百人一首 作者。 百人一首(一覧・意味・覚え方・解説・作者・文法:百人一首の全て)

百人一首

百人一首 作者

小倉色紙(蝉丸) 小倉百人一首は、末期から初期にかけて活動した・が選んだ秀歌撰である。 その原型は、ので歌人でもある宇都宮蓮生()の求めに応じて、定家が作成したである。 蓮生は、(現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・小倉山荘のの装飾のため、定家に色紙の作成を依頼した。 定家は、のから鎌倉時代のまで、100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、年代順に色紙にしたためた。 小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、の前半と推定される。 成立当時には、この百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などと呼ばれた。 後に、定家が小倉山で編纂したという由来から、「小倉百人一首」という通称が定着した。 後期に連歌師のが著した『百人一首抄』(宗祇抄)によって研究・紹介されると、小倉百人一首は歌道の入門編として一般にも知られるようになった。 に入り、の技術が普及すると、絵入りの歌がるたの形態で広く庶民に広まり、人々が楽しめる遊戯としても普及した。 小倉百人一首の関連書には、同じく定家の撰に成る『』がある。 百人秀歌も百人一首の形式で、100人の歌人から一首ずつ100首を選んで編まれた秀歌撰である。 『百人秀歌』と『百人一首』との主な相違点は、1 「との歌が無く、代わりに・・の歌が入っていること、2 の歌が『うかりける』でなく『やまざくら』の歌であることの2点である。 この『百人秀歌』は、『百人一首』の原型(原撰本)となったと考えられている。 定家から蓮生に送られた色紙、いわゆる小倉色紙(小倉山荘色紙)は、蓮生の子孫にも一部が受け継がれた。 室町時代にが広まると小倉色紙を茶室に飾ることが流行し、珍重されるようになった。 の武将・が配下のに暗殺され、一族が滅ぼされたのは、鎮房がに伝わる小倉色紙の提出を秀吉に求められて拒んだことも一因とされる。 小倉色紙はあまりにも珍重され、価格も高騰したため、贋作も多く流布するようになった。 『百人一首』の歌と歌人たち [ ] 百人一首に採られた100首には、1番の天智天皇の歌から100番の順徳院の歌まで、各歌に歌番号(和歌番号)が付されている。 この歌番号の並び順は、おおむね古い歌人から新しい歌人の順である。 内は漢字の読みを示す。 歌一覧 番号 詠み人 歌 1. 秋(あき)の田(た)の かりほの庵(いほ)の とまをあらみ わが衣手(ころもで)は 露(つゆ)にぬれつつ 2. 春(はる)すぎて 夏(なつ)きにけらし 白妙(しろたへ)の 衣(ころも)干(ほ)すてふ 天(あま)のかぐ山(やま) 3. 足曳(あしびき)の 山鳥(やまどり)の尾(を)の しだり尾(を)の 長々(ながなが)し夜(よ)を獨(ひと)り かも寝(ね)む 4. 田子(たご)の浦(うら)に うち出(い)でて見(み)れば 白妙(しろたへ)の 富士(ふじ)の高嶺(たかね)に 雪(ゆき)は降(ふ)りつつ 5. 奥山(おくやま)に 紅葉(もみぢ)踏(ふ)み分(わ)け 鳴(な)く鹿(しか)の 聲(こゑ)きく時(とき)ぞ 秋(あき)はかなしき 6. 鵲(かささぎ)の 渡(わた)せる橋(はし)に おく霜(しも)の 白(しろ)きを見(み)れば 夜(よ)ぞ更(ふ)けにける 7. 天(あま)の原(はら) ふりさけ見(み)れば 春日(かすが)なる 三笠(みかさ)の山(やま)に 出(い)でし月(つき)かも 8. わが庵(いほ)は 都(みやこ)のたつみ しかぞ住(す)む 世(よ)をうぢ山(やま)と 人(ひと)はいふなり 9. 花(はな)の色(いろ)は 移(うつ)りにけりな いたづらに わが身(み)世(よ)にふる ながめせしまに 10. 是(こ)れやこの 行(ゆ)くもかへるも 別(わか)れては 知(し)るもしらぬも 逢坂(あふさか)の關(せき) 11. わたのはら 八十島(やそしま)かけて こぎ出(い)でぬと 人(ひと)には告(つ)げよ あまの釣船(つりぶね) 12. 天津風(あまつかぜ) 雲(くも)の通路(かよひぢ) ふきとぢよ をとめの姿(すがた) しばしとどめむ 13. 筑波嶺(つくばね)の みねより落(お)つる みなの川(がは) 戀(こひ)ぞつもりて 淵(ふち)となりぬる 14. 陸奥(みちのく)の しのぶもぢずり 誰(たれ)故(ゆゑ)に 亂(みだ)れそめにし われならなくに 15. 君(きみ)がため はるの野(の)に出(い)でて 若菜(わかな)つむ わが衣手(ころもで)に 雪(ゆき)はふりつつ 16. 立(たち)別(わか)れ いなばの山(やま)の 峯(みね)に生(お)ふる まつとしきかば 今(いま)かへりこむ 17. 千早(ちはや)振(ぶ)る 神代(かみよ)もきかず 竜田川(たつたがは) から紅(くれなゐ)に 水(みづ)くくるとは 18. 住(すみ)の江(え)の 岸(きし)に寄(よ)る波(なみ) よるさへや 夢(ゆめ)の通(かよ)ひ路(ぢ) 人(ひと)めよくらむ 19. 難波(なには)がた 短(みじか)き蘆(あし)の ふしの間(ま)も 逢(あ)はで此世(このよ)を すぐしてよとや 20. 佗(わび)ぬれば 今(いま)はたおなじ なにはなる みをつくしても あはむとぞ思(おも)ふ 21. 今(いま)来(こ)むと いひしばかりに 長月(ながつき)の 有明(ありあけ)の月(つき)を 待(まち)出(い)でつるかな 22. 吹(ふ)くからに 秋(あき)の草木(くさき)の しをるれば むべ山風(やまかぜ)を 嵐(あらし)と云(い)ふらむ 23. 月(つき)見(み)れば 千々(ちぢ)に物(もの)こそ 悲(かな)しけれ わが身(み)一(ひと)つの 秋(あき)にはあらねど 24. 此(こ)の度(たび)は ぬさも取(とり)あへず 手向山(たむけやま) 紅葉(もみぢ)のにしき 神(かみ)のまにまに 25. 名(な)にしおはば 逢坂山(あふさかやま)の さねかづら 人(ひと)に知(し)られで くるよしもがな 26. 小倉山(をぐらやま) 峯(みね)のもみぢ葉(ば) 心(こころ)あらば 今(いま)一度(ひとたび)の みゆきまたなむ 27. みかの原(はら) わきてながるる いづみ川(がは) いつみきとてか 戀(こひ)しかるらむ 28. 山里(やまざと)は 冬(ふゆ)ぞ寂(さび)しさ まさりける 人(ひと)めも草(くさ)も かれぬと思(おも)へば 29. 心(こころ)あてに をらばやをらむ はつしもの 置(お)きまどはせる 白菊(しらぎく)のはな 30. 有明(ありあけ)の つれなく見(み)えし 別(わか)れより 暁(あかつき)ばかり うきものはなし 31. 朝(あさ)ぼらけ 有明(ありあけ)の月(つき)と 見(み)るまでに よしのの里(さと)に 降(ふ)れる白雪(しらゆき) 32. 山川(やまがは)に 風(かぜ)のかけたる 栅(しがらみ)は 流(なが)れもあへぬ 紅葉(もみぢ)なりけり 33. 久方(ひさかた)の 光(ひかり)のどけき 春(はる)の日(ひ)に しづ心(こころ)なく 花(はな)の散(ち)るらむ 34. 誰(たれ)をかも しる人(ひと)にせむ 高砂(たかさご)の 松(まつ)も昔(むかし)の 友(とも)ならなくに 35. 人(ひと)はいさ 心(こころ)も知(し)らず ふるさとは 花(はな)ぞ昔(むかし)の 香(か)に匂(にほ)ひける 36. 夏(なつ)の夜(よ)は まだ宵(よひ)ながら 明(あ)けぬるを 雲(くも)のいづこに 月(つき)やどるらむ 37. 白露(しらつゆ)に 風(かぜ)の吹(ふ)きしく 秋(あき)の野(の)は つらぬきとめぬ 玉(たま)ぞ散(ち)りける 38. 忘(わす)らるる 身(み)をば思(おも)はず ちかひてし 人(ひと)の命(いのち)の をしくもあるかな 39. 浅(あさ)ぢふの をのの篠原(しのはら) しのぶれど あまりてなどか 人(ひと)の戀(こひ)しき 40. 忍(しの)ぶれど 色(いろ)に出(い)でにけり わが戀(こひ)は 物(もの)や思(おも)ふと 人(ひと)の問(と)ふまで 41. 戀(こひ)すてふ わが名(な)はまだき たちにけり 人(ひと)知(し)れずこそ 思(おも)ひそめしか 42. 契(ちぎ)りきな かたみに袖(そで)を しぼりつつ すゑの松山(まつやま) 波(なみ)こさじとは 43. 逢(あひ)見(み)ての 後(のち)の心(こころ)に くらぶれば 昔(むかし)は物(もの)を 思(おも)はざりけり 44. 逢(あ)ふことの 絶(た)えてしなくば なかなかに 人(ひと)をも身(み)をも 恨(うら)みざらまし 45. 哀(あはれ)とも いふべき人(ひと)は おもほえで 身(み)のいたづらに なりぬべきかな 46. 由良(ゆら)の門(と)を わたる舟人(ふなびと) かぢをたえ ゆくへも知(し)らぬ 戀(こひ)の道(みち)かな 47. 八重葎(やへむぐら) しげれる宿(やど)の さびしきに 人(ひと)こそ見(み)えね 秋(あき)は來(き)にけり 48. 風(かぜ)をいたみ 岩(いは)うつ波(なみ)の おのれのみ くだけて物(もの)を 思(おも)ふころかな 49. 御垣守(みかきもり) 衛士(ゑじ)のたく火(ひ)の 夜(よる)はもえて 晝(ひる)は消(き)えつつ 物(もの)をこそ思(おも)へ 50. 君(きみ)がため 惜(を)しからざりし 命(いのち)さへ ながくもがなと 思(おも)ひけるかな 51. かくとだに えやはいぶきの さしも草(ぐさ) さしも知(し)らじな もゆるおもひを 52. 明(あけ)ぬれば 暮(く)るるものとは 知(し)りながら 猶(なほ)恨(うら)めしき 朝(あさ)ぼらけかな 53. なげきつつ 獨(ひと)りぬる夜(よ)の あくるまは いかに久(ひさ)しき ものとかはしる 54. 忘(わす)れじの 行末(ゆくすゑ)までは かたければ 今日(けふ)をかぎりの 命(いのち)ともがな 55. 瀧(たき)の音(おと)は 絶(た)えて久(ひさ)しく なりぬれど 名(な)こそ流(なが)れて 猶(なほ)聞(き)こえけれ 56. あらざらむ 此世(このよ)の外(ほか)の 思(おも)ひ出(で)に 今ひとたびの 逢(あ)ふ事(こと)もがな 57. 巡(めぐ)りあひて 見(み)しや夫(それ)とも わかぬまに 雲(くも)がくれにし 夜半(よは)の月(つき)かな 58. 有馬山(ありまやま) ゐなの笹原(ささはら) 風(かぜ)ふけば いでそよ人(ひと)を 忘(わす)れやはする 59. 安(やす)らはで 寝(ね)なましものを 小夜(さよ)更(ふ)けて かたぶくまでの 月(つき)を見(み)しかな 60. 大江山(おほえやま) いく野(の)の道(みち)の 遠(とほ)ければ まだ文(ふみ)も見(み)ず 天(あま)のはし立(だて) 61. いにしへの 奈良(なら)の都(みやこ)の 八重櫻(やへざくら) けふ九重(ここのへ)に 匂(にほ)ひぬるかな 62. 夜(よ)をこめて 鳥(とり)の空音(そらね)は はかるとも 世(よ)に逢坂(あふさか)の 關(せき)はゆるさじ 63. 今(いま)はただ 思(おも)ひ絶(た)えなむ とばかりを 人(ひと)づてならで いふよしもがな 64. 朝(あさ)ぼらけ 宇治(うぢ)の川(かは)ぎり たえだえに あらはれ渡(わた)る 瀬々(せぜ)のあじろぎ 65. 恨(うら)みわび ほさぬ袖(そで)だに あるものを 戀(こひ)に朽(く)ちなむ 名(な)こそをしけれ 66. もろともに あはれと思(おも)へ 山櫻(やまざくら) 花(はな)より外(ほか)に 知(し)る人(ひと)もなし 67. 春(はる)の夜(よ)の 夢(ゆめ)ばかりなる 手枕(たまくら)に かひなく立(た)たむ 名(な)こそをしけれ 68. 心(こころ)にも あらでうき世(よ)に 長(なが)らへば 戀(こひ)しかるべき 夜半(よは)の月(つき)かな 69. 嵐(あらし)吹(ふ)く 三室(みむろ)の山(やま)の もみぢ葉(ば)は 龍田(たつた)の川(かは)の にしきなりけり 70. 淋(さび)しさに 宿(やど)を立(た)ち出(い)でて ながむれば いづこも同(おな)じ 秋(あき)のゆふぐれ 71. 夕(ゆふ)されば 門田(かどた)のいなば おとづれて あしのまろやに 秋風(あきかぜ)ぞふく 72. 音(おと)に聞(き)く たかしの濱(はま)の あだ浪(なみ)は かけじや袖(そで)の ぬれもこそすれ 73. 高砂(たかさご)の 尾上(をのへ)の櫻(さくら) 咲(さ)きにけり 外山(とやま)の霞(かすみ) たたずもあらなむ 74. 憂(う)かりける 人(ひと)をはつせの 山(やま)おろしよ はげしかれとは 祈(いの)らぬものを 75. 契(ちぎ)りおきし させもが露(つゆ)を 命(いのち)にて あはれ今年(ことし)の 秋(あき)もいぬめり 76. 和田(わた)の原(はら) こぎ出(い)でて見(み)れば 久方(ひさかた)の 雲(くも)ゐにまがふ 沖津(おきつ)白(しら)なみ 77. 瀬(せ)をはやみ 岩(いは)にせかるる 瀧川(たきがは)の われても末(すゑ)に あはむとぞ思(おも)ふ 78. 淡路島(あはぢしま) かよふ千鳥(ちどり)の 鳴(な)く聲(こゑ)に いく夜(よ)ねざめぬ 須磨(すま)の關守(せきもり) 79. 秋風(あきかぜ)に 棚引(たなび)く雲(くも)の 絶間(たえま)より もれ出(い)づる月(つき)の 影(かげ)のさやけさ 80. 長(なが)からむ 心(こころ)もしらず 黒髪(くろかみ)の みだれて今朝(けさ)は ものをこそ思(おも)へ 81. ほととぎす なきつる方(かた)を ながむれば ただ有明(ありあけ)の 月(つき)ぞ残(のこ)れる 82. 思(おも)ひわび さても命(いのち)は ある物(もの)を うきにたへぬは 涙(なみだ)なりけり 83. 世(よ)の中(なか)よ 道(みち)こそなけれ 思(おも)ひ入(い)る 山(やま)の奥(おく)にも 鹿(しか)ぞなくなる 84. 永(なが)らへば また此頃(このごろ)や しのばれむ うしと見(み)し世(よ)ぞ 今(いま)は戀(こひ)しき 85. 夜(よ)もすがら 物(もの)思(おも)ふころは 明(あ)けやらで 閨(ねや)の隙(ひま)さへ つれなかりけり 86. 嘆(なげ)けとて 月(つき)やはものを 思(おも)はする かこち顔(がほ)なる わが涙(なみだ)かな 87. 村雨(むらさめ)の 露(つゆ)もまだひぬ まきの葉(は)に 霧(きり)たちのぼる 秋(あき)の夕(ゆふ)ぐれ 88. 難波江(なにはえ)の 蘆(あし)のかり寝(ね)の ひと夜(よ)ゆゑ 身(み)を盡(つくし)てや 戀(こひ)わたるべき 89. 玉(たま)の緒(を)よ たえなばたえね 永(なが)らへば 忍(しの)ぶる事(こと)の よわりもぞする 90. 見(み)せばやな 雄島(をじま)のあまの 袖(そで)だにも 濡(ぬ)れにぞぬれし 色(いろ)はかはらず 91. きりぎりす なくや霜夜(しもよ)の さむしろに 衣(ころも)かたしき 獨(ひと)りかもねむ 92. わがそでは 潮干(しほひ)に見(み)えぬ 沖(おき)の石(いし)の 人(ひと)こそしらね かわく間(ま)もなし 93. 世(よ)の中(なか)は 常(つね)にもがもな 渚(なぎさ)漕(こ)ぐ 海士(あま)の小舟(をぶね)の 綱(つな)でかなしも 94. みよし野(の)の 山(やま)の秋風(あきかぜ) 小夜(さよ)更(ふ)けて ふる郷(さと)さむく 衣(ころも)うつなり 95. おほけなく 浮世(うきよ)の民(たみ)に おほふかな わがたつ杣(そま)に 墨染(すみぞめ)の袖(そで) 96. 花(はな)さそふ 嵐(あらし)の庭(には)の 雪(ゆき)ならで ふりゆくものは わが身(み)なりけり 97. 來(こ)ぬ人(ひと)を まつほの浦(うら)の 夕(ゆふ)なぎに やくや藻塩(もしほ)の 身(み)もこがれつつ 98. 風(かぜ)そよぐ ならの小川(をがは)の 夕暮(ゆふぐれ)は みそぎぞ夏(なつ)の しるしなりける 99. 人(ひと)もをし 人(ひと)も恨(うら)めし 味氣(あぢき)なく 世(よ)を思(おも)ふ故(ゆゑ)に 物(もの)おもふ身(み)は 100. 百敷(ももしき)や 古(ふる)き軒端(のきば)の しのぶにも 猶(なほ)あまりある 昔(むかし)なりけり 小倉百人一首に選ばれた100名は、男性79名、女性21名。 男性の内訳は、7名、1名、28名(うち4名、1名)、下級貴族28名、12名、詳細不明3名。 また女性の内訳は、天皇1名、1名、女房17名、公卿の母2名となっている。 歌の内容による内訳では、春が6首、夏が4首、秋が16首、冬が6首、離別が1首、羇旅が4首、恋が43首、雑(ぞう)が19首、雑秋(ざっしゅう)が1首である。 100首はいずれも『』『』などのに収載されるから選ばれている。 万葉の歌人 『』の時代はまだおおらかで、身分の差にこだわらずに天皇、貴族、、農民などあらゆる階層の者の歌が収められている。 自分の心を偽らずに詠むところが特徴。 有名な歌人は、、、など。 六歌仙の時代 この時代になると、や、などの技巧をこらした繊細で、優美な歌が多く作られた。 選者のが「」と呼んだ、やなどが代表的な歌人である。 女流歌人の全盛 の中頃、宮廷中心の貴族文化は全盛を迎える。 文学の世界では、女性の活躍が目ざましくが『』、が『』を書いた。 『百人一首』にはそのほかにも、、、、、といった宮廷の才女の歌が載っている。 隠者と武士の登場 貴族中心のから、が支配するへと移る激動の世情の中で、を心の支えにする者が増えた。 『百人一首』もそうした時代を反映し、やなどのも登場する。 自身も撰者となった『』の歌が中心で、色彩豊かな絵画的な歌が多く、微妙な感情を象徴的に表現している。 用途 [ ] 下の句かるた。 『百人一首』は現在では歌集としてよりも、としての方が知名度が高く、特にの風物詩としてなじみが深い。 『百人一首』のかるたは 歌がるたとも呼ばれ、現在では一般に以下のような形態を持つ。 百人一首かるたは、百枚の読み札と同数の取り札の計二百枚から成る。 札の構造、材質、裏面などは読み札と取り札では区別がない。 読み札の表面にはふうのの(これは歌仙などを模した意匠が多い)と作者の名、和歌が記されており、取り札には全て書きでだけが書かれている。 読み札には彩色があるが、取り札には活字が印されているだけである点が大きく異なる。 かるたを製造している会社として有名なのは、京都の企業である、、で、現在ではこの3社がほぼ市場を寡占している。 までの百人一首は、読み札には作者名と上の句のみが、取り札には下の句が、崩し字で書かれており、現在のように読み札に一首すべてが記されていることはなかった。 これは元来歌がるたが百人一首を覚えることを目的とした遊びであったためであり、江戸中期ごろまでは歌人の絵が付されていない読み札もまま見られる。 また、現在でもでは、「」というやや特殊な百人一首が行われている。 この「下の句かるた」に用いられるかるたでは、上の句は読まれず下の句だけが読まれ、取り札は厚みのある木でできており、表面に古風な崩し字で下の句が書いてある。 江戸期の面影を残したかるたであると言える。 21世紀においては、にされた百人一首によるかるた大会も行われている。 歌かるたが正月の風俗となったのは格別の理由がある訳ではない。 元々は様々な折に子供や若者が集まって遊ぶ際、百人一首がよく用いられたことによるものである。 その中でも特に正月は、子供が遅くまで起きて遊ぶことを許されていたり、わざわざ百人一首のための会を行うことが江戸後期以降しばしば見られたりしたこともあり、現在ではこれが正月の風俗として定着しているものであろう。 首を用いたかるたの遊び方には以下のようなものがある。 散らし取り(お散らし) [ ] 古くから行われた遊びかたのひとつで、以下のようなルールに従う。 読み手を選ぶ(普通は一人)。 読み札をまとめて読み手に渡し、取り札は百枚すべてを畳の上などに散らして並べる。 取り手は何人でもOK。 みなで取り札のまわりを囲む。 このとき不平等にならないように、取り札の頭はそれぞればらばらな方を向いているようにならなければならない。 読み手が読み札を適当に混ぜてから、札の順に歌を読み上げる。 歌が読み始められたら、取り手は取り札を探して取ってかまわない。 ある文字まで読まれればその札だと確定できるという文字をといい、決まり字の把握が札を取る早さを左右する。 同時に何人もが同じ札を押さえた場合には、手が一番下にある人がこれを取る権利を持つ。 間違った札を取った場合(お手つき)には何らかの罰則が行われるが、源平のようにしっかりとした決まりごとはない。 百枚目を取ったところで終了。 最も多くの札を取った人が勝ちである。 本来は読み札には上の句しか書いてなかったために、この遊び方は百人一首を覚えるうえでも、札の取り合いとしても、それなりの意味があった。 現在では読み札に一首全てが書かれているため、本来の意図は見失われている。 ただし大人数で同時に遊ぶためには都合の良い遊び方で、かつてのかるた会などではたいていこの方法を用いていた。 お散らしに限らず、江戸時代までは読み手は作者の名前から順に読み上げ、上の句が終わったところで読むことを止めるのが常であったようだ。 現在では作者名を省き、最後まで読んでしまう(なかなか取り手が取れない場合には下の句を繰り返す)。 読み方に関しては上の句と下の句の間で、間をもたせすぎるのは良くないとされるが、本来の遊び方からすればナンセンスな問題とも言える。 逆さまかるた [ ] 本来の百人一首は上記である散らし取りが一般的であるが、この逆さまかるたは読み札(絵札)が取り札になり、下の句札(取り札)が読み札となるもの。 このゲームの目的は「下の句を聞いて上の句を知る」ための訓練ゲームでもある。 もちろん、多くの札を取った人が勝ちとなるが、取り札である読み札にはが混じるため視覚からくる思わぬなども加わって、思わぬところで「お手付き」があるのもこのゲームの特徴である。 源平合戦 [ ] 源平とはとのこと。 二チームに分かれて団体戦を行うのが源平合戦の遊び方である。 散らし取り同様に絵札と字札を分け、読み手を一人選ぶ。 百枚の字札を五十枚ずつに分け、それぞれのチームに渡す。 両チームはそれを3段に整列して並べる。 散らし取り同様に読まれた首の字札を取る。 この時、相手のチームの札を取った時は、自分のチームの札を一枚相手チームに渡す。 これを「送り札」という。 先に札のなくなったチームの勝ちとなる。 で行われる大会はほとんどがこのルールであり、民間でも一般的である。 リレーかるた [ ] 源平合戦と同じルールだが、取る人が順次交代する点で異なる。 交代のタイミングは、自分のチームの札を相手に取られた時、10枚読まれた時など。 競技かるた [ ] 詳細は「」を参照 一般社団法人の定めたルールのもとに行われる本格的な競技。 毎年1月の上旬ににあるでが開催される。 名人戦は男子の日本一決定戦であり、クイーン戦は女子の日本一決定戦である。 で毎年生中継される。 また、7月下旬にはが行われている。 そのほか、全国各地で色々な大会が開催されている。 取り札を半分の五十枚しか用いないことが特徴である(ただし読み札は百首すべて読まれる)。 その他 [ ] 首を読まず、絵柄を利用した遊びもある。 坊主めくり [ ] 使用する札は読み札のみで、取り札は使用しない。 百枚の絵札を裏返して場におき、各参加者がそれを一枚ずつ取って表に向けていくことでゲームが進む。 多くのローカルルールが存在するが、多くで共通しているルールは以下のようなものである。 男性が描かれた札を引いた場合は、そのまま自分の手札とする。 坊主(「ハゲ」と呼ぶこともまれにある)の描かれた札を引いた場合には、引いた人の手元の札を全て山札の横に置く。 女性の札(姫)を引いた場合には、引いた人がそれまでに山札の横に置かれていた札を全てもらう。 の札を引いた場合、引いた人は一回休み。 裏向きに積まれた札の山がなくなるとゲーム終了。 このとき最も多くの札を手元に持っていた参加者が勝者となる。 様々な地方ルール(ローカルルール)があり、例えば次のようなものが知られている。 山札の数が1束のみのルールや複数の束に分割するルールがある。 山札の横に札が無い場合に、姫を引いた場合はもう1枚札をめくることができる。 天皇札(台座に縞模様がある札)を引いた際には、数枚引ける。 天皇を引いた際には、山札とその横の札を除き、すべての札が引いた人の手札となる。 段に人が乗っている札を引いた際、もう一枚めくることができる。 蝉丸が出た場合、全員の札を供託に置く。 蝉丸も坊主扱い。 坊主めくりは歌を暗記していない子供も参加できる遊びとして考案されたとみられるが、その発祥時期と考案者は明らかでない。 の文献には現われないことから、以降に成立したものと考えられている。 青冠 [ ] 詳細は「」を参照 読み札のみを使用し取り札は使用しない。 4人で行い、全員に配られた札を向かい合った二人が協力して札をなくしていく。 書かれた絵柄で、青冠(あおかんむり)、縦、横烏帽子、矢五郎、坊主、姫となる。 ただし、天智天皇と持統天皇は特殊で、天智天皇は全ての札に勝ち、持統天皇は天智天皇以外の全ての札に勝つが天智天皇には負ける。 その他の札はどちらにも負ける。 絵の書いた人、時期によって、100枚のうちの絵柄の構成が変わるゲームである。 100枚の札を4人に25枚ずつ全て配る。 最初の人を決めその人が右隣の人に対して1枚手札から出す。 出された人は、出された札に対し受けられる札で受けるか、受けられる札を持ってないもしくは持ってても出したくない場合はパスをする。 同じ種類の絵柄の札か、出された札に勝つ札(天智天皇もしくは持統天皇)であれば受けることができる。 なお、持統天皇は天智天皇のみで受けられ、天智天皇はどの札でも受けられない。 受けた場合は受けた人が、パスをした場合はした人の右隣の人、つまり最初に出した人の向かい側の人が、自分の右隣の人に対して1枚手札から出す。 以下同様に続けていく。 この手順を続け、最初に手札を無くした人のいるペアの勝ち。 これを何回か行い勝敗を決める。 銀行 [ ] 「銀行」は1950~60年代まで、各地方で盛んに行われた子供、あるいは大人も入れた家族の遊びで 、和歌は使わず、文字札は1、冠の札は10、姫の札は50、弓持ちの札(2枚ある)は150、烏帽子の札は300、坊主は400、台付き札(天皇と皇族)は500、の札は最高位の1,000の価値があると見なす。 遊び手の一人が「銀行」となり、4・5枚の札を伏せて置いたあと、その他の遊び手はあらかじめ一定額を貰った札の一部を銀行が置いた札の前に置いて賭けて、銀行が「空(あ)きの方(かた)は」などといいながら札を開けた時に、銀行の札の点数が多ければ没収されて、点数が同じなら引き分け、点数が少なければその他の遊び手に利子として支払いをする。 (空きの方が坊主で負けたら2倍、坊主だったら3倍も銀行に取られるなどの細かいルールもある。 )手持ちの札の点数が多い人の勝ちで、また銀行に点数が集まり過ぎた時には、銀行はわざと少ない点数の札を置いて、負けてやって、ゲームを続ける。 異種百人一首 [ ] 小倉百人一首の影響を受けて後世に作られた百人一首。 以下に代表的なものを挙げる。 『』 撰。 小倉百人一首に採られなかった歌人の作を選定しているが、91番「従二位成忠女」は小倉の54番・儀同三司母()と同一人物というミスが起こっている。 また、79首目の歌はの歌となっているが、実際にはの歌である。 その他、『』に見えるも64番に入首(百人秀歌とは別の歌)している。 『』 同名の物が複数ある。 半ばの成立と見られている。 からにかけての武人による和歌を採録。 6年(1666年)刊。 の撰とされるが、本自体にはその旨の記述はなく、後にが『群書一覧』で比定したものである。 また寛文12年(1672年)、の挿絵、和歌はの筆で再刊された。 菱川師宣の署名した絵入り本の最初とされ、絵師菱川吉兵衛と署名されている。 5年(1858年)刊。 賞月堂主人の著。 のものと比べると、23人が別人の歌に置き換えられている。 42年(1909年)刊。 神代から幕末までの武将・大名・夫人等の和歌を採録。 『』 成立。 室町時代から江戸中期にかけての武将・大名による和歌を採録している。 『』 初頭に成立。 序文によればの撰、中院関白顕実の補作とするが、後者の存在が疑わしいため成立年代は未定である。 勅撰集だけでなく、『』などの私撰集からも採録しているのが特徴。 『』 10年(1839年)刊。 『』に登場する人物のを採録しているが、その数は123人。 肖像を入れ、人物略伝、和歌の略注をのせる。 和歌は、絵はの筆。 『』 天保15年(1844年)刊。 から室町期までの武人の和歌を採録。 『』 弘化4年(1847年)刊。 緑亭川柳撰。 英雄百人一首に対し、著名な女性の和歌を採録。 『』 2年(1849年)刊。 緑亭川柳撰。 英雄百人一首の続編で、平安からまでの武将・大名の和歌を採録。 『』 嘉永3年(1850年)刊。 緑亭川柳撰。 平安から江戸初期までの武将やその夫人等の和歌を採録。 『』 嘉永4年(1851年)成立。 ・の女流歌人のを採録。 『』 明治7年(1874年)刊。 の等の和歌を採録。 『』 中の17年(1942年)に選定・発表された。 恋歌の多い小倉百人一首に代わって「愛国の精神が表現された」名歌を採録。 『』 平成14年(2002年)刊。 小倉百人一首、愛国百人一首と重複しないように和歌を採録。 から、から新かなづかいで出版という企画が巧妙。 『』 平成24年(2012年)刊。 小倉百人一首、愛国百人一首、平成新選百人一首と重複しないように和歌を、一選者一歌人で101首採録。 当初は寄贈だけで、販売せず。 小倉百人一首関連作品 [ ] 音楽 [ ]• 『』(・) 作曲、手付。 百人一首より衣を詠んだ歌五種を選び、四季の順に配した地歌の大曲。 「石川の三つもの」(三大名曲)の一つ。 『』(箏曲・曲) 作曲。 後唄に「淡路島通ふ千鳥の鳴く声に・・・」が採られている。 『』(邦楽) 作詞、作曲。 歌詞の一部に「こひしかるべき」「神のまにまに」「わがなみだかな」の3フレーズが入っている。 『』(邦楽) 作詞、作曲。 歌詞の一部に「天つ風雲の通ひ路吹きとぢよ・・・」の歌が入っている。 by ラジオCM『百人一首篇』(全4曲)中島光一作曲、歌。 2010年5月より放送。 全歌詞が百人一首の歌からなる。 『』(邦楽)作詞、作曲、歌。 メンバーが一首ずつ選び各々その意味をラップ調で歌っている。 歌曲集『小倉百人一首』。 作曲家・による100曲の歌集。 弦楽四重奏版、ピアノ版、オーケストラ版がある。 『和歌うた 小倉百人一首 』 小説 [ ]• 『』(第2作目、)• 『歌枕殺人事件』(、)• 『』(1作目、講談社) 漫画 [ ]• 作画 、工藤治 原作 『あやかし歌姫かるた』• 『』 、2008年3月~5月• 『』 連載中• 『』 アニメ映画 [ ]• (2017年) 映画 [ ]• (2016年3月)• ちはやふる -下の句- (2016年4月)• ちはやふる -結び- (2018年) 落語 [ ]• ゲーム [ ] ここでは、を用いるゲームのみを扱う。 ( )• ( )• テレビ番組 [ ]• (坊主めくりが出てくる) テレビドラマ [ ]• (2003年、)• (2008年、)• (2010年、NHK総合) 検定 [ ]• 『小倉検定問題集』 編 評論・解説 [ ]• 『絢爛たる暗号 百人一首の謎を解く』 文庫 序文にが「なぜ類似の歌が多いのか。 なぜ駄作・愚作の歌を、一世の大歌人・定家ともあろう人が採録したのか。 織田さんは素人の素朴な疑問と直観を大事にして、その謎に挑戦していった」と書いた通りの、百人一首解説本。 著者本人も「百首解読といういささかの吉報を七百年後に持ちこした」(あとがきより)と、歴史的事業であると自負する。 新しい解釈の中心をなすのは、収録歌がそれぞれ言葉の類似性および縁語的使用と、意味上の正連鎖(類義語)・逆連鎖(対義語)という二つの相関関係を縦横の軸とする二次元的な構造に再構成できるという主張である。 ゆえに、選歌の基準はそれらの構造上の必然性に基づいてなければならず、従来の「一首ずつ鑑賞するための詞華集」という暗黙の前提は的外れであると批判する。 この説を支持するために、同じ定家の選による「百人秀歌」および「新古今集」と「百人一首」との対応関係、および定家と後鳥羽上皇との関係を新たに指摘する。 翻訳書 [ ]• 『スペイン語で詠う小倉百人一首 Cien Poetas, Un Poema Cada Uno, Ogura Hyakunin Isshu 』 訳、エレナ・ガジェゴ・アンドラーダ監修、2016年、大盛堂書房(日西対訳版、日西音声CD付)。 脚注 [ ] []• による。 定家の日記『』の2年5月27日(1235年6月14日)の条には、「古来の人の歌各一首」を書き送った旨の記述がある。 ただし、この時に書き送った物が『百人一首』であったとする確証はない。 『』巻一・二十八歌では『春過而 夏来良思 白妙之 衣乾有 天香具山』で、「夏(なつ)来(き)たるらし」(来たようだ)と「現在形」になっているが、『』は「夏(なつ)来(き)にけらし」で「過去完了」の「推量」に転じている。 『』巻一・二十八歌では、「衣(ころも)干(ほ)したり」(干してある)と「断定」になっており、「衣(ころも)干(ほ)すてふ」(干すと聞く)の「伝聞」の意味に『』までに変じたとされる。 『万葉集』巻三・三百十七歌には「田児の浦ゆうち出て見れば真白にそ不尽の高嶺に雪は降りける」とある。 柿本人麻呂、猿丸大夫、蝉丸の3名。 また、僧侶の内に入っている喜撰法師も経歴・出自が一切不明である。 宗政五十緒著「新編小倉百人一首 日本古典のこころ」中央図書• 『日本経済新聞』朝刊2018年4月20日(文化面)• 2015年10月26日. 2015年11月16日閲覧。 関連項目 [ ] ウィキソースに の原文があります。 ウィキメディア・コモンズには、 に関連するメディアがあります。 (小倉百人一首文化財団が運営するテーマパーク)• (『新々百人一首』を上梓)• (百人一首の研究者、共通した札ごとに並べると風景をイメージさせる事に気づいた)• (創立当初、劇団員の芸名は百人一首にちなんだ名がつけられていた)• 外部リンク [ ]•

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小倉百人一首の成立や作者の藤原定家について。使われた和歌集は?

百人一首 作者

末尾に付した 内の数字は没年齢 数え歳 である。 また、詠作事情の記事では歌番号を 赤太字で示した。 壬申の乱 698 文武二 文武 07阿倍仲麿 702 大宝二 〃 58 710 和銅三 元明 この年以前か 平城京遷都 718 養老二 元正 06大伴家持 「養老律令」編纂 737 天平九 聖武 この年か 751 天平勝宝三 孝謙 阿倍仲麿、唐より日本をめざして出航するが、難船して帰国を果たさず。 皇統は天武系より天智系に移る。 785 延暦四 桓武 68 藤原種継暗殺事件 〃 平安京遷都 801 延暦二十 〃 11小野篁 816 弘仁七 嵯峨 12遍昭 818 弘仁九 〃 16在原行平 822 弘仁十三 〃 14源融 57 825 天長二 淳和 17在原業平 830 天長七 〃 15光孝天皇 838 承和五 仁明 小野篁、隠岐に配流される。 842 承和九 〃 57 小野吉子、正六位上に叙せられる。 吉子をと同一人と見る説がある。 844 承和十一 〃 21素性法師 845 承和十二 〃 24菅原道真 852 仁寿二 文徳 51 855 斉衡二 〃 在原行平、因幡守に任ぜられ、別れの歌を詠む。 868 貞観十 清和 13陽成院 872 貞観十四 〃 35紀貫之 一説 873 貞観十五 〃 25藤原定方 874 貞観十六 〃 19伊勢 一説 876 貞観十八 陽成 、践祚。 文徳直系の最後の天皇。 877 元慶元 〃 27藤原兼輔 879 元慶三 〃 この年以後 文屋康秀、縫殿助に任ぜられる。 文徳直系の皇統は断絶。 892 寛平四 〃 「是貞親王家歌合」この年開催か。 22康秀「吹くからに」、 23千里「月見れば」は、この歌合の出詠歌。 「寛平御時后宮歌合」この年開催か。 「奧山に」、敏行「住の江の」、 37朝康「白露に」は、この歌合に採られている。 893 寛平五 〃 76 菅原道真、『新撰万葉集』撰進。 894 寛平六 〃 遣唐使廃止。 895 寛平七 〃 74 898 昌泰元 醍醐 24、宇多上皇の吉野宮滝行幸に供奉し歌を詠む。 901 延喜一 〃 〔延喜七年説もある〕 道真、大宰権帥に左遷。 902 延喜二 〃 37この年以後 903 延喜三 〃 24 59 23この年以後 905 延喜五 〃 33この年か 『古今和歌集』下命または奏覧。 同集真名序は「」の名が見える現存最古の記事。 また「」も同集仮名序・真名序が初出。 906 延喜六 〃 43藤原敦忠 907 延喜七 〃 30この年以後 宇多法皇、大井川御幸。 躬恒・貫之・是則・忠岑らが献歌。 26藤原忠平「小倉山」はこの時の作。 この年、唐が滅亡。 908 延喜八 〃 42清原元輔 909 延喜九 〃 21この年以後 素性、醍醐天皇に召され屏風歌を詠む。 910 延喜十 〃 44藤原朝忠 913 延喜十三 〃 34この年以後 「亭子院歌合」「内裏菊合」。 興風ら出詠。 920 延喜二十 〃 32 921 延喜二十一 〃 49大中臣能宣 924 延長二 〃 45藤原伊尹 31この年以後 是則、加賀介に任ぜられる。 925 延長三 〃 29この年以後 躬恒、和泉国より帰京。 藤原忠平、摂政。 932 承平二 朱雀 25 60 933 承平三 〃 27 57 938 天慶元 〃 この年以後 勤子内親王 醍醐天皇の皇女 、薨ず。 伊勢、哀傷歌を詠む。 939 天慶二 〃 28 943 天慶六 〃 43 38 54 945 天慶八 〃 この年か 3月、貫之、木工権頭に任ぜられる。 949 天暦三 村上 26 70 82 951 天暦五 〃 39 72 『後撰和歌集』の編纂始まる。 954 天暦八 〃 50藤原義孝 955 天暦九 〃 53藤原道綱母、「歎きつつ」の歌を詠む。 958 天徳二 〃 51藤原実方 この頃か 960 天徳四 〃 41この年以後 「天徳内裏歌合」で 40平兼盛・ 41壬生忠見、恋の歌を競う。 44藤原朝忠「逢ふことの」もこの時の出詠歌。 966 康保三 〃 55藤原公任 38この年以後 44 57 右近ら、「内裏前栽合」に出詠。 敦実親王、薨ず。 は同親王の雑色であったとの伝がある 『今昔物語』など。 972 天禄三 円融 52藤原道信 45 49 974 天延二 〃 50 21 976 天延四 〃 68三条院 985 寛和元 花山 円融院の紫野行幸。 46曾禰好忠、推参して追い出される。 二十五年に及ぶ治世は平安王朝文化の最盛期。 花山院、熊野参詣。 恵慶ら、供奉する。 988 永延二 一条 69能因法師 990 正暦元 〃 42 83 40 、一条天皇の中宮となる。 991 正暦二 〃 49 71 992 正暦三 〃 63藤原道雅 994 正暦五 〃 52 23 995 長徳元 〃 64藤原定頼 53 、右大臣。 996 長徳二 〃 54 998 長徳四 〃 60小式部内侍 この頃 51 999 長保元 〃 58大弐三位 この頃 55藤原公任、嵯峨大覚寺で「滝の音は」の歌を詠む。 1000 長保二 〃 藤原定子 25 48この年か 、中宮。 1003 長保五 〃 46この年以後 、「左大臣家歌合」を開催。 好忠ら、出詠。 1005 寛弘二 〃 『拾遺和歌集』、この年か翌年頃に成立。 1015 長和四 三条 68三条天皇、清涼殿内の御局で「心にも」の歌を詠む 『栄花物語』。 翌年、退位。 1016 長和五 後一条 71源経信 63藤原道雅、伊勢斎宮を退下した当子内親王と密通、翌年三条院の勅勘を被る。 1017 寛仁元 〃 68 42 1025 万寿二 〃 60 1027 万寿四 〃 藤原道長 62 62この頃か 1031 長元四 〃 57この頃か 1035 長元八 〃 56この頃か 1037 長暦元 後朱雀 67周防内侍 この頃 1041 長久二 〃 73大江匡房 55 76 59この年以後 「弘徽殿女御生子歌合」。 赤染衛門、出詠。 1045 寛徳二 後冷泉 64 51 1049 永承四 〃 69能因法師、 「永承四年内裏歌合」で「嵐吹く」の歌を詠む。 1051 永承六 〃 69この年以後 相模、 「永承六年内裏歌合」で「うらみわび」の歌を詠む。 能因、賀陽院の和歌会に参加。 1054 天喜二 〃 63 63 1055 天喜三 〃 74源俊頼 66行尊 1060 康平三 〃 75藤原基俊 61この年以後 伊勢大輔、志賀僧正明尊の九十賀に歌を詠む。 1061 康平四 〃 65この年以後 「祐子内親王家名所歌合」。 相模ら出詠。 1065 康平八 〃 70この頃か 1078 承暦二 白河 58この年以後 大弐三位、内裏歌合で息子為家の代詠をつとめる。 この時八十歳以上か。 、退位して院政を始める。 1090 寛治四 堀河 79藤原顕輔 82道因法師 1097 承徳元 〃 76藤原忠通 71 82 1102 康和四 〃 堀河天皇、 「内裏艶書歌合」を催す。 72祐子内親王家紀伊「音にきく」の歌を詠む。 1104 長治元 〃 84藤原清輔 1109 天仁二 〃 67この年以後 1111 天永元 鳥羽 43 73 71 1113 永久元 〃 85俊恵法師 72この年以後 「少納言定通歌合」。 紀伊ら、出詠。 1127 大治二 崇徳 この年か前年、第五勅撰集 『金葉和歌集』 三奏本 、奏上。 源俊頼撰。 1128 大治三 〃 78この年以後。 住吉社歌合。 兼昌、出詠。 1129 大治四 〃 白河院 77 74 75 1135 長承四 〃 66 81 1139 保延五 〃 81藤原実定 87寂蓮法師 一説 1140 保延六 〃 この年か翌年、 83藤原俊成、「世の中よ」の歌を詠む。 1142 永治二 近衛 75 83 1146 久安二 〃 80この年以後 待賢門院堀河、前年亡くなった待賢門院を偲び哀傷歌を詠む。 1149 久安五 〃 89式子内親王 1150 久安六 〃 77崇徳院主催の 「久安百首」の詠進終わる。 79顕輔の「秋風に」、 80待賢門院堀河の「長からん」はこの時の作。 1151 仁平元 〃 第六勅撰和歌集 『詞花和歌集』奏覧。 藤原顕輔撰。 1156 保元元 後白河 54 保元の乱。 崇徳院、讃岐配流。 道因 90歳 、出詠。 1181 養和元 (20歳) 安徳 88この年以後 皇嘉門院、崩御。 1185 文治元 (24歳) 後鳥羽 安徳天皇 8 壇ノ浦の戦。 平氏滅亡。 藤原俊成撰。 91良経「きりぎりす」の歌はこの百首歌として詠進されたもの。 87寂蓮「村雨の」はこの時の出詠歌。 新古今集の撰進はじまる。 1212 建暦二 (51歳) 順徳 12月、 「二十首御会」で 99後鳥羽院「人もをし」の歌を詠む。 1215 建保三 (54歳) 〃 この頃、定家、八代集から抜粋した手控えの秀歌撰 『定家八代抄(二四代抄)』を編む。 百人一首のうち92首を含む。 八代集の百人一首歌でこの書に採られていないのは 55公任・ 82道因法師の2首のみである。 1216 建保四 (55歳) 〃 閏6月 62? 97定家「来ぬ人を」はこの時の作。 この年、 100順徳院「ももしきや」の歌を詠む。 〔百人一首は家隆の官位を従二位とするが、百人秀歌では正三位。 〔百人一首・百人秀歌はともに雅経の肩書を参議とする。 7月 後鳥羽院・順徳院の遠島配流が決せられ、まもなく隠岐・佐渡に遷幸。 1222 貞応元 (61歳) 後堀河 生れる。 為家と宇都宮頼綱女の子。 定家の嫡孫。 家隆「風そよぐ」入撰する。 百人一首の公経は「入道前太政大臣」と称される。 〔百人一首・百人秀歌はともに定家の肩書を権中納言とする。 四条天皇、践祚。 定家は落胆し、手もとにあった『新勅撰集』草稿を焼く(明月記)。 明月記に「有子細云々、有恐惶事」などとあり、実は後鳥羽院の仰せであったらしい。 『新勅撰集』につき「御感言」を頂くが、「猶時輩歌有承旨等」と、当代歌人の作につき改編を要求される(新勅撰集識語)。 〔後鳥羽院・順徳院の御製などが削除されたと考えられる。 3月以前、後鳥羽院撰 初撰本 成立 〔一説〕。 らが同席。 「自天智天皇以来及家隆雅経」(以上、明月記)。 1236 嘉禎二 (75歳) 〃 7月 後鳥羽院、隠岐で「遠島御歌合」を開催。 家隆・・ら、詠進。 7月以後 後鳥羽院、を改編。 〔定家・秀能・自詠ほかを一部差し替えるなどした。 1238 暦仁元 (77歳) 〃 定家、順徳院に『僻案抄』を奉る。 〕 1251 建長三 〃 10月または12月、藤原為家撰、後嵯峨院に奏覧。 後鳥羽院・順徳院の百人一首歌が入集。 1263 弘長三 亀山 生れる。 為家との子。 冷泉家の祖。 定家の『明月記』を除けば、百人一首につき言及した最古の記録 〔但し延徳元年 1489 以後の後補と見る説もある。 〕 1406 応永十三 後小松 藤原 二条 満基、『百人一首抄』 『応永抄』 を筆写。 現存最古の注釈書。 序文に「右百首は京極黄門の小倉山庄色紙和歌也。 それを世に百人一首と号する也」と見え、これが「百人一首」という名の初見。 〔注釈の内容は『宗祇抄』とほぼ同一。 奥書に応永十三年とあるが、奥書を別筆と見る説もある。 〕 1421 応永二十八 称光 宗祇、生まれる。 1445 文安二 後花園 尭孝、百人一首を書写。 現存最古の写本。 宗祇は百人一首の流布に大きな役割を果した。 『応永抄』が出現するまで、永く『宗祇抄』が百人一首最古の注釈書と考えられていた。 1596 慶長元 後陽成 、『小倉山荘色紙形和歌講述』で小倉色紙について記述、「東常縁迄は百枚ながら伝来し給を、宗祇の所望により五十枚付属せしが、宗祇又我門葉に一枚宛わかち与ふ」と、宗祇以後、小倉色紙が分散したと伝える。 1603 慶長八 〃 江戸幕府成立 1620 元和六 後水尾 道勝法親王、薨 47。 現存最古の百人一首カルタは、道勝法親王筆と伝わる。 1631 寛永八 明正 幽斎『百人一首抄』出版。 〔ほぼ『宗祇抄』を踏襲した注釈書だが、版を重ねて広く流布した。 素庵は元和または寛永年間、絵入り百人一首 本文に歌仙絵を添えたもの の版本を初めて出版 〔百人一首カルタの歌仙絵の祖型となる。 光悦は元和頃、古活字本百人一首を刊行。 いわゆる型配列の百人一首。 1692 元禄五 東山 『百人一首改観抄』成る。 〔実証的な百人一首研究の嚆矢とされる。 〕 1702 元禄十五 〃 水戸の国学者 安藤為章の随筆『年山紀聞』成る。 〔明月記の記事などから、百人一首の撰者を宇都宮蓮生ではないかとし、定家は染筆しただけであろうとの新説を提唱した。 現在では完全に否定されているが、後世まで長く影響力を有した説である。 〕 1928 昭和三 昭和 吉沢義則「百人一首の撰者など」 『国語国文の研究』十六号 で百人一首をが定家に仮託して撰した偽作とする説を提唱。 〔現在では完全に否定されている。 〕 1935 昭和十 〃 久曽神昇「二四代集と定家歌論書」(『国語と国文学』)で百人一首の歌のほとんどが定家編『二四代集(定家八代抄)』に見られることを指摘する。 これにより百人一首定家撰説が有力説として甦る。 1951 昭和二十六 〃 有吉保「百人一首の書名成立過程について」 『古典論叢』 でを初めて紹介。 〔以後、百人一首成立論が活発化。 〕 1963 昭和三十八 〃 7月、雑誌『墨美』に後鳥羽院の「人もおし」を書いた小倉色紙が掲載される。 〔これが定家の真筆であれば、百人一首全首が定家撰であることがほぼ確実となる。 〕 1972 昭和四十七 〃 前年よりこの年にかけて雑誌『文学』に 樋口芳麻呂「百人秀歌から百人一首へ」が発表され、百人一首定家撰説を展開する。 一方、 石田吉貞は「百人一首成立の問題点」」を雑誌『学苑』に掲載、百人一首は後人の改編、おそらく為家の手が加わったものと見る。 1975 昭和五十 〃 樋口芳麻呂「『百人一首』への道」が雑誌『文学』に掲載され、これに反論した 石田吉貞「『百人一首』撰者考」が同誌に掲載される。 〔以後、百人一首の「謎解き本」出版が相次ぐ。 〕 1990 平成二 今上 吉海直人「百人秀歌型配列の異本百人一首について」 『和歌文学研究』 でいわゆるの存在を初めて紹介。 1999 平成十一 今上 吉田幸一編著『百人一首 為家本・尊円親王本考』刊行される。 | 更新日:平成15年09月05日 最終更新日:平成22年03月25日.

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百人一首 作者

参議篁 滋賀県)• 僧正遍照 京都市• 陽成院 茨城県)• 陽成院 茨城県)• 河原左大臣 福島県• 中納言行平 兵庫県• 中納言行平 鳥取県• 在原業平 (奈良市)• 在原業平 奈良県 上宮)• 在原業平 奈良県三室山)• 藤原敏行 大阪市)• 藤原敏行 大坂、吹田市)• 伊勢 三重県• 伊勢 大坂、高槻市)• 元良親王 大坂、吹田市• 素性法師 京都市、山科• 菅家 菅原道真) 長野県• 菅家 菅原道真 奈良市• 菅家 (菅原道真) 兵庫県• 貞信公 京都市• 中納言兼輔 京都府)• 源宗干朝臣 京都市、山科• 凡河内躬恒 大坂、堺市• 藤原興風 兵庫県)• 文屋朝康 三重県)• 右近歌碑(三重・四日市)• 壬生忠見(三重・四日市)• 清原元輔(宮城・多賀城市)• 清原元輔(福島・郡山市)• 清原元輔(三重・四日市)• 曾根好忠(三重・四日市)• 和泉式部(長野・下諏訪町)• 紫式部(絵付)(三重県)• 紫式部歌碑(三重・四日市)• 紫式部(親子碑)(奈良市)• 大弐三位(親子碑)(奈良市).

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