三島 由紀夫 事件。 皇道派と二・二六事件について。三島由紀夫の歴史観

三島由紀夫

三島 由紀夫 事件

午前10時58分頃、三島由紀夫は楯の会のメンバー4名と共に原勇1等陸佐に案内され総監室に通された。 小賀はすばやく総監・益田兼利陸将の後ろにまわり、持っていた手拭で総監の口をふさぎ、つづいて小川、古賀が細引やロープで総監を椅子に縛りつけて拘束した。 森田は総監室正面入口と、幕僚長室および幕僚副長室に通ずる出入口の3箇所に、机や椅子、植木鉢などでバリケードを構築した。 原1佐がドアに体当たりし、隙間が2、30センチできた。 室内から「来るな、来るな」と森田必勝が叫び声を挙げ、ドア下から要求書が差し出された。 自衛隊員らは幕僚長室のドアのバリケードを破壊し部屋へ突入、楯の会メンバーと乱闘を繰り広げた。 乱闘により自衛隊員8人が負傷、総監の安全も考え、一旦退散。 その後、幕僚幹部らは三島の要求を受け入れることを決め、三島に演説する許可を与えた。 出典 三島事件 - Wikipedia 演説を終えた三島は、側らにいた森田と共に「天皇陛下万歳」を三唱したのち、総監室に戻った。 三島はその後、上半身裸になり、バルコニーに向かうように正座して短刀を両手に持ち、背後の森田を見上げ、「君はやめろ」と三言ばかり殉死を思いとどまらせようとした。 そして、「うーん」という気合いを入れ、「ヤァ」と叫び、自身の左脇腹に短刀を突き立てた。 総監が、「やめなさい」、「介錯するな、とどめを刺すな」と叫んだ。 三島の左後方に立った必勝は、尊敬する師へのためらいがあったのか、三島の頸部に二太刀を振り降ろしたが切断が半ばまでとなり、三島は静かに前の方に傾いた。 まだ三島が生きているのを見た小賀と古賀が、「森田さんもう一太刀」「とどめを」と声をかけ、森田は三太刀目を振り降ろした。 介錯がうまくいかなかった森田は、「浩ちゃん頼む」と刀を渡し、古賀が一太刀振るって頸部の皮一枚残すという古式に則って切断した。 最後に小賀が短刀で首の皮を胴体から切り離した。 三島の遺体と隣り合う位置に正座した森田は、切腹しながら、「まだまだ」「よし」と合図し、それを受けて、古賀が一太刀で介錯した。 午後0時20分過ぎ、3名は総監室正面入口から総監を連れ出て、日本刀を自衛官に渡し、警察に逮捕された。 出典 三島事件 - Wikipedia.

次の

三島由紀夫事件

三島 由紀夫 事件

)の出版社、被告Y2は本件書籍の出版社の第一出版局長であり、被告Y3は本件書籍の執筆者にあたります。 原告・被控訴人であるXらは三島由紀夫の相続人です。 被告Y3は三島由紀夫がY3宛に書いた未公表の手紙15通を本件書籍に掲載しました。 Xらはこれに対して1.Xらが相続した複製権の侵害である旨、2.三島由紀夫が生存していたのであれば公表権侵害にあたる行為であることを主張して本件書籍等の出版等の差止め、損害賠償請求、謝罪広告等をもとめた事件です。 Yらは本件各手紙は著作物とは言えない、また本件各手紙の公表は三島由紀夫氏の意を害するものではないと主張しました。 第1審では、著作物性を肯定し、複製権侵害、三島由紀夫氏が生存しているとしたならばその公表権の侵害となるべき行為であるとして損害賠償及びに名誉回復措置の請求を認容しました。 Y1らはこれを不服として控訴しました。 本判決では、手紙の著作物性について、「本件各手紙(本件書籍(甲第一二号証)中の掲載頁は、原判決七、八頁に記載されたとおりである。 )を読めば、これが、単なる時候のあいさつ等の日常の通信文の範囲にとどまるものではなく、三島由紀夫の思想又は感情を創作的に表現した文章であることを認識することは、通常人にとって容易であることが明らかである。 また、控訴人らが本件各手紙を読むことができたことも明らかである。 そうである以上、控訴人らは、本件各手紙の著作物性を認識することが容易にできたものというべきである。 」として著作物性を肯定しました。 』との記載がある。 右のような記載は、少なくとも書かれた当時は公表を予期しない私信であるからこそ書かれたことが明らかである。 )、控訴人ら主張に係るその余の事情を考慮しても、本件各手紙の公表が三島由紀夫の意を害しないものと認めることはできない。 」として被告の主張を退けました。

次の

三島由紀夫事件の衝撃を、当事者が語る アナザーストーリーズ 運命の分岐点 |NHK_PR|NHKオンライン

三島 由紀夫 事件

11月中旬のある日、清冽な青空のなか、東京・市谷の防衛省内の急坂を上る元自衛官の姿があった。 寺尾克美(86)。 「あの日も秋晴れだったなあ」。 短躯だが、がっちりとした厚い胸を張り、青空を見上げた。 45年前のあの日、陸上自衛隊市ケ谷駐屯地の東部方面総監室で益田兼利総監の身柄を拘束した三島由紀夫=当時(45)=ら5人と自衛官との間で格闘になり9人が負傷、うち6人が入院した。 寺尾もその一人だ。 三島に銘刀「関の孫六」で腕を一太刀、背中を三太刀斬られ、瀕死の重傷を負った。 事件現場となった総監室は今、「市ケ谷記念館」として残されている。 その総監室のドアに今も残る刀傷を指さしながら、「最初に踏み込んだ自衛官が斬られたときのものだ。 総監の机がこのあたりにあった。 窓の外のバルコニーで三島さんが演説した」。 寺尾は当時の凄惨な記憶が蘇ってくるように話した。

次の