前田 利家。 前田利家

前田利長の生涯【加賀百万石を築き兼六園や北陸文化を残した名君】

前田 利家

【 】 前田 利家(まえだ としいえ)は、 戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、。 加賀藩主前田氏の祖です。 豊臣政権の五大老の一人。 加賀百万石の祖でありますが、 前田家が実際に百万石を超えるのは ・利常ら の息子たちの世代からでした。 【死没】 慶長4年閏3月3日(1599年4月27日) 【改名】 犬千代(幼名)、利家 【別名】 又左衞門、又左、又四郎、孫四郎、越中少将、加賀大納言 【渾名】 槍の又左衞門、槍の又左 【どんな人物?】 尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)の 主前田利春の四男でした。 はじめ小姓として14歳のころに に仕え、 青年時代は赤母衣衆として従軍しました。 槍の名手であったため 「槍の又左」の異名を持ったとのことです。 その後は の与力として、 北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、 能登一国23万石を拝領し大名となりました。 【 と結婚する】 永禄元年(1558年)、 尾張上四郡を支配していた 守護代岩倉城主・織田信安(岩倉織田氏)の 息子である織田信賢との争いである 浮野の戦いにも従軍し功積を挙げました。 「槍の又左」の異名で呼ばれ始めたのも、 この戦いの頃からとのことです。 この戦いの後、 永禄初年頃に新設された 赤と黒の母衣衆 ( の親衛隊的存在の直属精鋭部隊)の 赤母衣衆筆頭に抜擢され 多くの与力を添えられた上に、 100貫の加増を受けたのでした。 同年、従妹であるまつ(芳春院)を 正室に迎えて、すぐに長女・幸が誕生しました。 【笠斬りと呼ばれた事件】 永禄2年(1559年)、 織田信長の寵愛を受けた 同朋衆の拾阿弥と諍いを起こし、 拾阿弥を斬殺したまま出奔しました。 【結婚後にまさかの 生活】 当初、この罪での成敗は避けられませんでしたが、 柴田勝家や らの 織田信長への取り成しにより、 出仕停止処分に減罰され、 浪人暮らしとなりました。 この間、熱田神宮社家松岡家の庇護を受けました。 【 に参加するも・・】 その後、永禄3年(1560年)、 出仕停止を受けていたのにも関わらず、 織田信長に無断で桶狭間の戦いに参加して 朝の合戦で首一つ、 本戦で二つの計三つの首を挙げる功を立てました。 けれども、帰参は許されませんでした。 【ようやく帰参を許される】 翌年の永禄4年(1561年)、 森部の戦いでも無断参戦しました。 ここで斎藤家重臣・日比野下野守の家来で、 「頸取足立」の異名を持つ 足立六兵衛なる怪力の豪傑を討ち取る功績を挙げました。 この時、足立以外にも首級1つを挙げました。 2つの首級を持参して織田信長の面前に出ると、 今回は戦功が認められ、 織田信長から300貫が加増されて 450貫文となり、ようやく帰参を許されたとのことです。 【 後は に】 織田信長が の変により に討たれると、 はじめは柴田勝家に付いていましたが、 後に羽柴秀吉に臣従しました。 以後、豊臣家の宿老として の天下平定事業に従軍し、 加賀国・越中国を与えられ 加賀藩百万石の礎を築いてくことになります。 また、豊臣政権五大老に列せられ、 の傅役(後見人)を任じられます。 の死後、 対立が顕在化する武断派と文治派の争いに 仲裁役として働き、 覇権奪取のため横行する の牽制に尽力しましたが、 豊臣秀吉の死の8ヶ月後に病死しました。 慶長4年閏3月3日(1599年4月27日)、 大坂の自邸で病没したとのことです。 享年62歳、満年齢は60歳とのことでした。 【あわや加賀征伐に・・・】 前田利家の死後、 徳川家康により加賀征伐が検討されます。 前田利長は母の芳春院(まつ)が 人質になる条件を受け入れ、 加賀征伐は撤回されたのでした。 【前田利家の槍】 前田利家は三間半柄(約6m30cm) の長く派手な造りの槍を持ち歩き、 初陣以降、 緒戦で槍先による功を挙げた 武辺者であったため、 槍の又左の異名で称えられました。 【織田信長に賞賛される】 元服前の小姓・前田犬千代として 初陣した萱津の戦いでは、 合戦の際に目立つ様、 自ら朱色に塗った三間半柄の槍を持って 首級ひとつを挙げる功を立てました。 それをみた織田信長は 「肝に毛が生えておるわ」と犬千代を賞賛したとのことです。 【イケメンであった】 細身で端正な顔立ちの美貌で知られていました。 小姓時代にはその容姿のために 織田信長から寵愛を受けていたそうです。 【高身長】 男性の平均身長が157cm程度の時代に 推定6尺(約182cm)を誇る類稀なる 恵まれた体格の持ち主でした。 なお、この身長は残された前田利家の着物から 算出した値です。 イケメンの高身長ということで、 非常に見栄えのいい武将であったと伝わっています。 【実は隻眼?】 元服直後の稲生の合戦で負傷し、 隻眼になったとの説が存在しています。 【計算高く世渡り上手】 前田利家の烏帽子兜は大きいですが、 実用しやすい合戦用の小型の烏帽子兜も使用しており、 石川県立歴史博物館には、 行軍用兜の横に合戦用兜が展示してあります。 「槍の又左」と呼ばれ勇名を馳せる一方、 計算高く世渡り上手な一面もあったとのことです。 【そろばんを愛用】 前田家の決済はすべて前田利家自身で行ったため、 愛用の算盤(そろばん)が家宝として残っています。 なお、算盤は当時日本に伝わったばかりであり、 それを使えるというだけで稀有なことであったようです。 【晩年は茶の湯や能を好む】 後年には漢籍などの学問も学び、 茶の湯、能などの文化的活動も積極的に行ったそうです。 茶道は ・織田有楽に学び、 茶入は豊臣秀吉から譲られた名品で 天下三茄子の一つに数えられる「富士茄子」でした。 前田利家はこの中でも特に能を好み、 気晴らしや社交術として 三日に一度は稽古をする程の熱の 入れようであったということです。 【傾奇の若者がお好き】 であり、 若年の頃は派手な拵えの槍を持って歩いたので、 「又左衛門の槍」といって 人々から避けられていたそうです。 そのためなのか、 晩年になっても多少とも 傾奇の傾向のある若者を愛したということです。 加賀国(石川県)の戦国大名・前田利家の正室。 名はまつで篠原一計の子した。 母(竹野氏)が前田利家の母の姉であるため、 前田利家とは従兄妹関係にあたります。 学問や武芸に通じた女性でありました。 【生まれ】 天文16年(1547年)7月9日、 尾張国海東郡沖島(現在の愛知県あま市)に 篠原一計の娘として生まれたとされています。 【母の再婚で前田家へ預けられる】 天文19年(1550年)に父である 篠原一計が死去し、 母が尾張守護斯波氏の家臣・高畠直吉と再婚すると、 まつは母の妹が嫁いでいる 尾張荒子城主・前田利昌に 養育されることになりました。 なお、女性1人が産む子供の数が多かった 戦国時代にあっても 11人の実子がいる女性は稀有であり、 記録が残る限りでは、 伊達晴宗の正室 と並んで 最も数が多いとのことです。 更にその子孫は 近代以降の皇室などに血脈を伝えています。 【まつは安産及び子育ての女神様?】 まつは母の中の母親だったともいえるでしょう。 現代だったらドクターストップがかかってしまう程 多くの子を産み育て、戦国時代を生き抜き、 子孫を繋いでいったまつ。 安産及び子育ての女神様みたいです。 ご利益ありそうです。 【夫のピンチを救う~賤ケ岳~】 天正11年(1583年)、 で柴田勝家方に与した 前田利家が敗走した際、 で羽柴秀吉に会って 和議を講じて前田利家の危機を救ったのでした。 慶長4年(1599年)に 前田利家が病死すると出家し、芳春院と号します。 【加賀征伐の危機!まつが救う!】 慶長5年(1600)年、 前田家に徳川家康から 謀反の嫌疑がかけられた際には、 交戦を主張する前田利長を宥め、 それを解消させるため、 自ら人質となって江戸に下り、 14年間もの期間を江戸の地でで過ごしたのでした。 後に江戸幕藩体制において 諸大名妻子の江戸居住制が確立しましたが、 芳春院はその第一号となったのでした。 【まつの死去と前田家】 元和3年(1617年)に 内で死去、享年71歳でした。 墓所は金沢市の野田山墓地、 市北区の大徳寺芳春院(分骨)。 芳春院の化粧料7500石は、 次男である前田利政の子の前田直之に与えられ、 前田直之は合計1万石を領して前田利常に仕え、 その子孫は前田土佐守家として本家を支えていったのでした。 【高台院( )との関係】 豊臣秀吉の正室高台院(ねね、おね、 )とは 懇意の間柄であったことで知られています。 城下に住んでいた頃から親交があり、 前田利家との婚姻では 仲人の役割りを果たしたと伝わっています。 【満1歳の娘を養女に出す】 子供のいない秀吉夫妻のために、 豪姫を養女にさせています。 まだ数え2歳(満1歳)の子供を手放したことから、 おねとの信頼関係が強かったと言えましょう。 【蒲生家の跡目相続】 死後の蒲生家の跡目相続について、 蒲生氏郷の子・鶴千代(後の蒲生秀行)が 会津を襲封できたのは、 まつが高台院に請願したためであったとされています。 【まつ、秀頼の乳母の地位になる】 前田利家が豊臣秀頼の傳役となったことから、 まつは秀頼の乳母の地位を得えます。 醍醐の花見でも豊臣秀吉の妻妾と共に 列席するなど、 乳母の地位にあったので主賓の一人となったのでした。 【まつがいたから加賀百万石を成し得た、かもしれない】 母と別れ、現代なら小学生で母となり、 戦国時代の武将である夫と歩んできたまつ。 夫の危機を救い、お家の危機を救い、 加賀百万石の祖となり 子供を産み育て、 やがてはその子孫が皇室まで紡いでいったのです。 まつの存在こそが、 加賀百万石となったと言ってもいいと思います。 少なくとも自分はそう思います。 【悩める貴女に・・】 親が~とか、 夫が~とか、 子育てが~とか、 仕事が~とか、 生き方~とか、 悩んで落ち込んでいたら、 まつさんの生涯を辿っていくと 何かしらパワーをもらえそうです。 まつさんは正しく「しし座の女性」。 どっしりとお強い!!.

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前田利家と妻まつとの間にできた子どもたちまとめ

前田 利家

1559年(永禄2年)、前田利家に人生最大のピンチが訪れます。 信長が寵愛していた茶坊主「拾阿弥」(じゅうあみ)に、妻「まつ」からもらった笄(こうがい:髪飾り)を盗まれたとして、拾阿弥を斬ってしまったのです。 怒った信長は前田利家を出仕停止とし、前田利家は浪人となってしまいました。 前田利家は、信長からの信頼を取り戻すため、信長に無断で戦場に赴き功績を挙げます。 1560年(永禄3年)の「」(おけはざまのたたかい)では3つの首を、翌1561年(永禄4年)の「森部の戦い」でも2つの首を取り、やっと信長の許しをもらうことに成功。 このとき討ち取った首の中には、素手で首を取るほどの怪力武将「足立六兵衛」(あだちろくべえ)も含まれており、前田利家の強さをうかがい知ることができます。 「大典太光世」(おおてんたみつよ)は、平安時代に筑後三池派の刀工・典太光世の作で、前田家の家宝とされてきた日本刀。 元々は足利家の家宝であった物が秀吉に渡り、前田利家に贈られたと言われています。 1792年(寛政4年)に江戸千住の小塚原で大典太光世の試し切りをしたところ、積み重ねた死体の2体を切断し、3体目の背骨で止まったと記録されています。 また、この刀にはこんなエピソードも残っています。 秀吉が「」(かとうきよまさ)、「黒田長政」(くろだながまさ)から聞いた怪談話。 「千畳敷の廊下を深夜に渡ると何者かが刀の小尻を掴んで通れない」という噂を、前田利家は「そんな話ありえない」と取り合いませんでした。 皆に「それならば行って確かめてきてくれ」と言われた前田利家に、秀吉が守り刀として渡したのが大典太光世。 そのおかげか、前田利家は何事もなく廊下を渡りきることができたそうです。 大典太光世 「大坂長義」(おおさかちょうぎ:短刀 銘 備州長船住長義 正平十五年五月日[たんとう めい びしゅうおさふねじゅうちょうぎ しょうへいじゅうごねんごがつひ])は、備前長船派の刀工・長義作の短刀。 同じく長船派の兼光(かねみつ)と比較され、刀文の特徴から長義は桜花、兼光は梅花と喩えられています。 加賀藩の家宝とされてきた大坂長義ですが、「大坂」と付けられている由来は、はっきり分かっていません。 秀吉がで前田利家に譲ったからとも、2代目の加賀藩主「前田利常」(まえだとしつね)が大坂で入手したからとも伝えられています。 なお、1812年(文化9年)に「本阿弥長根」(ほんあみながね)が加賀藩の刀剣103振を手入れした際の記録にも、「大坂長義 小」と記されています。 ちなみに前田利家の四男にあたる利常は、父ゆずりの奇人で「鼻毛の殿様」として有名。 当時120万石の大大名であった加賀藩は、幕府から厳しい監視の目を向けられていました。 そこで、利常は「バカな殿様」を演じるために鼻毛を伸ばし、監視の目をそらしたそうです。 この短刀は16代目の加賀藩主にあたる「前田利為」(まえだとしなり)の名義で、1931年(昭和6年)には旧国宝指定を受けています。 2018年(平成30年)にNHK大河ドラマ「西郷どん」が放送され、再び脚光を浴びることになった西郷隆盛。 日本人であれば、一度は西郷隆盛の名前を聞いたことがあるのではないでしょうか。 東京都の上野公園や鹿児島市の鹿児島市立美術館、鹿児島県霧島市の西郷公園など、いろいろな場所に西郷隆盛の銅像が建てられており、西郷隆盛は、誰もが認める偉人である一方、「西郷さん」などと親しみを持って呼ばれています。 そんな西郷隆盛の詳しい生涯や人物像、それにまつわるエピソードについて、まとめました。 また、少年時代に喧嘩の仲裁に入った際に、右腕に負った傷の影響で刀剣をうまく握れなくなってしまったにもかかわらず、趣味としていた刀剣収集についてもご紹介します。

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前田利家 「槍の又左」から加賀百万石の大名にまで出世した勇将の生涯について

前田 利家

前田家の家督を利久から利家へ譲るように と命じたのです。 利久は病弱の為に「武者道少御無沙汰」と信長から言われます。 これは利久が武家としての役目を果たせないと信長から判断されたのです。 利家が代わって前田家の主となる事に、利久の妻や家臣が抵抗。 この時に起きた前田家内の不和が、慶次や利家に不満や怒りを抱かせたのかもしれません。 慶次は養父・利久と共に利久が城代であった荒子城から出て行きました。 放浪する慶次と出世する利家 荒子城を出た慶次は利家が主となった前田家を離れて、 京で暮していたと言われています。 慶次は京で公家や文人から、和漢古今の書や連歌・茶道を習い教養を身に着けます。 慶次は京で文武両道の才能を磨いていました。 「かぶき者」として破天荒な性格だと思われる慶次ですが、しっかりした教養を身につけ「源氏物語」を人に聞かせる講釈ができるほどでした。 一方で利家は織田家家臣として戦で功績を上げて行きます。 北陸の一向一揆や上杉謙信との戦いに参加した功績から、天正9年(1581年)に能登一国を信長から与えられます。 織田家の家臣として利家は出世をしていました。 そんな利家の前に慶次と利久が現れます。 京で文武を学ぶ日々とはいえ生活が安定しない放浪の身でした。 複雑な思いはありましたが慶次と利久は加賀の利家を頼り、天正11年(1583年)から前田家に仕える家臣となります。 時代は信長が本能寺に倒れて、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が天下取りに動いている頃です。 利久の死 利久は能登七尾に領地を与えられます。 慶次は佐々成政や神保家との戦で活躍し、戦国武将としての勇名はここから広まります。 一度は出て行った前田家で慶次も利久も懸命に働きました。 しかし天正15年(1587年)8月に利久が亡くなり、慶次は利久の領地を、慶次の嫡男である正虎に継がせます。 新たな世代に、変わりつつある前田家の置かれた状況も変わっていました。 豊臣秀吉が天下を取り、前田家は豊臣家に従うようになっていました。 天正18年(1590年)、豊臣家による関東北条家を攻める小田原征伐に前田家は出陣します。 慶次は義理の叔父である利家に従い、家臣の勤めを果たしていました。 慶次再度の出奔 小田原攻めの翌年、 天正19年(1591年)に慶次は 前田家を再度出奔します。 この時の慶次は50代とも言われる年齢だったとも言われています。 この時に慶次が利家を騙して水風呂に入れるイタズラをしてから、 利家が持っていた名馬「松風」を奪い前田家から出て行ったと言う伝説もあります。 出奔した慶次を息子の正虎が説得しますが、慶次は前田家へ二度と戻りませんでした。 慶次は 上杉景勝の家臣になり、残りの生涯を上杉の領地である米沢で過ごします。 きょうのまとめ 前田利家と前田慶次の関係について見てきましが、いかがでしたでしょうか。 簡単にまとめます。 二度目の出奔も、前田家には利長など利家の息子が居て跡継ぎの心配は無く、 利久の死で慶次が前田家に居続ける理由が無かったからだと思われます。 利家と慶次の仲を分けたのは、養子という「慶次の立場」だったのではないでしょうか。 前田利家の年表を含む【完全版まとめ】記事はこちらをどうぞ。 関連記事 >>>> その他の人物はこちら 安土桃山時代に活躍した歴史上の人物 関連記事 >>>> 時代別 歴史上の人物 関連記事 >>>>.

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