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エルヴィス・アーロン・プレスリー ( Elvis Aron Presley, - )は、の、。 全世界の総レコード・カセット・CD等の売り上げは6億枚以上とされている 、「」の第1位。 「 キング・オブ・ロックンロール」と称される。 ミドルネームは公文書、サイン共にAronだが、墓石にはAaronと表記されている。 エルヴィス・プレスリー 基本情報 出生名 Elvis Aron Presley 生誕 1935-01-08 出身地 死没 1977-08-16 (42歳没) ジャンル 職業 担当楽器 活動期間 - レーベル 著名使用楽器• D-28• J-200• ギブソン Super400 概要 1950年代にや、、、、ら と共に(ロックンロール)の誕生と普及に大きく貢献した、いわゆる創始者の一人であり、後進のアーティストに多大なる影響を与えた。 その功績から キング・オブ・ロックンロールまたは キングと称され、では 「史上最も成功したソロ・アーティスト」として認定されている。 1950年代に、アメリカやイギリスをはじめとする多くの若者をロックンロールによって熱狂させ、それは20世紀後半のポピュラー音楽の中で、最初の大きなムーブメントを引き起こした。 また、極貧の幼少時代から一気にスーパースターにまで上り詰めたことから、アメリカンドリームの象徴であるとされる。 、、、、、など、後に音楽業界で成功したロック・ミュージシャン、特にボーカリストたちが憧れたことでも知られる。 初期のプレスリーのスタイルは、黒人の音楽であるブルースやと白人の音楽であるを融合した音楽であるといわれている。 それは深刻な人種問題を抱えていた当時のアメリカでは画期的なことであった。 その後全国的な人気を得たが、保守層には「ロックンロールが青少年の非行の原因だ」と中傷され、PTAはテレビ放送の禁止要求を行うなど、様々な批判、中傷の的になった。 KWKラジオではプレスリーのレコード(「」)を叩き割り、「ロックンロールとは絶縁だ」と放送。 さらにフロリダの演奏では、下半身を動かすなとやに言われ小指を動かして歌った。 この時には警官がショーを撮影し、下半身を動かすと逮捕されることになっていた。 しかし、プレスリーの音楽によって多くの人々が初めてロックンロールに触れ、ロックンロールは一気にメジャーなものとなった。 また、いままで音楽を聞かなかった若年層 特に若い女性 が、音楽を積極的に聞くようになり、ほぼ同時期に普及した安価なやプレーヤーとともに音楽消費を増加させる原動力になった。 さらに、音楽だけでなくファッションや髪型などのも若者たちの間に芽生え、が台頭した。 晩年はその活動をショーやコンサート中心に移した。 1977年8月16日、自宅であるにて42歳の若さで死去した。 プレスリーの記録は多数あり、例えば、最も成功したソロアーティスト、最多ヒットシングル記録(151回)、1日で最もレコードを売り上げたアーティスト 死の翌日 、等がによって認定されている。 「」において第3位。 「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100組のアーティスト」において第3位。 「の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第1位。 経歴 生い立ち プレスリーは1935年1月8日、の小さな家で生まれた。 父ヴァーノン・エルヴィス・プレスリー 1916〜79 、母グラディス・ラブ・プレスリー 1912〜58 の3人家族であった プレスリーには双子の兄弟ジェシー・ガーロン・プレスリーがいたが、誕生時に死亡している。 父ヴァーノンが不渡小切手で服役するなど非常に貧しい幼少時代であったが、両親はエルヴィスを大事に育てた。 熱心な(新教)の信者 であり、9歳の時に洗礼を受けた。 11歳の誕生日にはライフルを欲しがったが、当然母親に却下され、代わりに与えられたのがギターであった。 これを機に自宅の地下洗濯部屋で練習し音楽に傾倒していった。 1949年にロウダーデール・コート公営住宅に転居し、プレスリーが13歳の時にへと引っ越した。 メンフィスは非常に貧しい黒人の労働者階級が多かったため、そのような環境の中で黒人の音楽を聴いて育った。 エリス公会堂のゴスペルのショーも欠かさずに観に行っていた。 ある日、毎回欠かさず観に来ていたエルヴィスだったが、入場料を払えないとの理由で1度欠席した。 これに気を留めたのがJ. サムナーで「じゃあ次回からは楽屋口から入るといいよ」と告げ、エルヴィスは無料でショーを観ることができた(1970年代のコンサートではJ. サムナー&ザ・スタンプス・カルテットをコーラス隊として迎えている)。 このことが後のプレスリーの音楽性に大きな影響を与えたとされる。 プレスリーは高校卒業後、精密金型会社で働いた後にクラウン・エレクトリック社に転職しトラック運転手として働いていた。 サン・レコード サン・レコード時代のエルヴィス(1954年) の夏にプレスリーはので最初の両面デモ・を録音するため4ドルを支払った。 サン・レコードの創業者とアシスタントのマリオン・ケイスカーはその録音を聞きエルヴィスの才能を感じ、6月に行方不明の歌手の代理としてプレスリーを呼んだ。 セッションは実り多いものであったかは分からなかったが、サムは地元のミュージシャン、スコッティ・ムーア 、ビル・ブラックと共にプレスリーを売り出すこととした。 プレスリーは最初「 The Hillbilly Cat(田舎者の猫)」という名前で歌手活動を始め、その後すぐに歌いながらヒップを揺らすその歌唱スタイルから、(彼に批判的な人々から)「 Elvis the Pelvis(のエルヴィス)」と呼ばれた。 即興での演奏でドラムスが不在であったため、ベースをかき鳴らしての演奏となった。 ラジオを聴いた人たちは黒人歌手だと勘違いしていた。 また、公演旅行はプレスリーの評判をテネシー中に広げることとなった。 しかし「初舞台の時には死ぬほど緊張した。 観客の声が怖かったんだ」との言葉も残っている。 プレスリーは「彼女たちを来させないなら僕も行かない」と言い張り、向こうが謝罪し多額のお金を積んだが、絶対に行かなかった。 このエピソードの様に、法が施行される前ののアメリカでは、音楽も人種隔離的な扱いを受けている部分が多く残っていた。 当時のロックンロールのヒットソングも黒人の曲をパット・ブーンらの白人がカバーし、そのカバー版が白人向けの商品として宣伝され、チャートに掲載され、またラジオなどで流れる傾向にあった。 たとえ同じ歌を同じ編曲で歌ったとしても、黒人が歌えばに、白人が歌えばに分類されることが常識だった。 プレスリーは、このような状況にあって黒人のように歌うことができる白人歌手として発掘された。 サンとの契約下でプレスリーは5枚のシングルをリリースした。 多くはリズム・アンド・ブルース、またはカントリー・アンド・ウェスタンのヒット曲のカバーであった。 レーベルには「エルヴィス・プレスリー、スコッティー・アンド・ビル」とクレジットされた。 10曲の中で最短の曲は1分55秒、最長のもので2分38秒である。 にプレスリーの両親はプロデューサーの(通称・ パーカー大佐)との契約書に署名し、サン・スタジオとの関係は終了した。 RCAとの契約 とエルヴィス(1956年) プレスリーはにと契約した。 そこでプレスリーは白人らしからぬパフォーマンスを披露したが、これに対してPTAや宗教団体から激しい非難を浴びせられた。 しかし、その激しい非難にもかかわらず、それを見た若者たちは、プレスリーのファンになっていった。 これは1956年4月にチャートの1位に達した。 Heartbreak Hotel はその後数多く登場したミュージシャンに多大な影響を与えた。 レコーディング場所について1950年代はニューヨークにあるを利用したことがあったが、プレスリーのキャリアにおいて、主演映画の挿入歌以外のレコーディング場所で最も利用されたのはにあるである。 しかし、1972年以降はハリウッドにあるRCAスタジオや地元メンフィスのスタジオを利用した。 更に1976年になると、RCAスタッフがプレスリーの自宅(グレイスランド、ジャングルルーム)に録音機材を持ち込み、レコーディングを行った。 後年レコーディング自体に関心を示さなくなったのは、RCAのミキシングやアレンジがプレスリーの意向にそぐわなかったことや良質な楽曲がなくなったこと、コーラスがプレスリーの要求にこたえられなかったこと、体調面など様々な理由があった。 プレスリーは一発撮りと呼ばれる1テイク完成型のスタジオ・ライブ形式のレコーディング・スタイルにこだわった(いくつかのテイクをつなぎ合わせて一つの曲として発表する形式やパートごとの別録りといった選択肢もあったが、プレスリーはそれを嫌い、現在まで発表された曲数が700以上ある中で、そのような形式で発表した曲は少ない)。 そのため、プレスリーの死去後現在まで様々な未発表テイクが発掘されており、その中には発表されたテイクと違った趣向のものもある。 後年、レコーディングに関心がなくなった頃は、体調不良を訴え、「歌のレコーディングは後で必ずするからミュージックだけ録音しておいてくれ」と言うこともあったが、ほとんどの場合、それは実現しなかった。 1956年12月4日、プレスリーは、がレコーディングしているに立ち寄り、彼らとを行なった。 フィリップスにはもうプレスリーの演奏をリリースする権利はなかったが、このセッションを録音した。 も共に演奏していたと長い間考えられていたが、フィリップスが撮らせた写真でしか確認することができない。 このセッションは伝説的な『』と呼ばれるようになった。 年末の『』一面で、プレスリー関連商品が2千2百万ドルを売り上げ、レコード売り上げがトップであることを報じられた。 また『』誌で100位以内にランクインした曲数が史上最高となった。 音楽業界最大手の1つであるRCAでの最初の1年間、RCAのレコード売り上げの半数がプレスリーのレコードであった。 エド・サリヴァン・ショー 当時のアメリカの国民的バラエティー番組『』には、9月と10月、1月と短期間に3回出演した。 なお、広い視聴者層を持つ国民的番組への出演を意識して、ジャケットを着用し出演した上に、当初保守的な視聴者の抗議を配慮した番組関係者が意図的にプレスリーの上半身だけを放送したというエピソードが伝えられている。 そのようなやり取りがあったものの、司会者のが「このエルヴィス・プレスリーはすばらしい青年です」と紹介したことから、プレスリーへの批判は少なくなった上に、アメリカ全土へのプロモーションに大きく役立ったと言われている。 軍歴 陸軍に勤務していた頃のプレスリー に、プレスリーはへの徴兵通知を受けた。 当時のアメリカはを施行しており、陸軍の徴兵期間は2年間である。 プレスリーは特例措置を受けることなく、他と変わらぬ普通の一兵士としてにあるアメリカ陸軍基地で勤務し、に満期除隊した。 徴兵命令が来た際、プレスリーは「闇に響く声」を撮影中で、徴兵を少し延期したことでも話題になった。 徴兵局はパラマウントからの延期の申し入れに対し、「エルヴィスをよこして頭を下げさせろ」と伝えた。 翌日、プレスリーは徴兵局へ出向き、延期の申し入れを行った。 プレスリーは軍在籍中に西ドイツで松濤舘空手を学び、またまで昇進した。 なお空手8段とされているが、それは誤りである。 また在籍中、病気にかかり軍の病院においてだと診断された。 その際、医師はプレスリーの声が変調するのを恐れて、の切除手術は行わなかったが、回復し健康を取り戻した。 映画との関わり 『G. Iブルース』(1960年) 歌手として有名になっていくにつれて、数社から出演の依頼がプレスリーのもとに届いた。 プレスリーは大変喜んで、劇場に通いつめ、演技を独学で勉強した。 初出演映画にはパーカー大佐がプレスリーを映画の主演にさせたかったので配給「 Rino Brothers」を選んだ。 プレスリーはシリアスな演技派を目指していた為、映画内での歌には興味がないと公言していたが、結局パーカー大佐の要請で4曲も歌う羽目になりタイトルも「 Love Me Tender」に変更されて公開された。 プレスリーは当時のガールフレンドに「映画会社がアホな曲を用意してきたんだよ。 せっかくのいいストーリーが台無しになっちゃったよ」と不満を漏らしている。 陸軍入隊前までのまでに4作の映画が製作されたが、いずれも挿入歌ありの主演映画に終始し、おまけに映画挿入歌を収めたアルバムが好評だったため、当時のショウビジネスの世界に新たなビジネスの形態を作り出した。 1960年に陸軍除隊するとパーカー大佐は配給会社数社と長期に渡り出演契約を結んだ為、1969年まで1年に3本のペースで27本もの映画の製作が行われ、活動の拠点をハリウッドに移さざるをえなかった。 おおよその映画は制作費を抑えた挿入歌アルバム付きのものが多かったが、「 G. Blues」、「 Blue Hawaii」、「 Viva LasVegas(ラスヴェガス万才)」等、話題にはなったが、プレスリーの映画は全体的に評価が低い。 評価されたのは「オン・ステージ」「オン・ツアー」など、コンサートをドキュメンタリー的に記録したものだけである。 結局、1956年から1969年まで計31本の映画が公開された中で、プレスリーが望んだ(主題歌以外の)歌のない映画は、公開の「 (殺し屋の烙印)」のみであった。 この映画が製作された頃のプレスリーは1960年代初期と違い、映画への意欲が薄らいでいた時期ではあった(のカムバックを経て、残った契約の消化を急いでいた)が、久しぶりに前向きに臨んだ西部劇で役作りの為にあごひげまではやし撮影された。 しかし、プレスリーの主演映画に対する世間の注目度が低かったこと、脚本の出来もイマイチだったことなどが原因で映画の興行成績は振るわなかった。 そういう状況の中、ミュージカル映画の枠を超えていなかったこと、台本の出来の悪さ 、また、プレスリーが力を入れて撮影したシーンがカットされたことなど、プレスリーの仕事への不満は募っていき、それが歌手としてコンサート活動を再開するきっかけになった。 それ以降は映画の公開はなかったが、プレスリーの死後の1981年には、ほとんどを生前の映像等で構成したライフ・ストーリー的映画「 This Is ELVIS」が公開された。 これらを合わせると、プレスリーが主演した映画は計34本となる。 に、ラスベガス公演中のプレスリーの楽屋をが訪れた。 バーブラは自らが主演する映画「 A Star Is Born(スター誕生)」での共演をプレスリーに依頼し、プレスリー自身も非常に乗り気だったと伝えられているが、後日パーカー大佐が出演料を理由に断った。 1970年代半ば、プレスリー自身が起案し出演する空手家が主人公の映画の撮影を行ったが、完成することはなかった。 理由の一つとして、プレスリーの体調が悪くなることが多く空手を続けられる状況ではなくなり、空手自体をやめてしまったことが挙げられる。 ちなみに、空手の後の太り始めた頃からの趣味はで、医師からの勧めで始めた。 プレスリーは自宅であるグレイスランドの敷地内に専用コートを建てた。 亡くなる1977年8月16日の早朝も友人たちとプレーし、汗を流した。 ビートルズとの会見 プレスリーとビートルズは直接的な接点はなかったが、両者は1965年8月27日、のプレスリーの邸宅で一度きりの会見を果たしたことがロック史に残る出来事として語られている。 ビートルズのマネージャーであるとパーカー大佐の間での「極秘の打ち合わせ」という名目だったが、どこからか漏れてしまい、案の定自宅周辺には野次馬が集まった。 諸説あるが、メンバーの、、、は平静を装いながらも、心を躍らせて招かれた部屋に入った。 そこでエルヴィスはテレビを見ながらベースを練習してくつろいでいた。 「本物のエルヴィスだ」と感激した4人は呆然としてしまった。 そこでプレスリーが「ずっとそうやって僕を見てるだけなら僕はもう寝るよ?せっかく演奏ができると思って待ってたのに」と声をかけたことから、慌てて4人は挨拶し、が始まった。 プレスリーはベースを演奏し、レノンとジョージはギター、マッカートニーはピアノを演奏した。 リンゴはドラムキットが無かったため演奏しておらずやを楽しんでいたという。 プレスリーは彼らの曲も歌い、そのあとで「君たちのレコードは全部持ってるよ」と言った。 これに対してレノンは「僕はあなたのレコードは1枚も持っていない」と発言したことからその場が凍りついた。 これはレノンの若気の至りとも、過激なジョークだったとも言われるが、プレスリーはその発言に気分を害してしまった。 そしてその会見に実際に立ち会ったという記者のクリス・ハッチンスによれば、レノンはさらに当時による関与が拡大を続けていたにプレスリーが賛同する姿勢と、プレスリーのマンネリ気味であったを痛烈に批判した。 これらの事がきっかけでジョンを嫌うようになったプレスリーは(事実上)マッカートニーやジョージが作曲した曲はコンサートで頻繁に取り上げているが、レノンの曲は歌っていない。 レノンはこの発言を反省したためか後日エルヴィスの取り巻きに「エルヴィスがいなければ今の自分は居ない」と伝えるよう頼んだという。 しかしプレスリーはレノンがアメリカに住むようになり、ベトナム反戦運動を積極的に行った頃、ニクソン大統領に「ジョンを追放してほしい」と手紙を出したとも言われている。 この様に、レノンの発言と態度が場の雰囲気を壊したことで、この会見はとても成功したとは言えないものであった。 結婚そして離婚 リサを抱くプリシラとエルヴィス(1968年) には、のアラジン・ホテルでと。 プリシラはプレスリーの駐西独アメリカ軍での所属部隊長の継子であった。 プレスリーは未成年であったプリシラを自分の父親とその妻の家に同居させ、有名なの女子高に通わせて、きちんと卒業させるということをプリシラの母親と継父に約束してプリシラをメンフィスで暮らせるようにした。 しかし、程なく2人はグレイスランドで一緒に暮らすようになっていく。 8年後に結婚し、には娘が生まれる。 その4年後、結婚前から続いているプレスリーの生活習慣(昼と夜が逆転した生活)、メンフィス・マフィア(エルヴィスの取り巻き)といつも一緒の生活、さらに年間何ヶ月にも及ぶコンサートツアーによる別居生活などのさまざまな理由から、プリシラは空手教師のもとに走り、2人の結婚生活は破綻してしまう。 グレイスランドを出たプリシラはリサ・マリーを引き取り、ロサンゼルスに住居を移す。 に正式離婚。 離婚後もプレスリーとプリシラは友人関係にあり、以前よりも密に連絡を取り合うようになったという。 プレスリーがツアーでロサンゼルスにいるときは、プリシラの家を訪れたり、なにか事あるごとにプリシラをグレイスランドに呼び寄せたりして精神的にプリシラを頼りにしていた。 二人は、リサ・マリーがまだ幼かったこともあって、2人が離婚したことでリサが不幸にならないようにと願っていた。 リサとプレスリーは頻繁に会っていたようだ。 プレスリーが死んだその日もリサはグレイスランドにいた。 60年代、70年代の音楽活動 プレスリーの音楽活動は62年の「好きにならずにいられない」までは好調を保っていたが、63年から68年ごろまでは絶不調と言ってよい状態だった。 量産された映画とビートルズの登場に押された影響は否定できず、プレスリー自身もそれを自覚していた。 不調の時代では65年の「クライング・イン・ザ・チャペル」が彼らしい佳作だった。 68年のTVライブで復活したエルヴィスは69年に「サスピシャス・マインズ」 、「イン・ザ・ゲットー」を発売し、カムバックした。 から過密スケジュールでキャリアを再開。 しかし、それはプレスリーを完全な状態へと追い込むものであった。 以降行ったライヴは1000回以上であり、平均すると1年におよそ125回のペースだった。 よりのを中心にショーを行うようになっていた。 プレスリーのコンサートは時代を経て、大規模なものになっていった。 バックもコーラス・グループやピアノ等が新たに加わり、オーケストラまで揃えた多人数の団体に膨れ上がった。 なお派手な衣装は、からの影響と言われている。 また、ラスベガスのステージ編成をそのまま地方公演に取り入れた。 コンサート活動再開後、最後にコンサートを行った公演までチケットは売り切れ状態が続いた。 72年には「バーニング・ラヴ」が大ヒットとなった。 70年代には他に「アメリカの祈り」「ロックンロール魂」などを発売した。 から始まる予定だったツアーも最終日の8月27日のメンフィス公演まで売り切れ、翌28日に同地で追加公演を行う予定だった。 リチャード・ニクソンとの面会 大統領とエルヴィス・プレスリー(1970年) 1970年12月21日には、わざわざの民間機でにジェリー・シリングと2人で出向き(普段は自家用機しか乗らない)、に手紙を手渡した。 一市民であるプレスリーから大統領にあてた手紙である。 ホワイトハウス内は大騒ぎとなり、その40分後補佐官から「大統領が会いたい」と電話があった。 ホテルに到着したが合流し3人でホワイトハウスへ行き、大統領に会った。 ツーショット写真はその際撮影されたものである。 この時プレスリーは、自分は「ドラッグ・カルチャーと、共産主義の洗脳について研究してきた」 とニクソンに語った。 麻薬撲滅に熱心であったニクソン大統領に対して、「ロックが麻薬使用に影響しているとは思わないが、責任は感じている」といい、麻薬取締官の資格を与えられた。 翌週、プレスリーはそのバッジをみんなに見せびらかせて回った。 なお、プレスリーは警察官等のバッジ・コレクションをしており、大変な収集家であった。 この際のエピソードはあまりにも有名なものとなり、後にこのエピソードだけでいくつかの映画になったほか、プレスリーとニクソン大統領とのツーショット写真は、ホワイトハウスの公用写真の焼き増しサービスの中で最も人気が高いものとなった。 トム・パーカー大佐 パーカー大佐とともに(1969年) プレスリーは世界的なスーパースターとなったが、終生アメリカ、カナダ以外でコンサートを行っていない。 海外での公演ができなかった理由は、移民であるパーカー大佐がアメリカの永住権を所持しておらず、カナダを例外としてアメリカ国外へいったん出国すると再入国を許されない事態を恐れた為だったと言われている。 ちなみに、パーカー大佐が出身国に残してきた家族が、大佐がプレスリーに付き添う姿をテレビで見て仰天したという逸話が残されている。 これに対して、パーカー大佐は世界の公演希望に応えるため、衛星中継という方法で、ナマのプレスリーを世界へ送った。 来日公演の要請に対しては、のゴールデンタイムに衛星生中継で視聴してもらえるよう、1973年1月14日に、深夜1時からコンサート『』を開催する形で応えた。 これは日本のゴールデン・タイム(午後7時)にあわせたものである。 放送は約2時間続いた。 この公演のチケットには値段が付いておらず、客が献金したい分だけ払えば、購入することが出来た。 6000席の会場で7万5000ドル集まったので、1人あたり12ドル50セント支払った計算になる。 アメリカでは公開中だった『エルビス・オン・ツアー』と競合することを回避するために、4月4日に放送された。 新たにハワイのビーチや挿入歌がインサートされた、生放送とは別の編集版であった。 既にこのコンサートのライヴアルバムが発売されていたにもかかわらず、この放送を視聴した世帯数は、人類初の月面着陸の映像を視聴した世帯数より多かった。 「プレスリーの離婚の財産分与の資金捻出のため」という名目でパーカー大佐はプレスリーの楽曲の権利をRCAへ売り渡した。 これは将来的に見ても大損な取引だったが、パーカー大佐自身がギャンブルで大損を出していたため、手っ取り早く大金を得るためにプレスリーに伝えないで独断で売った。 離婚に必要な資金は175万ドルでエルヴィスならすぐに回収できるであろう金額だった。 プレスリーがお金がなくなっていったのはこの権利で手に入る印税を受け取れなかったことが関係している。 プレスリー関係者からは「悪名高き73年の取引」といわれている。 この様な理由以外にも、プレスリーはパーカー大佐に対する不満をメンバーたちに多く漏らしていた。 しかし、プレスリーは生涯パーカー大佐をクビにすることはなかった。 ネルソン・ジョージは、「マネージャーのトム・パーカー大佐がプレスリーをどんどん安物のクズにおとしめていった」と評している。 死と埋葬 プレスリーの墓 にテネシー州メンフィスの自宅、で没した。 ガールフレンドのジンジャー・アルデンによって寝室のバスルームの床に倒れているところを発見され、バプテスト記念病院へ搬送されたが、医師は午後3時30分、プレスリーの死亡を確認した。 42歳没。 検視後、死因は処方薬の極端な誤用による不整脈と公式に発表された。 死後、ロニー・マクドウェルは「キング・イズ・ゴーン」を発表した。 あまりにエルヴィスに似ていることと、歌のうまさはおおいに話題となった。 晩年、プレスリーはストレスからくる「過食症」に陥ったことが原因で体重が激増したことに加え、頃からは主治医だったから処方された睡眠薬などを「誤った使い方」で服用していた。 「処方ドラッグをやっていた」とグレン・D・ハーディンなどのメンバー、さらになどのメンフィス・マフィアのメンバーたちも語っている。 グレンは詳しいことは死ぬまで語るつもりはないといっているが、ソニー・ウェストは暴露本を書いて中傷したとされた。 このことについてソニーは「まだ存命中だったエルヴィスを救うためだった」と述べた。 違法なドラッグは一切使用していないが、この処方ドラッグの影響で癇癪持ちになり、体調も維持できなくなってしまった。 イギリスのテレビ局、チャンネル4はプレスリーのDNAに、肥満や心臓疾患を引き起こすものが発見されたと報道した。 当初はメンフィスのフォレスト・ヒル墓地で母親の隣に埋葬されたが、遺体の盗掘未遂事件後に、母親と共にグレイスランドに再埋葬された。 グレイスランドには、プレスリーの様々な遺品やピンクや緑に塗られた、愛娘の名前をつけた自家用機、型「リサ・マリー号」などが展示されており、現在も世界中からファンや観光客が訪れている。 は「エルヴィスの葬儀は見世物ショーになるだろう」と感じ、式に出席しなかった。 死後 プレスリーの急死後、その肖像権は非常に危うい位置にあった。 プレスリーはステージ以外の事は人任せであった。 肖像権は一応管理はされていたのだが杜撰だったため、金儲けの道具とされ、プレスリーのイメージを損なうものであっても簡単に商品化できた。 存命中にはプレスリーは多くの「名義貸し」のつもりで契約書にサインしていたが、相手は「エルヴィスが利益になる」と考え、膨大な予算をプレスリーに用意させようとした(ソニー・ウェストの暴露テープに電話の内容が記録されている)。 死去後まもなくして遺族らが膨大なプレスリーの物的財産を管理する組織を結成、肖像権も管理しようと訴訟を起こした(当時、亡くなった人々の肖像権の取り扱いは帰属等がはっきりしていなかった)。 遺族らは勝訴し、肖像権を手に入れ、以後今日までしっかりと管理されている。 肖像権が管理できるようになって、「エルヴィス・プレスリー」という名を使い現在まで様々なプロジェクトを世界に向かって発信してきた。 プレスリーのキャリアはサン・レコードからデビューした1954年から死去する1977年である。 本業の歌の部門では、数多くの未発表テイクが発掘されている。 最近の話題だと新編集された曲がの公式テーマソングになったり、未発表映像も発掘され、のTVスペシャルや1973年のアロハ・フロム・ハワイのアウトテイクを収録した完全版がリリースされ好評だった。 その他、側近や友人、家族らが語るプレスリーの人物像に焦点をあてた物や、プレスリーのゴスペルに対する思いを映像化した物もある。 エルヴィスの物まねタレント それ以外にもプレスリーをモチーフにした映画の製作やプレスリーの曲が数多くの映画の挿入歌に使用される事も多い。 プレスリーに因んだセリフも数多くの映画の中で聞くことが出来る。 ブロードウェイのミュージカルにも取り上げられる等、そのような話題はとどまる事を知らない。 プレスリーの記録であるナンバー1ヒット曲数18曲が、2019年の19曲によって更新された。 プレスリーの物まね、または成りきる(演じる)事を生業とする人々が世界に存在し、その数は8万5000人と言われている。 また、エルヴィスを尊敬するアーティストも多く、そのようなアーティスト達が一堂に会したトリビュート・コンサートが実現した。 更にには新たなる試みとして、プレスリーのコンサート映像を使用し、それにあわせて当時のバンド・メンバーが演奏する(現)のメンフィス公演が行われ、以後全米各地のほか、ほぼ年に1回のペースでアメリカ以外の地域でツアーを行っている。 彼の死後、プレスリーの生存説、目撃情報などの滑稽な陰謀論やオカルト話が「ウィークリー・ワールド・ニュース」「東京スポーツ」などを中心に相次いで報告された。 年をとったプレスリーを見たという証言がある一方、若い頃そのままのプレスリーを見たという証言もある。 プレスリーが生きているという確実な証拠には300万ドル(約3億4000万円)が支払われる。 出演作品 32本の映画出演作(ドキュメンタリーは除いて)全てが主役という驚異的な記録を残している。 Love Me Tender (1956年)• Loving You (1957年)• Jailhouse Rock (1957年)• King Creole (1958年)• Blues (1960年)• Flaming Star (1960年)• Wild in the Country (1961年)• Blue Hawaii (1961年)• Follow That Dream (1962年)• Kid Galahad (1962年)• Girls! Girls! Girls! (1962年)• It Happened at the World's Fair (1963年)• Fun in Acapulco (1963年)• Kissin' Cousins (1963年)• Viva Las Vegas (1964年)• Roustabout (1964年)• Girl Happy (1965年)• Tickle Me (1965年)• Harum Scarum (1965年)• Frankie and Johnny (1966年)• Paradise, Hawaiian Style (1966年)• Spinout (1966年)• Easy Come, Easy Go (1967年)• Double Trouble (1967年)• Clambake (1967年)• Stay Away, Joe (1968年)• Speedway (1968年)• Live a Little, Love a Little (1968年)• (1969年)• The Trouble with Girls (1969年)• Change of Habit (1969年)• Elvis: That's the Way It Is (1970年)• Elvis on Tour (1972年) グレイスランド Graceland において、ロックンロールという新しい音楽への興味を生じさせた。 、、、、ボブ・シーガー、、 、、、などをはじめとする多くのアーティストが大きな影響を受けた。 ジョン・レノンとエリック・カルメンは、ヴォーカル・スタイルにおいても影響を受けている。 ZZトップ、チープ・トリック、ジョン・シュナイダーらはエルヴィスの曲をカバーした。 ロバート・ゴードン、タフ・ダーツ、ストレイ・キャッツ、ブラスターズらもエルヴィスの影響を受けていた。 日本では湯川れい子、小林克也らがプレスリーのファンである。 歌手では西郷輝彦、、平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーティス、ささきいさお等もプレスリー・ファンとして知られる。 世界中のティーンエイジャーは、プレスリーの「ダックテール」と呼ばれる横髪を後ろへなで付けるヘアスタイルをこぞって真似し始めた。 そして、黒いズボンや緩い開襟シャツといったプレスリーのニュールックは、ファッションの新たな潮流を作り、その大きな需要を生み出した。 プレスリーの影響は、経済大国における大量消費を行う最初のティーンエイジャー世代を生み出した。 エルヴィス・プレスリーを慕うミュージシャンに、の歌手らがいる。 に大統領は「エルヴィス・プレスリーの死は、我が国から大事な一部分を奪いとったようなものだ。 彼の音楽とその個性は白人のカントリー音楽と、黒人特有ののスタイルを融合させ、永久にアメリカの大衆文化の様相を変えてしまった。 彼は、祖国アメリカの活力、自由、気質を世界の人々に植え付けるシンボルだった。 」と語った。 は「彼は白人のアメリカ人に目線を下げるということを教えた」という言葉を書き残している。 の長官は、プレスリーが約20年間を過ごした、テネシー州メンフィスの邸宅「グレイスランド」を国の国定史跡に認定した。 認定の式典は一般公開で行われ、娘であるリサ・マリー・プレスリーも出席した。 性格、嗜好 衣装関係 1970年代のプレスリーは真っ白なジャンプスーツが思い出されるが、それ以外にも紺や青、水色、赤などのジャンプスーツも着ている。 1970年初期のジャンプスーツは動きやすさを念頭に置いたシンプルな衣装であった。 それがどんどん派手になっていき、ケープまで登場した。 金やダイヤモンドやルビーなどを施したジャンプスーツは25kg以上にもなっていた。 前述のように、これは敬愛していた著名なピアニストであるリベラーチェからの影響を受けたものであった。 ただし、プレスリーは宝石類にはあまり興味がなく、ステージ上で華やかに見えるものなら安いイミテーションでも構わないという性格だった。 飲食等 ももやらない。 たまにを吸う程度である。 「オン・ステージ」で観客から酒を渡された時も、口を付けるだけでほとんど飲んでいない。 ステージ上で飲んでいるものは水かである。 や、「ととの」が大好きで、毎日のように食べていた。 今ではこのサンドイッチは「エルヴィスサンド」と呼ばれている。 ただし、このサンドイッチは食べる前に多量のを溶かしたフライパンで揚げ焼きにしたもので、当然ながら高カロリーなため、プレスリーが30代以降体調を崩し、肥満化していった一因になったのではないかという指摘もある。 交友関係 メンバー等• 70年代のプレスリーのバックバンドを務めたベースのはプレスリーから要請が来た時、最初は断るつもりで対面した。 ジェリーは、以外の音楽には興味がなかったからだ。 その場のセッションでエルヴィスがブルースをいじり始め、ジェリーはその歌い方に感銘を受け、バンドに参加する決心をしたという。 しかし、ジェリーが本当に心を魅せられたのはプレスリーの温かい人柄であったという。 雑用スタッフも決して邪険にせず、この曲は嫌いなどということも無かったという。 プレスリーはジェリー・シェフにブルースのソロを振った際、ジェリーはブルース以外の曲も演ろうと思い(公演で何度もブルースは弾いてきたので)アドリブでを弾いた。 それ以降、メンバー紹介の際には「のジェリー・シェフです。 今夜は何を演ってくれるのでしょう?」とMCするようになった。 ピアノのグレン・ハーディンは、プレスリーがリハーサルしていない曲をソロで振ってくることがあったため、それ以来、プレスリーにソロを要求されると思われる曲を練習していたという。 プレスリー復帰後のショーでを務めていた ()は、元々は歌手であった。 プレスリーは休憩時間などにジョンに歌ってもらい、リラックスしていたようである。 1990年代に左半身不随になり、2度とギターは弾けなくなってしまった。 プレスリーの友人で警備担当であるケネディ警部補が同じく警官であった弟を亡くした時、プレスリーは葬儀の資金を全額負担し、バックコーラスであったJ. 葬儀の際に野次馬で式が邪魔されるのを避けるため、プレスリーは警官の制服を着用し、他の参列した警官と共に式に出席した。 グレイスランドの瞑想の庭に記念碑がある)• 身長は183cm。 髪は茶褐色であるが黒く染めていた。 趣味は収集。 の大ファンで、目標としていた。 ディーンの代表作「」の台詞を全て覚え、周りを驚かしたこともある。 ちなみに、プレスリーの代表作「」は、ディーンのために書かれた作品であった。 評論家たちはこの作品を、プレスリーの映画の中で最良の演技をしたと言った。 ホノルルのにある「アリゾナ記念館」は、プレスリーが1961年に行ったチャリティ・ショーによって建てられたものである。 プレスリーによると「1日100万ドル使い続けても使い切れない」とのこと。 友人には車や宝石を頻繁にプレゼントした。 ただし、プレスリーはまるで日課のように多方面、数え切れないほどの多くの団体に寄付した。 殆どが非公式や匿名で行われたものだった為、明確には把握出来ていない。 プレスリーは友達だと思った人間には尽くすタイプだった。 反対に「エルヴィスのお金や贈り物を求めて近付いてくる人間には、その姿勢に気付き距離を置いていたようである」とバンド・メンバーは回想している。 に対する差別には反対であったが、全盛期の1950年代からにかけてアメリカ合衆国に広がったには、関与しなかった。 元自家用機の「リサ・マリー」• と交流があり、アリに金色のマントを送ったが、それを初めて着用して登場した試合で敗れたので、以後2度と着用することはなかったが、アリはそれを大事にした。 アリは金色のマントをもらったので、お返しにプレスリーに金色のアリのサイン入りグローヴを送った。 プレスリーもこれを大事にした。 部屋に篭りがちだったプレスリーに、アリが「外に出てファンと交流した方がいい」とアドバイスした所、プレスリーは「もみくちゃにされるから外に出られない」と答えたという。 ファンサービスが大好きだったアリは後年「エルヴィスは解っていなかった。 ファンは誰もエルヴィスに危害を加える気は無かったんだ」と語っていた。 だが実際はメンフィス・がプレスリーとファンの間に壁を作り、プレスリーをホテルの最上階に閉じ込めて、窓ガラスに銀紙を貼り、隔離していた。 プレスリーが死に、自身も引退した後、アリは親友のカメラマンに「俺が通りを歩いてて、向こうの通りをエルヴィスが歩いてたら、人はどっちに注目すると思う」と訊ね、カメラマンが「難しいな。 外国じゃあんただが、国内(アメリカ)じゃエルヴィスじゃないかな」と答えた。 するとアリは「そうだろうな。 エルヴィスは大分前に死んだから、人は彼が本物かどうか確かめようとするだろうな」と語ったという。 日本の首相だったは、プレスリーとゲイリー・クーパーのファンだった。 大統領ジョージ・W・ブッシュと共にグレイスランドを訪問し、小泉は遺族から借りたをはめて「グローリー グローリー ハレルーヤー」と「An American Trilogy(アメリカの祈り)」を披露した。 現在グレイスランドには元自家用機の「リサ・マリー」(機体記号N880EP)が展示されており、機体内部を含めて公開されているが、世界でも数機しかないコンベア880の現存機の内の1つでもある。 この機体はに(当時の機体記号はN8809E)から購入したもので、没後のに登録抹消されている。 愛車は1959年型。 メンフィス グレイスランドの前の通りはエルヴィス・プレスリー・ブールバード(大通り)という。 世界中のプレスリーのファン、ファンクラブからの募金のみで運営しているセイント・パウロ・エルヴィス・プレスリー記念病院がある。 主な使用楽器 D-18 デビューから徴兵までコンサートで使い続けていたギター。 RCAファースト・アルバムのジャケット写真(1955年フロリダ公演)など弦が切れた状態で演奏されていた。 また、カントリー・ミュージシャンが使っていた革のギター・カバーを被せて使用した。 ブリッジ・ピンを何度も紛失している。 1969年のステージ復帰後、長らくギブソン製を使っていたが、1977年のツアーで新品のD-18で演奏している。 あまり弾きやすいギターではなかったようで、側近のレッド・ウェストとの電話で「新しいマーティンのギターが弾きにくい」と愚痴をこぼしている。 マーティンD-28 主にテレビ・ショウで使用された。 ドーシー・ショウやミルトン・バール・ショウで使用。 映画「さまよう青春」、「闇に響く声」などで使用された。 ボディが大容量なため、大音量が出せる。 1968年のTV番組「エルヴィス」ではシット・ダウン・ショウで使用。 ギブソン・J-200(特注品) 1960年にプレスリーが特注で作ったギターで、プレスリーがデザインした幾何学的なピックガードを装着していた。 また、指板にはELVIS PRESLEYとインレイが施されている。 1969年の公演再開から1971年までステージで使い続けた。 「」でも確認できる。 ストロークが激しいため、ギター上部(ピックガードの反対側)はピックで塗装面がかなり削れてしまっている。 (特注品) 1971年からJ-200に代わって使用したギター。 J-200と違い、スクエア・ショルダーとなっていて、角ばったデザインが特徴。 DOVEという名称の由来のピックガードの鳩のプリントは無い、オール・ブラックのモデル。 ピックガードは白とのプライ加工されており、縁取りが見えるようになっている。 また、指板には筆記体でElvis Presleyとインレイが施されている。 さらにアメリカ・ケンポー・カラテ協会のステッカーを貼っていた。 75年から76年にかけて使用していたギター。 ピックガードにハチドリのプリントが施されている。 ダヴと同じくスクエア・ショルダー・タイプ。 6弦ベースと6弦ギターののモデル。 通常のEBS-1250はドットインレイだが本モデルはレスポールやSGのような台形のインレイを採用した。 アコギの様にヘッドにストラップを付けて映画「カリフォルニア万才」で使用。 ハグストロム・ヴァイキングII テレビ・ショウの「エルヴィス」で使用したギターでワイン・レッドのモデル。 スウェーデン製。 非常に硬質で特徴的な音色。 オープニング、スタンド・アップ・ショウなどで使用されたが、プレスリーの所有物ではなく、テレビ出演に当たって借り受けたもの。 69年から70年まで公演で使用したギター。 のシグネイチャー・モデルである。 ホロウボディだがFホールはペイント。 ドキュメンタリー映画「」のMGMリハーサル撮影の合い間にも使用している。 同映画に収録されたインターナショナル・ホテルでの公演でも使用。 公演ではイスに座り、このギターを弾きながら歌った。 (オリジナル・プレシジョン・ベース) 1957年5月3日、映画「監獄ロック」の劇中曲「ベイビー・アイ・ドント・ケア」を収録中に使用。 ベーシストのビル・ブラックは奏者であり、与えられたエレクトリック・ベースを上手く扱うことができず、怒ってスタジオを出て行ってしまった。 そこでプレスリーが投げ出されたこのプレシジョン・ベースを弾いた。 1957年にリニューアルされる前の仕様。 記録 プレスリーの記録には限りがないが、代表的なものや、興味深いものを挙げる。 ギネス・ワールド・レコーズ編• 世界で最も成功したソロ・アーティスト• 全米No. 1シングル18曲(歴代3位)/全英18曲(歴代1位)• 最多ゴールド、プラチナ、マルチ・プラチナレコード獲得数:140タイトル• 全米No. 1アルバム9作/全英6作• 全米チャート入りレコード149作/全英98作• シングル発売133枚• 最も長期に渡ってNo. 1アルバムをチャートに送り込んだアーティスト(1956〜2002年)初のNo. 1アルバム「エルヴィス・プレスリー登場!(1956)」から「ELVIS(2002年)」まで。 最多ヒットシングル記録(151曲)ビルボードtop100へのエントリー回数151回は最多。 1日で最もレコードを売ったアーティスト(エルヴィス・プレスリー/死の翌日、1977年8月17日) 2,000万枚以上の売り上げ。 プレスリーの死の衝撃が物語れる。 世界に最もファンクラブが多いアーティスト(エルヴィス・プレスリー)世界で(死後にもかかわらず)625のファンクラブが現在活動中である。 世界で最も訪問される墓(グレイスランド) エルヴィスの墓であるグレイスランドは、年間約70万人が訪れる墓。 死後18年にあたる1995年には、歴代最多の753,965人が訪れた。 アメリカの国定史跡。 統計、評論家などによる投票 (エルヴィス・プレスリー/米1986年) 1986年、アメリカで始まったロックの殿堂は、ロック史上優れたアーティストやプロデューサーを登録している。 プレスリーは第1回目で選ばれた。 (エルヴィス・プレスリー/英2004年) 2004年、イギリスで始まった、UKミュージック・ホール・オブ・フェイム(音楽の殿堂)は、音楽史上優れたアーティストやプロデューサーを登録している。 プレスリーは第1回目で選ばれた。 2007年、この殿堂は資金不足のため、廃止された。 カントリーの殿堂(エルヴィス・プレスリー/米1998年) 1998年、により、カントリーの殿堂入りを果たした。 伝統的な同教会が認めたことは、プレスリーの音楽の真価を証明するものだった。 9月23日、、の・ハウスで授賞式が行なわれた。 ゴスペルの殿堂(エルヴィス・プレスリー/米2001年) 2001年、により、ゴスペルの殿堂入りを果たした。 11月27日に、テネシー州、フランクリンのピープルズ・チャーチで授賞式が行われた。 ちなみにロックとカントリー、ゴスペルの3つの殿堂入りを果たしたのは、プレスリーとだけである。 世界の音楽を最も変えた曲(エルヴィス・プレスリー/That's All Right) イギリスの雑誌『Q』によって発表。 音楽のジャーナリスト達の投票により決定。 プレスリーの音楽の始まりであり、ロックの原点とも言われる曲「ザッツ・オール・ライト」が、「音楽と世界を永遠に変えた革新的な100曲」の第1位に選ばれた。 2位はビートルズの「I Wanna Hold Your Hand」。 死後、最も売り上げが多いアーティスト(エルヴィス・プレスリー) 経済誌「Forbes」により毎年(10月下旬)発表。 死んだ著名人の1年度の売り上げを順位付けしたものである。 2001年から発表が始まり、プレスリーは2005年まで5年連続1位に輝いた。 2006年は、カート・コバーンの著作権が売却されたことにより2位になったが、翌2007年には4900万ドル(約56億円)で再び首位を奪回し、2008年度も5200万ドル(約51億円)で1位になった。 毎年大体50億〜60億あたりの売り上げを誇っている。 プレスリーが「イギリスで1番売れたアーティスト・トップ100リスト」の第1位になった。 1952年からのチャート・イン週間数の総計を基準としたものである。 毎年発表される。 上位にはやらがいる。 雑誌や一般による投票 ロック史上最高の服装(エルヴィス・プレスリー/白いジャンプ・スーツ) 約1万2千人の音楽ファンによって投票。 「最高のロック・アウトフィットtop10」での投票で、プレスリーの「白いジャンプ・スーツ」が、ロック史上最高の服装として歴代第1位に選ばれた。 2位は、の「ゴールドのホット・パンツ」。 最もサインに価値があるロック・ミュージシャン(エルヴィス・プレスリー) カリフォルニア州のサイン専門誌「Autograph Magazine」により発表。 最もサインに価値のあるロック・ミュージシャン第1位に、プレスリーが選ばれた。 2位はビートルズの。 詳細は「」を参照 公式リリース音源の数は800曲を超える。 Follow That Dream レーベル プレスリーがそのキャリアにおいて発表した曲の未発表テイクが数多く存在するが、プライベート録音を含め、すべての残されたプレスリーの音源を聴きたいというファンの要望に応えるべく立ち上げられたものが、主演映画のタイトルから引用した レーベルである。 このレーベルのアルバムは限定生産され、世界中のに優先的に流通させるので一般のCDショップ等に出回りにくい。 に第一弾 Barbank'68(のNBC-TVスペシャルのリハーサルの模様を収録)がリリースされた。 以後、定期的に貴重な音源が次々とリリースされ続けている。 わずかだが一つの曲のすべてのテイクを聴くことが出来たり、コンサートアルバムはプレスリーのコンサートを体験することが出来なかったファンにも(音声だけだが)追体験出来るような内容になっている。 1962年4月21日から2週連続で1位を獲得した「」を最後にプレスリーは1位から遠ざかったが、、「サスピシャス・マインド」が1位を獲得し、「プレスリーの復活」と言われた。 1972年10月28日には「」が2位まで上り詰めたが、の「マイ・ディンガリング」(から2週連続1位)に阻止された。 においてはプレスリーは一度も1位を取ることはなかったが、にリメイクされた「」は世界24カ国でナンバー1を取得した。 アメリカにおいて1位を獲得したシングルの数は18作〈計79週間〉で、ビートルズの20作〈計59週間〉、マライア・キャリーの19作〈計82週間〉に次ぐ歴代3位の記録となっている(誌に準拠)。 1986年殿堂入り 、カントリー 1998年殿堂入り 、ゴスペル・ミュージック 2001年殿堂入り の3部門のいずれも殿堂入りした初のアーティストとなった。 また、今のところ楽曲においては3回(通算5回)グラミー賞を受賞しているが、3回ともロック部門ではなくゴスペル部門においての受賞であり、プレスリーは終生この事を誇りにした。 全米ナンバー1獲得曲 ナンバー1ヒットは全18曲、合計79週間である。 曲数は、に次ぐ歴代3位である。 週間数に関してはに次ぐ歴代2位である。 Heartbreak Hotel 7週間連続1位• I Want You,I Need You,I Love You 1956年 1週間1位• Hound Dog 1956年 11週間連続1位• Love Me Tender 1956年 5週間連続1位• Too Much 3週間連続1位• All Shook Up 1957年 8週間連続1位• Let Me Be Your Teddy Bear 1957年 7週間連続1位。 エルヴィスは「なぜこんな曲が7週もNo. 1になったのか」と疑問に思ったという。 Jailhouse Rock 1957年 7週間連続1位• Hard Headed Woman 1週間1位• Stuck On You 4週間連続1位• Are You Lonesome Tonight? 1960年 6週間連続1位• Surrender 1960年 2週間連続1位• Good Luck Charm 2週間連続1位• Suspicious Minds 1週間1位 その他• Now and Then There's A Fool Such as I 1959年 全米2位、全英1位• Return to Sender 全米2位、全英1位• In the Ghetto 1969年 全米3位、全英1位• Burning Love 1972年 全米2位、全英7位 プレスリーを扱った作品 プレスリー本人が描かれた作品• TV映画『』 Elvis(1979年) - 彼の生涯を描いたストレートな伝記作品。 プレスリーをが演じる。 映画『』 Elvis Meets Nixon(1997年) - プレスリーとニクソン大統領との会合を描いた作品。 プレスリーをリック・ピータースが演じる。 TV映画『ELVIS エルヴィス』 Elvis(2005年) - スターになる以前のプレスリーから描いた伝記映画。 プレスリーを演じたは 主演男優賞(ミニシリーズ部門)を受賞。 Viva Elvis ビバ・エルビス)- 2010年2月19日から2012年8月31日までのアライアで公演されていたのショー。 約30曲の代表曲と生前のプレスリーの映像とパフォーマンスを組み合わせた構成となっていた。 プレスリーをが演じる。 ドキュメンタリー映画『』(2017年) プレスリーのドキュメンタリー。 日本未公開。 プレスリーに関連した作品• 映画『』 - 無名時代のプレスリーがガンプの家に泊まり、背骨の固定装置を足に着けたガンプの動きにヒントを得て独自のステージパフォーマンスを編み出すというくだりがある。 また、劇中でガンプの母親が「子どもの見るものではない」と当時のプレスリーに対する親の考えが表されている。 映画『』() - プレスリーのゆかりの地としてメンフィスを訪れる若い日本人観光客のカップルのエピソードが含まれている。 女の子のミツコはプレスリーに心酔している。 プレスリーの亡霊が登場したり、ラジオからプレスリーの曲が流れたりもする。 映画『』 Bubba Ho-Tep(2006年) - 主人公はが演ずるプレスリー。 プレスリーは現在も、人知れず南部のとある老人ホームで余生を送っており、1977年に亡くなったのは実はそっくりさんだったという設定。 - に発表されたアルバム『』、及びそのタイトル曲は、エルヴィスの家の影響を受けている。 タイトル曲は、後にを獲得した。 TVシリーズ『』 - 大のプレスリー・ファンであるジェシー・カツォポリス Jesse Katsopolis が主役。 作品の随所にプレスリー関連のネタが登場する。 1度だがラスベガスへ行ったときには「ラスベガス万才」と同じ空撮の映像にが歌った「Viva Las Vegas」が流れる。 また、まだ母体の中に居る段階の子供に生まれるまでずっとプレスリーの曲を聞かせようとしたり、子供部屋の装飾を全てプレスリーグッズにしようとするエピソードもあった(結果的には未遂に終わるが)。 また初期はプレスリーを模した髪形をしていた。 TVシリーズ『』- プレスリー似た者コンテストの優勝者が次々と撲殺される事件が起き、のために主人公ハマー刑事がコンテストに出場するエピソードがある。 の小説 Ambient や Elvissey(ともに未訳)で描かれる近未来世界では、プレスリーの復活を信じるE教会( the Chirch of E)という宗教が登場する。 Elvissey では、E教会の信者たちが、プレスリーのそっくりさんファッションに身を固めて、 Elcon という集会を開催するシーンがある。 映画『』 True Romance 1993年 - プレスリーのファンである主人公を励ます幻影として登場する。 が演じた。 映画『』 - が車内でプレスリーの歌をかけるシーンでが「エルヴィスは死んだんだぞ」と言うと「死んでないよ、故郷の星に帰ったのさ」と返すシーンがある。 映画『』 The Last Elvis(2012年) - プレスリーのトリビュートアーティストの物語。 映画『 』 Pawn Shop Chronicles 2013年 - プレスリーのトリビュートアーティストが主要人物として登場する。 映画『』 The Boss Baby(2017年) - プレスリーに扮した何十人もの男が登場する。 『Blue Moon Over Memphis』 - 米国人劇作家による2001年の英語能作品。 エルビスの邸宅グレイスランドを訪れた熱烈な女性ファンの前にエルビスの霊が現れるという作品で、日本語を母語としない能の研究者を中心に結成されている「シアター能楽」により2000年代より米国で演じられている。 日本の能面師が制作したエルビスの面を使用。 The Morning Call 2018年4月26日• www. scotsman. com. 2019年3月31日閲覧。 Alex, Michael. The Courier. 2019年4月9日閲覧。 www. biwa. 2019年4月9日閲覧。 www. elvis. net. 2019年4月9日閲覧。 Heritage Auctions For Collectors By Collectors 2014年12月3日. 2019年4月9日閲覧。 www. elvis. com. 2019年4月9日閲覧。 [ ]• www. elvis. net. 2019年4月9日閲覧。 Q - 100 Greatest Singers 2007年4月. 2013年5月21日閲覧。 , p. , p. 131. , p. , p. 439. - LIFE. TIME. com(). 2013年9月10日閲覧. プレスリーは映画の台本を叩きつけ、「ふざけるな! にに車の選手、全部同じストーリーだ」と激怒し、撮影現場に行かなかったこともあった。 レノンは以前もアメリカに公演に来た際、プレスリーを馬鹿にするような行動をとった• ドーナツの食べ過ぎが原因だったというデマがあった。 「急逝したミュージシャン40名 死の真相」49ページ。 インテルファン。 シネマトゥデイ 2018年2月8日. 2018年4月10日閲覧。 Deborah Brevoort• - (英語)• Updated daily - An Award winning website. Insight on Elvis• Fansite dedicated to the films of Elvis Presley• Freedom of Information Act files on Elvis• : Elvis fansite in German and English. : Updated several times a day, this website gives you a summary of every Elvis-related news around the world. : Fansite. on Elvis Presley's Scottish roots• : Information about the Aloha from Hawaii show(1973) and the Hawaiian movies. on Hotshotdigital. com• : A very good source for news and reviews of new CD releases, both official and bootlegs. Emphasis on Elvis' career in the '50s and '60s• : Elvis fan stories, song poll, Elvis fanaticism test•

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エルヴィス・プレスリー

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水は水素と酸素が化学的に結びついて出来た物質である事は御存知かと思います。 水の分子は、1個の酸素原子に2個の水素原子が結合した構造をしていて、2個の水素原子は酸素原子を挟んで一直線上に並んでいるのではなく、「く」の字型に折れ曲がった形に結合していて、酸素原子の中心とそれぞれの水素原子の中心との間を直線で結ぶと、その2本の直線が成す角度は104. 5度になっています。 また、酸素原子は電子を引き寄せる力が強いのに対し、水素原子は電子を引き寄せる力は比較的弱い原子です。 このため、水分子では、酸素原子がマイナスに帯電し、水素原子がプラスに帯電しています。 (6角形の頂点の角度は120度で、104. 5度に近い角度である上に、6角形は平面を隙間なく埋める事が出来る図形であるため。 5角形の頂点の角度である108度の方が104. 5度に近いのですが、5角形では隙間が出来てしまいます) そして、水が氷の結晶になる際には、水分子は完全に「平面を埋め尽くす6角形の形」に並んでしまいます。 処で、「圧力をかける」という事は、圧縮して密度を高めようとする力を加えるという事ですから、密度が低い状態でいるよりも、密度が高い状態となった方が安定します。 そのため、氷に圧力を加えますと、氷よりも密度の高い液体の水になった方が安定であるため、圧力が高くなる程、融点が下がって行きます。 そして、氷の温度よりも、その圧力が加わっている状態における融点の方が低くなれば、氷は融けて水になる訳です。 但し、圧力を際限なく高くして行ったとしても、氷の融点の方はどこまでも低くなる事は出来ません。 何故なら、水の固体には、普通の氷である氷Ih以外にも、高圧力の状態でのみ存在する、結晶構造(分子の並び方)が異なる種類の氷が何種類も存在し、それらの高圧の元でのみ安定となる氷は、液体の水よりも密度が高いため、普通の氷よりも融点が高く、その上、圧力が高ければ高い程、融点が高くなるからです。 そのため、圧力が209. 9MPa(約2072気圧)の場合に、融点が-21. 北極海の平均水深は1330mで、最深部でも5440mに過ぎません。 【参考URL】 日本北極海会議 報告書 - 海洋政策研究財団 これでは、海水の密度をちょっと大きめに考えて1. 9MPa(約542気圧)程度ですから、融点が極端に下がる程でもありませんから、北極の温度の方が、氷山の「下の方」の融点よりも低いためではないかと思われます。

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氷に圧力をかけると溶けるのはなぜ?

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脳卒中の種類は脳出血と脳梗塞、 くも膜下出血の事を言います。 脳出血 別名、脳溢血と呼ばれることもあります。 主に脳内にある小さい動脈が切れて血が 出てしまい起こる病気です。 症状として手足がしびれたり意識が なくなったりします。 出血した部分で症状が変わりますが大体が 高血圧性脳出血という症状になります。 私が実際に行っている生活習慣病対策のための情報を載せています。 脳梗塞 脳に流れる血が血管に詰まって血が 流れなくなり、脳に流れる血の量が減って 組織を壊してしまう病気です。 病気に状態で症状が大きく変わり、 脳血栓症と脳塞栓症というものに 分けられます。 くも膜下出血 くも膜下のくも膜とは頭の骨と脳や脊髄の 間にある膜の事をいいます。 くも膜下出血はくも膜の内側に流れている 動脈が破れてしまい血が流れる病気のこと を言います 主になる原因は動脈にできたこぶがが破裂 して起きます。 症状として頭痛や吐き気などが破裂した 直後に起きます。

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