藤原 家。 藤原道長の子孫は現代にもいる?藤原氏はその後どうなった?

藤原家の由来をチェック!不比等をルーツに持つ藤原家の家紋とは?

藤原 家

概要・歴史・観光・見所 藤原家住宅(南木曽町)概要: 藤原家住宅は中山道(木曽路)のとの間宿である大妻籠近くの上平集落に位置しています。 建築年代は棟札や古文書などが無く不詳ですが、工法や間取り、意匠などから17世紀中頃(1650年代前後)に建てられたと推定され長野県内に現存する古民家の中では最古級の古さを誇ります。 「にわ(床の仕上げは土間、玄関からの動線や作業場として利用されたと思われます)」、「かって(床の仕上げは板、板間の作業空間、囲炉裏があり現在でいう居間のような役割を持ち一家団欒が行われた思われます)」、「ねま(床の仕上げは板、1間幅の小部屋、個室として利用されたと思われます)」などの部屋があり、天井が無く梁や桁、束などの構造材が現し、囲炉裏や火棚、神棚、竈などが備えられていました。 藤原家住宅は随時、快適な生活が出来るように間仕切りや仕上げなどが改変されきましたが、昭和60年(1985)度と61年(1986)度の2ヵ年をかけて解体復元工事が実施され、現在は往時の姿に戻り、希望者は内部を見学することが出来ます。 案内板によると「 ・・・(前略)・・・この住宅は改造が大であったが、当初部分は県内民家で最も古いクラスで、建築年次は、間取り・構造・仕上がりから、17世紀半ばまでさかのぼると考えられる。 昭和53年7月27日に県宝に指定された。 昭和60年度と61年度の2ヵ年をかけて解体復元工事が実施され、往時の姿がよみがえった。 希望者は内部を見学することが出来る。 」とあります。 藤原家住宅は江戸時代初期の古民家建築の遺構として貴重な事から昭和53年(1978)7月27日にに指定されています。

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藤原家保

藤原 家

没年:仁治2. 20 1241. 26 生年:応保2 1162 鎌倉前期の歌人。 歌人俊成 と若狭守藤原親忠の娘 美福門院加賀 の次男として生まれる。 歌人として出発したのは治承2 1178 年のころと考えられ,その年の3月の賀茂別雷社の歌合に出詠しているが,同じ年に父が摂関家の九条兼実の歌の師範になったことから,父の歌の家への情熱を一身に受ける。 翌年に内の昇殿が認められ,このころから日記『明月記』をつけ始めた。 やがて治承・寿永の内乱の時代にあうが,定家は「紅旗・征戎,吾が事にあらず」と日記に記している。 親しく仕えていた高倉天皇が養和1 1181 年1月にこの世を去り,深い悲しみに襲われたものの,父の配慮から九条家の保養を得,また母が仕えた八条院の庇護も得て,和歌に専念し始めた結果,『初学百首』を詠んでいる。 次いで寿永2 1183 年に父が後白河上皇の命によって『千載和歌集』の編纂を行うことになり,その手伝いをするなかで歌の家の継承を目指していった。 源平の争乱も終わった文治1 1185 年には殿上において闘乱事件を起こし除籍される失敗もあったが,これも父のとりなしで事なきを得て,翌年に九条兼実が摂政になると,九条家に仕えるようになった。 九条家では兼実の子の良経や兼実の弟慈円との交流があり,さらに殷富門院に仕える女房大輔や古くから父の関係していた徳大寺家に連なる人々,殊に歌人西行などとの交流から和歌の研鑽に励む。 なかでも良経を中心にして俊成や慈円,寂蓮,藤原家隆などの集まった九条家の歌壇に属し新風を起こしていった。 『源氏物語』や『白氏文集』などの古典に学び,本歌取りの技法を駆使した歌は「新儀非拠の」との非難さえ浴びた。 やがて後鳥羽上皇が和歌に執心し始め正治2 1200 年に百首歌を企画してからは後鳥羽上皇に見出され,建仁1 1201 年7月27日に和歌所が置かれると,寄人に選ばれたばかりか,さらに『新古今和歌集』の編纂を藤原有家,源通具,藤原家隆・雅経,寂蓮らと共に命じられ,こうしてその和歌は大いに開花した。 また鎌倉の源実朝からは和歌の指導を求められて『近代秀歌』を贈るなどして声望はあがった。 ただ官位の昇進は遅く,建仁2年に中将となり,公卿になったのは建暦1 1211 年の50歳のときであった。 承久の乱直前には後鳥羽上皇から勅勘を被る事件もあったが,それが幸いして乱にはくみすることなく,乱後に歌人の名声はいよいよ高まって『新勅撰和歌集』を編集するなど,中世最高の歌人と評されるところとなった。 貞永1 1232 年に権中納言になって京極中納言と称され,その翌年病を得て出家,法名は明静。 王朝和歌と文化の再興を目指していた定家は,歌学にも熱心で様々な和歌集や歌論書を作っている。 『近代秀歌』では自分の歌を「余情の体」と,また『毎月抄』では「有心体」と称している。 和歌の自選集に『拾遺愚草』がある。 日記『明月記』は,官位へのこだわりが強く狷介で激しやすい歌人の素顔が窺え,また他人への悪口が満ちているなど極めて個性的な日記である。 そこからは歌の家への強い執着心が読み取れ,公事に詳しく研究熱心な様も浮かんでくる。 謡曲「定家」は式子内親王との恋を描いているが,事実は不明である。 〈ていか〉ともよばれる。 父は俊成,母は藤原親忠の女で,初め藤原為経 寂超 の妻となり隆信を,のち俊成の妻となった。 兄は10人以上あったが成家のほかはすべて出家,姉も10人以上あり妹が1人あった。 定家は14歳のとき,16歳には痘にかかりいずれもに陥り終生呼吸器性疾患,神経症的異常に悩まされた。 19歳の春の夜,梅花春月のに一種狂的な興奮を覚え,独特の妖艶美を獲得した。 この美に拠って86年 文治2 和歌革命を行い 《二見浦百首》 ,天下貴賤から〈新儀非拠達磨歌〉との誹謗(ひぼう)を受け,14年間苦境にあえいだ。 出典 株式会社平凡社 世界大百科事典 第2版について の解説 [生]応保2 1162 [没]仁治2 1241. 京都 鎌倉時代前期の公卿,歌人,古典学者。 「ていか」とも読む。 父は俊成。 母は親忠の娘美福門院加賀。 権中納言正二位。 72歳で出家。 法名,明静 みょうじょう。 早くから歌才を発揮したが,青年期の作品は晦渋で,六条家など旧派の歌人たちから「新儀非拠達磨歌」と非難された。 後鳥羽上皇に認められ,父の死後は宮廷和歌の第一人者となった。 和歌所寄人。 『』撰者の一人。 『』巻十一,巻十二の判者をつとめ,貞永1 1232 年には『』を単独で撰進。 歌風は観念的傾向が著しいが,華麗,妖艶で,特に恋の歌に秀歌が多い。 書は肥痩の調子に独自の風格を出し,『土佐日記』,『小倉山荘色紙形和歌』 『』の原形 などが著名。 真跡および伝称の筆跡がきわめて多い。 家集『』のほか『定家卿百番自歌合』,歌論書『』『』『』,注釈書『』 21 ,『』 26 ,『源氏物語奥入』 27 ,日記『』,物語『 まつらのみやものがたり 』など多数の著書がある。 鎌倉初期の歌人、歌学者、古典学者。 名は、「さだいえ」とも。 父は俊成。 母は藤原親忠の娘。 正二位権中納言まで進んだ。 晩年出家し、法名は明静。 「新古今和歌集」の撰者の一人で、「新勅撰和歌集」「小倉百人一首」の撰者でもある。 新古今時代の代表歌人で、その和歌・歌論は以後の文芸や文化に深い影響を与えた。 また、「源氏物語」など多くの古典の書写や校訂などを行なって、以後の本文研究の規範となった。 日記に、一九歳から五六年間書きつづけた「明月記」がある。 家集に「拾遺愚草」があり、歌学書に「近代秀歌」「毎月抄」「詠歌之大概」など、研究書に「顕註密勘」「僻案抄」「源氏物語奥入」など多数の著作がある。 〈ていか〉ともよばれる。 父は俊成,母は藤原親忠の女で,初め藤原為経 寂超 の妻となり隆信を生み,のち俊成の妻となった。 兄は10人以上あったが成家のほかはすべて出家,姉も10人以上あり妹が1人あった。 定家は14歳のとき赤斑瘡,16歳には痘にかかりいずれも危篤に陥り終生呼吸器性疾患,神経症的異常に悩まされた。 19歳の春の夜,梅花春月の景に一種狂的な興奮を覚え,独特の妖艶美を獲得した。 この美に拠って86年 文治2 和歌革命を行い 《二見浦百首》 ,天下貴賤から〈新儀非拠達磨歌〉との誹謗(ひぼう)を受け,14年間苦境にあえいだ。 出典| 株式会社平凡社 世界大百科事典 第2版について.

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藤原定家

藤原 家

概要 [ ] 藤原北家は、の中では最も遅い時期に興隆し、その結果として、藤原四家の中では最も栄えることになった。 祖の房前は朝でに先んじてに昇進すると、後に祖父以来のとなり、元正天皇の側近としてと政権を争った。 朝になると、6年()により政権を掌握し、でも中心人物として政権を主導したが、天平9年()の蔓延により他の兄弟とともに病没してしまう。 その後後期~初期にかけては、朝で房前の子である・がに昇るが、朝では永手の嫡男・は早逝し、魚名はにして失脚したこともあり、・に押されがちの状態にあった。 しかし朝以後、2年()ので南家の、弘仁元年()ので式家の勢力が衰えると、の信任を得たが急速に台頭し他家を圧倒するようになった。 さらに、冬嗣がの、その子がの、そしてその養子(甥)がとの、それぞれのとなり、北家が三代にわたっての地位を保ち続けたことが、同家の優位を確固たるものにした。 これが以後の、北家 = = 、という図式を決定づけることになり、この系統による「」が後の・父子の時代に全盛を極める。 その子孫はに別れたが、の最高はひきつづきこの五家が独占した。 他の藤原姓のもほとんどが北家の後裔である。 時、137家ある堂上家のうち93家が藤原北家である(他は18家、6家、5家、4家、3家、3家、2家、1家、1家、1家)。 派生氏族は公家ばかりではなく、の・、、、、・、・・・・・など、主に・・に勢力基盤をもった多くの氏族が藤原北家の末裔と称した。 一族 [ ] 嫡流 [ ]• - 祖• - 鎌足の次男• - 不比等の次男 藤原北家の祖• - 房前の三男• - 真楯の• - 内麻呂の次男• - 冬嗣の次男• - 良房の養子(長良の三男)• - 基経の四男• - 忠平の次男• - 師輔の三男• - 兼家の四男• - 道長の長男• - 頼通の三男 祖• - 師実の長男• - 師通の長男• - 忠実の長男• - 忠通の長男 の祖• - 忠通の三男 の祖 主な傍流 [ ]• - 房前の次男• - 内麻呂の 祖• - 冬嗣の長男• - 長良の曾孫• - 冬嗣の六男• - 良門の 4代後に• - 良門の次男 祖• - 基経の長男• - 忠平の長男• - 実頼の次男• - 頼忠の長男• - 実頼の孫• - 実頼の孫• - 師輔の長男• - 師輔の十二男 祖• - 師輔の次男• - 兼家の長男• - 兼家の次男• - 兼家の三男• - 道兼のひ孫• - 道長の四男• - 忠実の次男• - 房前の四男• - 房前の五男• - 魚名の子• - 藤成の子• - 豊沢の子• - 村雄の子 ただし、生存時期において嫡流と見なされていた人物がその後の子孫の盛衰によって傍流と位置づけられた者もいる(例・藤原永手・実頼など)。 系譜 [ ] 凡例 太線は実子。 なお、嫡流を書き連ねることとし、傍系は下記の系図の下に記載する。 また養子はあえて記載せず。 北家本流(摂関家流) [ ] は列挙するだけでなく、などを用いてしてください。 記事のにご協力をお願いいたします。 ( 2020年3月)• 『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第1篇』 黒板勝美、国史大系編修会(編)• 『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第2篇』吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編修会(編)• 『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第3篇』吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編修会(編)• 『新訂増補国史大系・尊卑分脉 第4篇』吉川弘文館 黒板勝美、国史大系編修会(編)• 『新訂増補国史大系・公卿補任 第1篇』吉川弘文館 黒板勝美(編)• 『新訂増補国史大系・公卿補任 第2篇』吉川弘文館 黒板勝美(編)• 『新訂増補国史大系・公卿補任 第3篇』吉川弘文館 黒板勝美(編)• 『新訂増補国史大系・公卿補任 第4篇』吉川弘文館 黒板勝美(編)• 『新訂増補国史大系・公卿補任 第5篇』吉川弘文館 黒板勝美(編) 関連項目 [ ].

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