の圧制に堪え兼ねて。 夫ですから後へ養女の出来たのを寧そ嬉しいと思って居ます、ハイ全くです」と余に向って斯まで空々しく云うは余り甚い、恨みの満ち満ちた置き手紙を残して置いた癖に、最う夫さえ忘れたのかしらんと、余は之にも聊か呆れた、幼い頃は我儘でこそ有れ斯う嘘など云う女ではなかったのに、イヤイヤ人を欺いて虎の居る室へ追い込み、爾して外から戸の錠を卸して去る様な女だもの、偽りを云う位は何で不思議がある者か。 お浦は、夫となく再び問うた、「エ、丸部さん、今夜の女主人公は何処に居ます、松谷秀子さんは」余は止むを得ず「多分舞踏場に誰かと踊って居るのでしょう」お浦は思い出した様に「ドレ私も舞踏しましょう、サア高輪田さん」と云って、高輪田を引き立てる様にして舞踏室の方へ行こうとする、此の時丁度塔の上の時計が、一種無類の音を発して時の数を打ち始めた、何故だか知らぬけれど、高輪田は、此の音に、震い上る程に驚き、歩み掛けた足をも止め「ア十二時か知らん」と殆ど我知らずの様に呟いて其の数を指で 算 ( かぞ )え始めた、十二時が何故恐ろしいか、彼の顔は全く色を失い、幽霊にでも出会ったと云う様に戦いて居る、頓て時計は十一だけ打って止んだ「アア十一時か」と彼はホッと安心の息を吐き、初めて自分の異様な振舞いに気が附いた様子で「此の時計は巻き方に秘密が有るとの事で、養母お紺が生存中は誰にも巻かせませんでした。 此の音を聞くと其の頃のことを思い出して、私は何だか神経が昂ぶります」と云うた、併し此の言い開き丈では何故特に十二時を恐れて、十一時と知って安心したかを証明するに足らぬ、お浦は気にも留めずに振り向いて「少し舞踏でもすれば直ぐに神経は強くなりますよ、サア行きましょう」と高輪田を引っ立てて舞踏室へ這入った、余は兎に角も秀子の様子を見届けねば成らぬと思いお浦の姿の見えなくなるを待って、多分秀子が潜んで居るだろうと思う盆栽室へ、 密 ( そっ )と行った、茲でも矢っ張り容易ならぬ事に 出会 ( でっくわ )した。 盆栽室は中に様々の仕切などが有って、密話密談には極々都合の好い所だ、舞踏室で舞踏が進む丈益々此の室へ休息に来る人が多くなる、中には茲で縁談の 緒 ( いと )口を開く紳士も有ろう、情人と 細語 ( ささめごと )する婦人もないとは限らぬ、併し余が秀子を尋ねて此の室へ入った頃は猶だ舞踏が始まったばかりの所ゆえ誰も来て居ぬ、隈なく尋ねて見たけれど、確かに茲へ来た様に思われる秀子さえも来ては居ぬ、扨は猶だ舞踏室にマゴマゴして居て若しやお浦に捕まったのでは有るまいかと、更に舞踏室へ引き返して見たが、茲にも確か秀子は居ないで、只お浦が余の叔父に向って彼の高輪田を紹介して頻りと何事をか語って居る、多分は叔父に秀子の居所を聞き、連れて行って逢わせて呉れと迫って居るので有ろう。 兎も角秀子の姿が見えぬ丈は先ず安心だ、何でも秀子はお浦を避けて自分の室へでも隠れたので有ろう、爾ならば余も強いて秀子に逢わねば成らぬと云う事はない、再び盆栽室へ退いて、植木の香気に精神を養うて爾して篤と秀子の事を考えて見よう、真に今夜の様な時は、何の様な事件が起ろうも知れぬから咄嗟の間に好い分別の出る様に余ほど心を爽かにして置かねば成らぬ。 此の様に思って再び盆栽室へ這入り、植木などの最も沢山に茂って居る所へ腰を卸し、 悠 ( ゆっ )たりと休んで居た、スルト余が右手に在る大窓から絹服の音が聞こえ、其の後に紳士の靴音が続いて忍びやかに這入って来た、之は確かに舞踏室から庭へ出て庭から茲へ廻って来たので有る、女は誰、男は誰、室の内は明るいけれど物に隔てられて余の所からは見えぬ、先からも余を見る事は出来ぬ筈だ、余は人の密話を偸み聴くは好まぬから密と立ち去り度く思ったけれど、既に遅い、男女は早や余と一間とは離れぬ所へ腰を卸し「本統に権田さん何うしたら好いでしょう、私は最う運のつきだと思いますよ」と云うのは確かに秀子だ、余は全身の血が頭へ突き上る様に覚えた、全く秀子は彼の弁護士の権田時介に身の振り方を相談する為に連れ立って茲へ来たのだ、権田、権田、彼が秀子の身に差し図する権利が有るとは先刻秀子が明らかに余に告げた所だ、権田の為に、秀子は誰とも舞踏の約束をせずに待って居たほどである、余は最早ぬすみ聴かぬ訳には行かぬ、縦しや聴くまいとしても自から聞こえるのだ。 何の様な場合でも場合相応に手段を廻らせ、助かる道を開くのは私の得意です、云わずとも貴女は御存知の筈ですが、秀子さん、何で私の妻になる約束が出来ませんか」秀子は殆ど恨めしげに嘆息して「男と云う者は、何で愛だの妻だのと云う無理な事ばかり望むのでしょう、男と男と助け合う様に、又は女と女と助け合う様に、少しも愛などと云う約束なしに真の友達か兄妹の様に為って女を助ける事は出来ぬ者でしょうか」権田「夫は出来ぬとも限りませんが、貴女に向っては出来ぬ事です、貴女の様な美しい方に向い、木石でない以上は唯友達と云う丈で満足して居る事は誰とても出来ません、決して男の罪ではなく、男を酔わせる様な姿に生まれて居るが貴女の不運です」秀子は全く泣き声と為って「エ、此の様な顔に、此の様な顔に」と云い、後は声さえも続かぬが、何だか自分の顔の美しいのを恨む様だ、権田「此の様な顔にとて、元から美人に生まれて居るから誰も恨む事は有りません、若し貴女は、私の言葉を聞かず、妻と云う約束をせずに、私を敵に取ったら何うなると思います、今でさえ御自分で運の盡きだと云う程の敵が有りますのに私から恨まれれば」秀子「ハイ貴方に恨まれたら此の世に居る事さえ出来ません、夫は貴方が能く御存じです」権田「それ御覧なさい。 私を敵に取っては貴女の身も立ちますまい、夫だのに何故生涯を私の保護の下に置く事が出来ません、夫婦と為らねば決して長い生涯を助け合うと云う道はないのです」秀子「貴方は恐迫なさるのです、困って居る女を恐迫するとは紳士の成され方で有りません、貴方が紳士らしくない振舞を為さって爾して私に愛せよとは御無理です、紳士の心のない人を所天とする事は出来ません」 権田「ハイ紳士か紳士でないか知らぬが、有らゆる手を盡していけぬ時は私も恐迫も用います、腕力も用います」 争いは次第に荒々しく成って権田は終に秀子の手を捕えようとした様子だ、秀子は逃げる様に立って、丁度余の居る所へ馳せて来た、余は茲に潜んで居た事を知られ、秀子に紳士らしくないと思われるは辛いけれど最早立ち上らぬ訳に行かぬ、秀子を保護したい一心で、殆ど其の他の事は打ち忘れて秀子の前へ立ち上った、権田も秀子を追う様にして茲へ来た、 硝燈 ( らんぷ )の光まで青く映ずる盆栽の蔭で三人顔と顔とを見合わせた。 顔見合わせた三人の中、一番驚かなかったのは秀子である。 一旦は驚いたが直ぐに鎮まり、宛も余の保護を請う様に余の蔭へ立ち寄った、実に女にしては珍しいほど胆の据った落ち着いた気質で有る、男にしても珍しかろう。 権田時介は殆ど譬え様の無いほど驚いた。 暫くは無言で余の顔を見て居たが、頓て余と知るが否や、「ヤ、ヤ、丸部道九郎君」と云って途切れ「人もあろうに、丸部君が茲に居られたとは、エ、不注意過ぎました」と、非常に、余に立ち聴せられたのを悔む体だが、併し流石は男だ、愚痴も何にも云わずに庭の方へ立ち去った。 余は何う考えても権田と秀子の関係が分らぬ、夫婦約束などのない事は無論で有る、思い思われる仲ですらないのだ、イヤ権田の方は一生懸命に思って居るけれど秀子の方では何とも思って居ない、夫だのに秀子が一身の命令権を権田に与えて有るのは何の訳だろう、権田の秀子に迫ったのは恐迫と云えば恐迫で有るけれど、 破落漢 ( ならずもの )が貴人の秘密を手に入れて強談するなどとは調子が違う、殆ど兄妹の様な親密な言葉附きで互いに何も彼も知り合った仲の様だ、実に不思議だ、若し此の二人の間柄の委細が分れば秀子の身の上の秘密、所謂「密旨」「密命」など云える事の性質も分るだろう、けれど二人の間柄の委細は勿論知る可き道がない、余には想像さえも及ばぬ。 秀子は余の蔭に寄り添うたを恥ずかしく思ったか、権田の立ち去ると共に身を退いて、舞踏室の方へ行こうとする、其の様子は余ほど打ち萎れて居る、余は其の前へ廻り「秀子さん、私は立ち聞きしたのでは有りません、私の居る所へ貴女と権田君とが来て、私は立ち去る機会を失ったのです」秀子は簡単に「ハイ貴方が立ち聞きの為に茲へ来たとは思いません」余「ですが秀子さん、貴女は今、男が無報酬で女を助ける事は出来まいかと此の様にお嘆き成さったが、他人は知らず此の丸部道九郎ばかりは全く兄と妹の様な清い心で、貴女を助け度いと思います、貴女の敵とか運の盡きとか云うのは何ですか、助ける事の出来る様に私へ打ち明けて下さらば」秀子「イイエ貴方では私を助ける事は出来ません、権田さんの外には私を助ける事の出来る人はないのです」余「でも権田は貴女の応じ得ぬ様な無理な報酬を迫るではありませんか、私ならば、貴女を妹と思って助けます、尤も何時までも妹と云う丈で満足する事は出来ぬかも知れませんけれど」秀子は打ち萎れた仲から異様に笑みて「オホホホ、妹と云う丈で満足の出来ぬ時が来るなら権田さんも同じ事です、生涯愛などを説かぬ男は此の世にないと 断念 ( あきら )めました」斯う云って余を振り捨てた。 けれど余は猶も後に随って行ったが、秀子は愈々舞踏室へ歩み入った、果せる哉だ、第一に秀子の前へ遣って来たのはお浦だ。 叔父が先ず秀子に向って「実は是なるお浦が是非とも 和女 ( そなた )に逢い、前の無礼を親しく詫びたいと云い、私に和女の居る所を捜して呉れと頼むから、イヤ断っても、日頃の気短い気性で仲々聴かぬから、此の通り連れ立って和女の居所を探して居たのだ」叔父が斯う云って居る中に秀子の目は夫とも知らずに一寸高輪田の眼に注いだ様だ、爾して何だか 悸 ( ぎょっ )と驚いたかの様にも思われたけれど、是は多分余の心の迷いから此の様な気がしたので有ろう、爾かと思って見直して見るに秀子の顔は相変らず静かで、恐れも喜びも何も浮べては居ぬ、唯品格の有る態度で「左様ですか、けれど浦原嬢からお詫びなど受ける様な事は少しも有りませんが」お浦は茲ぞと云う風で進み出た。 言葉の言い廻しも甚だ旨い、「秀子さん貴女にそう仰有られると私は恨まれるより猶辛く、ホンに消え入り度く思いますよ、朝倉男爵の手品会の席で、貴女を仲働きだと、途方もない事を申しまして今考えると私は貴女に何れほど恨まれても仕方がないと、イイエ実に後悔に堪えません」秀子は極めて低い声で「イイエ、私は貴女の 御笑談 ( ごじょうだん )としか思っては居ませんのです、気にも留めねば最う忘れて居りました」此方も仲々鷹揚な言い振りだが、真逆忘れるほど気に留めぬ訳でも有るまい、併し是は斯る場合の紋切形の口上だ、お浦「其の代り今日はお詫びの記しに貴女の昔友達を誘うて参りました、是は貴女からお礼を云うて戴かねば成りません、オホホホ」と追従か世辞の様に笑うけれど、実は全く勝誇った笑いなのだ、愈々化けの皮を 引剥 ( ひんむ )いて恨みを晴らす時が来たと、嬉しさに腹の中から込み上げる笑いを世辞に紛らせて了うのだ、此の様な事は総て女の長所だが取り分けてお浦の長所だ、余は此の笑い声を聞いてゾッとした、最う万事休すだと絶望した、併し秀子は気も附かぬ様子で「エ、私の昔友達とは」と怪しんで問い返した、声に応じて高輪田は進んで出た、お浦は軽く引き合わせた「ハイ貴女が昔御存じの高輪田さんです、高輪田さん、此の令嬢は今は当家の養女です」声と同時に秀子と高輪田とは顔が合った、余は動悸の音が自分の耳へ聞こえる程だ、本統に必死の場合とは茲のことだ、余は全く自分の事の様に思い、眸を凝らして秀子の様子を見た、静かだ、実に静かだ、恐れとか驚きとか云う様には顔の一筋だも 揺 ( うごき )はせぬ、泰然と落ち着いた令嬢は猶記憶して居るや否や、余は始めて秀子に逢った時若しや仮面でも被って居るではなかろうかと此の様に疑ったが、勿論其の疑いは直ぐに解けて仕舞ったけれど今も秀子の顔を見て、其の 余 ( あん )まり何ともなさすぎる静けさに、若しや仮面かとも同じ疑いを起し掛けた、併し勿論少しの間さ。 後で考えるに、人の 活々 ( いきいき )した顔を、仮面ではあるまいかなどと疑うは余り馬鹿げて居る、勿論仮面ではない、血と肉と筋と皮とで天然に育った当り前の顔である、余とても必ずしも疑ったと云う程ではない、唯殆ど仮面かとも思われる程に美しいと斯う思った迄の事さ、決して若しや仮面ではなかろうかと探偵が罪人を疑うように疑った訳ではない、断じてない、茲の区別は読者に呑み込んで貰わねばならぬ。 仮面ではないが此の時の秀子の顔は何となく人間以上に見えた、殆ど凄い程の処がある、と云うて別に当人が、強いて顔の様子を作って居る訳でもなく、少し高輪田を怪しむ様は見えるけれど其の外は唯平気に静かなのだ、其の平気な静かな所に一種の凄味が有るから妙だ、余は此の時高輪田の顔をも見た、彼は同様な心を以て秀子の顔を見て居るだろう。 彼の顔は前にも云った通り、男としては珍しいほど滑らかで、余り波瀾の現われぬ質では有るがそれでも初めて秀子の顔を見た時には確かに彼の顔に一種の悪意が浮動した、何でも彼は兼ねてお浦から、此の秀子は古山お酉に違いないと云われて、全くお酉に逢う事とのみ思い詰め、己れ面の皮を引剥いて遣ろうと楽しんで遣って来たに違いない、爾なくば顔に斯う悪意の浮動する筈がない、所が彼は一目見て痛く驚いた、悪意は消えて寧ろ恐れと云う様な色になった、何でも人違いと覚ったが為らしい、併し彼仲々根強い気質と見え、 怯 ( ひる )み掛けて又思い直した様子で、一層眼に力を込めて再び秀子の顔を見詰めた、此の時の彼の目は実に鋭い、非常な熱心が籠って居る、若し眼の光がX光線の様に物の内部まで入り込む事が出来る者なら、此の時の彼の眼光は確かに秀子の腹の中を透かして背中まで 貫徹 ( ぬけとお )ったで有ろう、けれども彼は終に満足の様子を示さぬ。 余も心配だが、余よりもお浦に至っては殆ど必死だ、高輪田よりも猶一層眼を輝かせる、と云う事は到底人間の目には出来ぬけれど、若し出来る者とすれば、必ず高輪田よりも猶強く輝かせる所で有ろう、余の叔父も何だか対面の様子が変だから少し怪しみ掛けたのか怪訝な顔をして居る、中で一番平気、一番何ともない様なのは秀子だ、秀子は最早高輪田が充分顔を見盡くしたかと思う頃、静かに口を開き「私は何も合点が行きませぬ、私の昔の友達と仰有った様に思いますが、幾等考えても分りません、多分私がお見忘れ申したのでしょう、失礼ですが何処でお目に掛りましたかネエ」とあどけなく問うた、高輪田は何と返事する言葉さえ知らぬ様子だ「左様です、私も、何うも、イヤ何とも、考えが附きません」秀子「夫に私は高輪田さんと仰有る御苗字さえ今聞くが初めての様に思いますが」 余は全くホッと息した、秀子は此の恐ろしい試験、イヤ当人は恐ろしくも有るまいが、余の心には非常に恐ろしく感じた、此の大試験も苦もなく通り越したと云う者だ、お浦の疑う様な仲働きでない、古山お酉でない、姿を変えて人を欺く女詐偽師ではない、幽霊塔の前の持主たる高輪田長三さえ見た事のない全くの松谷秀子だ、米国で政治家の秘書を勤めて居た事も確か立派な書籍を著わしたことさえも確かだから、無論良家の処女である、夫を疑ったお浦も無理だ、一時たりとも此の試験に落第するかの様に心配した余とても余り秀子に対して無礼すぎた。 古い事を説く様では有るが、聞く所に由ると此の高輪田長三は幼い頃からお紺殺しの夏子と云う女と共にお紺婆に育てられた男で、お紺婆の心では夏子と夫婦にする積りで有ったのだ、所が何う云う訳か物心の附く頃から夏子が長三を嫌い、何うしても婚礼するとは云わぬ、婆は色々と夏子の機嫌を取り、遂に夏子を自分の相続人と定め、遺言状へ自分の財産一切を夏子の物にすると書き入れた相だ、夏子は大層有難がって婆には孝行を盡したけれど長三を嫌う事は依然として直らぬ、長三は婆が自分を相続人とせぬのを痛く立腹し、是から道楽を初めて果ては家を飛び出し倫敦へ行ったまま帰らぬ事に成った、婆は余ほど夏子を大事にして居た者と見え、長三が家出の後でも猶夏子を 賺 ( すか )しつ欺しつし、遂に其の手段として、自分の所有金を悉く銀行から引き集め、それを夏子の目の前へ積み上げて、此の家の財産は現金だけでも是ほどある、和女が長三の妻に成れば、之は総て和女の物だし若し否と云えば遺言状を書き直して長三を相続人にすると斯う云った、随分下品な仕方では有るけれど下女から出世したお紺婆としては怪しむに足らぬのさ、夏子は自分が相続人でなくなるのを甚く辛がって、泣いたり詫びたりしたけれどそれでも長三の妻に為るとは云わぬから、お紺は詮方なく愈々遺言状を書き替えるに決心し、倫敦へ代言人を呼びに遣った、其の代言人が明日来ると云う今夜の十二時にお紺は何者にか殺されて了ったが、調べの結果様々の証拠が上り終にお夏の仕業と為った、お夏は固く自分でないと言い張ったけれど争われぬ証拠の為前に記した通り有罪の宣告を受け終身禁錮の苦刑中に牢の中で死んで了った、此の事件に長三も調べられたけれど彼は当夜倫敦に居た証拠も有り、又お紺を殺して少しも利益する所はなく、却って明日迄お紺を活せて置かねば成らぬ身ゆえ勿論疑いは直ぐに解けた、爾してお紺の財産は罪人夏子の物に成ったけれど、夏子死すれば夏子の子へ夏子に子なくば長三へ、と遺言状の中に但し書きが有った為、夏子が牢死した時に長三の物に成ったと云う事だ。 是だけが余の知って居る長三の履歴である、けれど此の様な事は何うでも好い、話の本筋に立ち返ろう。 高輪田と秀子とが全く見知らぬ人と分ったに付いてお浦の失望は見物で有ったけれど、流石はお浦だ、何うやら斯うやら胡魔化して秀子に向い「オヤ爾ですか、夫にしても高輪田さんは此の屋敷の前の持主で塔の事など能く知って居ますから必ず貴女とお話が合いましょう、是から何うかお互いに昔なじみも同様に、サア高輪田さん秀子さんと握手して御懇意をお願い成さい、ネエ秀子さん、ネエ叔父さん、爾して下さらねば私が余り極りが悪いでは有りませんか」と極めて外交的に場合を繕った、高輪田は声に応じて手を差し延べた、秀子も厭々ながらこの様に手を出したが、高輪田の手に障るや否や、宛も 蛇蝎 ( まむし )にでも障る様に身震いし、其の静かな美しい顔に得も言えぬ 擯斥 ( ひんせき )の色を浮かべて直ぐに手を引き、倒れる様に叔父の肩に縋り「阿父様、私は最う立って居る力もありません」とて顔を叔父の胸の辺へ隠した、確かに声を呑んで忍び泣きに泣いて居る、何で泣くやら分らぬが多分は今夜の様々の心配に神経が余り甚く動いたのであろう、叔父は 傷 ( いた )わって其のまま連れて去ったが、高輪田は此のとき不意に恐れだか驚きだか、宛も天に叫ぶ様な音調で、「オオ、神よ」と一声叫んだ、見れば彼の眼は又もX光線の様に、秀子の彼の真珠を以て飾った左の手の手袋へ注いで居る。 秀子と長三との対面が、兎も角も秀子の勝利となって終ったは嬉しい、けれど余は何となく気遣わしい、猶何所にか禍の種が残って居はせぬか、再び何か不愉快な事が起りはせぬかと、此の様な気がしてならぬ、其の心持は宛も、少し風が 吹罷 ( ふきやん )で更に此の後へ大きな 暴風 ( あらし )が来はせぬか、此の 凪 ( なぎ )が却って 大暴 ( おおあれ )の前兆ではないかと気遣われる様な者だ。 此の気遣いは当ったにも、当ったにも、実に当り過ぎるほど当った、読む人も後に到れば、成るほど当り様が余り甚すぎると驚くときが有るだろう、併し夫は余程後の事だ。 此の夜は事もなく済み、客一同も「非常の盛会であった」の「充分歓を盡した」のと世辞を述べて二時頃から帰り始めた、余も頓て寝床に就く事になった。 寝床と云うは、彼のお紺婆の殺された塔の四階だ、時計室の直ぐ下の室である、余自ら好みはせぬが秀子の勧めで此の室を余の室にし、造作なども及ぶだけは取り替えて何うやら斯うやら紳士の 居室 ( いま )らしく拵らえてある、初めて見た時ほど陰気な薄気味の悪い室ではない、若し虚心平気で寝たならば随分眠られようと思うけれど、余は此の夜虚心平気でないと見え熟くは眠られぬ、殆ど夢と 現 ( うつつ )との境で凡そ三十分も居たかと思うが、何やら余り大きくはないが物音がしたと思って目が覚めた、枕頭の蝋燭も早や消えて、何の音で有ったか更に当りが附かぬけれど、 暗 ( やみ )の中に 眸 ( ひとみ )を定めて見ると、影の様な者が壁に添うて徐々動いて居る様だ、ア、之が此の塔の幽霊か知らんと一時は聊か肝を冷した。 が余は幽霊などを信じ得ぬ教育を受けた男ゆえ、自分の目の所為とは思ったけれど念の為 燐燵 ( まっち )を手探りに捜し、火を摺って見た、能くは見えぬが何も居ぬらしい、唯燐燵の消え掛った時に壁の中程に在る 画板 ( ぱねる )の間から人の手の様な者が出て居るかと思った、勿論薄ぐらい所では木の株が人の頭に見えたり、脱ぎ捨てた着物が死骸に見えたりする事が好く有る奴だから、朝に成って見直せば定めし詰まらぬ事だろうと思い直して其のまま再び寝て十分も立つか立たぬうち又物音が聞こえた、今度は確かに聞き取ったが、サラサラと壁に障って何物かが動いて居る音である。 茲で一寸と此の室の大体を云って置きたい、此の室は塔の半腹に在るので、昇り降りの人が此の室へ這入るに及ばぬ様に室の四方が四方とも廊下に成って居る、塔の中でなくば恐らく此の様な室はない、けれど四方のうち一方だけは何時の頃直した者か物置きの様にして此の室で使う可き雑な道具を置く事に成って居る、此の様な作りだから今の物音が壁の外か壁の内かは余に判断が付かぬ、余は又も燐燧を摺り、今度は新しい蝋燭へ 点火 ( とぼ )したが、此の時更に聞こえた、イヤ聞こえる様な気のしたのは人の溜息とも云う可き、厭あな声である、実に厭だ、溜息と来ては此の様な場合に泣き声よりも気味悪く聞こえる、或いはお紺婆が化けて出て、自分の室を占領されたのを嘆息して居るので有ろうか、真逆。 余は蝋燭を手に持ち、寝台、読書室、談話室と三つに仕切ってある其の三つとも隈なく廻ったが、室の中には異状はない、壁の 画板 ( ぱねる )をも叩いて見たが、古びては居れど之にも異状はない、シテ見れば室の外だ、廊下の中は何処で有ろう、室の外なら故々検めるには及ばぬと、其のまま再び寝床の許へ帰り、寝直そうと手燭を 枕頭 ( まくらもと )の台の上へ置いたが、流石の余もゾッとする事がある、余の新しい白い枕の上へ、二三点血が落ちて居る、此の血は余が起きてから今まで僅か五分とも経たぬ間に落ちたのに違いない、猶能く見れば、 褥 ( しとね )の上にも二三点、云わば雨滴が落ちたかと云う様な形になって居る、余は又も自分の目を疑ったが何う見直しても血の痕だ、何所から落ちた、天井からか、画板からか、押入れからか、天井は此の室と上の時計室との間から、人ならば 匍匐 ( はっ )て這入れる様に成って居るから或いは誰か這入ったかも知れぬ、併し下から見た所では天井に血の 浸 ( しみ )はない、多分は画板の間からでも、 迸 ( ほとばし )ったので有ろう、と斯うは思っても真逆に血の落ちて居る寝床の上へ寝る訳にも行かぬ、或いは虎井夫人の連れて居る例の狐猿が壁の間か何処かで鼠でも捕ったのかと、此の様に思ったけれど狐猿が溜息を吐くなどは余り聞いた事がない。 雨滴 ( あまだれ )の様に幾点か落ちて居る血を 手巾 ( はんけち )で拭っては見たが、真逆に其の寝床へ再び寝るほどの勇気は出ぬ、斯うも臆病とは余り情けないと自分の身を叱って見たけれど、縦し無理に寝た所で迚も眠れはせぬだろうと思い直し、到頭其のまま起きて了った。 爾して廊下へ出、窓を開くと最う夜が明け掛けて居る、何者の血で有るか、真にお紺婆の幽霊が出たのか、 篤 ( とく )と調べては見たいけれど、神経の静かならぬ此の様な時に調べたとて我と我が心に欺かれる計りだから少し早過ぎるけれど外へ出て、充分に運動して其の上の事よと思い、余り音のせぬ様に階下へ降り、庭に出て、夫から堀の辺まで散歩した、堀の岸には舟小屋が有って、未だ誰も乗った事のない、新しい小舟が有る、之を卸して進水式を遣らかすも妙だろうと、独りで 曳 ( えい )やッと引き卸し、朝風の冷々するにも構わず 楫 ( かい )を両手に取って堀の中を漕ぎ廻した、其のうち凡そ一時間の余も経ったであろうか、身体は汗肌と為って気も爽やかに、幽霊の事も忘れる程に成った、最う好かろうと舟を繋いで土堤へ上って見ると、目に附くは例の殺人女夏子の墓だ、墓の前に又詣で居る人が有る。 誰ぞと怪しむ迄もなく其の姿の 優 ( しなや )かなのと着物の日影色とで分って居る、無論秀子だ、何の為に秀子が此の墓へ参るかは兼ねて不思議の一つだが、而も未だ誰も起きぬ中に参るとは成る可く此の参詣を人に知らさぬ為で有ろう、爾すれば余も知らぬ顔で居るが好いと其のまま立ち去り掛けて居ると、忽ち墓の背後から一人の男が現われた、是は確かに、昨夜秀子を看破する積りで当ての外れた高輪田長三で有る、秀子は驚いて起き上る、長三は帽子を脱いで礼をする、秀子は其のまま家の方へ立ち去ろうとする、長三は其の前へ立ち 塞 ( ふさ )がる、何うも穏かならぬ様子だから余は飛び出して秀子を保護しようと思ったが、イヤ未だ急ぐ事ではない、長三は握手の積りか手を差し出す、秀子は否と云う風で両手を自分の背へ廻す、長三は怯まずに猶も進む、秀子は右の手を出して長三を突き退ける、長三は再び身を立て直して取っ掛り、依然として秀子が背後へ隠して居る左の手を取ろうとする、通例の女なら助けをも呼ぶ可き場合だろうが秀子は別に声も立てず、唯逃れようと悶く許りだ、最早見て居る場合でない、余は飛んで行って横手から長三を突き飛ばした、自分ながら我が力に驚いた、長三は倒れんとするほどに 蹌踉 ( よろ )めいた。 余は秀子の手を取って、慰さめ慰さめ家の方へ帰ろうとした、若し是が余でなくて叔父だったら秀子は必ず昨夜の様に取り縋って泣き、顔を余の胸へ隠すだろう、真に泣き出しそうな顔をして居る、けれども真逆に余に縋り附く訳に行かぬ、唯手を引かれたまま首を垂れて居る、余は実に断腸の思いだ、憐みの心が胸一ぱいに湧き起った、殆ど我れ知らずに片手で秀子の背を撫で「秀子さん貴女は迚も独りでは此の様な敵に 中 ( あた )る事は出来ません、私に保護させて下さいな、深い仔細は知りませんけれど此の後とてもお独りでは心細い事ばかりだろうと思われます、保護する丈の権利を私に与えてさえ下されば」と云い掛けると、秀子は 恟 ( びっく )りして余より離れ「貴方も矢張り権田さんの様な事を仰有る、保護して下さるは有難くとも私は其の様な約束は出来ません」実に余は権田が秀子に言うた通りの事を言い度くなった、心に権田を笑った癖に唯一夜明けた丈で自分が其の権田に成り代わるとは成るほど秀子が承知の出来ぬ筈だと思い「イヤ夫では最う其の様な事は言いませんが、貴女は今私の出て来たのを有難いとお思いですか」秀子「夫は思いますとも、貴方が来て下さらねば私の生涯は此のまま盡きる所だったかも知れません」余「夫ならば貴女から何の約束を得ずとも此の後私は影身に成って守りましょう」秀子「でも私から何うぞとお願い申す事は出来ません、私は自分で密旨を果たさねば成らぬのですから、ハイ多分は果たし得ずに、何の様な目に逢って此の世を去るかも知れませぬけれど、固く心に誓って居るのだから致し方が有りません」と云う中にも眼は涙に閉じられて居る、何の密旨だか愈々分らぬ事には成ったが、或いは夏子の生存中に、夏子から何事をか頼まれたので有ろうか、夫で此の墓へ度々参るのでは有るまいか、孰れにしても余は最う助けずには居られない。 若し公平に考えたら、秀子の身には定めし怪しむ可き所が多かろう、密旨などと云うも分らず、夏子の墓へ参るも分らず、高輪田長三から異様に疑われて居る其の仔細も分らぬ、併し余は少しも疑わぬ、第一秀子の美しい顔が余の目には深く浸み込んで居る。 決して人に疑われる様な暗い心を持った女でない、成るほど自分で云う通り何か密旨は帯びて居るだろうよ、併し人を害する様な 質 ( たち )の悪い密旨では決してなかろう、第二には秀子が曾て「分る時には自然に分る」と云ったのを余は深く信じて居る、自然に分る時の来るを何も気短く疑って見るには及ばぬ。 斯う思うと唯可哀相だ、女の身で兎も角も密旨の為に働き「何の様な目に逢って此の世を去るかも知れぬ」とまで覚悟して居るとは 傷々 ( いたいた )しいと云っても好い、助けられる者なら助けて遣り度い、と云って事情も知らず、自分の妻でも何でもないのに深く助ける訳にも行かぬ、今日の様な目に見えて危い事が有れば助けもするが、当人の様子から考えると目に見える危険より目に見えぬ危険の方が定めし多かろう。 最う一夜でも其の幽霊を再び此の塔へ上らせたら何の様な事をせられるかも知れません」と云って少し考え、考え「貴方が、若しお厭なら、貴方は下の室へお 寝 ( やす )み成さい、当分私が此の室へ寝る事に致しましょう」熱心も勇気も実に感心する外はない、余は断乎として「イエ其の御心配に及びません、是から一晩でも欠さずに私が茲へ寝ますよ、爾して昼間でも決して此の塔へ他人を上らせぬ事にします」と答えたが、後で落ち着いて考えて見ると真逆に此の古塔に盗人が目を附けるほどの値打も有るまいと思われる。 盗人が幽霊の真似をするとは全く例のない事ではない、余は誰かの話に聞いた、併し実際 出会 ( でっくわ )したは初めてだ。 夫にしても其の盗坊は誰であろう、昨夜此の家へ泊った客は随分あるけれど、それは皆紳士貴婦人とも云う可きで、仲には品行の宜しくない人も有りは仕ようが、真逆に盗坊をする様な人はない、爾すれば此の盗坊は外から這入ったので有ろうか、イヤ其の様な形跡も見えぬ、実に不思議千万な事だ、余は猶も秀子に向い「若しも心当りはないのか」と繰り返して問うたが、秀子の様子では何だか腹の中で誰かを疑って居るらしい、けれど口には発せぬ、口では唯、少しも心当りがないと云って居る。 此の後余は秀子へ約束した通り、誰をも塔の上へ揚げぬ事にし、自分は番人に成った積りで成る可く此の室を離れぬ様に勉めた、其の為再び幽霊らしい者は出なんだ。 併し幽霊の出るよりも猶厭な猶恐ろしい事は沢山あった、先ず順を追って話して行こう。 此の日の夕暮、余は日頃見知らぬ一紳士が此の家へ這入って来るのを見た、取り次の者に聞いて見ると此の土地の医者だと云う事、成るほど後には多少懇意に成ったが全くの医者であった、何の為に迎えられたと問えば、秀子の附添人虎井夫人が病気だと云う事だ、そう聞けば昼飯の席へも虎井夫人は見えなんだ。 晩餐の時に至り夫人は出て来たが顔の色が何となく引き立たぬ、余は其の傍に行き「御病気だと聞きましたが、如何です」と問うた、夫人は少し怪しむ様に余の顔を見て「病気だなどと誰が、云いました」余「でも先ほど此の村の医師が来たでは有りませんか」夫人「そう知れては仕方が有りません、余り極りの悪い話で、誰にも隠して居ましたが、病気ではなく怪我ですよ、アノ狐猿に甚く手先を引っ掻れました。 自分の飼って居る者に傷つけられるとは年甲斐もなく余り不注意ですから」余「併し相手が是非の 弁 ( わきまえ )もない獣類で有って見れば、引っ掻れたとて別に恥じる事も有りますまい、シタが余ほどのお怪我ですか」夫人「大した事も有りませんが痛みが 劇 ( はげ )しいのです、痛みさえなくなれば、医者にも及びませぬけれど」成るほど見れば右の手へ繃帯を施して居る。 是から数日の間、夫人は一室へ籠った儘だ、何でも狐猿の爪の毒に 中 ( あて )られたとか云う事で、益々容体が悪い様子だ、兎に角も此の家の客分だから、余は知らぬ顔で居る訳に行かず、或る時其の室へ見舞いに行った、夫人は非常に喜んだけれど、起き直る程の力はない、床の中から痛くない片手を出し余を拝む様にして「好く来て下さった、貴方に折り入ってお願いが有りますが、病人の頼みだと思い何うか聞き入れて下されませんか」何の頼みだか、来る勿々に此の様に言われるは少し意外で有る、それに余は彼の贋電報で此の夫人の仕業と分って以来、甚だ此の夫人を好まぬけれど、身動きも出来兼ねる病人の頼みを無下に斥ける訳にも行かず「ハイ何なりと聞き入れて上げましょう」夫人「では申しますが、其所に、ソレ掛かって居る私の着物の 衣嚢 ( かくし )に大切な品物が入れて有りますから、貴方は何うか中を見ずに、其の衣嚢を裏から握り爾して破り取って下さいまし」実に異様な頼みかな、衣嚢の中の品物か衣嚢ぐるみに ( むし )り取って呉れとは、今まで聞いた事もない。 嫌な仕事だとは思ったが、一旦男が承知した事だから 怯 ( ひる )みも成らず、立って行って壁に掛けた着物を取り、言葉の通りに其の裏から衣嚢を握って引き ( むし )り、爾して夫人の傍へ持って行くと、夫人は又も枕許の手文庫を指し「其の中に小さい箱が有りますから箱の中へ其の衣嚢を入れ、封をして、私の言う宛名を認め、そうして何うか小包郵便に出して下さる様に願います」益々厄介な事を云うが、詮方なく其の通りにして、余「宛名は」夫人「ハイ申しますよ」とて余に書かしめたは「ハント郡、ペイトン市の在にて養蟲園主人穴川甚蔵殿」と云う宛名だ、余は他日何かの参考にも成ろうかと思い其の名を我記憶に留めたが、養蟲園と云えば虫を飼って繁殖させる所であろうが、余り類のない園名である、夫人「何うぞ 密 ( そっ )と差し出して、誰にも云わぬ様に願います」余は此の夫人の秘密に与るのは厭で厭でならぬけれど、詮方なく其の言葉に従い、自分で郵便にまで托して遣ったが、衣嚢の中の品物は何であろう、怪しむまいと思っても何うも怪しい。 郵便に差し出して家に帰ると又も廊下で彼の医者に逢った、余は一礼して「先生、何うも狐猿の毒は恐ろしい者ですネエ」医者は合点の行かぬ顔で「エ、狐猿とは」余「貴方に掛かって居ます虎井夫人の怪我の事です」医者「アア、あれですか、あれは何でも古釘で引っ掻いた者です、錆びた 鉄物 ( かなもの )の傷は何うかすると甚く禍いを遺します」余は唯「爾ですか」と調子を合わせて分れたけれど深く心を動かした、果して錆びた釘か何ぞで引っ掻いたものならば、何故虎井夫人が狐猿に引っ掻れたなどと言って居るのだろう、若しや先きの夜、余の寝床へ血を落したのは此の夫人では有るまいか、画板の間から手を出したとすれば古釘に引っ掻れる事は随分ある、オヤ、オヤ、爾するとアノ衣嚢の中に在った品は、秀子の盗まれたと云う手帳では有るまいか、今更疑っても既に遅い、イヤイヤ必ずしも遅くはない、必要となれば養蟲園穴川と云う家を尋ねて行っても好いのだ。 若し此の翌日、恐ろしい一事件が起らなんだら、余は必ず養蟲園へ行き、穴川甚蔵と云う者が何の様な男かを見届けた上で少しでも怪しむ可き所があれば、第一に秀子に話して虎井夫人が此の甚蔵に送った小包が果して秀子の盗まれた手帳であるや否や究めねばならぬ。 併し養蟲園へ行く前に、一応調べて見たいのは狐猿の爪に果して毒があるや否やの一条だ、若し毒が有って、之に引っ掻れたなら古釘で傷つけられたと同様の害を為すと云う事でも分れば、虎井夫人に対する余の疑いは大いに弱くなる。 余の書斎には斯る事を調べる丈の参考書はないけれど当丸部家の書斎には必ずある、尤も引越 々で未だ書斎は整理して居ぬ、けれど其の室だけは 定 ( きま )って居て、既に本箱などをヤタラに投げ込んである、其の室は昔此の家の主人が自分の居室にする為に建てたので、相変らず内部に様々の秘密な構造が有ると言い伝えられて居る、此の言い伝えさえなくば叔父が自分の居室とする所で有ったが叔父は秘密などのある室は否だとて到頭書斎に 充 ( あ )てたのだ、室の内部は三所に仕切って有って書斎には余り都合が好くないけれど仲々立派な普請である。 余が此の室へ入ろうとする時、室の中に人声が有って、戸を開くと、同時に、余の耳へ「ナニ私の心を疑う事は有りませんよ、安心の者ですよ」との言葉が聞こえ、一方の窓の外から庭へ走り去る人の姿がチラリと見えた、少し怪しんで中へ入ると窓に 靠 ( もた )れてお浦が居る、余「オヤ浦原さん何うして茲に」お浦「貴方に逢い度いと思いまして、ハイ多分貴方が此の室で書見でもして居らっしゃるだろうと考えましたから」余「でも戸の閉めてある室へ何うして這入る事が出来ました」お浦「私は鳥巣庵から庭伝いに茲へ来て、爾して此の窓から入りました」成るほど窓から入られぬ事はない、余「今茲で貴女と話をして居たのは誰ですか」お浦「誰も話などは仕て居ませんよ、ああ分った、私が独言を仕て居たから貴方は其の声をお聞き成さったのでしょう」余「イエ、人の立ち去る姿がチラリと見えた様に思います」お浦は正面からは返事せず、唯「小さい時から私が物を考えるに独言を云う事は貴方が能く御存じでは有りませんか」と胡魔化した、勿論たって問い詰める程の事でないから余も敢えて争わずに止めた。 余「シタが、私に逢いに来たと云う其の御用事は」お浦「折入ってお詫びに来たのです、先ア其の様な恐い顔をせずと、何うか憐れと思ってお聞き下さい」と余ほど打ち萎れた様で余を一方の隅へ連れ行きて腰を卸させ、自分も坐を占めて、直ちに余の両手を握り「済みませんが道さん、何うぞ昔の約束に返って下さい」余「エ、昔の約束とは」お浦「貴方と私は末は夫婦と云う約束で育てられたでは有りませんか」余が驚いて只一言に断ろうとするを推し留め「先ア否だなどと仰有らずに聞いて下さい。 少しも貴方を愛せぬなどと言い切って私はアノ約束を取り消し、爾して外国へ立ち去りましたけれど、アレは貴方が素性も知れぬ松谷秀子に心を寄せて居る様に思いましたから嫉妬の余りに云うた事です、外国へ行って居ると益々貴方が恋しくなり、今では後悔に堪えません、夫に此の家の養女で居る時は、何処へ出ても人から大騒ぎをせられましたが、今では誰も構い附けて呉れず、実に残念に堪えません、今までは我儘ばかりでお気に入らぬ事も有りましたろうが、是からは心を入替え、貴方の為ばかりを考えますから、何うぞアノ約束の取り消しを取り消して下さいな、ネエ、道さん」と余の顔を差し窺いたが、余は余りズウズウしいに呆れ、容易には返辞も出ぬ、お浦「道さん、お返事は出来ませんか」余「イエ返事は出来ますけれど貴女の望む様な返事は出来ません」お浦は恨めしげに「私は、斯まで貴方に嫌われる様な厭な女でしょうかネエ、あの高輪田さんなどは、私の外に女はない様に云い 蒼蝿 ( うるさ )く縁談を言い込みますのに」余「夫は爾でしょうとも、貴女は立派な美人ですもの、余所へ心の傾いて居ぬ人なら必ず貴女に心を寄せますよ」お浦は忽ちに怒って立ち上り「分りました、余所へ心の傾いて居ぬ内なら承知も仕ようが己は最う松谷秀子を愛して居るからお前の言葉は聴き入られぬと、斯う仰有るのですね」余「そう云うのとも違いますけどナニそうお取り成さっても大した間違いは有りません」お浦は大声に「エ、悔しい、あの怪美人めが人の 所天 ( おっと )を偸んで了った」と叫び、身を掻きむしる様にして、悶き悶き窓の許へ走って行って、窓から外へ飛び出して庭の面を遠く、堀の方へ馳せ去った、定めし身を投げるかの様に見せ掛けて、余に走り出させて留めさせ度いと云う狂言だろうが、今まで散々お浦の狂言に載せられた余だもの、最う其の手を喰うものか、余は邪魔者を追っ払った気で其のまま次の室へ入り、散らばって居る本箱の間を潜り、先ず壁の際に在るのから順に調べる積りで、 但 ( と )ある本箱の横手へ 蹐 ( しゃがん )だが、此の時壁の中からでも剣が突き出た様に、忽ち余の傍腹を斜めに背後の方から 衝 ( つき )刺したものがある、余は咄嗟の間にそうまでも思い得なんだけれど不意に傍腹へ鋭い痛みを感じ、其の所へノメッて了った、傷は爾まで甚いとも思わぬけれど、切口は宛で火の燃る様に熱く痛い、爾して殊に奇妙なは、助けを呼び度くも声が出ぬ、傷口を押え度くても手が動かぬ、手ばかりでなく足も胴もイヤ身体じゅう一切の感じが麻痺したと見え、倒れたままで少しの身動きさえも出来ぬ。 余は何故に、何者に、斯くは刺されたのであろう、是既に容易ならぬ疑問であるが、是よりも猶怪しいは余が 創 ( きず )の小さい割合に痛みが強く、爾して其の痛みの為に全身が 痺 ( しび )れて了った一事である。 人の身体が、斯も痺れる者とは今まで思い寄らなんだ、声の出ぬのは勿論の事、瞼までも痺れて仕舞い目を開き度くとも開く力さえなく、強いて開こうとしても瞼が直ぐに弛く垂れて眼を蔽うて了い、唯 辛 ( ようや )くに糸ほど細く開いた間から外の明りを見るに過ぎぬ。 曾て或る書物で読んだ事がある、印度の或る部落に住む土人が妙な草の葉を 搾 ( しぼ )り其の汁を以て痺れ薬を製するが、之を刃に附けて人を刺せば傷口は火の燃える様に熱く、爾して全身は痺れて了う、若し水に混ぜて此の薬を半グラムも飲めば殆ど何の痕跡をも止めずに死んで了う、数年前迄は医者さえも此の薬で毒殺せられた死骸を検査して毒殺と看破する事は出来なんだと云う事だ、印度の土人は此の草を「悪魔の舌」と呼ぶ相だ、何となく気味の悪い名前である、若しや余の刺された兇器にも此の草の汁を塗ってあったではなかろうか、爾なくば創口の痛みと全身の痺れ工合が到底説明する事が出来ぬ、誰にもせよ斯る危険な毒薬を持った者が此の辺に出没するとせば、見 遁 ( のが )して置かれぬ訳だ。 秀子の左の手の手袋の下に何が隠れて居たであろう、お浦は何の様な秘密を見たのであろう、余は実に怪しさの想いに堪えぬ。 暫くしてお浦は全く敵を我が手の中に取り押えたと云う口調で「此の秘密を見届けたからは秀子さん貴女は最う死骸も同様です、私に抵抗する事も出来ず、イイエ娘分として此の家に居る事さえ出来ますまい、何れ 緩々 ( ゆるゆる )と叔父にも道さんにも此の秘密を話して驚かせて遣りましょう」と憎々しく云うた、秀子は必死の声で「ハイ話すに話されぬ様にして上げます」と云って、遽しく室の中を馳せ廻る様子だ、何の為かと思ったら全く室の出口出口の戸を悉く閉め切ってお浦を此の室より外へ出さぬ為であった、総ての戸に或いは錠を卸し或いは 閂木 ( かんぬき )を施すなどの音が聞こえた、頓て秀子は「サア是で出たくとも出られません」お浦「貴女の出る時に一緒に出て行く迄の事です」秀子「一緒には出しません。 此の秘密を見られた上は、貴女が決して口外せぬと云う誓いを立てねば」お浦「其の様な誓いが立てられますものか、私は口外せずには居られません」秀子は物凄いほど熱心な声と為って「貴女が口外なさらずとも、私は自分の密旨を果しさえすれば自分から誰にでも知らせます、それ迄の所は何の様な事をしてでも貴女の口を留めて了います、サア私が言葉を授けますから其の言葉通りにお誓い為さい、誓いなされなければ幾等破ろうとて破る事が出来ません、破れば生涯貴女の身に恐ろしい不幸が絶えません」秀子が何の様にして居るかは知らぬが、お浦は聊か恐れを催した様子で「戸を開けて下さい、私を出して下さい」秀子「出して上げるのは誓いを立てた上ですよ、誓いますか誓いませぬか、今誓わねば、未来永久幾等貴女が後悔しても到底帰らぬ目に遭わせますよ」 未来永久、悔んでも帰らぬ目とは何の様な目に遭わせる積りだろう、茲で殺すぞと云う様な意味にも聞こえる、孰れにしても余の身体が自由でさえあればと、余は心の中で地団駄踏むほどに悶くけれど仕方がない、只紙一重を隔てられて何うしても其の紙を破る事の出来ぬ様な気がする、実に情けない、お浦は一声「其の鍵をお渡し成さい」と叫んだが直ちに秀子に飛び附いた様子だ、再び組み打ちの音が聞こえる、何方が勝つかは分らぬが双方とも必死と見える、頓て一方は、足を踏み辷らせた様子で「アッ」と云って床の上に倒れた、其の声は確かにお浦の方であった。 余は此のとき、悶きに悶いて、 辛 ( や )っと半分起き上って、前へ踏み出そうとしたが足に少しも力が無く、直ちにドシンと倒れて了った、倒れる拍子に、初めて「ウーン」と云う呻きの声が口から洩れたが、其のまま気が遠くなって了った。 極めて少しの間ではあるが、自分と世間とが遠く遠く離れるかと思った、死んで 魂魄 ( たましい )が身体から離れるは此の様な気持ではあるまいか、併し余の呻き声に、直ちに秀子が駈け附けたと見え「丸部さん丸部さん、オヤ先ア傍腹を刺されたと見え、此の血は、オオ恐ろしい何者が貴方を此の様な目に遭わせました」と驚く声が幽かに聞こえた。 少しは身体の痺れが薄らいだか、此の声で目を開く事も出来た、聊かながら声を出す事も出来た、余「オヽ秀子さんですか」と云う中にも秀子の左の手に何の様な秘密が有るか知らんと、見ぬ振りで見た、けれど秀子は 手巾 ( はんけち )で巧みに左の手先を隠していて分らぬ、此の様な隙でも斯う用心する程ゆえ、お浦に見られて必死に成ったのも無理はない、次に余の口から発した言葉は「お浦は何うしました」と云う問いであった、秀子は気が附いた様に「オヽ私より浦子さんが当然介抱なさらねばならぬ方です」と云って、更に今喧嘩をした室に向い「浦子さん、浦子さん、丸部さんのお声が貴女には聞こえませんか、大変ですからサア早く茲へ来て下さい、エ浦子さん丸部さんが呼んで居ますよ」と云えどお浦は何したか返事をせぬ、少しの物音さえもせぬ、秀子は怪しみ「オヤ、私の傍へ来るのがお厭ですか、其の様な場合では有りません」猶もお浦は音沙汰なしだ、秀子「今の喧嘩は私が悪かったから、ヨウ浦子さん、茲へ来て下さいな、私一人では何うする事も出来ません、私の秘密などは最う何うなさろうと貴女の御勝手ですからサア、浦子さん、浦子さん、それほど私の傍へ寄るがお否ならサア今の鍵を上げますから、之を以て戸を開き、早く誰かを呼んで来て下さいな」と云って鍵を次の間へ投げて遣った、けれどお浦は返事をせぬ、秀子は非常に当惑の様子で「本統に仕ようがない事ネエ、此のままで丸部さんをお置き申せば益々血が出て何の様な事に成るも知れず、早く寝台へでもお移し申して充分の手当をせねば、と申して私の力では貴方を抱き上げて行く事も出来ませず」とて、途方に呉れて四辺を見廻した上「では私が行って誰かを呼んで来ましょう」と云い、其の辺の卓子に掛って居た獣の皮を取って巻き、それを枕として余の身体を穏やかな位置に直し、爾して自分で立って行ったが、其の巧者な塩梅は専門の看護婦にも劣らぬ程だ。 余の居直った所から次の室の出口は一直線に見える、余は秀子が何うするかと見て居ると、今投げた鍵を拾い上げて、室の中を見廻し「先ア浦子さんも余り子供らしいでは有りませんか、此の様な場合に何所かへ隠れてお了い成さってサ」と云い捨て、其の鍵で戸を開けて出て行った、余は其の後で何もお浦に来て貰い度くはないけれど、或いは介抱に来るかと思い、絶えず次の室を見て居たけれど遂に遣って来ぬ、去ればとて秀子が開け放して行った出口から出で去る様子もない、扨は日頃の捻けた了見で又も何事をか企んで居るのかと思ううちに、秀子が二人の下部を連れて帰って来て「オヤ浦子さんは私の後でも未だ貴方のお傍へ来ませんか」と云いつつ余の傍へ 跼 ( ひざま )ずいた、余は二人の下部に余の身に手を着けるより前に先ず次の間でお浦を探して引き出して来いと命じたが、下部は怪しみつつ捜した、隅から隅まで凡そ人の隠れるに足る物影は悉く捜した様子だけれど、お浦は居ぬ、全く蒸発でもして了ったかと云うほどにお浦其の者がなくなった、跡方もなく消えるとは此の事だろう、或いは秀子が、悔むとも帰らぬ目に逢わせると云ったのが此の事では有るまいか、何の様な手段かは知らぬがお浦の身体を揉み消したではなかろうか、併し其の様な事をする暇もなかった。 余は直ちに、二人の下部に 舁 ( かつ )がれて此の室から運び去られた。 余の怪我と聞いて、頓て叔父を初め大勢の人も馳け附けた、叔父は取り敢えず余を一番近い寝間へ寝かせようと云ったけれど、余は矢張り塔の四階に在る余の寝間へ連れて行って貰い度いと言い張った、怪我人の癖に塔の四階とは不便だけれど、余は兼ねて秀子に約束し、必ず塔の四階に寝ると云ってあるから、其の約束を守る積りだ、四階に寝て居れば又何の様な怪しい、寧ろ面白い事があるかも知れぬ。 間もなく余は塔の四階へ舁ぎ上げられたが、何となく気に掛かるは、お浦の消えて了った一条だ、幾等考えてもアノ室より外へ出た筈はなく室の中で消えたに違いないけれど、人一人が燈火の様に吹き消される筈はないから、或いは何う云う事でアノ室を抜け出て鳥巣庵へ帰ったかも知れぬ、念の為だから鳥巣庵へ人を遣って見ねば成らぬと思い、叔父に其の事を頼んだ所、叔父は、「何も茲へお浦が来るには及ぶまい」と云ったけれど又思い直したか、 「爾だ、医者の所へ遣る使いの者に、帰りに鳥巣庵へ寄る様に言い附けよう」と、斯う云って下へ降りた。 三十分ほどを経て、其の使いは帰って来たが、お浦は未だ鳥巣庵へも帰って居らぬと云う事だ、余は 熟々 ( つくづく )と考えたが実に奇妙だ、何うして消えたのか到底想像する事も出来ぬ、併し明日にもなれば現われて来るかも知れぬ、ナニ現われて来ずとも少しも構いはせぬ、あの様な横着な女を寧ろ是きり現われて来ぬ方が幸いかも知れぬけれど、若し現われて来れば何うしてアノ室で身を掻き消したかと云う次第が分る、お浦に逢い度くはないが其の次第だけ知り度い。 併し猶能く考えて見ると、お浦の紛失よりも余の怪我の方が一入不思議だ、アノ室にはアノ時余の外に誰も居なんだ、今思うと刺される前に余の背後で微かな物音が聞こえたかとも思うけれど、刺された後で逃げ去る人の姿さえ見えなんだ、 宛 ( あたか )も壁から剣が出た様に思った、果して壁から剣が出れば剣の出る丈の穴が壁になくては成らぬけれど無論其の様な穴はない、爾すれば余を刺したのは目に見えぬ幽霊の仕業か知らん、昔から奇談は多いが、目に見えぬ一物に刺されたと云う事は聞かぬ、既に是だけの不思議な事が有って見ればお浦の身体が消えたのも怪しむには足らぬ。 其のうちに叔父は医師と共に又上がって来た。 医師の診断に由ると、余の傷は剃刀よりも薄い非常に鋭利な両刃の兇器で刺したのだと云う、其の様な刃物が何所にあるだろうと聞くと、昔 伊国 ( いたりや )などで、女の刺客が何うかすると此の様なのを用いたが、極めて鋭いから少しの力で人を刺す事が出来るけれど、其の代り創口が余り微妙で、出血が少いから急所さえ外れて居れば存外早く直る、余の怪我も大事にすれば一週間で床を離れる事が出来ようと云われた、シテ見れば驚くほどの大怪我ではない。 大怪我ではないのに創口の燃える様に痛く、爾して全身の機関が働きを失ったは何う云う者だろう、医師の説は余の考えと同じく印度に産する Curare と云う草と Granil と云う草の液を混ぜて調合した毒薬を剣の刃に塗って有ったに違いないとの事だ、医師は語を継いで「之は専門の刺客のする業です。 イヤ刺客に専門と云う事はないが、兎に角余ほど人を刺す術に通じて居る者で無くば、此の様な事は出来ません、薄い刃物で人を刺すには今云う通り遣り損ずる事が有ります、 刃 ( やいば )へ此の毒を塗って置けば遣り損じた所で其の人が働きを失って追っ掛けて来る事が出来ません、其れだから仕損じる恐れの有る場合に、此の様な毒を塗って置くのです、之は臆病の刺客の秘伝だと云いますが、その様な秘伝まで知った刺客が徘徊する室では実に安心が成りませんから、之は丸部さん、其の筋の探偵に詮議させずには置かれますまい」と末の一句は叔父に向って忠告の様に云った。 叔父は其の言葉に従い翌日直ぐに倫敦へ電報で探偵を一人注文して遣った、翌々日に注文に応じて来着した探偵は、森 主水 ( もんど )と云って、此の前にお紺婆の殺されたとき此の家へ出張して犯人夏子を取押えた人で、此の幽霊塔の境内の地理や家の間取りなどは充分に知って居るとの事だから最も妙だ、所が此の人の来着して後までもお浦の姿は現われぬ、消えてから既に二昼二夜になるのだから愈々以て唯事ではない、依って森主水は、余の刺客を調べると同時にお浦の消滅の次第をも取り調べる事になった、森の心では或いは此の二事件の間に何等かの連絡がある者と思ったかも知れぬ。 森探偵は其の道に掛けては評判の老練家ゆえ、余の刺された件に就いてもお浦の消滅した件に就いても遺憾なく取り調べるに違いない。 彼が余の寝室へ上って来たのは、既に下で以て秀子に様々の事を聞いてから後であったとの事だ、余は何と問わるるも有りの儘に答えねば成らぬ、が、若し有りの儘では秀子の身に何等かの疑いが掛りはすまいか、お浦の紛失する前に秀子とお浦との間に一方ならぬ争いが有って、秀子がお浦を永久悔むとも帰らぬ目に遭わせるぞと言い切った一条などは探偵の心へ何う響くか知らん、勿論余の知って居る所では、お浦の紛失は秀子の仕業ではない、お浦が床の上へ仆れると同時に秀子は余の傍へ馳け附けて来た、其の後でお浦が紛失した、爾して秀子は暫く経って後までもお浦が何処かへ隠れて居るのだと信じて居た事は其の時の挙動に分って居る、それだから秀子がお浦の紛失に関係のない事は余がそれに関係のないのと同じ事だけれど、探偵はそうは思うまい。 余はお浦と秀子との争いを何の様に言い立てて好いか未だ思案が定まらぬに探偵は早や余の枕許へ遣って来た、幸いに彼は秀子の事を問わぬ、余の刺された件のみを問い始めた、余は有りの儘を答え、全く壁から剣が出た様に思ったと云い、猶刃物や毒薬の事に就いては医師の説を其のまま繰り返して耳に入れた、彼は職業柄に似合わず打ち解けた男で、自分の意見を隠そうとせず「イヤ毒薬などの事は、来る道筋で医師の家を尋ねて聞いて来ました、けれど貴方自身が壁から剣が出た様だと云うのでは少しの手掛りも有りませんねエ、シテ見ると矢張り手掛りの有る方から詮議せねば」余「手掛りの有る方とは」探偵「浦原浦女の失踪です」余「お浦の紛失には手掛りが有るのですか」探偵「ハイ手掛りと云う程でなくとも、兎に角、浦女と喧嘩して、永久悔むとも帰らぬ目に遭わせるとまで威した人が有りますから」余「エ、エ、其の様な事を誰に聞きました」探偵「其の当人に聞きました。 松谷秀子嬢に」余「秀子が其の様な事を云いましたか」探偵「オオ貴方がそう熱心に仰有る所を見ると貴方と秀子さんは満更の他人では有りませんネ、浦原浦女は貴方の以前の許婚だと云うし両女の間に嫉妬などの有った事は勿論の事ですネ」余は寝床の中から目を 剥 ( む )いて「秀子は私の何でも有りません、全くの他人です、お浦の方には嫉妬が有ったかも知れませんが、若し秀子の方に嫉妬の心などあった様に思ってお調べなさっては必ず大なる違いに陥りますよ」 探偵は少し笑って「オオ忘れて居ました、貴方に今、心を動かせる様な事は云っては可けぬと医師から堅く断られて来たのです」と云って巧みに此の場を切り抜けて去って了った、後で余は 倩々 ( つくづく )と考えたが秀子は既に自分の口からアノ時の争いの一部始終を告げたと見える、自分の身に疑いの掛るのも知らないで何だって告げたのだろうと、余は残念に堪えぬけれど、又思うと 畢竟 ( ひっきょう )秀子の心が清いから打ち明けたのだ、堅く自分の潔白を信じ、縦し疑われても危険はないと全く安心をして居るのだ、イヤ本来が、何の様な場合にも嘘などは吐かぬ極々正直な心根だよ。 暫くすると今度は秀子が上って来た、余はアノ左の手を何うしたろうと思い、夫とはなく目を注ぐに、例の異様な手袋はお浦に取られてお浦と共に消えて了ったと見え、別に新しい手袋を被めて居るが、此の手袋も通例のとは違い、スッカリ腕まで包む様に出来て居る、けれど余は其の様な事には気も附かぬ振りで「秀子さん貴女は森探偵にお浦と争った事を話したと見えますネ」秀子「ハイ浦子さんの失踪に付き何か心当りの事はないかと問われましたが、アノ争いより外には何も知った事は有りませんから争いの事を告げました」余「貴女が御自分で密旨を帯びて居らっしゃる事も告げましたか」秀子「イイエ私の密旨は少しも浦子さんには関係はなく、爾して探偵などに告げ可き事柄で有りませんから告げません」余は聊か安心した、密旨などと云うと其の性質の如何には拘わらず、探偵などの疑いを引く者だ、夫を言われなんだは 切 ( せめ )てもだ。 此の所へ余の叔父も上って来た、続いて彼の鳥巣庵を借り、昔からお浦に一方ならず目を掛けて呉れる根西夫婦も遣って来た、此の度の事件に就いては、 全 ( まる )で余の室が万事の中心点になって居る、頓て又余の嫌いな高輪田長三も遣って来た、根西夫妻が余を慰問して居る間に高輪田は叔父に向って「丸部さん、浦原浦子の失踪に就いて、差し出がましくは有りますが貴方にお願いが有りまして」叔父「貴方のお願いとなら、聞かぬうちに承諾します」高輪田「実は初めから申さねば成りません、私は外国の旅行先で初めて是なる根西夫人と浦原嬢とに逢いました時に、浦原嬢に心を寄せ、其ののち幾度も縁談を申し込みました、所が此の三日前になり嬢は漸く承諾の意を述べて呉れましたから、私はヤレ嬉しやと思いましたら、直ぐに失踪して了いました、私の悲しみをお察し下さい」と殆ど泣き相な顔附きで云って居る、是は実に耳新しい話である、お浦はアノ時も余に向って昔の約束に立ち返って呉れと嘆いたのに其の時既に高輪田の妻たる事を承諾して居たのか知らん、イヤナニ是は怪しむに足らん、お浦の性質として人と約束したり約束を破ったりするのを何とも思わぬ、成るほど余にも高輪田に縁談を言い込まれた事を話した、シテ見ると余と高輪田とへ両天秤を掛けて運動して居たと見える、酷い女だ。 高輪田長三は余ほどお浦に執心で居た者と見え、愈々千円の懸賞を其の探偵に賭けた、爾して全で血眼の様で探偵の後を附け廻って、鳥巣庵へは帰らずに大概は此の家に居る、尤も鳥巣庵の主人根西夫婦は未だ鳥巣庵を引き払いはせず、時々余の病気見舞などに来る、余の叔父朝夫も、出来る丈は探偵と高輪田との便利を与える様にして居る。 探偵は千円の懸賞の為には 一入 ( ひとしお )熱心を増した様だ、けれど少しの手掛りも得ぬ。 余を刺した兇徒は何者、お浦の紛失は何の為、依然として黒暗々だ、強いて手掛りと名を附ければ名も附こうかと思われるは堀端の土堤の芝草が一ヶ所滅茶滅茶に蹂みにじられてあると云う一事ばかりだ、是は高輪田が見出したので、当人の鑑定では若しお浦が此の土堤で何等かの暴行に遭ったのでは有るまいかと云うので余の叔父は聊か賛成しかけて居るけれど、森探偵は賛成せぬ、余の意見では何しろお浦の紛失は締め切った室の中で少しの間に消えて了ったのだから、尋常一様な詮索で説き明かすことは出来まい。 森探偵はそう思って居る様子だが悲しい事には其の時同じ室に居たと云う為に、秀子に疑いを掛け、時々余の前でも秀子を詮議せぬと可けぬと云わぬ許りの口調を用うる、是は余の心を引く為で有ろう、余は併し真逆に秀子が人間一人を吹き消す事が出来ようとも思わぬから其のたびに秀子を弁護するのだ。 斯う云う様では迚も探偵が進みはせぬ、と云って外に探偵の仕ようもないから、一同余の室へ落ち合っては唯不思議だ不思議だと云う許りだ、其のうちに一週間の日は経ったが、余は医者の云うた通り寝床を離れて運動する事の出来る様になった、自分の気持では最う平生の通りで、何の様な労にも堪えるけれど医者が未だ甚く力を使っては可けぬと云うから先ず大事を取って戸外へは出ぬ、けれど階段の昇降などは平気で遣って居る。 養蟲園とは真に蜘蛛を養う所であろうか、蜘蛛屋とは聞いた事もない商売柄だ、爾して人を大きな蜘蛛に与えて其の糸で巻かせて了うだろうか、余は秀子が恐ろしげに身震いする様を見て思わずゾッと全身を寒くした、猛き虎に出合ってさえ泰然自若として其の難を逃れた秀子が、話にさえ身を震わす程だから、余ほど恐ろしい所に違いない、とは云え昔の怪談では有るまいし今の世に人間を喰うほどの大きな蜘蛛が有る筈はない、猛獣や毒蛇ばかり 跋扈 ( ばっこ )して居る大の野蛮国なら知らぬ事、文明の絶頂に達した此の英国に、何で秀子の云う様な毒蜘蛛が居る者かと、少しの間に思い直しは直したけれど、余は何うも其の養蟲園へ行って見たい、秀子の手帳を取返し得るや否やは扨置いて、毒蜘蛛の糸に巻かれ身動きも出来ないで喰い殺されると秀子の形容する其の実際の有様を見究め度い、併し今の此の身体では仕方がない、是ならば大丈夫と医師から許しを得る様になれば余は必ず行って見よう。 併し之よりも差し当り余が不審に思うのは虎井夫人と秀子との間柄だ、問うは今だと思い「ですが秀子さん、虎井夫人は貴女の附添人であるのに貴女の手帳を盗むとは余り甚いでは有りませんか」秀子「ハイ私の附添人ですけれど少しも気の許されぬ人ですよ、身体の健康な時には色々の事を 目論見 ( もくろみ )まして、幾度私と喧嘩するかも知れません」勿論余は秀子と虎井夫人と意見の衝突する場合の有るのを知って居る、初めて此の土地の宿屋に泊った夜なども、既に記した通り夫人と秀子とが甚く争って居るのを聞いた、だから秀子の此の言葉は少しも偽りのない所であろう、けれど夫ならば何故に暇を遣らぬのであろう、余「其れほど気の許されぬ方なら何故雇うてお置き成さる」秀子「私が雇うて置くという訳でなく、先が離れぬのです、昨日や今日の間柄でないのですから、私も詮方なく我慢をして居ます」余は猶充分の不審を帯びて「ヘヘエ、爾ですか」と云う計りだ、秀子は説き明かす様に「私の 乳婆 ( うば )だものですから」と言い足した、成るほど成るほど、夫で読めた、乳婆ならば何となく秀子を監督する様な素振りの見ゆるも尤もだ、乳婆ならば振り放したとて向うが平気で随って居る事もあろう、殊には幼い時から秀子の身の秘密をも知って居るので猶秀子から 解傭 ( かいよう )する事は出来まい。 此の日は是で済んだが、翌日は例のお浦の消滅一条を詮索する為此の屋敷の堀の底を網で探ると云う事になった、真逆にお浦が死骸になって堀の底に沈んで居ようとは思われぬ、成るほどお浦が余に約束の回復を迫った末、身でも投げるかの様に見せ掛けて堀の方を指し走って行った事の有るのは余は知って居るけれど仲々身投げなどする女ではない、其の後で直ぐに秀子を誘って引返して来た丈でも分って居る、或いは誰かに投げ込まれた者とせんか、それも取るに足らぬ考えだ、お浦の消滅は閉じ切った室の中で起った事件で、少しも堀などに関係はない、だから余は堀の底を探ると聞いて直ぐに叔父に問うた「何の為に堀の底と云う見当を附けたのです」と、叔父は少し当惑の体で「イヤ見当を附けたのではない、何の手掛りもなくて探偵も高輪田氏も甚く心配して居て、此の方は其の心配を坐視するに忍びぬから、高輪田に向い「最早尋ねる所がないから念の為堀の底でも探って見ますか」と云うた、すると高輪田氏は飛び附く様に「私も実は堀の底を探り度いと思って居ましたが御主人が其の御了見なら早速探らせて頂き度い」とて先に立って探偵に説き付けた、探偵は躊躇の気味で「何の手掛りも得ずに、唯深い堀が有るからと云って堀を探るは職業上の恥辱だ」と答えたけれど何しろ千円の懸賞をまで出した人の言葉を無下に聞き流す事も出来なんだか夫に又高輪田氏が「ナニ手掛りのないのに困じて堀を探るのではなく、既に土堤の芝草を踏みにじった所が有ったではないか、是だけの形跡が有れば、兎にも角にも探らずには置かれまい」と云い此の方も自分の口から言い出した事だから傍から賛成の意を表した、夫で探偵も遂に同意し、既に先刻から其の用意を始め、舟も 艇庫 ( ていこ )から出し、此の土地の巡査なども監督の為に出張して居る、最う大方着手する所だろう」と斯う答えた、勿論余は異存など云う可きでなく、最しや腹の中でも無益だろうと思っても念の為探る方が当然には違いないから、唯「アア爾ですか」とのみ答えたが、探って愈々何の様な結果になるだろうとは、神の様な炯眼の読者でも知る事は出来まい、今思うと実に此の様に意外に、恐ろしい結果は又と有るまい、本統に身の毛が逆立つよ。 堀の底から何が出るか、既に捜索に着手して居ると云うから、余は行って見たく思うけれど、猶だ医者から外出の許しを得て居ぬゆえ、塔の上から見るとしよう、ナニ堀端まで行った位で余の身体が悪く成る気遣いはないけれど、今は充分に此の身を自重せねば成らぬ 時際 ( とき )だ、是から何の様な闘いに臨まねば成らぬかも知れぬ、毒蜘蛛の巣窟と云う蜘蛛屋へも行かねば成らぬかも知れぬ、秀子の為に骨身を砕かねば成らぬかも知れぬ、何でも大事に大事を取って、一日も早く此の身を鉄の様に丈夫な日頃に癒して了わねばならぬ。 塔の四階に在る自分の室へ登ったけれど、少しの事で充分には見えぬ、もう一階上へ行けばと日頃メッタに昇った事のない時計室へ上って見たが茲ならば先ず我慢が出来る。 堀から 堤 ( どて )の九部通りは目の中に在る、堀の中には三艘の小舟があって、一艘は探偵が乗って差図をし、二艘は此の土地の巡査らしい人が乗って網を引き廻して居る、幾等捜したとて消滅した浦原お浦が死骸と為って其の底に沈んで居る筈はない、鯰でも捕える位が関の山だからと此の様には思うけれど何となく終りまで見て居たい。 之が人情と云う者だろう。 見て居るうちに余の頭の上で、大きな鳥が羽叩きでもするかと思われる様な物音がした、之は兼ねて秘密の組織と云う此の塔の時計が時を報ずる間際なので、先ず此の様な音を発するのだ、傍で聞くと物凄い程に聞こえる、余は今まで秀子の忠告は受けたけれど深く此の時計の組織などを研究した事はないが、時を打つ時には何か異様な事が有るか知らんと思って、立って検めて見たが、時計の大きさは直径一丈ほども有る、下から見るよりは三倍も大きいのだ、而して其の時刻盤の裏の片隅に直径三尺ほどの丸い鉄板を張ってある、何故か此の鉄板は緑色に塗って有る、何の為の板であろう、時計の機械に甚く関係のある様にも思われぬが、或いは取り脱す事でも出来るか知らんと、力を籠めて動かして見ると仲々動く所ではない、叩いて見ると厚さも可なり厚いと見え、宛も鉄の戸扉を叩く様な音だ。 何しろ余り類のない組織だから余は一時、堀の事を打ち忘れる程になって其の鉄板を検めたが、板の真中に、 辛 ( やっ )と人の手が這入る程の穴がある、併し穴の中は真暗だ、余は之に手を入れようとしたが、女か子供の手なら格別、余の様な武骨な手は到底這入らぬ、殊に穴の 周辺 ( ぐるり )が既に錆びてザラザラして居るから、女でも此の穴へ手を入れれば必ず引っ掻かれて怪我するに極って居る、と斯う思うと忽ち思い当ったのは虎井夫人の事だ、夫人が手を引っ掻かれて居るのは、幽霊の真似をして此の塔へ上り、此の穴へ手を入れたのだ、爾だ、爾だ爾だ、爾して秀子は此の穴の事を知って居るのだから、直ぐに夫と看破して彼の夫人を疑う事になったのだ。 夫にしても虎井夫人が何の為に夜深けに此の塔へ上り、鉄板の穴へ手を入れて見る様な異様な事をしたのだろうと、今更の如く怪しんで居るうち、時計は時を打ち始めた、時は即ち午後の四時である、所が奇妙な事には、時計の鐘が一つ打つ毎に、其の鉄板が少し動いて、自然に右の方へ廻る、若し時計が十二時を打つ時には鉄板は必ず一廻りだけ回って了うだろう、爾して其の廻る度に真中の穴へ外から光明が洩れて来る、変だなと、余は光明の洩れる度に其の穴へ目を当てて窺いて見たが光明は上の方から、斜めに指すので、全く天の 光明 ( あかり )だ、暗の夜ならば決して光明は射さぬであろう、併し其の穴から直接に空を見る事は出来ぬ、穴は唯真向うを見る許りで、奥の方に何があるかは能く見て取る事が出来ぬ、其の中に時計は唯四声打って止んだから鉄板も動き止んだ、穴も元の通り真暗に成って了ったけれど余は大変な事を発明した。 外でもない、丸部家の咒語の中に、全く無意味かと思われる句が有ったが其の句は全く此の時計の此の鉄板と此の穴とを指した者だ、読者は覚えて居るだろう、第九句に「鐘鳴緑揺」とあって第十句に「微光閃 」とあった事を、是だ是だ、鐘鳴りとは時計の時を打つ事で、緑揺くとは時計の緑色に塗った鉄板が動くと云う事、爾して微光が穴から閃いて輝いた、アア知らなんだ、知らなんだ、是で見るとアノ咒語は決して狂人の作った 囈言 ( たわごと )ではない、確かな謎が籠って居るのだ、丸部家が先祖代々から其の当主にアノ咒語を暗誦させたも無理はない、秀子が切に余に向って咒語と図 とを研究せよと勧めたのも茲の事だ「明珠百斛 [#「明珠百斛」は底本では「名珠百斛」]、王錫嘉福」などと云うも夫々確かな意味のあるのに違いない、是からは真面目に咒語と図 とを研究して見よう「神秘攸在、黙披図 」などと云う文句も俄かに恭々しき意味が出て来た様に思われる、虎井夫人が鉄板の穴で手を引っ掻いた 抔 ( など )も矢張り内々で此の咒語を解釈したいと研究して居る為だ、秀子の手帳を盗んだもそれ、秀子が手帳の事を痛く心配するも矢張りそれだ。 成るほど、秀子がアア心配する所を見るとアノ手帳には余ほど詳しく書いて有ったに違いない、夫も其の筈よ、一寸と茲へ登って来た許りの余ですらも是だけ発明するのだから、久しい以前から毎日の様に研究して居る秀子は、事に由ると最う悉く秘密を解釈し盡くして居るも知れぬ、是は堀の中の詮索よりも、塔の上の詮索の方が遙かに好い結果を来すのだ 哩 ( わい )と余は独り 黙首 ( うなづ )いて居たが、此の時堀の方から人々の異様に叫ぶ声が聞こえた、何の事だか勿論聞き分ける事は出来ぬけれど、直ちに又廊下へ出て見ると、何だか大きな物が網に掛かり、舟へ引き上げようとして居る所だ、余は遽てて下の居室へ降り、双眼鏡を取って又上って来、度を合せて見直したが実に驚いたよ、サア網に掛かって上ったのは何であろう、読者も銘々に推量して見るも亦一興だろう、次回には分るのだから。 網に掛かって 揚 ( あが )ったのは、余の双眼鏡で見た所では大きな不恰好な風呂敷包みの様な物である、勿論多少は泥に 塗 ( まみ )れて居るが、併し此の堀は上下とも流れ河に通じて居て水門こそ毀れて居れど常に水が流れ替わって居る故、底も幾分か清い、世間に有りふれた、水の替わらぬ 溷泥 ( どぶどろ )の様な、衛生の害になる堀とは少し違う、引き上げた品が泥に汚れて居るとは云え、其の正体を見分け難い程ではない。 何でも風呂敷包みだ、爾まで古くない風呂敷包みだ、サテ中の品物は何であろう。 巡査の船へ引き揚げると探偵の舟も遽てて其の所へ漕ぎ附け探偵が何か差し図して居る。 其のうちにヤットの事で網から其の品物を取り脱して船の中へ入れたが、オヤオヤ不恰好な其の包みの一方から何か長い物が突き出て居る、何であろう、何であろうと、余は双眼鏡の玉を拭いて見直したが、何だか人間の足らしい、泥の附いた合間々々が青白く見えて居る所は何うも女の足らしい、扨は叔父や高輪田などの見込みが当たって、全くお浦が死骸と為って水底に沈んで居たのだろうか。 余は実に気持が悪い、けれど双眼鏡を自分の目から離す事は出来ぬ、探偵も巡査も余ほど驚いた様子である、頓て舟は土堤の下へ漕ぎ附けた、大勢が其の所へ馳せて行った、風呂敷包みは土堤へ上げられた、余の叔父は見るに忍びぬと云う様で顔を 傍向 ( そむ )けた、高輪田も熱心に探偵に向って何事をか云って居る、探偵は更に余の叔父に振り向いた、叔父と探偵との間に暫く相談が始まった様に見える。 後で聞いたら此の相談は、風呂敷包みを直ぐに其の所で開こうか家の中へ運び入れて開こうかとの評議であった相だ、警察の規則では総て斯様な品は現場から少しも動かさずに検査せねば成らぬので巡査等は家の中に運び入れては可けぬと言い張ったけれど余の叔父が事に由りては一家の家名に拘わろうも知れぬから、是非とも他人の見ぬ所で検めて呉れとて探偵に頼み、漸くに聴かれた相だ。 暫くすると巡査数人が風呂敷包みを舁いで此の家の方へ来る、最早塔の上に居たとて仕方がない、余は双眼鏡を衣嚢に納めて下へ降りて行った、風呂敷包みは玉突き室の隣に在る土間へ入れられ、茲で開かれる事になったが、余は第一に其の風呂敷包みを見て驚いた、何故と云うに尋常の風呂敷ではなく、東洋の立派な織物で、実は先の日お浦が消滅した時、其の室の卓子に掛かって居た卓子掛けである、其の卓子掛けは確かにお浦の消滅する時まで無事で有ったが、お浦と共に紛失したと云う事で、余は病床に居る間に其の事を聞いた、確かに叔父が「大事の卓子掛けが無く成ったが其の方が何所か外の室へ持って行きはせなんだか」と余に聞かれた事がある、是が即ちその卓子掛けである。 探偵が先ず此の場合の主人公と云う位置を占め、其の包みを 解 ( ほど )き始めた、突き出て居る足は確かに女の足である、其の足の方から順に上へ上へと解いて行くのだ、少し解くと直ぐに着物の端が現われたが、是も余には見覚えがある、消滅の時にお浦のきて居た着物である、探偵は呑み込み顔に「アア水死した者ではない、少しも水は呑んで居ぬ、死骸に成った上で堀に投げ込まれたのだ」と云った、次には腰の辺へ大きな石を縛り附けてあるのが現われた、死骸の浮き上らぬ用心たる事は無論である、叔父は殆ど見兼ねたけれど必死の勇を鼓して辛くに見てるらしい、次には左右の手の所まで解いたが、探偵ばかりは全く落ち着きくさって居て、静かに死骸の其の両の手を悉く熟視した、手には左右とも二個ずつの指環がはまってある、探偵「此の指環に見覚えは有りませんか」と叔父に問うた、勿論見覚えがある。 余は幾年来、お浦の両手に都合四個の此の指環が輝いて居るのも見飽きた一人だ、叔父は前にも記した通り検事を勤めた昔と違い、非常に神経が弱く成って、充分に返事は為し得ず、単に「私が買って遣ったのです」と答えた、お浦の名さえも口に得出さぬ、探偵「誰に買って遣ったのです」と飽くまで 抉 ( えぐ )る様に聞くから余は見兼ねて「浦原浦子にです」と代言した。 何しろ余り無惨な有様に、叔父は勿論余さえも此の上見て居る勇気はない、水の中で恨みを呑んで沈んで居たお浦の顔を見るのが如何にも辛い次第だから、 俯向 ( うつむ )いて暫く目を閉じて居たが、其のうちに探偵は「アッ」と叫んだ、落ち着きくさった探偵が斯うも叫ぶほどだから余ほどの事が有るに違いない、数人の巡査も口々に「是は余りだ」と叫んだ、何事だろうと余も顔を見上げてたが、実に戦慄せずに居られぬ、お浦には顔がない、首の所をプッつり切って、頭だけなくなって居る、余ほど鋭い刃物で切ったに違いない、切口も美事なものだ、何だとて斯うも惨酷な事をしたのであろう。 人を殺して首だけ切り取って何所かへ隠し、爾して首のない死骸だけを堀の中へ沈めて置くとは、人間の仕業でない、鬼の仕業だ。 読者は未だ首のない死骸を見た事は有るまい、非常に恐ろしく見ゆるは勿論の事、非常に背丈の短く、非常に不恰好に見ゆる者だ、お浦は随分背も高く、スラリとした好い姿で有ったが、何となく優美な所を失った様に見える、成るほど身体の中の第一に位する首と云う大切の 権衡 ( つりあい )がなくなったのだから全体が 頽 ( くず )れるのは当然だ。 何しろ此の恐ろしい有様に一同は暫しの間、一言をも発し得ぬ、顔と顔とを見合わす事も出来ぬ程だ、ミルトンの所謂、自分の恐れを他人の顔で読むのを気遣うとは、茲の事だ、其のうち第一に口を開いたのは探偵森主水だ、彼は独言の様に「是が愈々浦原浦子の死骸とすれば実に失望だよ」と云った、何故の失望だろう、彼は更に語を継いで「今までこうああと心に描いた推量が悉く間違って了う事になる」と云うた、此の語で見ると彼は今までお浦が未だ死んでは居ぬと思って居た者と見える。 探偵の言葉を聞き、今迄 屏息 ( へいそく )して居た高輪田は、 螺旋 ( らせん )にでも跳ねられたかの様に飛び上って爾して情ないと云う声で「是が何で浦原嬢の死骸でない事は有りません、無事で居たなら今頃は私の妻ですのに」と云い、涙をハラハラと 滴 ( こぼ )して更にお浦の死骸に 蹙 ( しが )み附き「誰に此の様な目に遭わされました、浦子さん、浦子さん、此の 敵 ( かたき )は必ず高輪田長三が打ちますから」と誓う様に云うたけれど首のない者が返事する筈もない。 早く下手人を探して下さい、早く早く」と泣き声でせがんで居る、探偵は益々落ち着いて「斯う成れば最う此の土地で探すよりも倫敦で探す方が早や分りだ」と、独語にしては、高過ぎる程の声で云うた。 此の土地の犯罪を倫敦で捜すとは余り飛び離れた言葉だから、余「此の犯罪は何か倫敦に関係が有ると云うお見込みですか」探偵「イヤ未だ何の見込みも定まりませんが、今までの経験で、小さい犯罪は其の土地限りで有りますけれど此の様な重大な異様な犯罪は必ず倫敦で取り調べる探偵に勝ちを得られます」余「では倫敦へお出ですか」探偵「ハイ、ですが、兎に角検屍官が此の死骸を何う検査するか其の結果を見た上でなければ私の実の判断は定まりません」 斯う云って猶綿密に死骸の諸々方々を検めたが、頓て「オヤオヤ、此の様な物が」と云って、探偵は死骸の着物の衣嚢から何やら 凋 ( しな )びた様な物を取り出した、熟く見ると彼の松谷秀子が左の手に 被 ( はめ )て居た異様な手袋である、高輪田長三は目を見開き「ヤ、ヤ、森探偵。 此の品には確かに私が見覚えの有る様に思います」探偵「爾ですか、愈々見覚えがお有り成されば夫こそ屈強の手掛かりです」高輪田「見覚えが有っても軽率には云われません、私は生涯此の手袋は忘れません」余も生涯此の手袋を忘れる事は出来ぬ、此の手袋がお浦の衣嚢に在るは、全くお浦が消滅する前に無理に秀子より奪い取ったので怪しむには足らぬけれど秀子の身に取っては、何れほど重大な嫌疑の元となるかも知れぬ。 余も今は殆ど此の所に居かねて、探偵に其の旨を告げて退いたが、家の内の人々は孰れも青い顔して、少しの物音を立てるさえ憚る如く、言葉も 細語 ( ささやき )の声でなくては発せぬ、室の内を歩むにも爪立てて歩む程だ、言わず語らず家の中へ「恐れ」と云う事が満ちて了った、が、其の恐れの中にも最も重い疑いは秀子の身に掛かって居る、誰も口には出さぬけれどお浦の死んだのは秀子に責任があると云う様に心の中で思って居るらしい、「恐れ」が家に充満して居ると同じく「疑い」も家の内に満ちて居る、其の中に早や日も暮れたが余は探偵から呼ばれたに就いて再び死骸の室へ行って見ると、死骸には早や白い布を着せてある、探偵「ナニしろ此の死骸は水底で既に一週間ほど経た者ゆえ、斯うして置く訳に行かず直ぐに検屍を請いましたけれど、本統の取り調べは、既に日も暮れた事ですから明朝でなくては行われません、依って充分に防腐などの手数をも盡くして置きました」余「今夜誰にか番をさせましょうか」探偵「ハイ番は数人の巡査が交代して致します、私は唯明日の検屍の事を申して置きたいので」余「ハイ伺って置きましょう」探偵「明日の検屍には貴方の叔父さん、貴方、高輪田長三、根西夫妻、夫から松谷秀子と是だけが呼び出されますから其のお積りで」と特に秀子の名に力を籠めて云うは或いは到底秀子の罪は逃れぬから今から其の用心せよとの謎ではあるまいか、余は唯「左様ですか」と云って分れたが、此の死骸が何所まで人を驚かす事であろう、翌日の検屍には首のないよりも猶一層重大な事柄が発見された。 明日の死骸検査で、何の様な事が分って来るか知らぬが、余は何うしても心に安んずる事が出来ぬ、此の夜は殆ど眠らずに考えた、けれども取り留めた思案は出ぬ。 全体誰がお浦を殺しただろう、秀子が殺したとすれば何も彼も明白だ、秀子は実際お浦を殺さねば成らぬ場合に迫って居た、お浦に何事かの秘密を看破せられ、殺す外には口留めの工夫がなく、殺すと云って 恐迫 ( おどし )て居た、真に殺し兼ねざる決心の様も現われて居た、爾してお浦と攫み合いの喧嘩を始め、お浦を床の上へ投げ倒した、其の後は何うしたか知らぬけれど其の時限りお浦の姿が見えなくなって今日初めて堀底から現われたのだ。 是だけで考えて見ると何うも秀子の仕業と 見認 ( みと )めぬ訳に行かぬ、けれど少し合点の行き難いは、何うして何時の間にお浦を殺し何時の間にアノ室で其の死骸を隠し、何時の間に死骸の首を 刎 ( はね )て爾して何時の間に堀の底へ沈めただろう、勿論余は秀子の一挙一動を監視して居る訳ではなく其の後一週間も寝て居たのだから其の間に秀子が何の様なことをしたかも知れぬ、或いはお浦を投げ倒したとき、実は床板をでも外して有って、余の耳に投げ倒した様に聞こえたのは其の実床の下へ投げ込んで置いたので夜に入って床下から引き出し卓子掛けに包んで堀へ持って行ったのかも知れぬ。 けれど余は秀子が其の様な事をする女とは思わぬ、イヤ少くとも此の時は未だ思わなんだ、アノ美しい顔で、若しも此の様な事をするとせば、人間第一の看板とも云う可き顔の美しさは何の値打ちもなくなって了う、尤も今までとても顔の美しさに似ぬ心の恐ろしい女は有りはするけれど、顔は七部通りまで愛情の標準にもなる、大抵の愛は顔を見交したり又は顔に現われる喜怒哀楽を察し合ったりする所から起こる者だ、若し秀子の様な美しい顔が美しい心の目録でないとすれば、全く人間の愛情や尊敬などの標準は七部まで破壊されて了うではないか。 と云った所で、秀子の外にお浦を殺す者が有ろうとは猶更思われぬ、秀子でなくば誰だろう、自殺だろうか、お浦が自分で自分の首を切り、其の首を何所かへ隠し、爾して自分の腰へ石を結び、身体へ卓子掛けを捲き附け、堀へ行って飛び込んだ、イヤ首のない身体で是ほどの働きは出来ぬ、然らば誰が殺した、と云って誰と目指す可き者は一人もない。 余は此の様に色々と翌朝まで思い廻して、漸くに只一つ思い附いたは、お浦の首は何うなっただろうとの疑いだ、又思うと何故に首のない者に仕て了っただろう、全体探偵が此の様な所を怪しまぬは不行き届きだと、斯う思ったから翌朝第一に探偵を尋ねた、けれど何所に居るか分らぬから、廊下をそちこちと歩んで居ると探偵は彼の虎井夫人の室から出て来た、オヤオヤと思い其の傍に行って「貴方は何で虎井夫人の室に居ました」探偵「秀子さんの素性を詳しく聞きたいと思いまして」余「シタが夫人は病気ゆえ好く答える事は出来なんだでしょう」探偵「イエ病気は昨日熱が引いてから大いに好くなったと云い差し支えなく問答が出来ました、アノ様子では今明に起きるでしょう、心配で最う寝て居られぬなどと云って居ました」余「爾して秀子の素性を詳しく聞きましたか」探偵「イイエ彼の夫人は唯附添人として雇われた丈で詳しくは知らぬと云いました」扨は彼の夫人、自分が秀子の乳婆であった事を推し隠し、昨今の知り合いの様に云ったと見える、余「貴方は余ほど秀子を疑うと見えますネ」探偵「イエ探偵と云う者は人を疑っては間違います、私は誰をも疑わず唯公平に証拠を詮索するばかりですが、併し秀子さんは今の所確かに誰からも疑われる地位に立って居ます、浦子さんと 劇 ( はげ )しく喧嘩した事実なども多勢に知られて居ますから」余「ですが森さん、お浦の死骸に首のないのは何う云う訳でしょう」 何故か此の問いに森探偵は殆ど急所でも衝かれたと云う様にビクリとして、能く喋る其の口を噤んで了った、余「首は何うしたのでしょう」探偵は漸くに「其所が此の事件の眼目ですよ、特に其の点へお気が附いたとすれば貴方は余ほど着眼がお上手です」褒められても何の為に是が此の事件の眼目か余には分らぬ、余があたふたとする様を見て探偵は、扨は何の故もなくただ首のないのを怪しんだ丈かと見て取った様子で、少し軽侮の口調と為り「多分は殺した丈で未だ恨み癒えず、復讐の積りで殊更に首まで切ったのでしょう、首と胴と別々に埋めれば魂が浮ばれぬなどと能く世間で云うでは有りませんか。 此の様な事をするのは女に限って居ますよ、嫉妬などの為に此の顔の美しいのが恨めしいなどと云って殺した上で顔を 寸断寸断 ( ずたずた )に切るなどの例が幾等もありますよ」誠らしくは云うけれど、森が死骸に首のなきを此の事件の眼目とするは決して斯様な浅薄な理由の為でないのは明白だ、余は其の真の理由を知りたい者と、我が智恵袋を絞る様に考え廻しても到底思い到る事が出来ぬ、余「首は何所に在るのでしょう、エ、何所へ隠してあるのでしょう」探偵「サア、其所です、私が倫敦で詮索せねば分らぬと云うのは其所の事です」と之は真の熱心を以て言い切った、余は益々分らぬけれど、そう諄くは聞く事も出来ぬから、其のまま 無言 ( だま )って了ったが、其のうちに愈々検屍の時刻とはなった。 愈々お浦の死骸検査は始まった、余は読者に対し茲で死骸検査の事柄を簡単に説明して置きたい。 死骸検査とは一種の裁判の様な者だ、検査官の外に警察医の立ち会うは勿論の事、十二名の陪審員がある、此の陪審員が種々の事を判断するので、決して死骸を検査するのみではない、第一に此の死骸は誰の死骸か、第二に自分で死んだのか他人に殺されたのか、第三に殺されたとすれば謀殺か、故殺か、第四に之を殺した下手人は何者か、第五に其の殺した者の目的は何であるか、第六に其の者を本統の裁判に持ち出す可きや否やと、凡そ第六条を詮議するのだ、だから通例の死骸検査で以て嫌疑者が定まり、裁判に移す値打ちの有るかないかも定まる、若しも陪審員の疑いが松谷秀子に掛かっては大変だ、秀子は到底、裁判所へ引き出されずには済まぬ、余は何うか秀子を助けて遣り度い、自分が証人として此の検査官の前で審問せられるを幸いに、何うか秀子の利益になる事を申し立て、陪審員をして此の死骸に就いては一人も嫌疑者を見出す事が出来ぬと云う判決を下させ度い、所が悲しい事には秀子の利益に成る様な事柄は一個もない、余が知って居るだけの事を述べ立てたら秀子は決して助かりッこがない、イイエ此の女は悪事などする様な者では有りませんと余の信ずる所を述べたとて何の益にも立たぬ。 家の人誰も彼も、殆ど残らずと云っても好いほどに秀子を疑って居るのだから何うも陪審員なども秀子を疑うであろう、殊に高輪田長三などは秀子を捕縛せしむるまでは 休 ( や )まぬであろう。 余は此の様に思って、只管検屍を恐れたが、恐れても其の甲斐はない、定めの時刻に少しも違わずに検屍は始まった、場所は彼の玉突き場の隣に在る広間である、お浦の死骸も其所に在るのだ。 証人として第一に呼び出されたのが余の叔父だ、叔父は堀の底を探っては何うだと言い出した発頭人である為、何故に堀の底へ目を附けたかとの 廉 ( かど )を問われるのだ、次が高輪田、次が根西夫人、次が秀子、最後が余と云う順序である、余は是等の人々が検査官の問いに対し、何の様に答えたか勿論知る事は出来ぬけれど、後で聞いた所に由れば、叔父は「此の死骸を誰と見るや」との問いに「先の養女お浦と認める」と答え高輪田は「首のない屍骸ゆえ誰とも認める事は出来ません」と少し理窟っぽく答え、「然らば此の死骸に附いて居る衣服其の他の品物に見覚えはないか」と問われ、「品物は悉く見覚えが有ります」とてお浦が失踪の当日身に着けて居た品だと答えたので、極めて明瞭な答えだと褒められた相だ、根西夫人も、秀子も、余の叔父と同様に、死骸は勿論お浦の死骸だと云い、品物にも覚えがあるとて有りの儘を答えたが、検査官は殊に秀子には目を附けて、猶彼の異様な手袋の事を問うた、秀子は少しも隠さずに、其の手袋は自分の物で、お浦が失踪の当日自分の手から取ったのだと云い、お浦が此の家の書斎で消滅する様に居なくなった次第も云い、猶問われて自分とお浦と喧嘩した事も云った、唯、喧嘩の原因だけは、何と問われても云わず、単に「お認めに任せます」と云うたので、検査官は多分嫉妬の為だろうと云い、全く秀子を嫌疑者とするに足ると思い詰め、陪審員なども、殆ど最早此の上を詮索するに及ばぬとまで 細語 ( ささや )いたと云う事だ。 秀子が退くと引き違えて余は呼び入れられたが、何と言い立てる思案もないから胸は波の様に起伏した、検査の室を指して行く間も、屠所に入る羊の想いも斯くやと自分で疑った、室の入口へ行くと中から森探偵と警察医とが何か細語つつ出て来るのに逢った、摺れ違い様、余は警察医の言葉の中に「三十位」と云う語の有ったのを一寸と小耳に挾んだ、「三十位」とは何の事だろう、此の一語が何の役に立とうとも思わなんだが、後になって見ると大変な事柄の元と為った、頓て検査官の前に立ち、式の通りに聖書を嘗めて「嘘は言いませぬ」との誓いを立てたが、検査官は第一に此の死骸を誰と思うとの事を聞いた、余も前の幾証人の通り「浦原浦子と思います」と答えようとしたが、此の時忽ち「三十位」の一語を思い出し、少し躊躇して、「能く見た上でなければ誰とも答える事が出来ません」と少し捻くった答をした、幾等熟く見たとて何の甲斐もないには極って居るけれど「お浦の死骸だ」と答えるのは殆ど「秀子が殺しました」と答えると同じ様に検査官や陪審員に聞こえはせぬかと思い如何にも心苦しい、一寸でも其の答えを伸したい、検査官は尤と云う風で「では篤と見るが好い」と云われた、余「何れほど検めても差し支えは有りませんか」と問い「ない」との返事を得た上で余はお浦の死骸を、手から足から、充分に調べたが、読者よ、余は実に此の暗澹たる事件をして更に一入不思議ならしむる最も異様な事を発見した、読者は是からして余が検査官に答える言葉を真実心の底から発する者とは思い得ぬかも知れぬ、けれど全くの真実で有る、余は思うままを知るままを答えるのである、余が再び検査官に向って、第一に答えた言葉は「此の死骸は誰のであるか少しも認めが附きません」と云うに在った、検査官は疑いを帯びた様子で「是までの証人等は其の方の前の許婚浦原浦子の死骸だと認めて居るが其の方は爾は思わぬか」余「爾う認めた証人等の認め違いです、私は断言します、此の死骸は決して浦原浦子の死骸では有りません」 此の死骸がお浦の死骸でないと云う事は、余自らさえ嘘の様に思う、お浦の着物を着、お浦の指環をはめ、此の家の一品たる卓子掛けに包まれて居て、爾してお浦でないなどは、理に於いて有られもなく思われる、けれどもお浦でない、余は確かにお浦でない証拠を見出した。 勿論検査官は驚いた、陪審員も驚いた、満場誰一人驚かぬ者はないと云っても好い程だ、検査官は暫く考えた末、余に向い「何故にお浦でないと認めるか」と問うた、余は明細に説明した。 昔余が十二三の頃、叔父が余とお浦とを連れてシセックと云う土地へ避暑に行った事がある、其の時お浦は余と共に土地の谷川へ這入って居て(勿論跣足で)足の裏へ甚い怪我をした事がある。 其の頃は其の谷川の上手の山から石を切り出して居たので、切石の 屑片 ( かけら )が川の底に転って居てお浦は運悪く其の角を踏んで辷ったのだ、何でも足の裏を一寸ほども切った、其の傷が生長してまで残って居たのみか、足が育つと共に創の痕も育ち、殆ど二寸程の痕になって居るとは、今より余り遠くもない以前に余とお浦と幼い頃の昔話をして居てお浦が余に話した所である、然るに此の死骸の足の裏には毛ほどの創の痕もないのだ。 是よりも猶確かな証拠は、お浦が十六七の時で有った、余は自分の懇意な水夫に 繍身 ( ほりもの )の術を習い自分の腕へ錨の図を繍って入墨した、お浦は羨ましがり自分の腕へも繍って呉れと云うから、余は其の望みに従い、お浦の手の腋に隠れる辺へ草花を繍って遣った、尤も之は唯外囲いの線を繍った丈で、後で痛くて耐えられぬと云うから彩色せずに止したけれど其の線へは墨だけ入れて置いた、最も去年の夏と思う、お浦が 夕衣 ( いぶにんぐどれす )を着けて居るとき余は其の草花の外囲いが 歴々 ( ありあり )と 存 ( のこ )って居るのを見た、殊に余のみではなく、お浦の知人中には折々之を見た人が有ろう、根西夫人なども確かに其の一人だ、所が此の死骸の腕には何の繍身もない。 余が此の二カ条を言い立てると検査官は驚き、直ぐに又叔父を呼び出して、尋問したが叔父も足の裏の大創の事は覚えて居た、次に根西夫人を呼び出して又尋問したが夫人も成るほど浦原嬢の腕に繍身が有って夕衣を着て居る時には何うかすると見えた事を今思い出したと陳べた。 畢竟するに余が此の死骸を斯うまで検める事に成ったのは、唯、入口で医師が「三十位」と探偵に細語くのを洩れ聞いた為である、誰も彼も死骸の事にのみ気を奪われて居る際ゆえ「三十位」と云うのは死骸の事に違いないが、扨死骸の何が三十位であろう、或いは其の年齢では有るまいか、果たして年齢とすれば若しやお浦と別人ではなかろうかと此の様な疑いが一寸と浮かんだ、若し此の言葉をさえ洩れ聞かなんだら、一も二もなくお浦と思い、二ヶ条の事柄さえ殆ど思い出さずに終ったかも知れぬ。 読者は何と思うか知らぬが此の死骸がお浦でないとすれば実に大変な事になる。 第一にお浦の消滅に関する今までの探偵は全く水の泡に帰し、お浦の 行衛 ( ゆくえ )、お浦の生死は依然として分らぬのだ、第二に此の死骸、当人は誰か、何の為に斯くも無惨な目に逢わされたかと云う疑いが起る、第三には此の女が何でお浦の着物をき、お浦の指環まではめて居るかとの不審が起る。 第三の不審は実に重大だ、此の死骸へお浦の着物を被せるには、お浦を捕えて着物や指環を剥ぎ取った者があるか、左なくばお浦自らが自分の着物や指環を脱ぎ、此の者に着せたに違いない、着せて置いて殺したのか、殺した後で着せたのか、孰れにしても奇中の奇と云う者だ。 併し其の辺は先ず捨て置いて、何の為に斯様な事が出来たであろう、目的なしにお浦の着物を他の女へ着せ、堀の底へ沈めるなどと云う筈はない、何でも此の死骸と見せ掛けて人を欺き度いと云う目的に違いない、夫なら何故に人を欺き度いのであろうか、第一はお浦が死んだ者と見せ掛けて置いて、お浦自身が遠く落ち延びるとか或いは何か忍びの仕事をするとか云う目的ではあるまいか、第二には若しやお浦が死んだ様に粧い、人殺しの嫌疑を誰かに掛けると云う 魂胆 ( こんたん )では有るまいか、若し其の魂胆とすれば、秀子を憎む者の所為に違いない、前後の事情が自然と秀子へ疑いの掛かる様になって居るから。 愈々秀子に疑いを掛ける為とすればお浦自身の仕業でなくて誰の仕業だ、お浦は秀子を虎の穴へ閉じ込めて殺そうとまで 計 ( たくら )んだ女ではないか、併しまさかに女の手で、幾等大胆にもせよ斯様な惨酷な 仕業 ( しわざ )は出来ようとも思われぬ、夫ともまさかの時には女の方が男よりも思い切った事をするとは茲の事か知らん。 孰れにしても、余や秀子の為には、否、丸部一家の為には、物事が益々暗く、暗くなる許りだ、此の様な次第では此の末何の様な事になるかも知れぬ。 併し此の間に於いて、唯一つ余の合点の行ったのは死骸に首のない一条だ、首を附けて置いては、直ぐにお浦でない事が分る、幾等お浦の着物を被せても、幾等お浦の指環をはめさせても駄目な事だ、首を取ったのは全く着物を被せ指環をはめさせたのと同一の了見から出た事だ、成るほど、成るほど、是で森探偵の言葉も分る、彼は余が何故に死骸の首がないだろうと尋ねたとき、異様に驚き、旨い所へ目を掛けたと云う様に余を褒めたが、彼奴既にアノ時から、此の死骸がお浦でないと疑い、首のないのが即ちお浦でない証拠だと思って居たに違いない、道理で彼は初めて此の死骸を見た時に、是が浦子の死骸なら失望だと云い、自分の今までの推量が悉く間違って来るなどと呟いたのだ、流石は彼だ、シテ見ると彼は初めから此の事件に就いて余ほどの見込みを附け、確かに斯くと見抜いて居る所があるに違いない、何の様に見抜いて居るか聞き度い者だ、と云って聞かせて呉れる筈も有るまい、唯事件の成り行きを待つ外はないか知らん、夫も余り待ち遠しい話だよ。 疑わしい 廉 ( かど )は数々あっても、此の死骸がお浦でないと云う事だけは最早確かだ、到底余の陳述を打ち消す事は出来ぬ、爾れば一時間と経ぬうちに陪審員は左の通り判決した。 「何者とも知れざる一婦人に対し、何者とも知れざる一人又は数人の行いたる殺人犯」 殺した人も殺された人も分らぬは、検査官も残念であろうが仕方がない、直ちに此の死骸は共同墓地へ埋められる事となって此の家から持ち去られた、陪審員も解散した、探偵森主水は、愈々此の事件は倫敦へ帰って探らねば此の上の事を知る事は出来ぬと云って立ち去った、根西夫妻も此の様な恐ろしい土地には居られぬと云って鳥巣庵を引き上げ倫敦の邸へ帰った、高輪田長三は死骸がお浦で無かったのは先ず好かったとて一度は安心したが、夫に附けても本統のお浦は何所に居るだろうとて甚く心配の体ではある、尤も之は鳥巣庵に居る事が出来なくなったに就いて、当分(お浦の行方を探るに必要な間だけ)叔父との約束の通り此の家に逗留する事になった、余は何となく此の事が気に喰わぬ、秀子とて、無論其の通りであろう、併し広い家の事だから食事時の外は彼の顔を見ぬ様にするのは容易だ。 兎に角も検屍官が「何者とも知れぬ者の死骸、何者とも知れぬ者の殺人犯」と判決したに付いて秀子に対する恐ろしい嫌疑は消えて了った、余は直ちに此の事を秀子に知らせて喜ばせたいと思い、早速其の室へ行こうとすると廊下で虎井夫人に逢った、夫人は遽しく余を引き留めて「お浦さんの死骸ではない様に貴方が言い立てたと聞きましたが、其の言い立てが通りましたか、判決は何うなりました」余「判決は何者とも知れぬ女となりました」夫人「オオ夫は有難い、松谷嬢もさぞ喜びましょう、嬢は先ほどから此の様な疑いを受けて悔しいと何んなに嘆いて居るでしょう」余「夫にしても貴女は病気の身で」夫人「イイエ熱が冷めましたから最う病気ではないのです、御覧の通りヨボヨボしては居ますが、松谷嬢が傷わしゅうて、知らぬ顔で居られませんゆえ、先刻から検屍の模様を立ち聞きしては嬢に知らせて遣って居ます」悪人でも流石は乳婆だ、嬢の事がそうまでも気になるかと思えば余は聊か不憫に思うた、余「では直ぐに判決の事を貴女の口から嬢に知らせてお遣りなさい」夫人「イイエ最う私は安心して力が盡きました、室へ帰って休まねば耐りませんから嬢へは何うぞ貴方から」と言い捨て、全く力の盡き果てた様でひょろひょろして自分の室の方へ退いた。 権田時介が来た為に、余は実に肝腎の話を妨げられた、若し彼の来るのが半時間も遅かったら、余は必ず秀子を説き伏せて末は夫婦と云う約束を結んだのに、惜しい事をした。 時介が秀子に何を云うか、又秀子が時介に何を頼むか、余は茲に居て聞き取り度いと思ったけれどもまさかにそうも出来ぬ。 既に秀子から 故々 ( わざわざ )時介を呼びに遣ったと聞いて居る丈に、厭でも茲を立ち去らねばならぬ、恨み恨み彼の顔を眺むれば彼も余と秀子との間に何か親密な話でも有ったのかと嫉む様に余の顔を見る、余「イヤ権田さん」時介「イヤ丸部さん」と互いに挨拶の言葉だけは親しげに交えたけれど腹の底は火と火の衝突だ、互いに焼き合いだ。 余は詮方なく此の室を退いて、我が心を鎮める為庭に出て徘徊したが心は到底鎮まらぬ、益々秀子の事が気に掛かる一方だ、何で秀子は権田の様な者を呼び寄せただろう、余に打ち明ければ何の様な事でもして遣るのに、何でも権田は秀子の身の秘密に、久しく関係して居るに違いない、今初めて怪しむ訳ではないが其の秘密は何であろう、秀子は到底此の世に活きて居られぬと迄に云った、シテ見ると余ほど切迫して居る事に違いない、唯一度余に打ち明けて呉れさえすれば余は骨身を粉にしても助けて遣るのに、権田には打ち明けて余には隠して居る、何の秘密だか少しも見当が附かぬ、見当が附かぬのに助けると云う訳には行かず、と云って助けずに、知らぬ顔で済ます訳にも猶更行かぬ、困った、実に困った、只問う丈では幾度問うたとて打ち明ける事ではなし、矢張り此の上は、秘密にも何にも構わずに、余の妻になると云う約束をさせ、爾して許婚の所天と云う資格を以て充分の親切を盡くし、追々に其の信任を得て、爾して打ち明けさせるより外はないか知らん、追々と云う様な気の永い話では此の切迫して居る今の場合に間に合わぬかも知れぬけれど、外には何の道もないから仕方がない。 余は此の様に思って再び秀子の室へ行ったが、中は大層静かだ、猶だ権田と話して居るか知らん、斯うも静かな様では余ほど湿やかな話と見える、余が這入るのは勿論悪い、悪いけど此の様な大事の場合に権田の都合の好い様に許りはしては居られぬと、今思うと半ば殆ど狂気の様で、戸を推し開いて中へ這入った、オヤオヤ、オヤ、権田は居ぬ、秀子が一人で泣いて居る、余は安心もしたが拍子も抜け「権田弁護士は何うしました」秀子は泣き顔を隠して「 疾 ( と )うに話が済んで帰りました」彼が来てから三十分とも経たぬ程だのに「疾うに話が済んだ」と云う所を見ると、 纔 ( わずか )に五分か十分で事が分ったと見え、二人の間は余ほど深く合点し合って居るのだなと、斯う思うと余り権田の早く帰ったのが又忌々しい、余「では権田は虎井夫人の室へでも行ったのですか」秀子「イイエ此の家を立ち去ったのです」余「叔父さんにも会わずに」秀子「ハイ誰にも会わずに」 彼の急いで去ったのは愈々秘密が切迫して居る為と見る外はない、余の運動も、少しも早くなくては可けぬと、余は咄嗟の間に思案を定めて、我が思う丈の事を秀子に述べた、秀子は一時「其の様なお話を聞いて居れる時では有りません」と云って、腹を立てて、余に出て行って呉れと云わん許りの様を示したが、併し余の今までの忠実と親切とは充分腹に浸みて居るに違いない、此の後とても余の親切は多少嘉納するに足ると思って居るらしい、腹を立ったも少しの間で再び余の言葉に耳を貸す事に成ったが、愈々論じ詰めた結果が、何時も云う「到底人の妻に成れぬ身です」との一語に帰した、それならそれで宜しいから「若しも人の妻になる事の出来る時が来たなら私の妻になりますか」と云うと「其の様な時は決して来ません」「其の来ぬ者が若しも来る者と仮りに定めれば」「其の時は貴方の妻にでも誰の妻にでも成りますよ」「誰の妻にでもでは了けぬ、私の妻になるとお約束成さい」「約束したとて履行と云う時のない約束だから無益です」「無益でも宜しいから約束なさい」「其の様な 空 ( くう )な約束が何か貴方のお為になりますか」「成りますとも、空でも是が貴女の出来る中の一番近い約束と思えば私に満足ドコロでは有りません、世界を得たほど嬉しく思います」秀子は涙の未だ乾き果てぬ目 許 ( もと )で異様に笑い「オホホホ可笑い方です事ネエ」余「可笑くても宜いから約束なさい」秀子「ハイ其の様な空な約束なら幾等でも致しますよ」 空とは云っても空ではない、既に此の約束がある以上は、秀子は生涯 所天 ( おっと )を持たずに終わるかはた余の妻になるかの二つだ、余の妻にならずして他人の妻になると云う事は決して出来ず、又生涯所天を持たぬと云う事は余の叔父が許すまい、叔父は只管此の家に然る可き後嗣ぎの出来て子孫の繁栄する事を祈って居るから。 殊に又秀子の心も此の約束で分って居る、幾等空な約束にせよ、真実余を嫌って居るなら承諾する筈がない、成るほど本心は生涯所天などを持つ様な安楽な事は来ぬと充分覚悟を仕て居るだろうよ、覚悟は仕て居るだろうけれど、若しも婚礼の出来る時が来れば余と婚礼すると云う積りに違いない、之を如何ぞ余たる者 豈 ( あ )に砕身粉骨して秀子の難を払わざる可けんやだ、余は 雀躍 ( こおどり )して此の室を出て叔父の許に行き、未だ婚礼の時は極らぬけれど秀子と夫婦約束だけは出来たと告げた、叔父は大いに喜んで、秀子と余とを半々に此の家の相続人として早速遺言状を書き替えると云った、果たして三日と経たぬうちに其の通りに仕て了った。 けれど秀子の災難は余の思ったより切迫して居て、又実際余の力で払い除ける事の出来ぬ様な恐ろしい秘密的の性質であった。 余は秀子に向って、問い度い事、言い度い事、様々にあるけれど、此の日も翌日も其の暇を得なんだ。 と云う訳は、首のない死骸の事件が 遠近 ( えんきん )へ聞こえたと見え、見舞いに来る客も仲々多い、其の死骸がお浦でなかったと聞いて安心する人も有り怪しむ人も有った様子だが、兎に角是等の客の応接に秀子の手の空いた時は余が忙しく、余の暇な時は秀子が差し支えると云う有様だ、今から考えて見ると秀子の身には真に恐ろしい秘密事件が差し迫って居たのだが能くも秀子は其の心配の中で平気で客の待遇などが仕て居られた者だ、尤も客と談笑する間には夫となく心配気に見ゆる所は確かにあった。 他人には分るまいが余の目には暗に分った、夫だから余は折さえ有れば慰めもし問いもしたいと唯此の様に思って居たが、此の日も暮れて早や夜の十二時を過ぎたろう、秀子は客が雑談などに夢中になって居るのを見定め、 密 ( そっ )と客間から忍び出た。 イヤ忍び出たのではない当り前に出たけれど余の目には忍び出る様に見えた、若しや秘密とか密旨とか云う事の為では有るまいかと、余も引き続いて出て見たが、早や廊下には秀子の姿が見えぬ、居間へ行っても居らぬ、或いは虎井夫人の許かと又其の室へ尋ねて行けば、虎井夫人さえも居らぬ、既に病気は直ったと自分では云って居ても未だ客の前へも出得ない夫人が夜の十二時過ぎに室を空けるとは、何うも尋常の事ではない、若しやと思って余は庭へ出たが、月のない夜の事とて樹の下の闇が甚だ暗く、何と見定める事も出来ぬけれど、其所此所を辿って居るうち、一方の茂みの蔭から、 密々 ( ひそひそ )と話しつつ来る二人の人の声が聞こえる、清いのが秀子の声で濁ったのが虎井夫人の声だ。 二人は余の居る所から二三間先まで来て、立ち止った、余が居るを疑っての為ではなく、話が大変な所へ掛った為足を運ぶのを忘れたのだ、秀子の声「幾等大胆でも真逆に茲へは来ませんよ」虎井夫人の声「来ますとも、開放も同様の此の家ですもの、庭まで来たとて誰に見咎められる恐れもなく」秀子「恐れがないから来るが好いと貴女が云うて遣ったのでしょう」夫人「ナニ私が云うて遣りますものか」秀子「夫なら決して来る筈は有りません、自分の身に悪事が重なって居るのですもの」夫人「論より証拠実は最う来て居ますよ、先刻から向うの榎木の蔭で貴女の出て来るのを待って居ます」 何者の事かは知らぬが、何うせ秀子の身に害を為す奴に違いないから、余は其の榎木の蔭へ馳せ附けて引捕えて遣ろうかと思ったが、爾も出来ぬ、承諾も得ずに横合いから手を出して、後で秀子に喜ばれるか恨まれるか夫も分らぬから先ア静かに事の成り行きを見て、秀子が甚く当惑するとか其の者が暴行でもする場合に現われようと、此の様に思い直して、暗の中で自分の身へ力を入れて見るのに、創は勿論既に癒えて、力も充分に回復したらしい、何うも其の様な気がする、是なら悪人の一人や二人を 擲倒 ( なぐりたお )すは造作もない。 秀子は、既に来て居るとの虎井夫人の言葉に余ほど驚いた様子で「エ、今夜来て居るのですか」と叫んだ。 虎井夫人「私にも制する事が出来ぬから致し方が有りません、最う逃れぬ所と 断念 ( あきら )めてお了いなさい」オヤオヤ此の夫人まで秀子の敵に成って、悪者に力を添えて居るのだな、尤も今までとても彼の蜘蛛屋とか云う所へ秀子の手帳を盗んで送って遣ったなどで分っては居るけれど余は事新しい様に感じた、暫くして秀子は「断念めよとて何う断念めるのです」夫人「断念めて向うの請求に応じますのサ、夫も六かしい事ではなく、唯貴女の知って居る秘密を一言彼の耳へ細語いて遣るだけですワ、貴女に取っては損もなく彼に取っては大層な利益です、爾して貴女の身も後々が安楽では有りませんか」秀子「 可 ( い )けません、私の口から一言でも洩す事は出来ませんよ」夫人「其の様な事を仰有って、若し彼が立腹すれば、イヤ最う立腹はして居ますけれど、此の上に少しも容赦せぬ事に成れば貴女の身は何うなると思います」秀子「最う既に容赦せぬ事に成って居るでは有りませんか。 夜に紛れて此の庭へ忍び入り、爾して私に逢い度いなどと、ナニ構いません。 私こそ最う断念めて居るのですから、彼が何の様な事をするか思う存分な目に逢いましょう、彼を恐れて、彼のユスリに従い、縦しや一言でも秘密を教えて遣れば私の密旨は大事の目的を失います、私が密旨の為に生きて居る事は貴女が知って居るでは有りませんか、密旨を捨てて安楽を得るよりも、密旨の為に殺されるのが初めからの願いです、最う此の密旨も様々の所から思わぬ邪魔ばかり出て遂に果し得ずに終るだろうと此の頃は覚悟を極めて居ますから、何と 威 ( おど )されても恐ろしくは有りません、密旨に忠義を立て通して密旨と共に情死をする許りです、金銭ででも済む事なら、イヤ今まで彼と貴女には云うが儘に金銭の報酬を与え、此の上遣るにも及びませぬ、けれど未だ御存じの通り自分の金子が銀行に在りますから惜しいとは思いません、金銭の外の頼みには、応ずるよりも死ぬる方を先にしますから、何うか彼に爾云って下さい、アノ様な者には逢うのも厭です」夫人「厭ですとて、最うソレ、返事の遅いのを待兼ねて 彼所 ( あすこ )へ遣って来ました」 暗の中で何を指さして、彼処へ遣って来たなどと云うかと思い、余は四辺を見廻したが、三十間ほども離れた彼方に、一点星の様な光が有って、何だか此方へ寄って来る様子だ、分った、葉巻煙草を 咬 ( くわ )えて居るのだ、光るのは煙草の火だ、人の屋敷へ忍び入って咬煙草などして居るとは余程横着な奴と見える、其のうちに安煙草の悪い臭気が余の居る所へまでも届いた。 安煙草の臭気と共に星の様な光は段々と寄って来る、ハテな何の様な男だろう、秀子との間に何の様な応対があるだろう、全体此の場の一 埓 ( らつ )は何の様に終わるだろう、余は息を殺して居ながらも全身の筋肉が躍る様な想いである。 秀子は再び虎井夫人に向い「厭ですよ。 アノ様な人に逢うのは、ナニ初めから来て居ると知れば茲へ出て来る所ではなかったのです、私を欺して連れ出すとは余り甚いではありませんか」と叱る様に云うた、夫人「でも逢わせるのが貴女の為だと思いました、悪気でお連れ出し申したではなく」秀子「何うか貴女から彼にそう云って下さい、金子の外のユスリには決して応ずる事は出来ぬと」夫人「そう云えば決闘状を送るのも同じです、彼は決して容赦せぬ気になりますよ」秀子「構いません、今云う通り、最早密旨の成就する見込みは絶えましたから、愈々の果ては斯うと充分覚悟を極めて居ます、何うか彼に 窘 ( いじ )めて呉れと私から言伝てだと云って下さい」言い捨てて秀子は虎井夫人を振り放し、家の方へ去って了った、何と見上げた勇気ではないか、成るほど是だけの勇気がなければ、女の身として唯一人で、何の様な密旨か知らぬけれど密旨に身を委ねるなどと云う堅い決心は起し得ぬ筈だよ。 虎井夫人は「仕ようがない事ネエ」と呟いたが、病後の身で秀子を追い掛けたり引き留めたりする事は出来ぬと見え、其のまま呟き呟き星の光の方へ行って了った、サア余は何うしたら好かろう、夫人と同じく星の光の方へ行き、彼の男を捕えて呉れ様か、イヤ捕えたとて仕方がない、夫より彼奴の立ち去るを待ちその後を附けて彼奴の何者かと云う事を見届けて呉れよう、何でも此の様な悪人だから身に様々の旧悪が在るに違いない、何うかして其の旧悪の一を捕えて置けば幾等秀子に 仇 ( あだ )しようとても爾はさせぬ、アベコベに彼奴を取り 挫 ( ひし )ぐ事も出来ると斯う思案を極めて了った、其のうちに彼と虎井夫人は、余の居る所から十間ほど離れた所で逢った様子だ、姿は見えぬが何か言葉急しく細語き合う声が聞こえ、爾して巻煙草は口から手へ持ち替られたと見え、星の光が低くなり胸の辺かとも思われる見当で輝いて居る、暫くすると話は終り、二人は分れて、夫人は内へ、男は外の方へと立ち去った、余は直ぐに彼の後を尾けて行こうかと思ったが、秀子の有様も気に掛る、家に這入って何の様な事をして居るか一応は見届けて置き度い。 一先ず家へ帰って客間を窺いて見ると、秀子は何気もない体で、猶起き残る宵ッぱりの紳士三四人の相手になり笑い興じて居る、実に胸中に何れ程余裕のある女か分らぬ、是ならば秀子の事は差し当って心配するにも及ばぬと思い、其のまま 戸表 ( おもて )へ駆出した、勿論彼の男が庭から裏の方へ立ち去った事は知って居るが、裏からは何所へも行く事が出来ぬから、必ず表の道へ出て、停車場の方へ行くに違いない、縦しや姿は見えずとも人通りのない夜の最う一時過ぎだから人違いなどする気遣いはない心の底で 多寡 ( たか )を括って居ると、例の安煙草が何処からか臭って来る、ア、是だ、猟犬が臭いを嗅いで獲物の通った道を尾けるは全く此の工合だと、余は臭いを便りに徐々と終に停車場まで行った。 見ると安煙草は早や切符を買い、橋を渡って線路の向う側へ行き、上り汽車を待って居る、時間表に依ると上り汽車は夜の十二時から先は唯二時五分に茲に通過するのが有る許りだ、未だ半時間ほどの猶予がある、何でも彼が如きシレ者を附けるには余ほど用心して掛らねば可けぬと思い、ズッと心を落ち着けて先ず前後を見廻すと、第一に不都合なは余の衣服だ。 余は客間に居た儘で来たので小礼服を着けて居る、是では疑われるに極って居るが、家へ引っ返す事は出来ず止むを得ず駅夫に向い、五ポンドの貨幣を二片見せ、夜寒の用意にお前の着替えを売って呉れぬかと云うと存外早く承知して、何所へか走って行き、間もなく風呂敷包みを持って来て、是ではと差し出すのを開けて見ると少し着古したけれど着るに着られぬ事はない、紺色の 外被 ( こうと )と 筒袴 ( ずぼん )が入って居る、筒袴は要らぬと外被だけを取って、上へ着たが寸法も可なり合って居る。 それから切符を、先ず倫敦まで買ったが、先の人が何所まで買ったかと思い、夫となく今の駅夫に聞いて見るとローストン駅まで買ったと云う事だ、扨は倫敦迄行くのではないと見えるが、何でもローストン駅は何処かへ分れる乗り替える場所だ、是も駅夫に聞いて見ると、駅夫は今の売物で非常に機嫌が好く為って居るので、其の乗替えの汽車が通過する駅々を、指を折りつつ読み上る様に話して呉れた。 外の名前は耳に留まらぬけれど其の五番目に数えたペイトン市と云うのが何だか余の耳に此の頃聞いた所の様に感じた、爾だ、爾だペイトン市在の養蟲園と虎井夫人の手紙の上封へ書いて遣ったのだ、扨は彼の男、其の蜘蛛屋とか云う処から来たのであろうか、人を食い殺す毒蜘蛛が網を張って居るとて秀子の身震いをした其の養蟲園へ、余は彼の悪人の後に就いて歩み入る事になるか知らん、斯う思うとわれ知らず右の手が腰の短銃、衣嚢の処へ廻った、撫でて見ると残念な事には短銃を持って居ぬ、エエ何うなる者か、真逆の時には此の拳骨と気転とに頼るまでさ。 其のうちに二時五分の上り汽車が来る刻限と為ったから、余も橋を渡り、線路の向う側へ行き、頓て彼と同じ汽車へ乗り込んだが、幸か不幸か外に相乗りはない、車室の内に余と彼の只二人である。 車室を照らす電燈の光に余は初めて能く彼の姿を見たが、年は五十位でもあろうか、背が低くて丸々と肥え太って居る。 顔の色は紅を差した様に真赤だ、蓋し酒に焼けたのであろう、酒好きの人には得てある色だ、爾して顔の趣きは、恐ろしげと云い度いが実に恐ろしげでなく存外柔和だ、ニコニコとして子供でも 懐 ( なつ )き相な所がある、誰やらの著書に、悪相を備えたる人は一見して人に疑わる、故に真の悪人たる能わず、真の悪人には人を油断せしむる如き愛らしき所のある者なりとの、意味を記してあるのを見たが、此の男などが或いは其の一例では有るまいか、併し能く見ると眼の底に一種の凄い光を隠しては居る、是は博奕などに耽る人に能くある目附きだよ、何うしても尋常の人間ではない。 余は余り彼の様子を見るも宜くないから、唯夫となく一通り見た儘で、彼の反対の側に身を安置し、背後へ寄り掛って眠そうな風を示して居た、茲で読者に断って置くが、昨年の秋ローストンの附近で、線路の故障の為に汽車が転覆した事は、読者が新聞紙で読んだ所であろう、此の汽車が即ち其の汽車で、余も乗り合わして居る一人であったが、勿論其の場に着き其の事変に逢うまでは神ならぬ身の露知らずであった、夫は扨置いて余が眠そうに背後へ寄り掛って居る間に、彼、安煙草は安煙草を咬えた儘で、腰掛けの上へゴロリと横に為ったが、悪人ながらも仲々気楽な質と見え直ちに雷の如き鼾を発して本統に眠って了った、尤も夜の二時より三時の間だから、誰しも眠くなる時ではあるのだ。 彼の鼾と汽車の音と轟々相い競うて、物思う余の耳には誠に蒼蝿く感じたが、余も何時の間にやら眠って了った、何時間経ったか此の時は知らなんだが後で思うと二時間余も寝たと見え、フト目の覚めたは夜の引き明ける五時頃であった、見ると彼、安煙草が早や余よりも先に起き直って余の寝顔をジッと見詰めて居る、勿論別に悪気が有っての為ではなかろう、余り所在のない時に、同乗の客の顔を見て居るなどは、誰もする事である、余は茲ぞ彼と話を始める機会と思い、ナニ彼が何も言わなんだのは知って居るけれど、故と「オヤ貴方は今、何か私に仰有いましたか」と寝ぼけた様に問うた、彼は平気で「イイエ何も言いは致しませんよ」と、返事する言葉は此の国此の近辺の声ではなく、確かに仏国の訛を帯びて居る、多分本国を喰い詰めて、此の国に渡って来た人であろう、余「併し最う何時でしょう。 夜汽車は随分淋しい者ですネエ」と言うを手初めに話の口を開いたが、彼は宵のユスリの旨く行かなんだを猶だ気に 障 ( さ )えて居るのか、顔の柔和さに比べては何となく不機嫌である、話に釣り込れようとはせぬ。 「立派な身分になったと思い」などの言葉はそうとしか思われぬ、彼は猶言葉を継いで「旨く仮面などを被って居やがって、ヘン仮面を剥って見るが好いワ、イヤ仮面は剥らずとも、左の手の手袋を脱いで見るが好い、中から何の様な秘密が出て来るか、夫こそ丸部の養女では居られまい。 如何な養父も驚いて目を廻すわい」と今は全くの独語となり、いと腹立しげに呟いて居る。 仮面を被るとは勿論譬えの言葉で、地金を隠して居ると言う意味に違いない、秀子が本統に仮面など被って居る筈はない、併し余は此の言葉を聞き、余は初めて秀子に薄暗い所で逢って、余り其の顔が異様に美しいから若しや仮面では有るまいかと思った時の事を思い出す、勿論其の後は見慣れたから、何とも思わず、唯絶世の美人と尊敬する許りではあるが、夫にしても偶然に此の男が仮面という言葉を用うるも、奇と言えば奇だ。 併し彼様な 偶中 ( ぐうちゅう )は有り中の事で畢竟気に掛ける余が神経の落ち着いて居ぬ為である、夫は兎も角も此の男が斯うも秀子の事を悪く言うは許婚も同様な余の身として甚だ聞き捨て難い所がある、此奴め、最っと深い巧みのある悪人かと思ったら、腹立ち紛れに何も彼も口外する、存外浅薄な、存外 与 ( くみ )し易い奴である、茲で一言に叱り附けて呉れようかとも思ったが、此の時忽ち思い附いた、イヤイヤ仲々浅薄どころではない深い深い、底の知れぬほど横着な奴だ、浅薄と思ったのが、余の浅薄だ。 此奴め、昨夜旨く秀子を劫えさせる事が出来なんだので、先ず近辺へ秀子の身に秘密があると言う噂を立たせ爾して秀子に驚かせて置いて再び行く積りである、余を近所の者と思う為、是くらい聞かせて置けば、余の口から村中へ好い加減に広まって爾して秀子が不安の想いをする時が来ると此の様に思って居るのだ、手もなく余を道具に使う積りだ、人つけ、汝等の道具に使われて耐る者かと腹の底で嘲り、更に彼に向い、然る可く返辞せんと思う折しも、汽車は何物にか衝突して、真に百雷の一時に落ちるかと思われる程の響きを発し、オヤと叫ぶ間もない中に早や顛覆し破砕した。 乗客一同粉々に為ったかと余は疑うた。 汽車の転覆は、遺憾ながら随分例の有る事ゆえ、管々しく書き立てずとも、何の様な者か能く読者が知って居られる筈だ、此の度の転覆は僅かに一間ばかりある小河の橋が落ちて居るのを気附かずに進んだ為に起ったと言うことだ、怪我人は十四五人あったが幸いに死人は無かった、怪我人の中の最も重い一人は余と同車して居る例の安煙草で、無難の中の最も無難な一人は余であった。 勿論余も汽車の衝動と共に 逆筋斗 ( さかもんどり )を打って、何所へか身体を打ち附けて暫しが程は何事だか殆ど合点の行かぬ程ではあったけれど、汽車の転覆と気の附いた時は早や 毀 ( こわ )れ毀れの材木の間に立ち上って居た、唯気の毒なは安煙草である、悪人は斯る場合にも自然の憎しみを受けて、人より余計に甚い目に遭うと言う訳ではあるまいが、 覆 ( くつがえ )った車室の台板に圧し附けられ、 最 ( いと )ど赤い顔の猶一層赤くなったのを板の下から出して、額の筋をも痛みに膨らませて、爾して気絶して居ると言う仲々御念の入った有様だ。 此奴死んで了ったのか知らん、兎も角斯の様な目に遭えば当分秀子を虐めに来る事は出来ぬと有体に云えば余は聊か嬉しかった、けれど助けぬ訳には行かぬ、茲で恩を着せて置けば後々此奴を取り挫ぐに何の様な便宜を得るかも知れぬと得手勝手な慈悲心を起して台板を持ち挙げて遣った、軽い物かと思ったら仲々重い、力自慢の余の腕にさえヤットである、此の重みに 圧 ( おさ )れては身体は 寸断寸断 ( ずたずた )であろうと思ったが、爾ほどでもなく、拾い集めずとも身体だけ纒って居る、扶けつつ起して見ると肩も腰も骨が挫けて居る様子で少しの感覚もない。 水でも呑ませば生き返るかと、四辺を見ると誰のか知らんが、酒を入れる旅行持の革袋が飛び散って居る、是屈強と取り上げて口を開けるとブランデー酒の匂いがあるから、之を彼の口に注ぎ込んだが、死んだ蛙の生き返る様に生き返った。 何しろ混雑の中で、余一人の力では此のうえ何うする事は出来ぬが、幸い近村の人も馳け附けて来たから、其の一人に番を頼んで置いて、余は遠くもあらぬローストンの町へ馳け附け自分の馬車と医者とを呼んで来た。 兎も角も停車場のある所まで馬車で此の者を運んで行く外はない、医者の見立てでは此の者は余ほど大怪我だから早速家へ送り届け、厚く手当をせねば可けぬとの事だ、家とて何所が此の者の家だろう、多分ペイトン在の蜘蛛屋であろうとは既に察しては居るけれど、若し衣嚢の中には姓名を書いた手帳でもあろうかと探って見ると手帳もある名刺もある、名刺の表面を見ると覚悟した。 余も流石に胸を騒がせた、真中に「博士穴川甚蔵」とあって端の方にペイトン在養蟲園とある、是が養蟲園の主人で、曾て余が虎井夫人の為に手紙の宛名として認めて遣った其の穴川甚蔵であるのだ。 軈 ( やが )て余は彼を馬車に乗せ、停車場まで連れて行った。 勿論差し支えはないと云う医者の言葉を聞いた上だ、何をするにも費用の掛かる事だから若し電信為替で金子を取り寄せねば可けまいかと自分の紙入れを検めて見ると嬉しい事には五円の札が厚ぼったいほど這入って居る、是ならば好し、此の穴川を養蟲園まで送り届け、人を食い殺す様な毒蜘蛛の巣をも見よう、爾するには一日や二日掛かるかも知れぬ。 家では定めし叔父も秀子も気遣って、余の紛失を前のお浦の紛失と同様に思い做して居ようも知れぬと、先ず電信を認めて叔父に宛て、急用の為倫敦へ行くが用の済み次第に帰るから心配するなと書いて発し、爾して穴川を連れてローストン駅まで上等の汽車に乗った。 穴川は 辛 ( やっ )と言葉を発する有様で、苦痛の中から余に向い時々「有難い」と云う言葉を洩した。 余は「艱難には相見互いだ」と答え、口を利くと宜くないから成る可く無言で居ろと親切げに制止した。 彼も口を利かぬ方が自分の勝手だと見え、其のうちに全くの無言となり、目をも閉じて了った。 余は看護人の如く其の頭の辺に控え、彼の様子を見て、猶様々に思い廻すに、彼此の頃は好い悪事のないのに窮して居るかと、衣服其の他の上に何となく「財政困難」と言う意味が浮んで居る。 余の察する通り仏蘭西の人とすれば煙草なども上等を呑む可きに、甚い安煙草で間に合わせて居るなどが何よりの証拠だ、爾して姓名の上に博士とあるのは何故だろう。 是も怪しむには足らぬ、誰にも素性を知られて居ぬを幸いに、博士などと冒称して居るのだ。 悪人の中で少し智恵の 捷 ( はしこ )い奴は、能く此の様な 白痴威 ( こけおどし )の称号を用うるよ。 汽車がペイトンの停車場へ着いたのは早や昼過ぎである。 是から穴川の家まで再び馬車を雇う外はないから、穴川を待合室へ抱き入れて置いて、余は外へ出て馬車を呼び、此の在の養蟲園まで行くのだと言うと、馬丁は妙な顔して「エ、養蟲園ですか」と推して問うた。 其の様は「アノ様な恐ろしい所へ」と訝り問うように見えた。 養蟲園と聞いて馬丁まで好い顔をせぬ所を見ると余り評判の宜くない家と言う事が分る、余は様々に聞き糺したが今の主人「穴川甚蔵」は六七年前に此の土地へ来た者で、何所から移住して来たかは誰も知る者がなく、殊に町から離れた淋しい土地だから誰も度外に置いてあるとの事だ。 併し馬車は余が充分の賃銭を約束したから行く事になった。 馬丁は「アノ様な淋しい所で帰りに乗せる客があるではなし、余計に貰わねば引き合わぬ」と呟いた。 余は馬車の中で 喫 ( たべ )る為に、幾種の食品を買い調え、馬丁に手伝わせて大事に甚蔵を馬車に乗せ、車体の動揺せぬ様に 徐々 ( そろそろ )と養蟲園を指して進んだ。 成るほど淋しい所である、町を離れて野原を過ぎ、陰気な林の中に分け入って、凡そ五哩も行ったかと思う頃、養蟲園へ達した。 見れば草の茫々と茂った中に、昔の大きな石礎などが残って居る、問うまでもなく零落した古跡の一つで、元は必ず大きな屋敷であっただろう、それが火事に逢って家の一部分だけ焼け残ったのを、其のまま修繕して住居に直したらしく、家の横手に高大な煉瓦の壁だけが所々に立って、低く崩れたもあり高く聳えたもある、但し焼けたのは今より五七十年も前だろうと余の目では鑑定する。 今住居と為って居る家だけでも可なり広い、家の背後は山、左は林、右は焼跡から矢張り林へ連なって居るが、何しろ人里から離れた土地で山賊でも住んで居そうだ、爾して焼けた古煉瓦を無造作に積み上げたのが門の様に成って居て戸が締って居る、誰も此の様な家へ侵入する者はあるまいに戸には錠までも卸してある、後で分ったが外から入る人を防ぐよりも、寧ろ内から出る者を妨げる為であった、不束ながら門に続いて疎な丸木の垣がある、犬猫なら潜って出る事は出来ようが人間には六かしい。 余は門を推してもあかぬから軽く叩いて見ると馬車の中から、今まで無言で居た甚蔵が声を出したから「何事ぞ」と返って問うと「此の鍵がなければ開きません」とて鉄の大きな鍵を差し出した、彼は肩も腰も骨を挫かれて居るけれど右の手だけは達者で、自分で衣嚢を探り鍵などを取り出す事が出来るのだ、何しろ主人が外へ出ると、門に錠を卸してその鍵を持って去るとは全で番人のない家の様だが、内はガラ空か知らんと、此の様に思いつつ進み入ろうとすると、甚蔵は馬車の中から又呻いて余を呼び「門が開いたらその鍵を返して下さい」と請求した、半死半生の癖に仲々厳重な男である、是も何か家の中に秘密がある為に、斯う用心の深い癖と成ったのに違いない、余はその秘密を看て取る迄は此の家を去らぬ事に仕よう。 鍵を返して門を入れば玄関に案内の鐘を吊り、小さい槌を添えてある、槌を取って鐘を叩いたが中からは返事がなく、唯何所からか犬の吠える声が聞こえる、幾度叩いても同じ事だ、再び馬車に返って甚蔵に問うと、彼は鍵を取り返して安心したのか、痛く力が脱けた様子で、唯「裏へ、裏へ」と云う声を微かに洩し、差し図する様に顋を動かす許りである、今度は其の意に従って家の裏口へ廻って見ると茲も戸が閉って居るが、窓の硝子越しに窺くと薄暗い中に、何とも評し様のないほど醜い老人の顔が見えて居る。 人間よりは寧ろ獣に近い様だと、怪しんで見直したが獣に近い筈よ犬だもの、此の国にては余り見ぬが仏蘭西には偶に居る、昔から伝わるボルドウ種と云う犬の一類で、身体も珍しいほど大きいが顔が取り分けて大きいのである、爾して大犬の中では此の種類が一番賢いと云う事だ、併し幾等賢いにせよ犬一匹に留守をさせるは余り不思議だと、更に台所の方の窓を窺くと、居るわ、居るわ、是は犬でない全くの人間だ、年頃は七十以上であろう、白髪頭の老婆である、其の顔と来たら実に 恐 ( こわ )らしく、今見た犬の方が猶だ余っぽど慈悲深く見ゆる程だけれど、その顔に何処となく余の目に慣れた処がある、余の知って居る人に似て居るのだ、それは誰に、虎井夫人にサ、若しや此の婆が虎井夫人の母では有るまいか、猶能く考えると穴川甚蔵も此の婆の子で夫人と 同胞 ( はらから )ではあるまいか、甚蔵の顔には愛嬌は有るが彼の 創所 ( きずしょ )の痛みの為にその顔を蹙めた時は此の婆に幾等か似て居る、甚蔵は父の容貌を受け夫人は母の容貌を受けたとすれば別に怪しむに足らぬ、夫人の顔を二分、甚蔵の苦痛の顔を二分、今の犬の顔を二分爾して残る三分は邪慳な心を以て加えたなら十分に此の婆の顔が出来よう。 余は窓の硝子を叩きつつ、婆に向いて「穴川甚蔵が怪我したから、茲を開けて入れて下さい」と大声に叫んだが、婆は一寸顔を上げた許りで返事をせず、其のまま立って犬の居る方を振り向いた、爾して馳せて来る犬を随がえ、次の室の入口とも思われる一方の戸を開いて、素知らぬ顔で引込んで了い、待っても待っても出ては来ぬ。 余り腹の立つ仕打ちだから、余は 憤々 ( ぷんぷん )と怒って門へ引返し、甚蔵の寝て居る馬車を連れて再び此の台所口まで帰って来た、 馬丁 ( べっとう )の力を借り、共々に戸を叩き破る積りで馬丁にその旨を告げると穴川が目を開いて「硝子窓の戸を持ち上げて家の中に入れば次の間の卓子の上に鍵があります」と云うた、然らばとその言葉に従い、窓の戸を持ち上げた所、中から待ち兼ねて居た様に彼の犬が飛び出した、初めは余に飛び掛る積りかと思い、余は叩き倒さんと見構えしたが、犬は余には振りも向かず一直線に主人の馬車の許へ行った、余はその後で窓を乗り越え台所から次の室の中へ這入ったが薄暗くて宜くは見えぬけれど、第一に余の目に映じたは、壁も柱も、異様に動いて居る一条だ。 余は此の様な有様を見た事がない、壁の表面、柱の表面、総て右往左往と動き、静かな様で少しも静かでない、殊に天井の下に横たわって居る梁などは恰で大きな 巨蛇 ( うわばみ )が 背 ( せな )の鱗を動かして居るかと疑われる許りだ、余は自分が眩暈でもする為に此の様に見えるのかと思い、暫し卓子へ手を附いて居ると、何やらソロソロと手へ這上った者がある、払い落して宜く見ると二銭銅貨ほどの大きさのある一匹の蜘蛛である。 ハテなと更に壁に寄って見たが、何うだろう壁一面に細い 銅網 ( かなあみ )が張ってあってその中に幾百幾千万とも数の知れぬ蜘蛛が隊を成して動いて居る、壁その物は少しも見えず唯蜘蛛に包まれて居ると云う有様だ、壁の所々に棚もあり穴もある様だけれどその棚その穴悉く蜘蛛に埋められて居るのだ、養蟲園と云い蜘蛛屋と云う名前で凡そ分って居る筈では有るが、実際是ほど蜘蛛を養って居ようとは思わなんだ、又蜘蛛が斯うまで厭らしく恐ろしく見える者とは思わなんだ、勿論蜘蛛は見て余り気持の好い者ではないが併しその一匹や二匹を見た丈では実際に壁一面、天井一面家の中一面に広がって居る蜘蛛の隊が何れほど厭らしいと云う事は想像が届かぬ、余は頭から足の先までもゾッとした、若し女だったら、絶叫して目を廻す所だろう、男だけに目は廻さぬが、而し立って居る力もなく再び卓子の上へ手を突いたが、見れば此の卓子も蜘蛛の台だ、上へ硝子の蓋をした木の箱が幾個となく並んで居て中には大小幾十百種類の蜘蛛が仕切に隔てられて 蠢 ( うごめ )いて居る、是は見本の箱でもあろう。 余は兎に角も能く心を鎮めた上でなければ、此の室に永くは得留まらぬ、真逆に蜘蛛が銅網を破って追い掛けて来る訳ではなけれど、逃る様に室を出てその戸を閉め切り、爾して先刻婆の居た台所の一方に立った、此の時は最う眼も暗いに慣れて、暗いと感ぜぬ様になったから、茲にもかと四辺を見廻すに茲には蜘蛛らしい物は見えず、却って余の求める鍵が、戸の錠前の穴へ差し込んだ儘であるのが目に入った、多分は婆が次の間に在ったのを持って来て是へ填て置いたのであろう、婆の姿は何所へ行ったか更に見えぬ。 若し余に深い目的がないのなら此の家へは再び這入らぬ、秀子と同様に、此の家の事を思い出してさえ身震いをするであろう、けれど余は再びも三たびも、此の家の秘密を腹へ入れる迄は這入らねば成らぬ、此の家の秘密を知れば秀子の身の秘密も自然に分るに違いない、斯う思って、腹の中で「ナニ蜘蛛などが恐ろしい者か」と繰り返してお題目の様に唱え、馬車の所へ 復 ( かえ )って来て、穴川甚蔵に、寝間は何所に在るかと聞いた、早く彼を家の中へ寝かして遣らねば成らぬから。 「寝間は二階の二室目です」と彼は答えたが、此の怪我人を二階まで運び上げる訳には行かぬ。 下の何所かへ寝台だけ降して来て寝かさねばならぬ、更に其の 由 ( よし )を甚蔵に告げて置いて又も家に入り、其所此所を見廻すと、 曩 ( さき )に犬の居た室を隔て其の次に階段がある、狭い裏階子の様な者だ。 此の辺にも若し蜘蛛が居はせぬかと見廻しながら階段を上ったが見廻して居て仕合せだったよ、若し見廻さずに昇ろう者なら飛んでもない目に逢う所であった。 見廻しつゝ登ると階段の中程の横手の壁に 潜戸 ( くぐりど )の様な所がある、何か秘密の一室へでも通ずる隠し道ではあるまいか、戸の色と壁の色と一様に 燻 ( くすぶ )って閉じてあれば、容易には見分けも附くまいが、開いて居る為余の目には留まった。 余が其の前を過ぎようとすると、中から誰か黒い 石片 ( いしきれ )の様な者を投げ附けた、余は大いに用心して居る際ゆえ手早く身体を 転 ( かわ )して何の怪我もせなんだが、後で見たら危ない哉、石片の様に見えたは古い手斧の頭であった、何者の仕業かと少し躊躇して居ると、潜戸の中から以前の婆が、手に斧の柄だけを以て立ち現われ、階段を遮って、寄らば打たんと云う見幕で、其の 斧柄 ( おのえ )を振り上げ「茲へ入っては可けません」と叫び横手の潜戸を尻目に見た、誰も入ろうとは云わぬのに、アア分った此の婆は多少精神が錯乱して居て、爾して多分日頃から甚蔵に、此の潜戸へ人を入れては成らぬと言い附けられて居るのだ、爾すれば此の潜戸の中に此の家の秘密を押し隠してあるのではなかろうかと、此の様に思ったけれど今は穿鑿する時でない、先ず婆を取り押えようと、三つ四つは 擲 ( なぐ )られる積りで敢然と進んで行くと婆は少年の様に身を軽く潜戸の中へ隠れて了った。 余は其の前を通って二階に入り、甚蔵の寝室と云うへ行って見ると、茲も一方ならず荒れて居て古い寝台二脚の外に蒲.

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「灰色の女」から乱歩版「幽霊塔」への伝言ゲーム : 備忘の都

幽霊塔

作品について [ ] 『 幽霊塔(ゆうれいとう)』は、アメリカの女流作家、( Mrs. Alice Muriel Williamson, 1869-1933)の小説『灰色の女』(: A Woman in Grey, 1898年)を基にした日本の翻案小説。 時計塔のある古い屋敷を舞台に、因縁の人物が入り乱れ、迷路の奥に隠された宝を巡って繰り広げられる探偵小説である。 1899年『幽霊塔』 - が『幽霊塔』の題名で翻案。 に新聞小説として連載(1899年8月9日~1900年3月9日)した。 人名はほとんど日本風に変えられているが原則イギリス人として設定され、舞台もイギリスである。 1937年『幽霊塔』 - 少年時代、涙香のファンであったが1937年、涙香の翻案小説を同題名のままリライト。 舞台を日本にして、登場人物も日本人にしている。 「講談倶楽部」に連載。 なお涙香の遺族に謝礼を支払い、リライトの了解を得ている。 1952年『幽霊の塔』 - が版から翻案した少女向けの探偵小説。 1958年『幽霊塔』 - 版を少年向けにリライトしたもの。 著(1958年8月、東光出版社刊・少年少女最新探偵長編小説集6)。 乱歩は、「名探偵・の青年時代の物語として書きなおしてみました。 」と解説しているが、による代作である。 2008年2月、『幽霊塔』の原作、アリス・マリエル・ウィリアムソン著『灰色の女』の初の日本語訳本(訳、 )が刊行された。 叔父に依頼され、幽霊塔と呼ばれる屋敷の検分に来る。 絶世の美女・松谷秀子と出逢い、時計塔の謎と、秘密の迷路に隠された莫大な財宝を巡る怪事件に巻き込まれていく。 天女のように美しいが、謎の怪美人。 一切の経歴は不明。 時計塔の秘密を知る唯一の人物。 ある恩返しに密旨の為に生きており、そのことから運の尽きというほどの敵があるという。 検事総長を勤めていた。 幽霊塔と呼ばれる屋敷を買い取る。 ニセ電報に呼び出されて屋敷にやってくる。 松谷秀子をひと目見ると気絶するばかりに驚く。 性格は悪く、松谷秀子を虎のいる部屋に閉じこめるなどする。 ある日、密室より消え、堀から首なし死体となって上がる。 輪田お夏の弁護をした。 怪美人・松谷秀子の秘密を知っており、彼女にしつこく求婚している。 Mrs. 蜘蛛のウヨウヨ住む養蟲園主人の姉。 丸部家の財産を乗っ取る為に幽霊塔に戻ってくる。 6年前にはお紺婆殺しのお夏を捕らえている。 地下の一室にヒロインの秘密が隠されている。 あらすじ [ ] 叔父に屋敷の検分を頼まれた光雄は、屋敷に設えられている時計塔の一室で謎の女・野末秋子と運命的な出会いをする。 光雄は、我が儘な許嫁の栄子より、謎が多くとも凛とした秋子に次第に惹かれていった。 ある時、その屋敷の中で怪事件が頻発し、光雄はその事件の渦に巻き込まれていった。 事件の根源は過去にまで遡り、次第に彼は秋子の過去、そして時計塔の秘密に肉薄していく。 (江戸川乱歩版) 映像化作品 [ ]• Alice Muriel Williamson原作(オリジナル版)映画化作品• 「灰色の女」 原題:A Woman in Grey アメリカ 監督:ジェイムズ・ビンセント、出演:エアライン・プリティほか。 翌(大正10年)、日本にも輸入され浅草富士館他で公開されている。 当時の資料によると、黒岩涙香「幽霊塔」の原作「灰色の女」映画化として宣伝されている。 による翻案を原作とした映画化作品• 「幽霊塔」• 「幽霊塔」 監督:、出演:ほか (脚本の岡田豊によると、の原作から脚色したが、完成した映画クレジットには何故か「原作:」になっていたということである。 映画会社が興業上、乱歩人気を狙ったものと見られる。 による翻案を原作としたTVムービー(16mm)作品• ・第10作「大時計の美女」 監督:、出演:(明智小五郎)、ほか ラジオ [ ]• ・「幽霊塔」 による翻案を原作とした。 全9回。 出演:、、脚本:椎名竜治、音楽: 原作『灰色の女』 [ ]• 黒岩涙香版の序文には原書について 「The Phantom Tower,by Mrs. Bendison(アメリカ作家)」とあったが、ら、多くの涙香ファンや研究者、好事家の探索にもかかわらず、長い間、同題名の原作本は発見されなかった。 このため乱歩などは基本的に翻案小説を書く際、一旦大元の原書を読んでいたもののこれは涙香版だけ読んで書いた旨を桃源社版の江戸川乱歩全集あとがきにコメントしている。 2000年、ミステリー作家のがアメリカの古書販売サイトをで調べて原書を入手。 涙香が原作や原作者を偽った理由は不明だが、文芸評論家のは、「原題や原作者をそのまま紹介すると、ライバル紙に結末をばらされるかもしれなかったからではないか」としている。 真偽は不明だが、実のところ涙香が外国小説を連載する時に発表した紹介はでたらめが多い。 例・『白髪鬼』は実話のように紹介している。 多くの涙香ファンや研究者が探索し続けていた原作の存在だったが、()には、アメリカ映画『灰色の女』が日本でも公開されており、日本の映画興行会社では、当時既に、「黒岩涙香『幽霊塔』の原作『灰色の女』映画化」として宣伝していた。 映画は前篇、後篇。 その後、前篇のフイルムを文芸評論家の紀田順一郎が入手したことから、黒岩涙香研究の第一人者、伊藤秀雄がフィルムを実際に見て、ストーリーも登場人物も一致することから、「幽霊塔」の原作が『灰色の女』であることを突き止めた。 紀田は、原作が発表された頃の書評を伊藤に紹介している。 この経緯は、伊藤によって書かれた一連の涙香に関する研究書に詳しい。 伊藤が発表するまで、映画公開についての情報を、涙香研究家の誰も知らなかったのは不思議としか言いようがない。 2008年2月、『灰色の女』の日本語訳本が初めて刊行された( )。 訳者のによると、『灰色の女』は著『』から一部を借用しているという。 「原作を読むことで、作者がはっきり『白衣の女』から借りているところのあることに気づきました。 主要人物がある墓石を間にして対面する場面、また、主要人物の一人が重い心臓病を患っていることが筋の展開の上で大きな意味を持っているところなどは、コリンズから借りたものであるのは間違いないと思います。 」(中島賢二) 関連項目 [ ]• - 2012年から2014年にで連載されたの漫画• - 「幽霊塔」と同じく、の翻案小説をが更に翻案した。 - 源流は幽霊塔であると宮崎駿が証言。 2015年にはの「幽霊塔へようこそ展 通俗文化の王道」では宮崎が展示漫画を描き下した。 脚注 [ ].

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