奥原令子。 奥山玲子

朝ドラ『なつぞら』広瀬すずヒロインのヒント・奥山玲子さんの全て

奥原令子

経歴・人物 [ ] にて出生。 小学生高学年ですでに大人の文学を読み、中学生にかけての時期には兄弟を役者にして、ストーリーと衣装を自作した舞台を毎年2回自宅で開いていた。 から教育学部に進学。 で社会の価値観が変わったことから大人に対して反抗的な態度を取るようになり、高校でも変わらなかったという。 東北大学への進学は父親の意向だった。 大学卒業 後、上京。 上京の経緯について、雑誌『』1963年7月22日号をデジタル化した文春アーカイブスでは「外国語大学への入学を目指した」としているが 、は「どうしても教員になる気にはなれず、家出同然」だったと著述しており 、ニュースサイト「」の記事でも「家出同然で上京」と記述されている。 への入社の経緯についても、文春アーカイブスでは「もともと絵を描くのが好きだったことから受験までのアルバイトとして新聞の募集広告に応募した」としているが 、叶は勤務先のデザイン会社の給与遅配に困っていた折に叔父から紹介された東映動画の募集を「童画」と勘違いして応募したという本人の述懐を自著に収録しており 、夫のも雑誌『』のインタビューで「東北大学の頃から油絵を描いてはいたみたいです。 とにかく『仙台から出て東京で自立するんだ!』って。 そんなとき、たまたま映画撮影所と関係のあった親戚から東映動画の募集を教えてもらって。 それを本人は「動画」を「童画」と間違えたんですよ。 絵本とかの仕事ができると思ったみたい。 」と述懐している。 技術を身に着けて面白くなったことで受験を取りやめ 、1957年 に東映動画に入社。 叶の著書では、1957年11月16日に「臨時採用」で入社したとしている。 奥山の後年の回想では、当時臨時採用者は定期採用者に対して大きな給与格差を付けられ、定期採用者が軽いノルマで定時で帰る傍で臨時採用者は残業を重ねる日常だった。 さらに女性に対しては原画への昇格や結婚後の勤務を認めないような風潮があり、奥山は結婚出産後も仕事をすることを決意したという。 長編第1作目となる『』に動画として参加。 これ以後東映動画制作の数々のアニメーション映画作品に携わる。 『』で第二原画、『』で原画補を務め、『』で原画に昇格した。 この間の1963年7月7日には同僚だった小田部と結婚(挙式は同年7月7日にで開催 )。 結成に際しては、「差別と闘う」ことを目標としていた奥山は積極的に関与し、結成後は執行委員となった。 テレビアニメーション作品にも草創期から積極的に関わり、『』、『』、『』(いずれも)で作画監督を務めた。 この時期、を取って復帰した奥山に、会社は契約社員となる提案をしたが奥山が拒否したところ、夫の小田部が(保育所送迎に使う運転免許取得のため)勤務時間中に自動車運転教習所に通ったことを問題視し、解雇通告する事態に発展した。 奥山は組合の支援も求め、最終的に降格減給処分で決着した。 組合ではこの事件を「小田部問題」と呼んだ。 奥山が在籍した東映動画は創立初期からが絶えず 、東映本社では社長のが1971年に逝去し、が大川の後任として社長に就任すると 、の膨らむ東映動画は激しいにさらされた。 奥山は従業員の先頭に立って経営陣と激しく対立し、合理化阻止で戦いを挑んだ剛の人でもあった。 争議に関して和解が成立し、指名解雇者が復帰したことで「区切りが付いた」と、1976年3月31日付で東映動画を退職した。 この間の1973年、「北川玲子」の名義で旧最後の劇場アニメとなった『』に原画として参加している。 その理由について、自身の志向と東映の作風にずっと違和感を覚えており、虫プロの「大人向けの作品」に羨望を覚え「大人っぽくて毛色の違う作品だから、やってもいいかなと思った」と述べている。 東映動画を退職した後、へ移り、『』()第2作の『』で作画監督補佐を担当。 作画監督補佐に入ったのは、登場人物の多さと主人公・マルコの「悲惨な状況」に肉体的・精神的な限界を感じた小田部(作画監督・キャラクターデザイン)からの要請であった。 職場の多忙さから、奥山は子どもの面倒を見られるよう、自動車運転免許を取得している。 このあと、日本アニメーションを退き、フリーとなる。 フリーとなった後は、小田部と共同の筆名「あんていろーぷ」名義で『』(東映)などを手掛けた。 1985年からはアニメーション科の講師を務める。 1990年代以後は銅版画作家としても活動し、銅版画によるアニメーション映画『』(2003年 IMAGICAエンタテインメント)では絵コンテとアニメーション銅版画を担当した。 ににより死去。 70歳没。 訃報は本人の希望により約半年後に伝えられた。 3月には、日本のアニメ史において1960年代から1970年代初頭を彩った東映動画の長編劇場アニメにて作画の中心的な役割を担った功績に対し、小田部とともに「2010」にて第6回功労賞が贈られた。 銅版画作品を含む『奥山玲子画集 アニメーションと銅版画』がより2019年8月に刊行された。 夫のがアニメーション時代考証を担当した度上半期放送の『』のヒロイン奥原なつは、亡妻の奥山がヒントになったと小田部は語っている。 作品 [ ] この節のが望まれています。 ( 2019年4月)• (1958年10月22日、) - 動画• 少年猿飛佐助(1959年12月25日、東映) - 動画• 西遊記(1960年8月14日、東映) - 動画• (1961年7月19日、東映) - 動画• (1962年6月16日、東映) - 原画• (1963年3月24日、東映) - 原画• (1963年12月21日、東映) - 原画• (1968年7月21日、東映) - 作画監督• (1968年7月21日、東映) - 原画• (1969年3月18日、東映) - 原画• (1969年7月20日、東映) - 原画• (1970年7月19日、東映) - 作画監督 、原画• (1971年3月20日、東映) - 原画• (1973年7月18日、東映) - 原画• (1974年7月25日、東映) - 原画• (1975年3月21日、東映) - 作画監督• (1975年7月26日、東映) - 原画• (1979年3月17日、東映) - キャラクターデザイン・作画監督• (1981年4月11日、) - 原画• (1988年4月16日、東宝) - 原画• ( 2019年6月)• (1963年 - 1965年) - 作画監督• (1965年 - 1966年) - 6 12 19 作画監督( 19は 小田部玲子名義)• (第1期、1966年 - 1968年) - 77 80 作画監督• (第1期、1969年 - 1970年) - 44 61 作画監督• (1973年 - 1974年) - 20 22 75 原画( 20 22は 小田部玲子名義) 69 作画監督• (1973年) - 作画監督• (1976年) - 作画監督補佐• (1977年) - キャラクターデザイン• (1988年) - 作画監督 出演 [ ] 映画 [ ]• (2003年12月13日、) 著書 [ ] 画集 [ ]• 奥山玲子画集 アニメーションと銅版画(2019年8月20日、アニドウ・フィルム) 児童書 [ ]• サンタのおいもやさん(1979年11月、、) - 絵• おかしえんのごろんたん(1980年2月、太平出版社、) - 作・絵• 赤ずきんちゃん(1981年12月、、) - 絵• にんぎょひめ(1982年3月、朝日ソノラマ、)- 絵• こびと町チョコレートどおり(1983年2月、太平出版社、) - 絵 紙芝居 [ ]• キツネとタンバリン(1980年、) - 画• きつねのおきゃくさま(1981年、教育画劇) - 画• かぜひきこだぬき(1983年、教育画劇) - 画• ミミとおつきさま(1984年、教育画劇) - 画• おばあさんとあひるたち(1985年、教育画劇、) - 画• もりのねむりひめ より(1987年、教育画劇、) - 作画 共著 [ ]• (詩)、奥山玲子(画)『墓標 詩画集』(1968年10月、) 関連文献 [ ]• 、『漫画映画漂流記 おしどりアニメーター奥山玲子と小田部羊一』、2019年9月4日、(雑誌『』での小田部に対するインタビューを書籍化したもの) 脚注 [ ] [] 注釈 [ ]• 2019年10月31日閲覧。 blueprint. 2019年4月17日閲覧。 インタビュアー:. デジタル. 2019年4月6日閲覧。 インタビュアー:. デジタル. 2019年10月31日閲覧。 インタビュアー:. デジタル. 2019年10月31日閲覧。 デジタル. 2019年10月4日. 2019年10月31日閲覧。 アーカイブス. 2019年4月9日閲覧。 2019年3月28日閲覧。 ANIDO 2012年6月21日. 2019年10月31日閲覧。 アニドウ 2019年9月28日. 2019年4月26日閲覧。 89-90. 90-91. 92-93. 95-96. 「週刊文春」編集部 2019年4月7日. 文春アーカイブス. 2019年4月8日閲覧。 , pp. 96-98. 98-100. WEB アニメーション思い出がたり[五味洋子] その42. スタジオ雄 2008年10月31日. 2019年10月31日閲覧。 , p. アニメ!アニメ!ビズ. 2011年5月10日. 2019年10月31日閲覧。 練馬アニメーションサイト. の2017年7月2日時点におけるアーカイブ。 2019年4月19日閲覧。 WEB. スタジオ雄 2012年8月13日. 2019年10月31日閲覧。 2013年3月. アニメ人材養成セミナー アニメ・マンガ人材養成産官学連携コンソーシアム アニメを教える教員とアニメを学ぶ学生のためのアニメ人材養成セミナー 「日本のアニメを学び尽くす」. 16-17. 2019年10月31日閲覧。 , pp. 154-155; , pp. 24, 28-31, 156; , p. 33; , p. 69; , pp. 131-132. blueprint : p. 2019年10月31日閲覧。 110-111. 105-106. , p. WEB. スタジオ雄 2008年12月12日. 2019年10月31日閲覧。 Stadio GHIBLI Official Blog 2017年9月17日. 2019年10月31日閲覧。 Anipages 2007年9月14日. 2019年10月31日閲覧。 アニメ!アニメ!ビズ. 2009年12月10日. 2019年4月18日閲覧。 ニュース. 2019年10月31日閲覧。 222. 青山悠 2019年9月23日. ニュース. 2019年10月31日閲覧。 , p. 223. 参考文献 [ ] 書籍 [ ]• 渡辺, 泰、山口, 且訓『日本アニメーション映画史』有文社、1978年。 『クロニクル東映 1947-1991』II、東映、、1992年10月。 『鉄の城 マジンガーZ解体新書』、、1998年2月7日。 『日本のアニメーションを築いた人々』若草書房、2004年1月。 『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』、、2012年5月20日。 雑誌 [ ]• 「映画界東西南北談議 不安定な社会状況に楽観許されず 各社に漂う上昇ムードに全体が活気 新しい企画路線が軌道に乗った東映」『映画時報』1975年4月号、映画時報社。 岡本, 明久「東映東京撮影所の血と骨 泣く 笑う 握る」『映画論叢』第36巻、、2014年7月22日、 、 、 、。 木村, 智哉「 」 『千葉大学大学院人文社会科学研究科研究プロジェクト報告書』第305巻、、2016年3月31日、 154-165頁、。 外部リンク [ ]• - (英語)• - Great Women Animators• この項目は、に関連した です。

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バドミントン部が新人戦中信大会に出場しました: 大町北高校生徒会Web ブログ版

奥原令子

奥原なつのモデルは、アニメーター奥山玲子さん?5つで検証! 朝ドラヒロイン「奥原なつ」と実在した女性イラストレーター「奥山玲子」さんを5つの視点から比べてみました。 「奥原」は苗字ランキング1531位。 また、アニメーターとして働いていた会社名も酷似しています。 奥村なつは、 東洋動画。 奥原なつは 1937年生まれ。 奥山玲子さんは 1936年生まれ。 ということは、女性アニメーターとして働いた時代背景も似ているということです。 一方、奥山玲子さんも 宮城県から上京し東京のデザイン会社に入社しています。 どちらも、この時代の女性には珍しくアニメーターになるための第一歩として上京しています。 「奥村なつ」は、 山田天陽(演・吉沢亮)という男性から、絵心を教えられ絵を描く楽しさを知ります。 また「奥山玲子」さんは、東映動画という会社に入社し、 小田部羊一という同僚から大きな影響をうけます。 小田部洋一さんは、アニメーターの中ではかなり有名な方で、東映動画では、 高畑勲さんは同期、 宮崎駿さんの先輩にあたる方なのです! しかも、この小田部羊一さんは後の奥山玲子さんの夫ともなった人物です。 戦争アニメで超有名な「火垂るの墓」で、母親が見守る中、海で清太が泳ぐシーンは、 原画を奥山玲子さん。 波を作画したのが小田部羊一さんが担当したそうです。 回想で清太がブイまで泳ぐシーンの原画を担当したのは奥山玲子さん。 で、このシーンの波を作画したのは奥山さんの夫である小田部羊一さんです。 ノンクレジットでの参加でした。 奥山玲子さんは、幼少期を宮城県仙台市で過ごし、父親の意向で東北大学教育学部に進学します。 この時代に女性が、大学に進学するのは珍しいことでした。 しかし教師になるなる気にはなれず、在学中に家出同然で突然上京します。 デザイン会社に入社するも、うまくいかず叔父の紹介で東映動画に入社します。 そこは女性差別が当たり前の世界。 奥山玲子さんも、お給料や仕事量などで男性と差をつけられます。 しかし、男勝りな奥山さんはそれに屈せず、会社と戦います。 4月1日からのNHKの朝の連続テレビ小説「なつぞら」は女性アニメーターの活躍を描くドラマ。 モデルは奥山玲子さん 1936-2007 です。 奥山さんは東映動画の初期に「白蛇伝」をはじめ多くの長編アニメーションを手掛けられました。 小田部羊一さんと結婚され小田部さんがドラマの監修をされています。 — masatoki. rail MasatokiRail また、結婚すれば退職するのが普通でしたが、小田羊一さんと結婚した後も、 仕事を続け、下の一覧のあるように多くのアニメーションに携わりました。 1958. 公開(映画)『白蛇伝』 動画 1959. 完成(映画)『たぬきさん大当たり』動画 1959. 公開(映画)『少年猿飛佐助』 セカンド原画 1960. 公開(映画)『西遊記』セカンド原画 1962. 公開(映画)『アラビアンナイト シンドバッドの冒険』原画 1963. 公開(映画)『わんぱく王子の大蛇退治』原画 1963. ~65. 放映(TV)『狼少年ケン』 原画・作画監督(話数不明) 1966. ~68. 放映(TV)『魔法使いサリー』作画監督(77話ほか) 1969. ~70. 放映(TV)『ひみつのアッコちゃん』作画監督(44・61話) 1969. 公開(映画)『長靴をはいた猫』原画 1969. 公開(映画)『空飛ぶゆうれい船』原画 1971. 公開(映画)『どうぶつ宝島』原画 1971. 公開(映画)『アリババと40匹の盗賊』原画 1971. ~72. 放映(TV)『さるとびエッちゃん』原画(6話) 1972. 公開(映画)『ながぐつ三銃士』原画 1972. ~72. 放映(TV)『デビルマン』原画 1972. ~74. 放映 (TV)『マジンガーZ』作画監督(69話) 1973. 公開(映画)『哀しみのベラドンナ』原画(北川玲子 名義) 1973. 公開(映画)『マジンガーZ対デビルマン』原画 1974. 公開(映画)『きかんしゃやえもん D51の大冒険』原画 1974. 公開(映画)『マジンガーZ対暗黒大将軍』原画 1975. 公開(映画)『アンデルセン童話 にんぎょ姫』作画監督 1975. 公開(映画)『宇宙円盤大戦争』原画 1976. 公開(映画)『長靴をはいた猫 80日間世界一周』原画 1976. 4~76. 放映(TV)『母をたずねて三千里』キャラクターデザイン・作画監督補(22話~52話) 1977. ~77. (TV)『シートン動物記 くまの子ジャッキー』原画(5話) 1976. ~79. 放映(TV)『キャンディ・キャンディ』原画(話数不明) 1979. 公開(映画)『龍の子太郎』キャラクターデザイン・作画監督補 1981. 公開(映画)『じゃりン子チエ』原画 1981. ~82. 放映(TV)『名犬ジョリイ』原画(話数不明) 1983. ~85. 放映(TV)『子鹿物語』原画(話数不明) 1984. 公開(映画)『パパママバイバイ』原画 1985. 公開(映画)『ペンギンズメモリー幸福物語』原画 1988. 公開(映画)『火垂るの墓』原画 1991. 公開(映画)『注文の多い料理店』原画 2003.

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奥山玲子

奥原令子

アニメーション映画『わんわん忠臣蔵』の頃の奥山玲子さん。 「なつぞら」の原点、リアルな日本のアニメーションの草創期、そこからの発展を知る、盛りだくさんの単行本となっています。 『漫画映画漂流記 おしどりアニメーター奥山玲子と小田部羊一』の書影(右は帯つき)。 カバーイラストは小田部羊一氏描き下ろし。 著:小田部羊一 聞き手:藤田健次 書籍『漫画映画 漂流記 おしどりアニメーター奥山玲子と小田部羊一 』とは? 『なつぞら』のリアル。 ドラマを超えた劇的ストーリー登場! 朝ドラ『なつぞら』でヒロイン奥原なつ(広瀬すず)のヒントとなった故・奥山玲子氏。 同作でアニメーション時代考証をつとめた小田部羊一氏。 ふたりは「おしどりアニメーター」として活躍したご夫婦です。 アニメーションの草創期を開拓した奥山さんと小田部さんの長く幅広い活動にスポットライトをあてた「ドラマを超えた劇的ストーリー」が満載。 ふたりは「東映動画」を皮切りに、様々なスタジオ、様々な名作に関わり、それぞれが銅版画家として、任天堂ゲームキャラクターのデザイナーとしても活躍しました。 本書は小田部さんに2回のロングインタビューを実施。 さまざまなエピソードが明かされます。 またご提供いただいた秘蔵写真・イラストを多数掲載しています。 さらに、ご夫婦の人柄や業績を知る演出家やアニメーターたちに「ふたりとの創作と日常の舞台裏」をインタビュー。 名作・傑作の創造の秘密や、東映動画の職場結婚・出産、共稼ぎの先駆者となった夫妻の知られざるエピソードがあふれています。 「アニメーションの舞台裏」にとどまらず、今も昔も変わらない「働いて、生きることのリアル」が明かされています。 そして今にして思うこと。 】「キネマ旬報」〔戯画日誌〕欄(9月5日掲載)映画評論家:増當竜也氏 【故・奥山玲子さんの夫、小田部羊一さんは一久さん顔負けの「育児する夫」だったのです。 『漫画映画漂流記』では、昭和40年台の共働きの大変さがリアルに記されています。 】「たまひよONLINE」(9月13日掲載) 【『漫画映画漂流記』には、奥山さんがいかにして道なき道をきたのかも綴られています。 小田部さんや宮崎(朱美氏、宮﨑駿監督夫人)さんをはじめ、演出家やアニメーターたち、の証言も盛りだくさんの一冊。 アニメーション勃興期に、アニメーションをどのように作って行ったのか、子どものいる共働きをどう乗り越えてきたのか。 「漫画映画」と「共働き」について多くの資料とや証言で綴られている。 】「FRaU」(デジタル版)(9月14日掲載) 【美人でファッショナブル。 女性社員の先頭に立ち、子育てをしながら働く道を切り開いた。 そんな愛妻との思い出をまとめた『漫画映画漂流記』が刊行された。 新たに収録される画像と収録されない画像があります。 連続テレビ小説『なつぞら』(NHK 4月1日から放送)に「アニメーション時代考証」として参加する小田部羊一氏は、日本のアニメーションとゲームに、巨大な足跡を記すマイスターだ。 故・高畑勲氏、宮崎駿氏と共に、『アルプスの少女ハイジ』『母を訪ねて三千里』を創り上げた(小田部氏はキャラクターデザインと作画監督を担当し作品の質を保ち続けた)。 さらにゲームの世界に転じ、任天堂で「スーパーマリオブラザーズ」や「ポケットモンスター」のキャラクターデザイン監修、アニメーション監修を務めている。 朝ドラ『なつぞら』が描くのは日本のアニメーションの草創期。 「北海道・十勝編」「東京・新宿編」「アニメーション編」で構成され、地方出身のヒロイン、奥原なつ(広瀬すず)がアニメーション業界に飛び込み、みずみずしい感性を発揮してゆく姿が描かれる。 奥山さんは小田部氏の夫人で、日本のアニメーションの草創期を支えた女性アニメーターである(惜しくも2007年5月に死去)。 日本のアニメーション界とゲーム界、両方の礎を築いた巨匠、小田部羊一氏が奥山玲子さんについて語る貴重なインタビューをお届けします。 しかしご自身ではあまり多くを語られる人ではありませんでした。 どういう方だったのでしょう? 子どもの頃は病弱だったらしいです。 学校もよく休んだりして、文学全集とかを読んでいたらしいんですよ。 その後、親が教員だった影響で東北大学の教育学部に行ってたんだけど2年で辞めて、家出同然で東京に出てきちゃうんです。 高校の卒業アルバムを見るとね、彼女の服が制服じゃないんですよ。 ルパシカ(ロシアの民族衣装)的なものを着てる。 同窓生から当時「奥ちゃん」って呼ばれてたそうなんですけど、彼女が亡くなった後、「奥ちゃんは、制服だっていうのに制服を着てこなくて、自分で服を縫って着てきてた。 色は真っ青だった」と教えてもらいました。 東映動画に入ってから目覚めたんじゃなくて、もともとそういう人だったんだということですね。 5人きょうだいがいて4人は女。 その長女でした。 自分で創作劇の台本を書いて、きょうだい全員で芝居をやっていたみたい。 東映動画は、僕らが入社した当時は1年に長編を1作つくるだけだったんですよ、基本的には。 だから1作つくり終えると、アニメーターだけでね、気晴らしに動画祭りとかアニメ祭りとかいって、それぞれの班で出し物を考え、みんなの前で披露する遊びをしていたんですけど、そんなとき奥山は、何かっていうと脚本を作って、自分も演者になるんですよ。 誰かが結婚して結婚祝いにみんなで芝居しよう、なんていうとき彼女はすぐ台本を作る。 割とそういうのが好きでしたね。 でも東北大学の頃から油絵を描いてはいたみたいです。 とにかく「仙台から出て東京で自立するんだ!」って。 そんなとき、たまたま映画撮影所と関係のあった親戚から東映動画の募集を教えてもらって。 それを本人は「動画」を「童画」と間違えたんですよ。 絵本とかの仕事ができると思ったみたい。 後で聞いたら、本当は東京でファッションとか語学とか、そういう関係に行きたかったようですが。 奥山は、敗戦で教科書に墨を塗らされて、価値観が全部ひっくり返った経験から「もう何も信じられない」となった人で、負けず嫌いで反骨精神のある自立した女性でした。 例えば僕らの同期にはアニメーターや仕上げ(セル画の色を塗る職種)は女性が多かったのですが、当時、女性スタッフは「結婚して子供が出来たら退職します」っていう誓約書を書かされていたんです。 奥山はそれに反発するんですよ。 「そんなこと許されてたまるか!」って。 負けず嫌いだから、アニメーターとしても動画をたくさん描いたり。 大塚康生さんは1日に20枚とか40枚とかどんどん描く人だったんです。 僕らは会社から1日15枚のノルマがあったけど、みんな5枚くらいしか描けなくて、それでもでさっさと帰っちゃう(笑)。 そんな時、奥山は負けず嫌いだから「大塚さんがその枚数なら、私も同じだけ描く!」と残業して、たくさん描くんですよ。 臨時採用ということもあったから。 ですから後に結婚してから奥山に「定期社員は甘ったれてたね」って言われました(笑)。 小田部羊一氏から貴重なエピソードが次々に飛び出す 撮影:木川明彦 毎日違う服、挑む同僚たち 奥山は洋服をたくさん持ってるわけじゃないですけど、毎日、出勤するときの服装は何かしら違ったんですよ。 自分のそのときの気持ちで服やアクセサリーを選んで組み合わせて着ていました。 気持ちが落ちてたら逆に強い感じのものを選ぶとか。 おまけに、僕の着る服まで選んでくれるんです。 僕自身は着たきり雀でもいいくらい、身なりには無頓着だから。 で、奥山のファッションを見た大塚さんが、いつ同じ服装になるかこっそり観察して絵を描き始めたんです(笑)。 でも大塚さんが音を上げるほど、奥山は毎回何かしら替えてくるんですよ。 アニメーションの制作用語で「同トレス」って言葉があるんです。 動画は基本的に違う絵の連続ですけど、同じ絵のときは、なぞる(トレスする)だけ、それを「同トレス」というんですけど、大塚さんは(奥山さんの衣装の)同トレスがいつ来るかを待っていたんです(笑)。 でもそれがなくてね、とうとう音を上げて。 そしたらまた別の人があとを継いでこっそり観察描きを続けてたんですよ。 でも2代目の人もやはり音を上げて(笑)。 奥山はそのことに全く気づいてなかったようで、何だかいつも変な目つきで見てるな~って(笑)。 『太陽の王子ホルスの大冒険』のときなんか、 宮さん(宮﨑駿)の次くらいにアイディアを出す人でしたね。 『太陽の王子ホルスの大冒険』の頃、スタッフの間で「中傷画」というのが流行ったんです。 ただの似顔絵じゃなくて、その人を面白おかしくネタにして、中傷するような絵を描く遊びで、僕なんかはそのままのデッサンで描いたりしてたけど、宮さんとか大塚さんとかは、人のちょっとした事件をオーバーに面白おかしく描いていくんですよ。 奥山も、いろんな人物を記憶だけで描くんですけど、それがなんとも特徴を掴んでいて似てるんですよ。 奥山の気の強い感じばっかり描くとかね(笑)。 大塚さんなんかは「大塚さん」でしたね。 奥山は「奥山さん」、陰では「鬼山さん」(笑)、中傷画でも「鬼山」とか書かれていて(笑)。 ちなみに僕はコタベちゃん、コタベ氏、コタベさん。 奥山さんの聞くもの、創るもの 奥山玲子さん。 仕事場に設置してある銅版画用のプレス機と共に。 セロニアス・モンクとかを聴いてましたね。 クラシックでよく聴いてたのはガブリエル・フォーレのレクイエム。 僕はモーツァルトのレクイエムが好きで奥山に薦めたんだけど、奥山はフォーレのレクイエムの方がいいと言ってよく聴いてました。 もちろん好きでしたよ(笑)。 あとジャニス・ジョプリンとかも。 文章を書くのも好きでね。 専門学校(東京デザイナー学院アニメーション科)で教えていたとき、生徒に対して何か気づいたらすぐに手紙を書いて。 だから教え子たちにも慕われていましたね。 学生のアニメーションの映画祭(ICAF)でも必ず全部観て、何か思ったことがあったら手紙を書いてその人に渡してました。 『なつぞら』の人物像の参考になるかなと思って、残っていたメモをNHKのスタッフに貸す前に見直したんですが、良いところ悪いところとか、一人一人の評価が丁寧に書いてありましたね。 後で考えると、教育学部に行っていたということもあって、そういう才能があったんだろうなって思いますね。 きっかけはなんだったのですか? 奥山は、自分が何を描くにしてもアニメーション風になってしまうのが嫌いで。 銅版画だと、彫ったり刷ったりして面白いものになるんですよね。 これまで手癖で描いていた線が、さまざまな条件で出方が変わるのが新鮮だったみたいで。 それでアニメーション的なものから抜け出したいこともあって、どんどん銅版画が好きになって、横浜の版画教室に通ったりしていました。 そんなときに岡本忠成さんから『注文の多い料理店』で銅版画調でアニメーションをやってくれと頼まれて、そういうのを手がけたりしていましたね。 でも僕自身は奥山をその通り描いたら、ちょっと気張った感じばっかり出るんじゃないかと思っていたんですよ。 制作現場も今はすっかり変わってますから、当時を忠実に再現するのは無理だと思ってますし。 奥山は仙台出身で、ヒロインは北海道育ち。 だから奥山の伝記じゃなくて、奥山を通じて、当時のアニメーション業界の世界を描くということでいいんじゃないかと。 その頃の東映動画にはディズニーを追い越せという気概があって、みんな大変だったけど楽しんでいたあの熱気とか、奥山や女性スタッフたちの仕事ぶりとか、そういう雰囲気が出ればいいなって。 だけど、広瀬すずさんを見たときに「あ~もう、これだけでいいや。 もう違ったとしても全然いいや」って。 (一同爆笑) 僕、『海街diary』(2015年・是枝裕和監督)を観ていて、広瀬すずさんが好きだったんですよ(笑)。 (笑)建物も、NHKはセットで作ってましたね。 動画机なども東映アニメーション(旧:東映動画)からちゃんと借りたりして。 だから、「らしい」感じは出ていましたね。 「日本のアニメーションの黎明期は、こんな感じのところで作っていたんだ」と思ってもらえれば。 奥山玲子:プロフィール(1935~2007):宮城県仙台市生まれ。 宮城学院高等学校卒業。 東北大学教育学部中退。 1958年東映動画(現・東映アニメーション)入社。 『白蛇伝』(動画)、『わんぱく王子の大蛇退治』(原画)、『太陽の王子ホルスの大冒険』(原画)、『アンデルセン童話 にんぎょ姫』(作画監督)、『龍の子太郎』(作画監督補)、『注文の多い料理店』(原画)、『冬の日』(絵コンテ・原画)。 1985年より東京デザイナー学院アニメーション科講師。 1988年より銅版画制作。 これは小田部羊一氏のこだわりに倣ったものである。 小田部羊一(こたべ よういち)プロフィール 1936年台湾台北市生まれ。 1959年、東京藝術大学美術学部 日本画科卒業後、東映動画株式会社(現:東映アニメーション) へ入社。 『わんぱく王子の大蛇退治』 1963 『 太陽の王子ホルスの大冒険』 1968 『長靴をはいた猫』 1969 『どうぶつ宝島』 1971 などの劇場長編映画で活 躍。 『空飛ぶゆうれい船』 1969 で初の劇場作品作画監督。 東映動画退社後、高畑勲、宮崎駿と共にメインスタッフとして『 パンダコパンダ』 1972 『アルプスの少女ハイジ』 1974 『母をたずねて三千里』 1976 のキャラクターデザイン・作画監督を担当。 その他劇場作品の『龍の子太郎』 1979)、『じゃりン子チエ 劇場版』 1981 でキャラクターデザイン・作画監督。 1985年、開発アドバイザーとして任天堂 株 に入社。 「スー パーマリオブラザーズ」「ポケットモンスター」シリーズなどのキ ャラクターデザインおよびアニメーション映像の監修。 2007年任天堂退社後フリー。 2015年度第19回文化庁メディア 芸術祭で功労賞を受賞。 小田部羊一氏 撮影:水野昭子• 取材・構成・文:藤田健次 (ふじたけんじ)(株)ワンビリング代表取締役。 電子書籍アニメ原画集・資料集E-SAKUGAシリーズを企画・制作。 アニメ・アーカイブのデジタルでの利活用を提案・プロデュースしている。 東映アニメーション60周年記念ドキュメント「僕とアニメと大泉スタジオ」、アニメビジネス情報番組「ジャパコンTV」(BSフジ)共に企画・監修。 企画協力:木川明彦 (きかわあきひこ)(株)ジェネット代表取締役。 アニメ、特撮、SF、ゲーム関連の雑誌・書籍の企画編集に関わる。 特に設定考察、図解にこだわる 自称「図解博士」。 近著に小説『高速バスター ミナル』(スペースシャワーネットワーク)がある。

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