久坂 玄瑞。 久坂玄瑞の生涯(久坂玄瑞と吉田松陰)

久坂玄瑞と坂本龍馬は、なぜ「共鳴」できたのか

久坂 玄瑞

エピソード・逸話 教科書には載っていない興味深いエピソードの数々。 妻の文は吉田松陰の妹である。 久坂玄瑞は美声の持ち主だった。 現在でも、その吟詠は「久坂流」として継がれている。 (久坂家略伝/久坂恵一著より)• 身長は六尺豊かな(180cm以上)と、当時のなかできわめて長身であった。 絵が上手かったと伝えられている。 「玄瑞の繪は至って珍品である。 而かも見事に出来て居る。 」(久坂玄瑞全集より)• 明治維新後に西郷隆盛曰く「もし久坂さんが生きていたら、私は参議などと大きな顔をしていられない。 ある年の正月、知り合いの家に挨拶に来た久坂玄瑞は、振る舞われた雑煮を猛烈な勢いで食べ出した。 食べた量はなんとお餅30個。 不思議に思った家の娘が久坂にその理由を尋ねると、久坂はこう言った。 「俺はもうすぐ京都へ行く。 もう生きて帰らないつもりだから、一生食べるはずの雑煮を今日食べておくのさ」 この翌年、禁門の変が起こり久坂は京都で自害した。 久坂玄瑞、京都の芸妓・辰治(たつじ)の息子にあたる。 母については諸説ある。 「久坂玄瑞の子孫について、あなたの知っている情報を教えてください」 「幕末」という過去をもっと身近に感じられるよう、本サイトでは幕末のあらゆる情報の整理に取り組んでいます。 しかし、子孫についての情報は少なく、みなさまからの情報を求めています。 あなたからの貴重な情報で、幕末の新たな一面が見えてくるかもしれません。 これまでも、Wikipediaにも載っていない情報がみなさまのご協力によって集まってきています。 久坂玄瑞の子孫でも、その他の人物の子孫でも、なんでもお待ちしています。 メールでどなたでもお知らせできます(会員登録などは不要)。 情報お待ちしております! 久坂玄瑞を演じた俳優 大河ドラマや映画などで、さまざまなタイプの俳優が演じています。 『』(大河ドラマ/2015年)• 『』(大河ドラマ/2013年)• 『』(ドラマ/2011年)• 『』(大河ドラマ/2010年)• 『』(ドラマ/2009年)• 『』(映画/2006年)• 『』(大河ドラマ/2004年)• 『』(ドラマ/2004年)• 『』(大河ドラマ/1998年)• 『』(ドラマ/1997年)• 『』(ドラマ/1991年)• 『』(ドラマ/1989年)• 『』(大河ドラマ/1977年)• 『』(映画/1969年)• 『』(大河ドラマ/1968年)• 『』(映画/1958年)• 『』(映画/1950年) 幕末 人気のタグ• 幕末をもっと深く知る 現代に続いているあの志士達の血縁 話題ごとに幕末の志士や名言をまとめて見る 藩紋や、藩主/出身の志士が一目でわかります 生まれた・亡くなった志士/偉人を日付別にみる 亡くなった年齢ごとに志士/偉人を見る 教科書には載ってなかった偉人の意外な一面 有名な事件・出来事が起こった場所 幕末をテーマにした映像作品 イメージ通りの志士を演じた俳優たち アニメ・ゲームで見つかる幕末の新たな魅力 志士の新たな魅力を演じる声優たち 幕末ガイドブログ最新記事 12月1日: 11月17日: 9月28日: 9月23日: 7月8日: 幕末ガイドFacebook.

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久坂玄瑞 千人万首

久坂 玄瑞

没年:元治1. 19 1864. 20 生年:天保11 1840 幕末の長州 萩 藩士,尊攘派の志士。 藩医久坂良迪の次男。 兄玄機,父良迪の死に遭い,安政1 1854 年家督相続。 同3年九州を遊学,月性,宮部鼎蔵から勧められ,5月吉田松陰のに入る。 「久坂玄瑞,防長 長州藩 少年第一流人物」とは松陰の評。 翌年松陰の妹文子と結婚。 高杉晋作とならび松下村塾の双璧であった。 翌5年学業修業のため江戸に出て村田蔵六 大村益次郎 に蘭学を学び翌年2月,5月江戸へ護送される松陰を送る。 10月松陰が処刑されたのち,松下村塾生の結束を図る。 翌万延1 1860 年江戸に出て蕃書調所の堀達之助の塾に入り,8月高杉らと共に小塚原の刑場に松陰の霊を祭った。 薩摩,水戸,土佐の志士と交流を深め,次いで藩政府に働きかけ和宮降嫁と長井雅楽の公武合体運動の阻止を図るが失敗,命ぜられて文久1 1861 年10月帰藩。 「諸侯恃むに足らず,公卿恃むに足らず,草莽志士糾合義挙の外にはとても策これ無し」とはこのときの感慨。 翌2年3月兵庫警衛の藩兵に加わり上京,の挙兵計画を進めるが,薩摩の同志が島津久光に弾圧され 寺田屋事件 て中止。 以来,,前田孫右衛門ら藩庁首脳部に接近,藩論を尊王攘夷に転換させることにし成功。 このときに呈出した「回瀾条議」「解腕痴言」は,長州藩の方針を定めた。 次いで江戸へ,12月高杉晋作らと共に御殿山に新築中の英公使館を焼打ちにする。 翌3年上洛,尊攘運動を指導,士格を上げられて大組となる。 次いで下関に赴き,同5月アメリカ船砲撃を指揮,再び上洛して大和行幸を計画したが8月18日の政変により挫折。 9月政務役に任命され藩政の要路に立ち,京と山口の間を往復。 折から藩内には武力上洛論と割拠論との対立があり,前者に圧されるまま元治1 1864 年6月出動の長州藩兵を率いて洛南の山崎に布陣。 武力入洛には慎重論を唱えたが,来島又兵衛, 和泉 らの強硬論に屈し出撃,禁門の変に敗れ鷹司邸に自刃した。 25歳。 福本義亮『松下村塾偉人 久坂玄瑞』 のち『久坂玄瑞全集』と改題 井上勲 出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版 朝日日本歴史人物事典について の解説 [生]天保11 1840. 長州,萩 [没]元治1 1864. 京都 江戸時代末期の。 長州藩士。 名は通武,のち義助。 吉田松陰に学び,松陰に愛されてその妹と結婚し,高杉晋作とともに松下村塾のとみなされた。 松陰の,尊王攘夷運動に身し,広く諸藩の志士たちとも交わった。 長州藩の藩論が長井雅楽の『航海遠略策』による公武合体論に傾いたおり,文久2 1862 年春,脱藩上京してを動かし,藩論を尊攘論に統一するという働きもした。 その後帰藩,元治1 64 年, 保臣 ,来島又兵衛らと藩兵を率い上京,入京を嘆願したが,江戸幕府にいれられず,彼は自重論を説いたが,真木らの強硬論に押され禁門の変 蛤御門の変 の戦いに加わり,負傷して自刃した。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について の解説 幕末の長州藩士。 名は通武 みちたけ 、のち義助 よしすけ。 号は江月斎、玄瑞。 容貌 ようぼう から同志に禿頭和尚 とくとうおしょう ともよばれた。 貧禄 ひんろく の藩医に生まれたが、国事を論ずる吉田松陰 しょういん に師事して松下村塾 しょうかそんじゅく に学び、高杉晋作 しんさく の識、玄瑞の才と並び称され、松陰の妹を妻とした。 やがて日米修好通商条約を締結、安政 あんせい の大獄を引き起こした幕政を批判し、他藩の志士と交わる。 長州藩が長井雅楽 ながいうた の幕府寄りの公武合体政策、航海遠略策を採択したため、これを激しく弾劾し、1862年(文久2)には同志と長井暗殺をも企てた。 このころ「尊藩も弊藩も滅亡しても大義なれば苦しからず」と述べ、尊王攘夷 じょうい の激派の運動の先頭にたち、朝廷に入説した。 攘夷督促の勅使東下には自らも江戸へ赴き、イギリス公使館焼打事件を高杉らと起こした。 1863年、攘夷実行の下関外国艦隊砲撃事件に参加し、八月十八日の政変による長州藩勢力の京都追放後も京都に潜入して木戸孝允 たかよし らとともに失地回復に努めた。 1864年(元治1)、禁門の変に参加、指導部にあって自重、後続の軍を待つ作戦を主張したが、進発論に押し切られ、一軍を指揮するうちに膝 ひざ に弾丸を受けて鷹司 たかつかさ 邸内に自刃した。 [井上勝生] 『福本義亮編『久坂玄瑞全集』(1978・マツノ書店)』.

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松下村塾の双璧。久坂玄瑞と高杉晋作

久坂 玄瑞

生涯 [ ] 天保14年(1843年)、の四女として誕生、 文と名付けられた。 これは叔父でありの創立者であるから1字をとって与えられた名である。 兄に梅太郎、寅次郎(吉田松陰、この頃すでに吉田家へ養子に出て家督を継いでいた)、姉に千代、、艶、弟に敏三郎がいた。 艶は文の生後すぐに夭折し、長女の千代はに、次女の寿は小田村伊之助(後の楫取素彦)のもとへそれぞれ嫁ぐ。 4年()12月5日、久坂玄瑞と結婚する。 当初は・が文を桂小五郎(後の)の妻に推したこともあったが、最終的には玄瑞の才を高く評価する松陰の強い勧めがあったという。 また、玄瑞に対しては松下村塾の年長者であるが文との縁談を持ちかけた。 玄瑞は文のことを「好みの容姿ではない」と断ろうとしたが、中谷はそれに立腹して「見損なった、君は色で妻を選ぶのか」とおにぎりを握り、玄瑞はやむを得ず縁談を承諾したという。 ところが玄瑞はまもなく・に遊学したり運動を率いて京都を拠点に活動するなど不在がちであり、元年()、が起こり玄瑞は奮闘ののち自害した。 玄瑞の死後、次姉の夫・小田村伊之助が玄瑞の遺稿や文に宛てた書簡21通をまとめて「涙袖帖」 と題した。 また、伊之助は22歳にして未亡人となった文の境遇を憐れみ、その身を案じている。 慶応元年()、文は藩主世子正室・の女中、およびその長男の守役を勤めており、美和の名もこの頃から使い始めている。 後、(明治9年)より楫取素彦(小田村伊之助)は群馬県令となるが、その妻であり文の姉の寿はに罹っていたため、文がしばしば楫取家に出入りして素彦の身辺の世話や寿の看病、家政全般を取り仕切っていた。 (明治14年)1月30日、寿がを併発し死去すると、(明治16年)に文は素彦と再婚した。 これは素彦の身辺と2人の孫の行く末を案じた母・瀧の勧めがあった。 晩年はで過ごし、1921年(大正10年)に78歳で死去した。 年譜 [ ]• 14年()、萩松本村(現・山口県椿東)にと瀧の四女として誕生。 6年()、次姉・と小田村伊之助(のちの)が結婚。 4年()、と結婚。 安政6年()、兄・が江戸にて刑死。 元年()、玄瑞がにおいて自害。 甥の粂次郎(寿と伊之助の子、のちの楫取道明)が養子となり久坂家を継ぐ。 元年()、の長男・興丸(後の)が誕生し、文が興丸の守役となる。 父・百合之助が死去。 慶応3年()、小田村伊之助が楫取素彦と改める。 12年()、玄瑞の遺児・秀次郎が久坂家を相続し、粂次郎は楫取家へ戻る。 明治14年()、寿が病没。 明治16年()、楫取素彦と結婚。 正式に美和子と改める。 明治23年()、母・瀧が死去。 明治25年()、夫・素彦と共に華浦幼稚園(現・鞠生幼稚園) の設立に携わる。 明治29年()、前年より教師として台湾に赴任していた道明がにより死亡。 明治30年()、夫・素彦がの御養育主任を命じられる。 美和子も貞宮御付となる。 元年()、夫・素彦が死去。 大正10年()、山口県防府町にて死去。 防府の大楽寺に夫・素彦の墓と並んで葬られた。 子女 [ ] 久坂玄瑞、楫取素彦のいずれの間にも子はいない。 久坂家は素彦と寿の次男である粂次郎を養子にして跡を継がせたが、後に玄瑞の京都妻の子・秀次郎を跡継ぎとした。 粂次郎は生家へ戻され、を名を改めた。 道明はで素彦に先立って横死し、素彦の死後は道明の遺児・三郎が楫取家を継いだ。 道明の兄(素彦と寿の長男)希家は、素彦の元の養家である小田村の家名を継いでいる。 登場作品 [ ] 小説 [ ]• 『久坂玄瑞の妻』(1943年、翼賛出版協会) テレビドラマ [ ]• 楫取美和子(杉文)が主人公のテレビドラマ• (2015年、日本放送協会()、演:)• それ以外のテレビドラマ• (1977年大河ドラマ、NHK、演:)• (1991年、・、演:)• (2000年、NHK、演:) 脚注 [ ]• 『平成新修旧華族家系大成』上巻 440頁• 吉田松陰書簡「文妹久坂氏に適くに贈る言」• 『物語 幕末を生きた女101人』31頁(なお、出典元では「」と記されているが、吉田松陰と親交があったのは月性の方である)• この題は、の一人・が討ち入り後の細川家預かりの身の時に妻・丹と交わした書簡をまとめた「涙襟集」に由来している(『物語 幕末を生きた女101人』33頁)。 慶応元年 楫取素彦書簡• 木俣秋水『吉田松陰をめぐる女性たち』159頁• 参考文献 [ ]• 木俣秋水『吉田松陰をめぐる女性たち』(大和書店、1980年)• 日本史籍協会編『楫取家文書〈1・2〉』(、1984年)• 『平成新修旧華族家系大成』上巻(霞会館、1996年)• 「歴史読本」編集部編『物語 幕末を生きた女101人』(、2010年) 外部リンク [ ]• この項目は、に関連した です。

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